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第一章
第五夜 【甘露夜】
しおりを挟む雑談混じりの打ち合わせを終え、再び一人になった朱理は名簿を文机に放り投げ、床に寝転んだ。ただ座っていれば良いと言われても、それはそれで気が重い。馴染み客と談笑しているほうが、よほど性に合っているのだ。
吉原のしきたりで、上級娼妓と馴染みになるには最低、三度の登楼が必要となる。
初回と呼ばれる一度目は揚屋で宴会を開き、そこに太夫を招いてもてなす。太夫は上座に、客は下座に座らねばならず、会話はおろか目も合わせて貰えない。客は芸妓を呼んで場を盛り上げるなどして財力を示し、太夫は客の品定めをする。この時点で既に揚代を除いて300万ほどの出費があるが、太夫に気に入られなければ二度と指名に応じて貰えない。
初回で良しとされた客は二度目の指名を許され、これを裏、または裏を返すと呼ぶ。この時も初回と同じく、揚屋にて宴会を行う。太夫との距離は僅かに近くなるが、酒の酌み交わし程度でまだ会話らしい会話はできない。
そして裏を返された客は三度目の登楼を果たし、ようやく馴染みとなる。太夫の座敷へ招かれ、名入りの箸が用意されるなど、待遇は格段に良くなるのだ。太夫の態度も砕け、触れ合うことを許される。客は馴染みになったけじめとして、30万ほどを見世に渡すのが礼儀とされている。早ければここで床入りとなり、その際に床花と呼ばれる祝儀を50~100万、太夫へ支払うのである。
そうして客と太夫は擬似夫婦の関係となるわけだ。ゆえに、一人の太夫と馴染みになった客が他の娼妓の元へ行くことは浮気とみなされ、固く禁じられている。浮気した客は法外な罰金を請求され、吉原から完全に閉め出されてしまう。もし指名変えを行う場合、多額の示談金を支払った上できちんと話をつける必要があるのだ。
しきたりを重んじ、並々ならぬ金銭と手間を惜しまぬ者にのみ、至上の贅沢を味わう権利が与えられる。それが吉原という場所だ。
朱理の明日の予定はすべて初回客で埋まっており、日がな一日、仏頂面で似たり寄ったりの宴席をはしごしなければならない。
「はぁ……めんどくさ。寝よ」
やることも無く、考えるだけ無駄な明日を思うと鬱になるため、気力温存が最優先と判断した朱理はさっさと寝具へ潜り込むのだった。
◇
同日、午前2時過ぎ。娼妓達が客と寝屋へ籠ると、ようやく見世に静けさが訪れる。
番頭台で金銭帳簿と格闘している東雲を横目に、黒蔓は廻し方の槐 寿人を呼び付けた。廻し方とは、娼妓達が客と寝る部屋の采配を行う者だ。娼妓がちゃんと指名の客と入ったか、脱走していないか、無茶をする客が居ないか等の監視要員である。
「どうだ、二階の様子は」
「とどこおりなく。名代寝屋も、今のところ問題ございません」
「そうか」
新造は太夫の指名が重なった場合、身代わりとして客と寝床を共にする。しかし名代の新造に手を出すのはご法度で、受け身である下手の名代寝屋は特に厳しく見張られるのだ。
煙草を咥えて書類に目を通していた黒蔓に、槐が感嘆の混じる声を掛けた。
「それにしても、やはり朱理さんは凄いですね。宴席ではその話題ばかり聞こえましたよ」
「あいつは近いうち、吉原一の太夫になる。素質も実力も申し分ないが、後は気力の問題だな。精々、世話させてもらうさ」
「貴方が付いているなら、それ以上に心強いことは無いでしょう。明日から忙しくなりますね」
「しばらくは初回客で飽和状態だ。俺も付き添うから、終わるまで見世へは戻らない。こっちは頼んだぞ、お前ら」
「御任せ下さい」
「承知致しました」
東雲と槐の頼もしい返事を聞き、黒蔓は満足げに紫煙を吐いて書類を置いた。
「それじゃ、俺は先に休む。お疲れ」
「お疲れ様です」
片手を上げて踵を返し、番頭台傍の階段を上っていく。
見世の一階は大玄関と、その正面に番頭台があり、奥には楼主が見世で過ごす際の居間に当たる内所が置かれている。
他に大浴場、娼妓達が食事や雑談をして過ごす控え所があり、それらを囲むように廊下を挟んで宴席用の座敷がコの字に並ぶ。
本棟の左に建つ別棟には執務室と見張り室。右棟は台所、妓夫の雑魚寝部屋、番新や廻し方の個室。中庭には楼主用の戸建てがある。万華郷は張見世を行わないため、見世先に格子は設けられていない。
