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第一章
第三夜 【あとの祭り】
しおりを挟む 慌てて桟敷へ戻った朱理は案の定、黒蔓の鋭い隻眼に射抜かれた。
「遅い。すぐ戻れと言ったはずだが?」
「桜が綺麗で、つい……」
「じき宴も終わる。休憩させてやったんだから、せめて退席するまではしゃんとしてろよ」
「はーい」
それから互いにしばし沈黙する。つ、と床についていた手に黒蔓の指が触れた。そのまま指輪に辿り着き、確かめるように撫でられた。
「よく似合ってる」
「貴方の見立てだもん。似合わないわけないでしょ」
「まぁな。……その簪、あいつからだろ」
「うん、昇進祝いだってさ。そんなことまでよく分かるね」
「嫌味なほどお前を引き立てつつ、適度に存在感を醸し出す。そんな目利きが出来るのは、あいつしか居ないからな」
「御職を張り通すだけはあるよね」
感心混じりに言う朱理を、黒蔓は横目に睨んだ。
「満更でもない顔しやがって、腹立つな」
「なに言ってんの。簪なんて幾つも貰ったけど、指輪は貴方にしか貰ったことないよ」
「嘘つけ」
「本当だよ。そんなモノほいほい受け取るほど馬鹿じゃないんだからね、俺」
「知ってる」
互いに正面を向いたまま、指先を絡めて繋いだ。公衆の面前でありながら死角になる所で触れ合う。小声で甘い軽口を交わしながら。そんな禁秘を孕んだ遣り取りがこの上ない多幸感を呼び、朱理の心を掴んで離さない。
黒蔓とこんなことをするようになったのはいつからだったか、と思考を巡らせた。
最初に求めたのは自分だった。一度きりでも良いと思い、願った。それから幾度、肌を合わせて睦言を交わしてきただろう。
誰にも知られてはいけない蜜月は、もう長いあいだ続いているのだ。
吉原では新造が客を取るようになる際、突き出しと呼ばれる儀式を行う。通常は見世が信用ある馴染み客の中から相手を選ぶが、万華郷では上手と下手の新造から二人一組を選定する。そうすると上下同時に儀式を終えられるため、余分な手間と負担を減らせるからだ。他の妓楼には無い制度ゆえの様式である。
そして、万華郷には間夫を作る者がほとんどいない。間夫とは娼妓の恋人のことだ。
ここに従事する娼妓は、突き出し相手とそのまま恋人になる者と、特定の相手を作らない者とに別れる場合が多い。見世で最初に身体の関係を持つ突き出し相手は、互いに深層心理で意識し合い、友人以上恋人未満のような、微妙な距離感が生じるのだ。
間夫ができると、切っても切り離せないのが身上がりだ。娼妓が自分で揚代を払い、休みを取ることで、主に遊女が間夫と密会する時に使われる手段である。妓楼の揉め事は間夫による物が圧倒的に多く、商品である娼妓に頻繁に身上がりされては見世側も風評被害を被り、品位に差し障る。
それが同じ廓内で完結すれば損失は軽減され、もし揉めても内々に処理できるため、見世と娼妓の体裁が守られるのだ。万華郷独自の突き出し方法は、客から間夫を作らせない防止措置の役も担っているわけである。
朱理の突き出し相手は陸奥だった。だが、この二人はその一度しか関係していない。陸奥は突き出し前から惚れ込んでいたが、朱理が応えることはなかった。朱理は出逢った時から黒蔓に惹かれていたのだ。
黒蔓も同様に、自ら引き込んだ朱理をどの娼妓より可愛がり、可能な限りの自由を許していた。突き出しが決まった時、彼の負担を少しでも軽くしてやりたい一心で、せめて相手くらいは選ばせてやろうと考え、問うた。
〝選んで良いのなら……黒蔓さんが良い〟
しかし、いくら叶えてやりたくても、突き出し相手が遣手というわけにはいかなかった。楼主や遣手はもちろん、見世の従業員と娼妓が関係を持つことは、妓楼の掟で固く禁じられている。黒蔓は悩んだ末、内密にすること、正式に定められた上手と突き出しを行うことのふたつを条件に、朱理の願いを聞き入れた。それから今に至るまで、二人の関係は続いている。
20時。上手太夫らの演武もとどこおりなく終わり、網代が締めの挨拶をして宴は御開きとなった。格子太夫と新造が客を見送りに行き、太夫らも退席を始める。楼主と遣手も見送りに参加するため、黒蔓はひと足先に桟敷を出ていた。
