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第一章
第六夜 【夢のあわい】
しおりを挟む夜が明け、いよいよ朱理の太夫生活が始まった。最初に待ち受けているのは大一番、花魁道中である。
東雲が言っていた通り、今日は初回客で埋まっているため、昼見世と夜見世の最初の呼び出しのみ、道中を行なって揚屋へ向かう。呼び出しのたびに道中していては、とても捌き切れないのだ。
午前10時半。従業員達は普段の業務に加え、道中の支度で右へ左への大わらわだ。あと四半時もすれば娼妓らが起き出し、朝食や入浴が始まる。
網代と槐が妓夫らに指示を飛ばす中、東雲は朱理の部屋へと急いでいた。何故なら朱理の寝汚さは筋金入りで、寝具から引っぱり出して風呂へ入れるのに、30分前から起こしにかからねば間に合わないからだ。朱理の起床係になった新造や妓夫が手こずる姿を散々見てきた東雲は、先手を打とうと考えたのである。
部屋の前に着き、息を整えて声を掛けた。
「朱理太夫、少し早いですが、起床して下さい。お返事が無ければ、入室させて頂きます」
どうせ返事は無いだろうと襖に手を掛けた瞬間、中からくぐもった声が返ってきた。
「東雲か。朱理なら俺が起こしてるから問題ない。邪魔が入ると面倒くせぇから、絶対に誰も入れるんじゃないぞ」
「えっ……あ、はい! 承知致しました!」
予想していなかった黒蔓の声に、びっくりしすぎて数秒固まった東雲だったが、流石に遣手は仕事が早い、と見当違いな感心に目を輝かせるのであった。
そこへ寝癖頭をがしがしやりながら、大欠伸の陸奥が通りかかる。
「ふあーあ……。おはよ、番新さん」
「陸奥太夫、お早うございます」
「そんな所で何してんの? ああ、朱理起こしに来たのか。なら俺も……」
やおら襖を開けようとした陸奥の前に飛び出し、侵入をふせぐ。今しがた誰も入れるなと言われたばかりで、更に相手が陸奥ときては意地でも阻止せねばならない。
「い、いえ、結構です! 私の仕事ですので!」
「あの子起こすの大変だろ? 手伝うって」
「大丈夫です! 太夫はゆっくりなさっていて下さい。すぐに朝食の支度が整いますから」
「え、なに? なんでそんな必死なの?」
訝しがる陸奥に、東雲は視線を逸らせながら囁くように答えた。
「その……本日は朱理太夫の初道中がございますから、ご機嫌を損ねられては困るのです。ただでさえ朝は難しいお方ですし、ここはどうか私にお任せ下さいませんか?」
「ふむぅ……そこまで言われちゃ仕方ない。先に風呂でも行ってくるかな」
「え、ええ! そうなさるのが宜しいかと。今なら一番風呂ですし」
「おー。んじゃ、頑張れよ」
伸びをしつつ歩き去って行った陸奥の背を見送り、東雲はほっと胸を撫で下ろすのだった。
一方その頃、部屋の中では黒蔓が笑いを噛み殺していた。
「くっくっくっ……東雲の奴、流石に巧くやったじゃねぇか」
「もー……笑いごとじゃないって。押し切って入って来てたらどうするつもりだったのさ」
「そんときゃ、そんときだ」
「適当だなぁ……」
布団に頭まで潜り込んでいる二人は産まれたままの姿で、言い訳の余地もない状況だ。
黒蔓との密会は幾度もあったが、いつも事が終わってしばらくすれば各々の部屋へ戻っていた。昨夜はすっかり高揚感に酔い、黒蔓が出て行かないことにまったく疑問を抱かなかったのだ。まさか朝まで床を共にする日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
喜びは勿論あったが、露見すればただでは済まない。東雲の声に流石の朱理も飛び起き、どうつくろおうかと焦ったのも無理はないのだ。
「まぁ良いじゃねぇか、嘘は言ってないし、ちゃんと起こしただろ」
「何が良いもんか。厭な汗かいたわ」
「色気のない奴だな。初めて一緒に朝日を拝んだってのに、眉間に皺寄せてんじゃねぇよ」
「そりゃ……めちゃくちゃ嬉しいけどさ……。なんで戻らなかったの? 部屋、すぐ隣なのに」
「んー、なんとなく」
「嘘つき」
「嘘じゃねぇよ。ただ、巧く言葉にできないだけだ」
「……ま、良いけど。お詫びに珈琲いれて」
「詫びってなんの?」
「ひやっとさせて寿命を縮ませた」
「ははっ。そんなもん無くたって、珈琲くらい幾らでもいれてやるわ」
黒蔓は黒紫の襦袢を引っ掛けながら笑う。初めて日の下で見る薄衣姿が、とても綺麗だということを知った。白い肌に映える黒紫は朝陽に照らされ、僅かな所作で濃淡が変わる。滑らかで繊細な色の移り変わりは、まるで黒蔓そのものだ。
見惚れている間に珈琲の良い香りが部屋を満たしていく。やがて湯気の立つマグが差し出された。何とも言えない心持ちになり、朱理は両手でマグを包んだまま、しばし水面を見つめていた。
「どうした? お前の好みは牛乳と蜂蜜たっぷりのカフェオレだと思ってたんだが、変わったか?」
「ううん、そうじゃないよ。すごく嬉しくて……今更だけど、なんか泣きそうでさ……」
面を上げずに言う朱理の頭を、黒蔓がくしゃりと撫ぜた。
「欲のない奴。お前はもっと我儘になって良いんだぞ」
「駄目だよ。これ以上なんて望んだら、バチが当たりそうだ」
泣き笑いの顔でそう言う朱理は、朝陽のせいかいつもより眩しく、美しかった。自分とて同じだ、と黒蔓は思う。そっと朱理の頬に手を当て、唇を重ねた。
「愛してる」
「俺も愛してるよ、黒蔓さん」
互いに出逢うまで、「愛している」など無力で虚しい戯言だと思っていた。しかしいつからか、どちらからともなく自然と口にしていた。計算も抵抗もない、心から出た言葉だった。それから二人は惜しまず愛を囁くようになった。まるで、今まで溜め込んでいたものを互いに注ぎ込むかのように。
窓から差し込む初春の陽光が、その愛を祝福するように重なる影を落としている。これから始まる怒涛の現場を前に、甘い夢の間は仄かな余韻を残すのだった。
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