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第三章
第二十七夜 【はるいかずち】
しおりを挟む「……ええ。ですから、どうしたものかと……」
「今日もですか、困りましたね……。しかし、本人が訴えて来ない限り、此方からは何とも……」
午前11時。重い雲に覆われた空は時折、ごろごろと春雷を響かせている、どんよりとした薄暗い朝。
番頭台では槐と東雲が、何やら困惑した表情でひそひそとやっている。
そこへ大玄関を潜って入って来た人物に、東雲は驚いて立ち上がった。
「お疲れ様です、千萱さん」
「お早う、東雲、槐。久し振りだな」
「お早うございます。お元気そうですね」
元下手太夫の千萱 結弦である。ブリティッシュスタイルに銀縁の眼鏡が良く似合う、知性的で品の良い面立ちだ。
「此方にいらっしゃるとは、何かトラブルですか?」
「いや、辰巳に資料を渡しがてら、弟たちの顔でも見て行こうかと思ってな」
千萱は年季明け後に弁護士事務所を立ち上げ、辰巳は千萱の事務所に所属しているのだ。
「でしたら、何人かは控え所に居る筈です」
「ああ、有難う。それで、お前達はどうかしたのか? 朝から顰め面を付き合わせている様だが」
東雲と槐は顔を見合わせ、再び困った顔をする。東雲があらましを説明すると、千萱は小さく嘆息した。
「なるほど、状況は分かった。網代は何と?」
「本人からの申し出が無い以上、見世からは一切、干渉しないそうです……」
「全く、相変わらず悠長な奴だな。しかし、それでは黒蔓が黙っていないだろう。渦中の男が彼奴なら、特にな」
「それが……遣手はここ数日、体調不良との事で、部屋に籠られておいででして……」
「なに? この大事な時期に何故……そんなに悪いのか?」
「いえ……一応、毎日お声掛けはしていますが、ただの風邪の一点張りで……。やはり、無理にでも医者に診せた方が良いのでしょうか?」
千萱は少し考えると、持っていた書類を東雲へ差し出した。
「悪いが、それを辰巳に渡しておいてくれ。黒蔓は俺が引き受けよう」
「は、はい……。お手数お掛けして、申し訳ありません」
「気にするな、お前が謝る事じゃない。皆には後で会いに行くよ」
「有難う御座います。宜しくお願い致します」
千萱が二階へ上がると、ある部屋の前で数人の娼妓が屯していた。皆、一様に顔を顰めて困惑している。
「お前たち、そんな所で何をしている」
「えっ、千萱さん!? うわー、お久し振りです!」
「お久し振りです、千萱さん」
「珍しいですね、こっち来とるやなんて」
千萱を見とめた荘紫、鶴城、伊まりが声を上げた。
「皆、元気そうで何よりだ。その部屋は?」
「此処は朱理の座敷なんですけど……」
「ああ、話はさっき東雲から聞いたよ」
「せやったら、千萱さんからも何か言うて下さいよ。楼主ときたら、朱理の好きにさせぇ言うて動かへん。ヤクでもキメられとったら、どないすんねん」
「相手が相手なだけに、絶対無いとは言えねぇから怖ぇよな……」
「それは見張り方が居るから心配無いとは思うが、流石に呑気過ぎるな。時期が悪い」
憤慨する伊まり、思案顔の鶴城と荘紫を宥めていると、冠次が怒気を孕んだ声を上げた。
「居続け、もう三日目だぜ。何十人も予約が後ろ倒しになってるってのに、いい加減にしねぇと客が付かなくなるぞ」
居続けとは名の通り、客が帰らず娼妓の部屋に泊まり続ける事である。時間制を持たない一般の妓楼では、見世と娼妓の儲けを確実にする常套手段だ。
しかし、万華郷では予約の座敷客を数十人単位で断らねばならず、逆に多大な損失となる場合が多い。
「俺から言っておくから、お前達はゆっくりしていろ。後で控え所にも顔を出す」
千萱の言葉に、娼妓らは不服そうな顔をしつつも各々、返事をして散って行った。
三階への階段を上がって行き、黒蔓の部屋へ辿り着くと襖へ向かって声を掛けた。
「千萱だ。開けてくれ」
ややあって、のそりと黒蔓が顔を出した。
「なんだ。見世に来るなんて珍しい」
「辰巳に渡す物があってな。入って良いか」
「ああ」
