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第二章
第二十二夜 【肝胆相照らす】
しおりを挟む午前11時半。東雲によってあの手この手で起こされた朱理は、漸く寝具から降りた。
珈琲の準備をしながら煙草に火を点ける。寝惚け眼で見世支給の携帯を取り、変わった事が無いか確認するのが日課だ。
吉原では客の携帯電話の使用は禁止されているが、娼妓にそれは適用されない。もっとも、殆どの娼妓はそんな物を持つ余裕は無いのだが、万華郷は別である。見世全体にWi‐Fiが通されており、パソコンの使用やテレビ鑑賞も可能だ。
見世から支給されている端末は業務連絡だけでなく、有事の際にGPSで誰が何処に居るか把握する為でもある。
個人契約の携帯も所有出来るが、客に連絡先を教える事は固く禁じられている。揚屋を通さずに客と遣り取りをする娼妓が出ては、様々な問題を引き起こしかねないからだ。
此処に従事する娼妓は揚屋で指名され、馴染み客であろうと無かろうと、必ず見世から客の待つ揚屋へ赴かなければならない。そして宴席を経た後、座敷へ向かう決まりだ。
娼妓が客と直接やり取りを始めると、指名数で揚げ時間が決まる見世の仕組みに、支障をきたしてしまうのだ。客との連絡は昔ながらの文か、見世を通す事と厳しく定められている。
朱理が朝一番にするのは業務連絡の確認や娼妓同士のやり取り、ネットニュースのチェック、その日の気分で音楽を選ぶ事である。
煙草を咥えながらぽちぽちやっていると、珈琲の抽出が終わった。蜂蜜と牛乳をどばどば入れて文机の前に座る。
今朝は黒蔓は勿論、陸奥も来なかった。三階へ移ってから、こんなに静かな朝を迎えたのは初めてだ。
窓の襖を開け放つと、空は暗く重い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな曇天である。
「何から何まで、冴えねぇなぁ……」
今日も仕事は初回に裏ばかり。飲んで騒いでと気晴らしが出来る隙は無い。
そう言えば、夜見世では太夫になって初めての馴染みがあった事を思い出す。篁は三日続けて登楼するつもりらしい。
ふう、と紫煙と共に溜息を吐きながら、よくやるなと思った。
「なに朝からでかい溜息吐いてんだ。こっちまで辛気臭くなるじゃねーか」
「ぅおっ!! ちょっと奈央ぉ……気配消して背後に立つんじゃないよ。吃驚するだろうが」
「俺は普通に入って来たぞ。お前がぼさっとしてんのが悪いんだろ」
いつの間に入室して来たのか、背後から和泉が声を掛けて来た。朱理は新造時代から和泉を〝奈央〟と呼んでいる。
腕組みして鼻を鳴らす和泉に、朱理は思わず笑みを漏らした。
「ふふ……どうしてお前はいつもそうなのかね。まったく、恐れ入るよ」
「はぁ? なにワケ分かんねぇ事言ってんだ。まだ寝惚けてんのか?」
朱理の精神が弱っている時、いつもふらりと現れるのが和泉という男だ。
何も言わず、何も聞かず、何もしない。まるで心へ直接、寄り添う様に、静かに傍に居てくれる存在は、昔から朱理の救いだった。
それはお互い様らしく、普段は毅然として冷静な和泉も、朱理の前では素が出る所為で、二人きりの時は非常に口が悪い。
「俺の部屋来るの初めてじゃん。どしたの?」
「此処は毎朝、誰かしらが何かしらの大騒ぎしてたろうが。喧しいから来なかっただけだ」
「嗚呼、なるほど。そう言えば珍しく陸奥が来てないけど、もうメシ食ってんのかね」
「陸奥さんなら、昨夜から自室に籠りっぱだぞ。大手の米株が暴落した所為で、各所の対応に追われてんだろ」
「ふうん、そう言えばさっきニュースで見たな。まさかあのA社まで業績悪化とはね。世知辛いぜ」
それを聞いた朱理は、陸奥が何故あんなにあっさり自室へ戻ったのか、何故起こしに来なかったのかを理解した。
「どうせ昼は見上がりするだろうから、暫く顔合わせる事は無いと思うぞ。何か用でもあったのか?」
「いや、無いよ」
朱理の隣で煙草に火を点けつつ、和泉は改めて室内を見回すと眉を顰めた。
「つか、まじで般若面飾ってるし、怖。お前、よくこんな部屋に居られるな。ぞっとするわ」
