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第一章
第四夜 【万華鏡の中の世界】
しおりを挟むその後、朱理は未だ仕事がある黒蔓と別れ、夜見世で賑わう店内の廊下を自室へ向かっていた。新造や妓夫らが忙しなく行き来している。
「朱理さん! お披露目、お疲れ様でした」
「おー、渡会。今日も忙しそうだな」
「はい、お陰様で。寒かったでしょう。行火をお持ちしましょうか?」
「いいよ、どうせすぐ寝るから。お前も名代あるんでしょ」
「ええ、今から次のお座敷です。それじゃ、ゆっくり休んで下さいね。失礼します」
「ありがと。お疲れ」
一礼してきびきびと歩き去って行ったのは、鶴城付きの上手新造、渡会だ。
「若いねぇ。太夫付きなんて超多忙だろうに、元気が有り余ってるな」
ここでは禿がいない代わりに新造がその役回りも兼ね、弟分として太夫の身の回りの世話をしつつ、立ち居振る舞いを学んでいる。新造が付いていない太夫は、手隙の新造が交代で世話や名代をするのだ。
万華郷は回の字の箱型構造で、中央は吹き抜けの三階建てになっている。太夫の自室がある三階へは二階の廊下を半周し、専用の階段へ向かわねばならない。
出くわす新造や楼客達に労われ、笑顔でそれに応えながら自室へ辿り着いた。若干の疲労を感じつつ、煙草をくゆらせながら窓の外を見ていると、唐突に襖が開いた。
戸口を見遣ると上手格子太夫、大鳳 冠次がいつもの仏頂面で立っていた。着物越しにも筋肉質だと分かる締まった体つきに、襟足を短く刈り込んだ濃い栗毛が雄々しさを引き立てている。
「いきなり開けんなよ。びっくりするだろうが」
「ふん、何を今さら。声掛けたことなんてねぇだろ」
「まぁそうだけど。どうした? 三階まで来るなんて、トラブルか?」
「違う」
短く答えると、冠次は懐から取り出した細長い小包を朱理へ差し出した。
「俺からの心付けだ。どうしても今夜中にやりたくて、持って来た」
「その言い方やめろよ。旦那衆じゃあるまいし、普通に祝いとかで良いだろ」
「やめない。俺はいつか必ず──」
「冠次さぁん! 次のお客様がいらしてますよー!」
と、廊下から響いてきた新造の呼び声に、冠次は忌々しげに眉を寄せて舌打ちする。
「聞こえてますかー、冠次さーん! 早く降りてきて下さーい!」
「今行く! じゃ、確かに渡したからな」
「おう、ありがと」
襖が閉められ、足音が遠ざかっていくのを聞きながら朱理は小さく息をついた。冠次の言葉が遮られたことに心底、安堵する。何を言おうとしたかなど、誰でも予想がつくだろう。冠次もまた、知り合った頃から朱理に入れ込んでいるのだ。
陸奥にしろ冠次にしろ、なぜ自分などに固執しているのか、まったく理解できない。そしてそのどちらにも、応えられる感情は持っていない。
朱理は色絡みの面倒事がなにより嫌いなのだ。見たくない、聞きたくない、関わるなどもってのほかだ。
溜め息をつきながら包みを開くと、朱理が気に入っているブランドの煙草煙管が入っていた。
「……流石だな、冠次のやつ。なんにも関心なさそうな顔して、ちゃっかり好み把握してやがる」
しかして早速、貰った煙管で煙草をふかす朱理は大変、現金な男であった。
時刻は未だ宵の口で、吉原はこれから益々、賑わい始める。朱理の自室からは中庭の桜がよく見えた。妓夫達が宴の舞台の枠組みを解体している。今頃、楼主も遣手も太夫達も、忙しなく働いているのだろう。昨夜の自分がそうだったように。
上級娼妓は昼見世と夜見世で2、3人ずつしか客を取らない。しかし、ここでは全娼妓が日に何人も客を取る。その最たる理由は時間制であることだ。
通常、客と娼妓の過ごす時間は営業時間内であれば制限は無く、ほとんど娼妓の気分次第だ。昼見世は14時から16時まで、夜見世は18時から翌午前2時までで、閉店する午前5時までは最後に揚がった客と過ごすのが一般的である。
対して万華郷は揚屋での指名数を基準に、遣手が制限時間を定めるのだ。更に、揚げが1時間未満の客は床入りできない決まりを設けている。
人気がある娼妓ほど長時間の予約が取りにくく、揚代は高い。一見、客に不利益に見えるが、そうでもしなければ指名のかち合いが続出し、何ヶ月も予約が取れない羽目になる。短時間でも会えるだけマシだと、客から不満が出ることはない。稀に揚代以上の大金を積んで買い占めようとする客もいるが、それを許すか許さないかも、遣手が判断する。客によっては娼妓から時間を伸ばすよう口添えされる場合もあるが、逆に短くされたり、断られることもあるという難しい世界なのだ。