千萱を招き入れると、黒蔓は文机の書類を雑多に脇へ寄せて肘をつき、煙草に火を点ける。室内は紫煙で霞みがかっており、黒蔓の精神状態を如実に物語っていた。
「体調が優れないと聞いたが、嘘だろう」
「だったら何だ。見世は回ってる、問題無い」
「問題なのはお前だ。秘蔵っ子が漸く太夫になった今、お前が傍に居てやらなくてどうする」
「彼奴の諸事は東雲に任されている。俺は俺の仕事をしているだけだ」
「東雲は番新になったばかりだろう。お前の判断ではないな。網代に何か言われたか」
千萱の鋭い指摘に、黒蔓は自嘲を漏らした。
「ふん……そろそろ子離れしろとさ」
「なるほど。それでお前は不貞腐れて、子ども返りよろしく引き篭もっている訳か」
相変わらず良好とは言えない二人の関係に、千萱は嘆息する。
黒蔓を怒らせて得をする事など無いのは、厭というほど分かっている筈なのだ。本来、理性的で思慮深い網代が、これほど感情的な行動を取るとは、いよいよ拗れてきたらしい。
網代も問題だが、まずは黒蔓を部屋から出す事が先決だ。
「辰巳から凡その話は聞いている。網代が焦ったのも分かるが、お前の機嫌を損ねたのは拙かったな」
「精々、後悔してもらうさ。彼奴なんぞの手には余る代物だからな」
「その様だな。上は洪水、下は大火事だ」
「なんだ、それ」
「篁がもう三日、朱理の所に居続けを行なっているそうだ」
「はあ? 楼主は何してる」
「好きにさせろと言っているらしい。既に三日分の予約は全てキャンセルされて、後ろ倒しになっているとか」
「……巫山戯やがって……。やってくれたな、馬鹿どもが」
黒蔓は舌打ちして乱暴に煙草を揉み消し、派手な足音を立てて部屋を出て行く。
「やれやれ……。手の掛かる奴らだ」
千萱は眼鏡の山を中指で押し上げながら呟き、黒蔓の背を追った。
────────────────
その頃、襦袢を引っ掛けただけの姿で煙草を吹かす朱理は、篁と並んで布団に寝転がっていた。
「篁さん、仕事行かなくて大丈夫なの?」
「問題無い。もし何かあれば、柏原が飛んで来るだろうからな」
「柏原さんが不憫だ……。にしても、本当に可笑しな人だねぇ。文字通り三日三晩抱き続けてるってのに、未だ足りないの?」
「当然だ。8年越しの悲願が、三日程度で満たされる筈がない」
「そんなに焦らなくても良くない? もう馴染みなんだから、これから幾らでも会えるんだよ」
「俺が此処を出れば、お前は他の男に抱かれるだろう」
「まぁ、それがお仕事ですから」
「お前を抱いた、なんて小耳に挟んだら、うっかりそいつを殺してしまうかもしれん。そんな事になったら困るだろう?」
「なにそれ、怖。本職が言うと笑えないんだけど。大体、この吉原で面倒起こしたら、二度と会えなくなるよ。そんな事になって困るのは、篁さんの方でしょ?」
「はは、お前は本当に機知に富んでいるな。何もかもが想像以上だ」
篁はまず朱理の身体に溺れ、真面に会話をすると、歯に衣着せぬ性格と無邪気さに溺れた。漸く自分へ向けられた笑顔に見惚れ、時間と共に知る新たな側面の全てに魅了される。
煙草を揉み消すと、篁は徐に朱理の上へ馬乗りになった。
「ん、どうしたの?」
「お前が欲しくなった」
「急だな! ちょ……待ってよ! 俺、もう……んぅッ」
細い腰を掴んで膝の上に抱き上げ、非難がましい声をあげる唇を塞ぐ。
それでも、舌を挿し入れると殆ど反射的に絡めてくるのがまた愛おしく、吸い上げ、軽く食むと艶やかな吐息が漏れた。唾液を送り込むと素直に喉を鳴らす様が堪らず、そのまま布団へ押し倒した。
「っふ……たか、むらさ……ッ、駄目……」
「何が駄目なんだ?」
「も、無理だって……ぁ、ンッ」
「無理じゃない。お前はただ、俺を感じていれば良いんだよ」
「んんっ! は、ぅッ……も、また、ァ……っ!」
すっかり篁の身体を覚えさせられた朱理は、僅かな動きにすら快楽を拾う。またか、と頭の隅で思ったのも束の間で、有無を言わせず与えられる快感に、抗う術は無いのだった。
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