「そお? もうあんま気にならねぇけど……って、その話、タブーなんじゃないの? 俺、めっちゃ口止めされたんだが」
「まぁな。でも、お前ならとっくに知ってると思ったから」
「おおぅ……知らなかったらどうするつもりだったのかね、この人は……」
「実際、知ってたんだから良いだろ。どうせ陸奥さんにでも聞いたんだろうが」
「聞いたっつーか、吐かせたって感じ? あんま言いたくなさそうだったぜ」
「ふん。良いんじゃねーの、あの人にはそれくらいで。この部屋が宛てがわれた時点で、遅かれ早かれ耳に入る話だからな」
「へぇ……ま、俺には関係無いけど」
「馬鹿か。お前が一番、関係あるだろ。二代目般若太夫さんよ」
「やだなぁ、俺はそんな器じゃねーの。和泉パイセンのバーターよ」
「辞めろ、何がバーターだ。漸くお前が腹括ったんだからな。俺は楽させてもらうぜ」
和泉の台詞に、朱理は意地悪く口角を吊り上げた。
「ははぁ、残念でしたー。俺とお前じゃ客層が違い過ぎて、楽するどころか煜さんの客が全部そっちに流れるね」
「うるせ、もう厭ってほど皺寄せくってるわ。お前も少しはしおらしくして、政治家どもの相手もしろよな」
当然ではあるが、娼妓によって客層は偏る。
東雲や和泉の様な上品で知的な印象の者は、政治家や官僚、弁護士などに好まれる。一方、朱理や伊まり、香づきなど、癖の強い娼妓は、医者や教授、実業家、芸能人などが顧客の大半を占めるのだ。
特に朱理の場合、来る者拒まずな性分ゆえに、平凡な会社員から吉原内の商家や楼主まで、幅広い客層を相手にしている。
そんな中、朱理が苦手とするのが政治家と博打打ちだ。幸い、賭博師や極道まがいの殆どは伊まり、香づき、つゆ李が捌いている。
現在、太夫格の下手は和泉と朱理だけの為、うまい具合に客層が割れている訳である。
「にしても、上手は三人も太夫いるのに、なんで下手はずっと二人だったんだろうなぁ」
「それをお前が言うか!? 格子太夫の中で唯一、太夫格だったお前が!! さんざっぱら格上げは厭だとゴネ続けたせいだろうが!!!!」
いらっとした和泉が朱理の襟元を掴み、激しく前後に揺さぶりながら声を荒げた。
「おかげで俺らがどんっだけ苦労した事かッ!」
「やーめーてぇ──、悪かったってぇ──」
「ったく……。お前の性分は重々、承知だがな、なった以上はしっかりやれよ」
「分かってるよぉ……。煜さんといい奈央といい、遣手そっくりなんだから参っちまうね」
朱理から手を離した和泉は、舌打ち混じりに煙草を咥え、紫煙で輪を作りながら薄ら笑った。
「そりゃ、厭でもそうなるだろ。俺らはあの人に仕込まれたんだからな。なのに、何でお前はこんな子に育ったのやら……そっちの方が理解出来ねぇわ」
「三十路過ぎに子って言うなよ……」
今の新造がそうである様に、現在の太夫らもそれぞれ兄太夫に付き、娼妓とはなんたるかを学んできた。和泉、東雲、朱理は黒蔓に教育された三人である。
「まぁアレだ、お前らは真面目だからだわ。あの人の言う事なす事、ぜんぶ素直に見聞きしてきたんだろ。躾の行き届いた血統書付きだよ。俺は拾われた野良だから、品が無いのも仕方ないさ」
「何が野良だ。勉強して良い点数を取るのは当たり前。勉強せずに良い点取るのが天才だ。お前は後者なんだよ」
「はは……色事で天才って言われてもねぇ……」
皮肉っぽく嗤って紫煙を吐く朱理に、和泉は眉を顰めた。朱理の纏う雰囲気が、普段と全く違う気がするのだ。覇気が無く、いつものふわりとした妖しさも無い。
遣手が見世に出て来なくなった事と関係があるのか、それとも単なる考え過ぎか、和泉は測りかねていた。
と、朱理は文机の上の懐中時計に目を遣ると、やおら煙草を揉み消した。
「俺、風呂入ってくるわ。もう12時過ぎてるし」
「……ああ。お前、朝飯は?」
「んー、風呂出て考える。あんま腹減ってねぇのよ。昨日飲み過ぎたかなー」
「そうか……。じゃ、また後で」
「おー」
伸びをしながら浴場へ向かう朱理の後姿を、複雑な表情で見つめる和泉であった。
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