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第9案【駆け抜けてみせましょう】
前編
しおりを挟む……結局、一睡もできなかった。
あの後。井合課長は俺から視線を外し、コンビニのレジ袋もそのままに、帰宅してしまったのだ。
……それも、当然だろう。井合課長からしたら、やる気を見せていた俺が突然、手のひらを返したのだから。
きっと、俺に呆れてしまっただろう。落胆、したのだ。
『──俺様は、馬鹿だな』
好きな人からあんなことを言われて、俺はどうしたらいい?
どうするのが、正解なのか。……誰か、教えてくれ。
それでも、現実は非情だ。俺の理解も、心の整理も待たずに、時間を進めるのだから。
就業時間ギリギリに出社すると、事務所内に井合課長の姿が、見えない。
辺りを見回していると、職員に声を掛けられた。
「鳴戸さん、おはようございます」
「あ……っ。……おはよう、ございます」
「あれ? 鳴戸さんって、クマとかありましたっけ? 寝不足ですか?」
「え、あぁ。……そんな感じ、です。……あの、井合課長は?」
曖昧に返事をして、俺は気になっていたことを口にする。
俺の問いに答えたのは、別の職員だった。
「あっ、鳴戸君! 井合課長から伝言だよ!」
「えっ? あの人から、伝言ですか?」
「そう、伝言。『会議室で待っているからな』だってさ。今日の会議って、鳴戸君も出席するやつだったんだね」
会議が始まるのは、一時間後だ。どうして既に井合課長が会議室へ向かっているのかは分からないけれど、それよりももっと分からないことがある。
……『待っている』だって?
いったい俺は、どんな顔で会議に出席したらいいのだろう?
井合課長は、俺を見限ったはずだ。そうなるよう、俺が動いてしまったのだから。
それなのに、言い渡された伝言が正しいのならば。井合課長は『鳴戸は会議に出席する』と思っているらしい。
商品の企画データは、白紙。それでいてやる気を失った俺を、井合課長は待っている。
それなら、昨日の発言はなんだったのだろう。
井合課長は、切り札として俺を選んだ。課長職以上の職員を油断させて、形勢逆転を狙っていた。
だけど俺に呆れ、落胆し、嫌味のように呟いていたじゃないか。『俺様は、馬鹿だな』と。
そこで不意に、出会った頃を思い出す。
井合課長は笑みを浮かべて、こう言ってくれた。
『信じてやるのが、俺様の役目だろう? お前は、自分のことだけを考えていればいいのさ!』
胸の中に、すとんと。とある可能性が、落ちてくる。
昨日の呟きは、本当に【俺を見限ったもの】だったのか?
……いいや、違う。あれは【俺を選んだのが間違いだった】と。そういう意味合いの言葉じゃ、ない。
──あれは、きっと……っ。
『──【お前を信じている】俺様は、馬鹿だな』
俺は慌てて、デスクへと走り出した。
パソコンの電源を付け、急いで文書作成ソフトの画面を開く。
会議が始まるまで、残り一時間しか──。……いいや。一時間も、ある。
井合課長から貰った職員の性に関する情報を眺めながら、俺はキーボードを叩き始めた。
今日の会議で、例の会社との提携がもう一度締結された時。……増江課長は、井合課長に感謝するのだろうか。
仮に、感謝したとして……その後二人は、どうなってしまうだろう。
──そんなの、今は些事だ。
俺はただ、目の前に広がる白いページを、真っ黒に染めることだけ考えたらいいのだから。
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