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第一章
第九夜 【花魁道中・宵】
しおりを挟む17時。吉原大門の大提灯に灯りがともる。置屋も揚屋も続々と見世先の提灯をつけ始め、遊里が浮き上がるように艷やかさを増す。
往き交う人々の話題はもっぱら花魁道中だ。昼に見た者も、これからを楽しみにする者も、皆が今か今かと待ち侘びていた。
通りは昼以上の見物人でごった返し、吉原警察署から警備要員が出ているほどだ。
道中は昼が予行で夜が本番と言っても過言ではない。澄み渡る鈴の音が響き、重々しい和太鼓が鳴り始めた。見物人達から歓声と拍手が湧き起こる。鈴の拍子に合わせて大きく外へ足を開き、一歩を踏み出した。夜見世、花魁道中の始まりである。
今夜は花の宴に着用していた物と同じ紅緋の二重、漆黒の生地に大輪の曼珠沙華が咲き誇る打掛だ。帯は銀糸で縁取られた黒地に、同じく銀糸で蔦柄が細かく刺繍されている。
髪は右側に寄せて結い、左に大きな曼珠沙華の花飾り、陸奥に贈られた簪と純銀のチリカンを挿している。
頭上に掲げられた紅緋の 長柄傘が黒地の衣装を引き立て、この世ならざる者のような妖艶さを醸している。目尻と唇に薄く朱を差し、 昼よりも大胆に開く着物の裾からは、抜けるような白い足が惜しげもなく晒された。
荘厳な音楽と相まって、正しく花魁道中と呼ぶに相応しい気迫と妖美さでもって周囲を圧倒している。張見世の遊女達までもが、格子の中からひと目見ようと顔を覗かせていた。
正面を見据えて進む姿は厳しささえ感じ、昼間のような野次や歓声が上がらない代わりに、感嘆の吐息と鳥肌を催させる。誰もが瞬きも忘れ、食い入るように朱理を見つめていた。
万華郷の娼妓らは通りが混む前に揚屋へ赴き、それぞれ客を待ちながら道中を見守っている。付き従う黒蔓ですら、その気高く艶麗な横顔に総毛立っていた。吉原随一の見世に恥じぬどころか、間違いなく更に格を上げたと確信するのだった。
吉原中の視線を一身に受けながら、朱理はふと視界の端に小さな人影を捉えた。女衒(女性を遊郭へ斡旋する仲介業者)らしき男に連れられた5、6歳ほどの子どもだ。
さっと視線を巡らせると、大人の中にちらほら幼い子が混じっている。売られてきた子や、何処かの見世の禿達だ。万華郷では見ることのない年端のいかぬ双眸が、じっとこちらを見つめている。
(あの子らも、そのうち客を取るようになるのだろうか……。この地獄のような世界で、命を削りながら生きていくしか無いのだろうか……)
そう考えると、朱理は思わず肩貸しの妓夫に爪を立てていた。何事かと肩貸しがちらりと朱理を見遣る。慌てて何でもないと小さく首を振り、ひっそり下唇を噛んだ。
他人の心配をする余裕など、今の自分には無いのだ。見世のため、黒蔓のためにも、この道中は必ず成功させねばならない。朱理は改めて正面を見据え、二度と余計な思考はすまいと誓った。
その頃、揚屋の二階から道中を見ていた和泉は苦い顔をしていた。和泉付きの下手新造、松雪が心配そうに窺う。
「和泉さん、どうかしましたか?」
「……いや。あいつらしい道中だな」
「ええ、凄い気迫ですよね。普段はあんなに無邪気なのに、今はまったく雰囲気が違います」
「そうだな……」
和泉は朱理が僅かに顔をしかめたのを見逃していなかった。それが禿らのせいだということも分かっている。朱理がその手のことに敏感な性分であると、よく知っているからだ。大方、子ども達の姿に同情でもしたのだろう。
万華郷で唯一、借金を負っている下手新造の妹尾にさえ心を砕き、目をかけている彼が、禿を見て何も思わない筈が無いのだ。しかし反面、すぐに切り替えて進む姿は流石とも思う。
朱理は和泉の2年後に入楼してきたが、不思議と同期より馬が合い、新造時代から特に仲が良かった。共に働く大切な仲間であり、気の置けない友人だと思っている。
