マチエール

カマンベール

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24話 白

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「先輩が高文展までお互いのこと秘密にしようっていうから、こんなことになったんじゃないですか?」

「絵描くの邪魔したくなかったんだよ。有名人だって知ったら驚かせるし。そっちが俺のことなんも聞いてこないから、俺に興味ないんだろうなーとも思ったし。」

「先輩が有名人…?」

「自分で言うの恥ずかしいけど有名人なんだから仕方ないだろ」

「そんな配慮するほど有名じゃなくないですか?俺の両親も八王子レオって名前も知らなかったし」

他人の目を気にせず先輩らしく自由にしていいのに、という思いやりを持った気持ちで伝えたが、レオは見下されていると感じて苛立ちが頂点に達した。

ガタッと立ち上がり、その勢いで椅子は倒れたまま。大翔の前までやってきた。

「…お前の絵だって知ってたら買わなかったのに」

「…え」

「俺アホじゃん。6万もだして、ヘラヘラとラインして」

(個人でやり取りすれば大翔の取り分100%にできたのに)

その態度を見て大翔は気付いた。

そういうことか。未来ある若き画家に投資したつもりが、近くにいるアホな後輩の絵だったから失望しているのか。

「遊び心のある自由なNakamitsu Taishiが好きなのに、俺の絵の上手いだろ~て顔で描き込んでる中光大翔は好きじゃない。同じ人間の絵だと思えないな」

そういって大翔の後ろにある、つつじの花の絵を見下ろした。

大翔はその言葉を聞いた瞬間にカッと顔が赤くなったし、冷や汗も出た。

絵が上手いと思われたくて、すごいと思われたくて描いていることがバレている。

描くことが好きんじゃなくて、何かを表現したいんじゃなくて、自分の画力を見せびらかすための作品だと、この顧客は気づいている。

「これは…高校生を対象にした展示会だから…アザミで展示したような絵は向いてないと思って…」  

思わず言い訳をしてしまったが、言えば言うほど自分が苦しい。

「抽象画はダメってルールあった?好きなものだろテーマは。この赤い花にそんな感情があると思えない。俺でも簡単に見抜くんだから審査員を騙せるわけない」

(騙したいわけでは…いや、騙したかったのか…)

昔から、ちょっと描き込めば、ちょっとリアルに描けば、すぐに賞がもらえた。でもそれは大賞ではなかった。

大賞にいるのは、誰もが目を引く圧倒的なエネルギーのある絵。小手先のテクニックでは太刀打ちできない。絵が上手い下手ではない、カリスマ性、人を魅了するかどうかの世界。

大翔は感動するほどの緻密な絵は描けない、でもセンスが煌めく絵も描けない。大人達は何も言わないが、それに気づいている。幼き男子の努力を評価しているだけで、彼の絵が持つ魅力を評価したわけではないのだ。

(みんな…騙されてると…思わせてくれただけ…)

大翔の肩がプルプル震える。彼の曲がった膝に水滴が落ちた。

「えっ」と言ってレオが顔を覗き込む。

大翔の瞳は水がいっぱい溜まり、それは決壊して瞳の真ん中からポタ、ポタと水滴が落ちた。蛇口から水滴が落ちるように。一直線に、一粒ずつ、ゆっくりと。

「嘘泣き…?」

あまりにもキレイに泣くのでレオは疑った。俳優さんが目薬を目に溜めて演技しているようだから。

閉じた膝に手を当てて、下を向き続ける大翔の顔は赤くもならず、ただただ、ポタポタと目から涙が落ちるだけだった。

レオは髪を触りながら天を仰いだ。

「…ごめん、言い過ぎた」

その声と同時にの視界が塞がれた。

レオは背中を丸めて、椅子ごと包むように、大翔を抱きしめた。

大翔の細い目が少し開き、また涙がこぼれる。

2度目のハグ。今回のハグは押しつぶされそうな強さはなく、綿菓子のように、雲のように、優しく包みこまれている。

(…俺、こんなときでも変な気持ちになる)

大翔は絶望した。頭の奥と腹の奥がジンジンする、レオといるのきにしか、レオのことを考えるときにしか感じない濁流のような熱風が全身を走っているから。

ベタベタする髪からは整髪料の匂いがした。シャツからは柔軟剤の匂い。白くて太い筋のある作りたての生クリームのようになめらかな首からは甘い香水の匂いがする。

いろんな種類の匂いが混ざり、八王子レオの匂いができる。この匂いは八王子レオの存在感を立体的で具現化するもので大翔を狂わせる。

雨を処理できないダムは決壊する。荷物を入れすぎた段ボールを持ち上げれば底が抜ける。

自分のキャパシティよりも大きいものが、断っても断っても、入って来たらどうなるか?

断りきれなかった時点で結果は決まっている。箱は壊れてしまうのだ。大翔の箱は壊れた。壊れた箱はもう、元には戻れない。


自分の目の前にあるの白い肌だけ。目を開ければ、それとは近すぎて焦点が合わない。

顔の角度を少し変えれば、鼻も唇も彼の皮膚に接触できる。

大翔は硬く閉ざされた唇に隙間を開け、顎の関節は大きく開かれた。


「痛…!!」

美術室内に響き渡るレオの一言。彼は丸めた背中を真っ直ぐにし、首に手を置いた。

「今…噛んだ…?」

大翔はびっくりした顔でレオを見上げていた。

「え?」

「は?」

レオの首元はピンク色の歯型が、上前歯と下前歯の跡がついていた。

大翔の頬が赤くなり、涙がこぼれる。

「先輩…ほんどに帰ってくだざい、俺、締めぎりやばいんでずっで」

大翔の目は涙は出ているが、初めて会ったときのようにキッとして睨んでいた。

レオの脳内には、メソメソしているレッサーパンダと、威嚇しているレッサーパンダの2種類の顔が浮かんでいた。

大翔はレオのスクールバッグの取っ手の間に、紙袋をぐちゃっとのせ、それを押し付けた。

「おい、ちょっと、大翔…お前…っ」

さらにレオの背中を押して外に追いやり、内側から鍵をかけた。

レオは抵抗せずに素直に従った。高文展終わったら連絡するからな!!と言い残し、首元を押さえながら首を傾げて廊下を歩いた。

静まり返った室内では、って大翔の泣き声だけ響いた。椅子に座った大翔は真っ直ぐに自分の絵と向かい合う。涙も鼻水も流れっぱなしでヒックヒック音を出しながら。

立ち上がり、画材カバンに手を入れる。大きな白のチューブを取り出し、蓋をパチンと開けた。

絵の具はパレットに行かず、キャンバスに直接当てられた。

握りつぶすかのように、グッとチューブを握った。

キャンバスに波のように乗せた絵の具に右手の平をベタッとつける。指先から手首まで、全てが白で埋まったその手で、何回も何往復もキャンバスを撫でた。

赤に染まっていたキャンバスは、八王子レオの首筋のように真っ白になった。

白く、もっと白く。元の絵は姿も形も見えない。

大翔は手を洗い、エプロンをリュックに詰め込む。そのリュックを担いで美術室を後にした。



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