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第三章
第二十八夜 【鬼さんこちら】※
しおりを挟む数日振りに顔を出した黒蔓の姿に、二階に居た娼妓らは仰天していた。
眉間にくっきりと皺を刻み、咥え煙草で真っ直ぐ一階を目指す様は、正に鬼の黒蔓そのものである。出くわした娼妓や妓夫らは鬼気迫る雰囲気に気圧され、慌てて道を開ける始末だ。
足音も荒く番頭台へ向かい、青ざめて小刻みに震えている東雲を睨みつける。
「どう言う事だ、東雲」
「……も、申し訳……」
「謝れと言ってるんじゃない。状況を説明しろと言っている」
「み、三日前、篁様が朱理太夫の馴染みとなられ……太夫のお座敷へ上がられてから現在まで、居続けを行なっていらっしゃいます……」
「で? お前は何故、それを呑気に座って放置してるんだ?」
「楼主が……太夫が拒否しない限り、干渉するなと仰って……」
「ほーお。じゃあこの三日間、30分単位でぎっしり入っていた予約は全てキャンセルされた訳だなぁ?」
「は、はい……」
「篁からは幾ら取ってる」
「揚代を三日分と色付けで、2500万円の小切手を頂いております……」
「そうかそうか。丸三日で2500万か」
「はい……」
時間制を設けている万華鄉の揚代は、30分区切りとなっている。太夫が15万円、格子太夫が10万円、新造は5万円だ。
黒蔓は新しい煙草に火を点け、薄ら笑った。
「東雲よ、お前は一体、いつから算数も出来ない阿呆の子になり下がったんだ?」
「け、計算に、ミスは……」
「馬鹿が。お前のそれはあくまで揚代だけだろうが。彼奴が予約通りに座敷客を捌いてりゃ、一日で6000万稼ぐ予定だったんだぞ。それが三日で幾らになる」
「……い、いち、おく……はっせん…………ッ」
「出来るじゃねぇか、え? それをたった2500万の為にキャンセルしたんだな、お前は」
「……っも、もうし、わけ……ッ……」
「もういい、お前は後で折檻な。揚屋への支払いを除いても、1億以上の赤字だぞ。取り戻す算段でもしながら待ってろ」
「────……っっっ」
揚代だけを見れば、予約人数との差異は無い。しかし、初回や裏の座敷客が支払う代金は揚代のみではなく、馴染みとなる為の投資として一座敷300万円にのぼるのだ。揚屋や芸妓への支払いを差し引いても、見世は大損害を被った訳である。
その事をすっかり失念していた東雲は、全身にびっしり冷や汗を滲ませ、半泣きで震えるしか無いのだった。
そんな東雲を置いて番頭台から離れた黒蔓は、丁度、内所から出て来た網代と鉢合わせた。
「く、黒蔓……お前、もう身体は……」
「五月蝿い、黙れ。お前の判断ミスの所為でどれだけの損失が出たか、分かってて俺にもの言ってんだろうな」
「いや……俺はただ、朱理の良いようにと……」
「この三日、太客の予約を全てキャンセルして? 彼奴の顔も売らずに? 何が朱理の良いようにだ、え? おい。あの男が朱理を独占している間に、金持ち共を顧客にする機会を失ってるって事が未だ分からねぇのか。たかがヤクザ1匹の為に、揚屋まで巻き込んでの大損だぞ」
「…………」
刺す様な黒蔓の視線と声音に、網代は押し黙って眉根を寄せ、目を伏せる。網代を冷たく見据えたまま、黒蔓は続けた。
「何も言い返す事が無いのなら、彼奴はもうお前には任せられない。折角、俺が引いてやったってのに、お粗末な結果だな」
「……すまない……」
「詫びるくらいなら、俺の行動には今後一切、口出ししないと約束しろ」
「……分かった。約束しよう……」
「千萱、聞いたな」
「ああ」
すれ違いざま、黒蔓は僅かに網代へ身体を寄せ、嘲る様に囁いた。
「そうだ、お前にも念書を書いてもらおうか。二度と俺に〝あんな真似〟をしない事も含めて、な?」
「──……っ」
冷水を浴びせられた様に青ざめ、硬直する網代を横目に、黒蔓は再び階段へ向かった。千萱は溜息混じりに追いながら、その背に声を掛ける。
「あまり弟を虐めるなよ。見てるこっちが可哀想になる」
「東雲はあの小心が難点だ、主体性が無さ過ぎる。まぁそもそも、今回の件は楼主の責任だがな」
「網代のあれは、恐らく遠慮だろう。朱理を持て余している証拠だ。しかし、相変わらず手厳しい。網代の奴、首をくくらなければいいが」
「知った事か。ったく、何奴も此奴も使えねぇ。お前、戻ってきて楼主やらないか?」
「無茶言うな。俺も仕事と新しい弟たちの世話で手いっぱいだ」
そんな遣り取りをしつつ、二人は朱理の座敷へ到着した。襖の前で黒蔓が声を張る。
「篁様、お話しが御座います。少々、お時間頂けますか」
少し待ってみるが、中から返答は無い。痺れを切らした黒蔓が襖を開けると、寝屋側から朱理のあられもない声が漏れ聞こえてくる。
迷わず其方へ向かい、声を掛けながら襖を開け放った。
「失礼致します」
「おや、貴方は遣手の……。どうしましたか」
「お返事が御座いませんでしたので、入らせて頂きました」