退屈を持て余し、礼状でも書こうかと朱理が半身を起こした時、襖の向こうから声が掛かった。
「朱理太夫、失礼しても宜しいでしょうか」
「はーい、どうぞー」
静かに襖を開いて入って来たのは東雲だ。
「お休みのところ申し訳ありません。明日の予約名簿です。確認しておくようにと遣手から言付かり、お持ちしました」
「ありがと、煜さん」
受け取った名簿を見た瞬間、朱理は完全に無の表情になった。
「……なにこれ。いくら初日だからって多すぎない? にーしーろ……昼夜合わせて20人って。30分に1人こなせと?」
「それでも半分は断わったとか。流石の人気ですね」
きらきらと純粋に目を輝かせる東雲に、朱理は頭を抱えたくなる。
「番新……感心してる場合じゃないでしょ。身体持たないって、こんな過密スケジュール」
「大丈夫ですよ。初回客ばかりなので、ただ座って品定めするだけです。その後、断る方と裏を返す方を遣手に伝えて下さい」
「そっか、なるほどね。了解って言っといて」
「承知致しました」
軽く頭を下げて答えた東雲の姿に、思わず笑みが零れた。
「すっかり番新姿も板に付いたね、煜さん」
「いや、まだまだ不慣れで……。不手際があったら、遠慮なく言って下さいね」
「うん。あ、色々ゆずってもらって有難う。お礼が遅くなってごめんね」
「構わないんです。もう私には必要の無い物ですし、貴方に使ってもらったほうが嬉しいですから」
東雲の年季明けが決まった際、かねてより格上げを固辞していた朱理へ、東雲が所有していた衣装や装飾品のほとんどを譲渡したのだ。お陰で朱理は数百万単位の支出を抑えられると同時に、断り切れなくなってしまった。因みに、譲渡するよう東雲へ口添えしたのは、押しと人情に弱い朱理の気質をよく知る黒蔓である。
まだ数年先だった東雲の年季が繰り上がったのは、幾度か話に出たように身請けを拒んだためだ。
太夫を務めていた頃の東雲には、多くの身請け話が持ち掛けられていた。名だたる名家からのそれをことごとく袖にしながら太夫を続けていたが、ある大物議員に見初められたのが運の尽きだった。
温室育ち然とした清楚で上品な容姿と性格の東雲は、議員や官僚からの人気が非常に高く、顧客の半数以上が政界関係者だった。そんな中、件の議員は他の追随を許さない執着ぶりを見せ、しつこく身請けを迫った。見世側も手を尽くして躱そうとしたが、議員の執心は予想以上に悪質で、ついには政府関係者へ圧力をかけるまでになった。その結果、顧客のほとんどが登楼できなくなるという異常事態に陥ったのだ。
このままでは仕事どころか、東雲の身まで危険だと判断した楼主たちが、最終手段として年季明けを決めたのである。娼妓でなくなってしまえば、幾ら金を積もうと手が出せなくなるからだ。そうして東雲は引退し、本人の強い希望で番頭新造となった。
年季明けとは娼妓にとっての定年で、現在は四十路前後になるのが一般的だ。淫行条例により未成年の床入りが禁止され、経験豊富な年上の娼妓を好む客も一定数増えたため、それに沿って明けの年齢も伸びたのである。
しかし、万華郷では明確な年齢設定はない。大学卒業後の者しか登用しない上に、入楼後の1年間は教育期間となり、客を取り始めるのは24歳前後と他所より遅い。その後は体調や成績などを見て明けが決まるため、平均より伸びる場合が多いのだ。何よりここは売られた者がほとんど居ないため、身請けを厭い、年季を勤めあげることに執念するのである。因みに、今の太夫らは33歳、新造達は23歳 。中途入楼の陸奥は34歳、朱理は31歳だ。
何から何まで規格外なこの見世だからこそ、東雲のような緊急時に年季明けの融通がきいたわけである。
そして何故、東雲が見世に残ることを選んだのか、朱理はその理由を知っている。東雲は突き出し相手だった鶴城を想い続けているのだ。東雲と鶴城も朱理達と同じく、関係は一度きりで恋人同士ではない。
詳しい事情は知らないが、気持ちがあからさまに挙動に出ている東雲に比べて、鶴城はまったく意識していないように見える。それがふりなのか素なのかは分からない。なにしろ、鶴城は上手の中で陸奥の次に人気の高い太夫だ。
柔和な目鼻立ちで清潔感があり、細やかな気配りをする王道美男で売っている。陸奥を王とするなら、王子の役どころは間違いなく鶴城だろう。浮いた話もなく、仕事は仕事と割り切っているようで、客に身上がりしたことは一度もないらしい。
そんな微妙な関係の二人だが、万華郷ではよくある話のひとつに過ぎないのだった。
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