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第二章
第二十夜 【非凡才肌】
しおりを挟む「体調悪いって本当?」
「だいぶマシになったよ。今日、慌てて着替えたから、腰紐きつくし過ぎてたみたい。久し振りに結構、酒も飲んだしな」
「まぁ、楼主に限って無いとは思うけど……。お前のハエ取りフェロモンじゃ、怪しいもんだぜ」
「馬鹿言うな。はぁ……頭痛ぇ……」
額に手を当てて顔を顰める朱理を覗き込み、陸奥は今更ながら心配そうに声を掛ける。
「確かに、ちょっと顔色悪いかも。大丈夫? 水、飲む?」
「くれ。あと、あっちの棚から鎮痛剤取ってきて」
「薬飲むの? まだ駄目じゃない?」
「大丈夫だよ、酒が抜ける時に痛くなるやつだから。アルコール痛だ、多分」
「なにそれ、聞いた事無いんだけど……。まぁ、お前が良いって言うなら良いけどさ。はい、どうぞ」
「さんきゅ」
陸奥から水と薬を受け取り、ひと息ついて漸く朱理は気付いた。
「……って言うか、なんで居んの? 仕事は?」
「2時で上がった。んで、夜這いに来た」
「今すぐ出ていけ。そして二度と入って来るな」
「嘘つきました、すみませんでした、居させて下さい」
「ったく……。にしても珍しいな、お前が2時上がりって」
「まぁね。お前に会いに来たのは本当だし」
「なんで」
「会いたかったから」
「だからなんで」
「愛してるから」
朱理は本日一番の溜息を吐いた。陸奥とはもう何年もこんな遣り取りをしている。
「いい加減、それ飽きねぇ? お前なら引く手数多だろうが。俺なんかに構ってないで、さっさと何処ぞの金持ちに身請けしてもらえ。そしてベンチャーして海外飛び回れ」
「厭だよ……何なの、そのちょっと具体的な将来案……。俺が愛してるのはこの世で朱理だけだって、何回言えば解ってくれるの?」
「100万回」
「よし分かった。今日から数えるからね。回数指定したの、お前だからね」
「ごめん、悪かった、やめて。お前、まじでやりかねなくて怖い」
朱理は寝具から降りると、珈琲を淹れ始めた。
「お前のその癖、変わらないな」
「ん? ああ、そうだな。一日のシメって身体が覚えちゃって。お前も飲むか?」
「えっ!? 飲む飲む! うわー、朱理が淹れてくれた珈琲飲めるなんて、初めての経験!」
「だっけ? ま、お前は昼夜問わずのご多忙だからな。砂糖とミルクは?」
「ミルク要らない、砂糖一個でお願い」
「ブラック微糖、ね……」
「ん? どうかした?」
「……なんでもない」
いちいち黒蔓に関連付けてしまう思考を、小さく首を振って追いやる。湯気の立つマグを文机に置くと、陸奥から歓声が上がった。
「うわー! 人生初、朱理のお手製珈琲! 頂きます!」
律儀にマグへ両手を合わせる姿に、自然と笑みが溢れる。
自分より3つ歳上のこの男は、眉目秀麗、頭脳明晰、文武両道の完璧な人物だ。
日本最難関と言われる帝都大学の法学部を首席で卒業、見世では御職を張り通す稀代の傾城。
剣道、柔道、空手の有段者で、茶道や華道にも精通し、話術も巧みで床上手。
法律関係は勿論、土地や株、経理にも詳しく、大手企業の社長らが助言を請いに来る程だ。
本人も株をやっており、此処の給与など端金に過ぎぬ様な額を扱っていると聞く。故に、陸奥の顧客には彼に投資する者が後を絶たない。
そんな人物が何故、吉原などで働いているのか、誰もが疑問に思って当然である。以前、朱理が理由を聞いたところ、陸奥はあっけらかんとこう言い放った。
〝面白そうだったから〟
本人曰く、会社勤めは性に合わないらしい。商社も政治家も医者も弁護士も、兎角、そういった型に填った仕事は厭なのだと言う。
そんな凡そ人間離れした男が、素人の淹れた普通の珈琲に大喜びしているのだ。
「……本当、お前って変なの。もしかしてサイコパス?」
「お、なんだなんだ? 唐突に悪口? 可愛いじゃないの」
「確定だわ」
こんな軽口がやけに楽しく感じるのは、彼の超人的な魅力の所為か、はたまた己の精神が参っている証拠なのか。今の朱理には判断出来なかった。
この数年間、脇目も振らずにただ一人を見てきた。迷う事も、揺らぐ事も無く、太々しくも優しい、あの人だけが我が世の全てだった。
しかし、人生そんなに甘くはなかったのだ。己の狭い世界は黒蔓で占めるに充分だったが、彼は違ったのだと知ってしまった。
彼には自分の知らない様々な経験と、過ごした歳月によって形成された広い世界が在る。3歳差の陸奥にさえ、自分より沢山の物が在るのだ。ひと回りも違うあの人が、自分と同じ筈が無かった。
一夜にして世界が変わる、とはよく聞く謳い文句だが、実際ある物なのだと痛感していた。
「ん? なかなか良い品だな、これ。買ったの?」
ふと、文机の上に飾られた薔薇と一輪挿しに気付いた陸奥が声を上げた。
「ああ、いや、それは棕櫚からの昇進祝いだよ」
「そうなんだ。またタイミング良く貰ったもんだね」
「まあ、全くの偶然って訳でもなくてな。昼見世の後に仲之町でたまたま会ってさ。その花瓶、ひと目惚れしたけど高くて諦めてたら、祝いっつって買ってくれた」
「え……? って事はもしかしてあの噂、まじなのか?」
「噂?」
「さっき客が言ってたんだよ。夕方、棕櫚と朱理が手ぇ繋いで大通り歩いてるとこ見たって」
朱理は、そう言えばそんな事もあったな、と思い出した。あの時は遅刻に焦って全く気付かなかったが、傍から見れば勘違いされてもおかしくない姿だっただろう。
苦い顔で黙りこんだ朱理を見て、陸奥は絶叫した。
「はぁあ!!?? 嘘だろ、なにやってんのぉ!? 俺という者がありながら、この浮気者──ッ!!!!」
「うるっさい!!!! 何時だと思ってんだ、静かにしろ!! 違うんだって! 遅刻しそうで急いでたから、棕櫚に引っ張って貰ってたんだよ!」
「いやいやいや、おかしくない!? だからって手ぇ繋ぐか!? 普通!!」
「そ、そりゃ……俺も焦っててよく考えてなかったけど……。とにかく、妙な事は微塵もしてねぇよ!」
「ほーおー、へーえー、ふう──ん」
露骨に不貞腐れる陸奥はまるで子どもだ。やれやれ、と頭を抱えかけ、ふと朱理は気付いた。
「おい、待てよ。なんで俺がお前に、こんな言い訳じみた説明しなきゃなんねぇの? で、なんでお前は当然の様に不貞腐れてるわけ? そっちのがおかしくね?」
「やだなぁ朱理ったら、野暮な事を」
「はぁ……うっかり流されるところだったぜ、危ねぇ……。侮り難し傾城め……」
「チッ……手強いぜ、秘蔵っ子……」
仲が良いのか悪いのか、深夜に謎の鬩ぎ合いを繰り広げる二人であった。
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