「は、ぁッ……んっ? エ゙ッ!!??」
丁度、襖の方を向いた格好で背後から貫かれていた朱理は、黒蔓と千萱を視認すると、ひっくり返った声を上げた。
「見ての通り、今は手が離せなくてね。急ぎですか」
「ええ、火急のお話しです」
「でしたら伺いましょう。但し、このままでね」
にやりと口角を上げた篁は、唐突に腰を深く突き上げた。
「ア゙ァッ!! ッぐ……! ぅ゙ッ、んん゙──ッ」
不意打ちに高い声を上げてしまった朱理は、揺さぶられながらも必死で布団に顔を埋め、唇を噛み締める。
黒蔓の胸中は当然、穏やかではないが、流石に毅然とした姿勢を崩さない。朱理を蹂躙し続ける篁を見据えたまま、凛とした声で告げた。
「率直に申し上げます。お帰り下さい」
「はは、本当に率直だ。居続けが禁止とは聞いていませんよ。理由を聞かせて貰いたい」
「朱理太夫は三日前から新規の予約が詰まっております。既に数十人お断りしている以上、このまま居続けを容認する事は出来ません。彼はそれ程、暇な身では御座いませんので」
「なるほど。お前はどうしたいんだ? 朱理」
篁は朱理の背に覆い被さり、耳元へ囁いた。その間にも深く穿ち、擦り付ける様にじりじりと動かされて、気を抜くと声を上げそうになる。
「ッ……どうっ、て……ぃわれ、ても……っ、も、動くなッ! 退けッ!」
「良いじゃないか、口は自由だろう? ほら、顔を上げて、ちゃんと答えてみろ」
そう言って朱理の頤を持ち上げ、黒蔓らへ向けさせた。朱理は何処へ視線をやれば良いか分からず、気不味いやら驚くやらで思考が儘ならない。
泳がせる視界の外では、黒蔓と千萱が真っ直ぐ此方を向いて座っているのが分かる。久し振りだな千萱さん、等と現実逃避めいた事をぼんやり思った。
「どうした朱理。はっきり言わないと、遣手さんも困ってるぞ」
「っく、そ……ン゙っ……ッ! ゃ、めろッ……!」
「やめて良いのか? もう直ぐイきそうなくせに」
「ィ゙っ! ひ、ァあッ!」
篁は愉快そうに言いながら朱理の肩を掴み、深く突き挿れた。口腔に指を入れられている所為で口が閉じられず、殺しきれない嬌声が漏れる。
そんな状況でさえ、快楽に身を捩る朱理は美しかった。
千萱は溜息を吐きたくなる光景と、黒蔓の握り締められた拳を見遣り、相変わらず業の深い場所だな、と思っていた。
そろそろ黒蔓の堪忍袋が限界だと判断した千萱が声を掛けようとした時。
「んん゙ッ……もォ……ぃ、い加減にしろぉお!!!!」
どすっ、と鈍い音と共に、篁の脇腹へ鋭い蹴りが入った。反動で朱理が布団から転がり出る。
肌蹴た襦袢を掻き合わせ、朱理は思い切り篁を睨み付けた。
「はーッ……はー……っ、篁さん……あんまり調子に乗るなよ……」
凄む朱理に驚く篁、呆気に取られる黒蔓たち。ややあって、篁がぽつりと呟いた。
「ああ、吃驚した。お前、そんな細腰で意外と力強いんだな」
「どこに驚いてんだ! ったく……悪趣味にも程があるだろうがよ」
「はは、すまんすまん。そう怒るな、少し悪巫山戯が過ぎたな」
「本当だよ。あれだけの苦労を、たった三日で水の泡にするつもり?」
「苦労したからこそ箍が外れたのさ。しかしお前、なんだって突然キレたんだ? 今まで気にしていなかっただろう」
「そりゃ好きにしろって放っとかれたからさ。でも、遣手がこう言ってる以上、そっちが優先に決まってんだろ」
「なるほどな。プロ意識が高いのは結構な事だ。悪かったよ」
「俺に謝らなくても良いよ、厭ならとっくに帰らせてる。その代わり、見世にはきっちり誠意見せてね。揚代に色付けた程度の損失じゃ済まないだろうから、覚悟した方が良いぜ」
朱理は皮肉っぽく口角を吊り上げながら煙草を咥える。
「はは、分かったよ。お前に会えなくなっては堪らんからな」
篁は事もなげに笑みを返すと、鞄から小切手を出し、さらさらと書きつけて黒蔓へ差し出した。
「大人げない真似をして申し訳無かった。これは詫びとして受け取って頂きたい」
小切手には1億6000万の数字が書かれていた。既に受け取っている2500万円と合わせると、500万もの釣りが出る。
流石の黒蔓も、額が額なだけに眉を顰めた。
「……本当に頂いて宜しいんですね」
「もちろん。三日分の座敷代と思って下さい」
「……では、確かに頂戴致しました。今後とも、節度を守った上で御贔屓に願います」
黒蔓は小切手を懐に仕舞うと、念を押しつつ頭を下げた。その遣り取りを見ていた朱理は、打掛を羽織って屈み込み、篁の頬へ手を添えて顔を寄せた。
「流石は会長。遣手を納得させる額なんて、恐ろしくて聞けねーわ」
「確かに安いとは言えないが、お前の為なら惜しくはない」
「ふふ……本当に酔狂な人だねぇ。でも、そう言うところが好き。三日間楽しかったよ。またね」
「ああ、また直ぐ来るよ」
朱理は先程までの怒りは何処へやら、無邪気な笑みを浮かべて篁に口付け、颯爽と座敷を後にした。
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