ようやく彼が自分と同じ所まで来てくれた喜びと同時に、心配も募った。
立場が上がれば、必然的に物の見え方も変わってくる。今まで見ずに済んだ物も見なければならず、知らずに済んだことも知らねばならない。
感受性が豊かなのは、朱理の長所であると同時に短所でもあるのだ。この先、目まぐるしく変化していく状況に、彼の心がどんな影響を受けるかと、不安を感じずにはいられない。今は見守ることしか出来ないが、せめて今夜の道中が滞りなく終えられるよう、静かに祈る和泉であった。
一方、別の揚屋では棕櫚が玖珂と共に人のひしめき合う通りを眺めていた。近付いてくる音楽で、道中がすぐそこまで来ていることが分かる。
「もう少しで見えてくるかなぁ。昼はどうだった?」
「到着まで凄く盛況でしたよ。少し心配もありますが……」
「心配って?」
「揚屋に着くなり倒れちゃったんですよ。気丈に振る舞われてましたけど、かなり身体に負担が掛かってるんだと思います」
「そっかぁ。俺らと違って衣装も女物だし、着物だけでも相当な重量だろうね。しかもあの下駄で外八文字踏んでるんだから、何処か痛めてもおかしくないよなぁ」
棕櫚が言うように、上手と下手では衣装がまったく異なる。上手は着流しや袴などの一般的な格好だが、下手はすべて女性仕様の着物だ。上手の道中は衣装こそ華美になるものの三歯下駄は履かないため、外八文字も随分、楽になる。
「でも、昼間なのに途轍もない色気があって、視線もらった人たちの歓声で耳が痛かったです。本当に綺麗でした」
「良いなぁ、羨ましいなぁ! 俺も朱理の視線欲しい! 近くに来たら呼んでみようかな?」
「辞めて下さいよ、恥ずかしいです。それに遣手が同行してること、忘れてませんか?」
「うわ、そうだった……。つまんないのー。こんな所に居ちゃあ、気付いてくれるはずないものなぁ。悲しい」
「こんな所って……。あ、そろそろ見えるんじゃないですか?」
「え、もう来てるの? それにしちゃ、歓声なんて全然……」
眼下に迫った朱理を見た瞬間、二人は言葉を無くした。
冴え渡る鈴の音と共にゆっくり歩を進める姿は威厳に満ち、底冷えするような美しさを湛えた眼差しは揺るぎなく正面に定まっている。
道理で見物人が静かなわけだ、と棕櫚は思った。この道中は歓声を上げるだの、野次を飛ばすだのと言ったたぐいの物ではない。〝見せる〟のではなく〝魅せる〟道中だ。
人の魅力は様々だが、朱理のそれは凄まじいまでの存在感と、形容し難い異質さである。嬌艶の中に厳かな品が混ざる対極美は、見る者を惑乱する。
一歩、また一歩と近付く朱理の気配に背筋が粟立ち、思わず盃を持つ手に力がこもった。ぱきっ、と小さく音を立てて盃が割れ、酒が腕を伝う。
「大丈夫ですか!? お怪我は!?」
玖珂に答えようとしたが、出来なかった。盃を割ったことに気を取られ、一瞬、道中から目を離した。再び視線を戻した時、朱理がまっすぐこちらを見上げていたのだ。
ここは軒並ぶ揚屋のひとつで、目立った特徴はない。鈴や太鼓が鳴り響く中、盃が割れた音など聞こえるはずもないのに、朱理の視線は迷わず棕櫚を捉えていたのだ。文字通り、棕櫚はその眼差しに射抜かれていた。息も忘れ、身じろぎすら出来ず、平衡感覚を失った眩暈の様な感覚に陥る。
「──ろさん! 棕櫚さん!」
「……えっ?」
玖珂の呼び掛けで我に返ると、既に朱理は後ろ姿しか見えなくなっていた。時間にすればほんの数秒だっただろうが、棕櫚には数分に感じた。果たして本当に目が合ったのかさえ分からなくなる。あまりの気迫に、そう見えただけかもしれない。しかし、あの貫かれるような衝撃は確かに残っているのだ。
ふっと身体から力が抜け、欄干に背を預けると酷い脱力感に襲われる。
「……あれは、本物の妖かもしれないね……」
未だ鳥肌の治まらぬ腕をさすりながら、棕櫚は苦笑を漏らしたのだった。
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