二階は娼妓が客を接待する座敷と名代寝屋が占めている。娼妓は部屋持ちと座敷持ちとに格が分かれている。部屋持ちは寝屋と自室が兼用の者、座敷持ちは寝屋と自室が別にある者を言う。ここでは格子太夫が部屋持ち、太夫が座敷持ちと定められている。
そして最上階の三階は、太夫の自室と上下の支度部屋、遣手の自室。楼主、遣手、太夫専用の浴場がある。座敷持ちは自室の他に衣装部屋も持っており、それも三階にある。
ぐるりと二階を囲むように伸びる廊下を、三階に続く階段へ向かって歩く。二階は薄暗く静かなようでいて、客と娼妓の密事に闇が蠢くように騒ついている。廊下には見張りの妓夫が不寝番をしており、すれ違うと軽く会釈をされた。いつも通りの光景に胸を撫で下ろす。
三階へ上がると完全な静寂に包まれていた。実際、今この階に居るのは自分と朱理だけなのだから、静かなのは当然である。
いつもなら太夫達は皆、二階の寝屋で仕事に勤しんでいるため、客が帰る午前5時を過ぎるまで三階に居るのは黒蔓のみだ。
黒蔓は朱理の自室に選んだ角部屋へまっすぐ足を向けた。因みに隣接するのは黒蔓の部屋である。
静かに襖を開けると、室内は橙色の間接照明のみで仄暗く、朱理は寝具に丸まって寝息を立てている。寝具の傍に座ってあどけない寝顔を眺めていると、疲れも癒される心地がした。しばし堪能した後、黒蔓は勝手知ったるとばかりに珈琲をいれ、書類を文机に広げながら煙草を咥える。
半分ほど目を通した頃、もぞもぞと寝具が揺れて呻き声が上がった。
「……うぅん……?」
薄く片目を開けた朱理は、咥え煙草で書類を眺める黒蔓を視認し、はて、と思っていた。煙草と珈琲の匂いで目を覚ましたのだが、状況がまったく把握できない。ここは自分の部屋だったはずだが、なぜ黒蔓が我が物顔で書類など広げつつ寛いでいるのだろうか。何か用があったのか、もしや自分が部屋を間違えたのか、等と考えながら眉をひそめる朱理に、黒蔓は穏やかな笑みを向けた。
「起こして悪いな」
「……なにしてるの……?」
「仕事」
「いや……そうじゃなくて……」
朱理は寝具の中で大きく伸びをし、ようやく働きだした頭で理解した。じとりと睨まれながらも、黒蔓は愉快そうな笑みを浮かべたままだ。
「図々しさも、そこまでいくといっそ清々しいね」
「恋人の顔を見て疲れを癒してる俺に向かって、図々しいとはなんだ」
「言葉のままだよ。俺が部屋間違えたのかと思うくらいナチュラルに寛いでてびっくりしたわ」
「寛いじゃいねぇよ。一服しながら残りの仕事を片付けてる」
「なぜここで? 貴方の部屋はお隣ですよ」
「顔見に来たって言ったろ」
「寝てたら出てくよね、普通。そんなにがっつり生活臭出されたら起きるでしょ」
「それも最初に謝ったが?」
「はぁ……もう、ホントこの人は……」
ばふ、と枕に顔を埋めて反論を諦めた。この男に口で勝てないのは、重々、承知している。黒蔓は書類を文机へ置き、不貞腐れる朱理の顔を覗き込んだ。
「厭だったか?」
「厭……なワケないでしょ。分かってるくせに」
「むくれるなよ、可愛いな」
頬をつつかれ、噛みつく真似をしてじゃれる。朱理は黒蔓の腕を引いて首に抱きついた。煙草と香水の混ざる嗅ぎ慣れた匂いに、えも言われぬ恍惚感に満たされる。抱き返される腕の温かさに、益々、喜悦した。
唇を重ね、吐息を零しながら深め合う。寝間着の襦袢一枚だった朱理は既に肌を晒しており、性急に黒蔓の帯を解きにかかっている。脇腹を撫でていく絹手袋の感触が、これから始まる行為を期待させた。
初めて持った自室の寝具で、初めて身体を繋げるのが黒蔓だというそれだけで、朱理は心底、幸せだと思えるのだ。
互いの身体を弄りながら口付け、漏れる吐息で黒蔓も普段より昂っていると知る。快楽に身を震わせながら、朱理は黒蔓を見つめて呟いた。
「……期待してたんだ、今夜来てくれるかもって。だから凄く嬉しい……」
その表情は困ったような、今にも泣き出しそうな、それでいてとても嬉しそうで。黒蔓もまた同じ顔だったことを、本人らは知る由も無い。
「……愛してるよ、黒蔓さん……」
「ん……俺も愛してる……」
長かった一日の終わりは、二人に極上の悦楽を与え、互いの肢体は境を無くすように重なり合っていった。
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