帰る人の流れをぼんやり見ていた朱理の肩が、ぽんと叩かれる。
「お疲れ、朱理。今夜は一段と凄い気迫だったぞ」
「これから忙しくなるねぇ。今夜はゆっくり休みなよ」
「あーあ、せっかく夜這いに行こうと思ってたのに、朝までがっつり客入れられてんの。つまんねー」
鶴城、棕櫚、陸奥がそれぞれ慰労の言葉を掛けてきた。着飾った美丈夫が雁首を揃えると、朱理ですら気圧される。
「おお、ありがと。そっちも演武、格好良かったよ。今から仕事?」
「そ。お前のお陰で、予約は軒並みパンパンだよ」
「五つくらい身体欲しいよ。明け方になると眠くてさぁ、たまに話しながら落ちるんだよね」
「ウケる。言ってることおっさんじゃん、棕櫚。そろそろ年季明けじゃね?」
「ひどっ! 二歳しか違わないくせに!」
「てか、忙しいのはこのド派手な宴会のせいでしょ。だから嫌いなんだよ」
「可笑しいよなぁ。一生に一度の晴れ舞台を、浪費は辞めろって楼主に言い放ったんだぜ? この子」
棕櫚とじゃれ合いながら愚痴る朱理に、陸奥が呆れた声を上げた。
「まじかよ! 初めて見たわ、そんな太夫!」
「ま、らしいっちゃらしいけどねぇ。使う時は天井知らずなくせに、妙な所で倹約家っていうか、貧乏性っていうか」
「棕櫚、それほぼ悪口だぞ。別に節約したいわけじゃなくてさ。表舞台に引っ張り出されるのが面倒ってのと、煙草吸えないのが厭なの」
「お前のズボラは筋金入りだな、まったく。そんなんじゃ、新造かかえた時にどんな子が出来るか恐ろしいぜ」
苦笑する鶴城に、朱理はにやりと口角を上げて流し目を寄越した。
「心配ご無用だ。太夫になる条件に、何があっても新造付けないって約束させたからな」
「うそ、まじで⁉︎」
「この遣手転がしめ。鬼の黒蔓のアキレス腱は、間違いなくお前だな」
「おい、辞めとけお前ら。あの人、何処で聞いてるか分からないぞ」
「そうだなぁ鶴城。お前が俺に対してどんな感情を持ってるか、明確に理解したわ」
鶴城の背後から響いたよく通る声に、場の空気が秒で凍り付いた。
「く、黒蔓さん……ッ!?」
「どうした、お前ら。鬼にでも出会したようなツラして」
「いやいやいや、そんな! さ、さっきのはただの冗談ですから!」
「……いつからそこに……」
「遣手転がしめ、あたりからじゃない?」
顔面蒼白の鶴城と冷や汗を浮かべる棕櫚へ、あっけらかんと答える朱理。呆れ顔の陸奥は、だから言ったのにと嘆息している。
「良い機会だ。太夫の折檻でも晒しゃあ、今の悟りきった新造どもも少しは気合い入るよなぁ。お前も弟たちの鑑になれて光栄だろ。なぁ、鶴城?」
くく、と喉の奥で嗤いながら隻眼を細め、紫煙を吐く。これぞ皆が恐れる真の姿、鬼の黒蔓の真骨頂である。
「え、えーっと……俺ら、そろそろ行かないと! お客様がいらっしゃる時間だね!」
「ふあーあ、早起きしたから眠いぜー。鶴城ー、さっさと行くぞー」
「朱理ぃ! フォローしといてくれぇ!」
陸奥に引き摺られていく鶴城に対し、爽やかな笑顔で手を振る朱理も充分、鬼畜であった。鶴城達の姿がすっかり見えなくなると、先ほどとは打って変わった優しい声が掛かる。
「未だ戻ってなかったのか、身体が冷えるぞ。お前、寒いの苦手だろ」
「なんかさ、祭りの終わりって不思議な気分にならない? 夏の終わりみたいな、名残惜しい感じ。だから俺、子どもの頃から屋台の片付けとかずっと見ちゃうんだよね」
「お前らしい感傷だな。映画館だとエンドロール終わるまで席立たないタイプだろ」
「わぁ凄い、よく分かるね」
「遣手舐めんな。まあ……俺も同じだしな……」
ざあっと強く風が吹く。風音に紛れるような呟きだったが、黒蔓の言葉はしっかりと朱理の耳朶へ染み入った。
「……もう、こんな所でそんなこと言うなんて狡いよ。なにも出来ないじゃん……」
舞い散る早咲きの桜が美しくて。そっぽを向く、少し赤らんだ頬が愛おしくて。今すぐ抱きしめたくて、出来なくて。狂おしいほど切ないのだ。それはまるで宴の終わりのようで、涙が出そうになった。
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