万華の咲く郷

四葩

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第二章

第十八夜 【昼想夜夢】

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朱理しゅり太夫! やっとお帰りですか! あまりに遅いので心配しましたよ!」
「ご、ごめん……。買い物してたら、つい……」

 支度部屋へ戻るなり、東雲しののめ番新の雷が落ちる。腕組みして眉根を寄せる姿は、何だか黒蔓くろづるに似てきたな、と思った。

「ご承知の事と思いますが‪、午前1時‬から2‪時‬までのたかむら様のお座敷には、楼主が同行します。未だ裏ですので、過度な接触は控えて下さい」
「最後の客があの人か……。気ぃ重いなー……」
「大丈夫ですよ。何があっても、必ず楼主が守って下さいますから」
「……うん、そうだね……」

 そういう意味ではない、とは言えず、朱理は小さくうなずくに留めた。

「さ、急いで支度を整えましょう。お客様をお待たせする訳にはまいりませんからね」
「はーい」

────────────────

 そして‪18時‬。慌ただしく支度を終え、昨夜と大して変わらない、初回だらけの夜見世よみせが始まった。黒蔓が居ない事を除いては。

「…………」
「大丈夫ですか? 扇子せんす、落ちましたよ」
「……ああ、平気。ありがと」

 心ここに在らずといった様子の朱理をうかが九重ここのえは、一茶いっさ付きの上手新造かみてしんぞうだ。
 拾われた扇子を受け取ると、ぼんやり窓の外を見遣った。どの揚屋あげやも宴席で賑わっており、至る所から談笑の声や三味線のが響いてくる。
 自分の居る座敷も他所よそと同じく華やいでいるが、朱理の胸中きょうちゅうはささくれていた。
 そっと左手の中指に触れ、指輪の感触を確かめる。
 つい昨夜まで隣に居たはずなのに、今見えるのは九重ともう一人の付き添い新造、水瀬みなせの心配そうな顔ばかりだ。水瀬は伊まり付きの下手新造しもてしんぞうである。
 手元の懐中時計は‪午前0時半‬を示しており、朱理をますます憂鬱にさせた。あと四半時しはんときもすれば楼主がやって来て、篁の座敷へ行かねばならない。どんなに苦しい事があろうと、どんなにつらい事があろうと、仕事も時間も待ってはくれない。
 沈み込む気分に耐えかねた朱理は、水瀬を側へ呼び、扇子で口元を隠しながら耳打ちした。

「先に出るから、悪いけど後は任せるよ。裏は返すし、適当で良いから」
「は、はい、承知しました。お一人では危ないので、九重を付かせて下さい」
「いや、良い。ちょっと休みたいんだ」
「わ、分かりました。もう直ぐ吉良きら妹尾せおが来るので、なるべく早めに合流して下さいね」
「分かったよ。それじゃ、頼むね」

 朱理は軽く会釈をして座敷をした。
 最寄りの化粧室へ入って洗面台に手を付くと、深い溜息をいた。鏡を見て思わず苦笑が漏れる。

「なんて顔してんだか……」

 其処には憔悴して覇気のない己の顔が、寸分の狂いも無く映し出されていた。こんな顔で座敷に居たのかと思うと、気分は更に落ち込んだ。
 無意味に手を洗い、煙草を吸うために庭へ出た。3月下旬とは言え、夜はまだ冷たい外気がいきに身震いしつつ、紫煙を吐き出す。
 見上げた空には、半分欠けた月が出ていた。
 今頃、黒蔓は同じ月を見ているだろうか。それとも独りきり、部屋でうずくまっているのだろうか。否、多忙な遣手の事だから、がむしゃらに仕事をしているのかもしれない。
 そんな事を考えていると、不意に背後から声が掛けられた。

「良い月夜ですね。まるであの日の様だ」

 相変わらず品良く上等なスーツを着こなし、笑みを浮かべているのは見覚えのある男だった。

「貴方に会う時はいつもお一人でいらっしゃる。不思議なものです」
「……奇遇だね、西行さいぎょうさん」
「ああ、ご挨拶が遅れてすみません。わたくし、万華郷の顧問弁護士をしております。辰巳たつみと申します」
「顧問弁護士……?」

 朱理は少なからず動揺した。10年近く勤めている職場にも関わらず、見世に弁護士がついていた事など、今の今まで知らなかったのだ。
 驚く朱理に微笑みかけながら、辰巳は説明する様に言った。

「篁様のお座敷に、私も呼ばれているんですよ。楼主は今回の件を大変、重く見ていらっしゃるのでしょう」
「はぁ……なるほど。念書に楼主に弁護士とは……。一般人が登楼するより、よっぽど大変なんだな、ヤクザってのは」
「そうですね。何せ登楼先が手出し御法度の中立店ですし、あちらは名の知れた裏組織の会長ですから。互いの立場上、相応の手順を踏まねばなりません」

 ふっ、と紫煙を吐いて、朱理は片方の口角を上げる。

「やれやれ、まったく意味が分からんぜ。そんな面倒な事をしてまで、なんで男なんか買うんだろうな。あの見た目でその肩書きなら、セックスの相手くらい余るほど寄ってくるだろうに」
「それについては、私も全くの同感です。だからこそ、何か裏があると警戒するのもまた、当然という事ですよ」
「ふうん……。ま、どうでも良いけど。んで、オーナーは?」
「もう直ぐいらっしゃいます。さあ、身体も冷えますし、中へ戻りましょう」
「うん……」

 辰巳にいざなわれて揚屋内へ戻ると、慌てた様子の吉良と妹尾が駆け寄って来た。

「朱理さん! あー、良かったぁー……。座敷に居ないんで、めちゃくちゃ焦りましたよ!」
「何かあったのかと思いました……。大丈夫ですか?」

 見慣れた二人の顔に、少しだけ気持ちがやわらぐ。妹尾達が呼ばれたのは、新造の中でも特に朱理と接する事が多い為で、網代あじろささやかな心遣いだった。
 朱理は思わず二人をぎゅっと抱き締める。

「朱理さん、無理しなくて良いんですよ?」
「そんなつらそうな顔……見てられないです……」

 滅多に見せない朱理の弱った姿に、吉良も妹尾も心から気遣う様に声を掛ける。そんな二人の声音に救われる心地がした。

「ああもう、お前らほんと可愛いなぁ! 大丈夫、二人の顔見たら元気出た。これから‪1時‬間、よろしくね」
「はい!」
「よろしくお願いします!」

 朱理が落ち着いたのを見計らい、網代が声を上げた。

「皆、揃ったな。辰巳君、こんな所に引っ張り出して悪いが、念書は特に気を付けて見ておいてくれ」
「承知しております」
「朱理、まだ裏だから適当にかわすようにな」
「分かってます」

 そうして皆が気を引き締め、いよいよ篁の裏が始まった。
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