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11話 ペンハリガン
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全国高等学校総合文化展(通称 全高文展)
毎年7月に全国から選ばれた美術部、写真部の作品が東京都美術館に展示される大きな展示会だ。
6月に都道府県ごとに高等学校総合文化展(通称 高文展)が開始され、こから選ばれた数作品だけが、全国に進むことができる。
全高文展で大賞を取った人の中で、特に有名なアーティストといえば、イギリス人のペイン・霧だ。彼の描く立体的で空想的な絵本は、美術界では国際的に知られている。その世界観から、現代のダリとも言われている。
現在、5月。
美術部の大翔と湊は放課後の美術室で、ひたすら作品づくりに没頭していた。
ほかにも10数名の部員が机やイーゼルに自分の絵を並べ、己と向き合っていた。
美術部の活動は火・木のみだが、自由に出入りができるので、美術部の生徒たちは自主的に活動している。
高文展の締め切りまで1ヶ月をきり、火・木以外にも部室に顔を出す生徒が増えた。
すぐ隣にある写真部も高文展に出展する。元々、写真部の活動は月1回あるかないか。今日も隣からは物音一つ聞こえてこない。
大翔は白いTシャツに、白線が2本入ったオレンジのジャージを履いていた。
紺色のエプロンをして、イーゼルにかけたA1サイズの水張りされたキャンバスに筆を走らせる。
窓際にあるシンクで湊が筆を洗っている。湊は薄水色のシャツの袖をまくり、制服を着たまま白いエプロンをしている。
「うっ…」
うめき声が聞こえ、大翔は振り向いた。シンクの前で片膝を震えている湊の後ろがあった。
「え?どしたん?」
思わず大翔は湊の横に駆け寄った。
「いや、ちょっと…古傷が傷んで…」
そう言って湊はポケットからフリスクのケースを出した。一粒だして、ガリっと噛んだ。
「フリスク…?」
「あ、これ痛み止め。ケースはフリスクだけど」
「え?痛み止めって噛んでいいん?水で飲むんじゃないん?」
湊は苦しそうに二カッと笑いながら話した。
「痛い方の奥歯で噛むとよく効くんだよ~」
「奥歯?歯が痛いの?」
「うん。虫歯ではないよ。昔治療した歯だから」
「いや、虫歯じゃん。被せ物の下から虫歯になることあるって聞いたけど」
「は???じゃあ何のために治療したの??」
「歯医者行けよ普通に」
「いや、もう10年は行ってないけど、今までトラブルなかったから大丈夫」
「今、トラブルになってるじゃん。10年大丈夫だから、ずっと大丈夫って何理論?」
大翔はあまりにも正論を言い過ぎた。生まれてこの方、虫歯になったことのない彼には逃げても逃げても追ってくる虫歯の恐怖を知らないのだ。
湊の言っていることは支離滅裂に聞こえるが、虫歯治療をしたものは何故か虫歯の痛さより治療の怖さのほうが勝ってしまう。都合のいい解釈をして、なんとか歯医者に行かないようにしてしまうのだ。
大翔は無言で部室を出てた。扉の外からは電話する声が聞こえる。
「千鶴、俺らが通ってる歯医者ってなんて名前だっけ?蜂の王子様クリニック?あ~。ありがと。」
「もしもし、いつもお世話になってる中光大翔です。僕ではなくて友達なんですけど、歯が痛いらしくて。本人は嫌がってますが、連れていきますので、見れる日って…今日の16時いけるんですか?ちょっと待ってバスの時間…あっ行けます!じゃあ今から行きます」
湊は荷物をまとめて逃げようとした。
他の部員が湊の腕を掴んだ。
「歯は自然治癒力ないから…」
「がんばれ!削られてこい!」
「抜かれませんよ~に☆」
湊は涙目だった。
「先輩ひどい…他人事だと思って…嫌だ…歯医者嫌だ…!」
大翔が部室内に戻りバタバタと自分と湊の画材を片付け始める。
「先輩ありがとうございます!湊、俺が片付け終わるまで逃げるなよ」
美術部からは珍しく大きな音が聞こえた
蜂の王子様クリニック
黒を基調にし黄金の蜂がモチーフの、住宅街にある町の歯医者さん。
待合室はシャンデリアに黒光りするソファー。受付の下にはスタッフの顔写真パネルが飾られている。
その横にはシャンパングラスに歯ブラシが何本も入れてあった。金色の総入れ歯も展示されている。
「どうみてもホストクラブなんだけど、ここ」
「それが歯医者なんだよな~」
「受け付けの人、キレイ過ぎてさらに緊張する」
湊は頬を押さえ痛そうな顔をしながら、俯いていた。
「内山湊さ~ん カウセリング室にどうぞ~」
黒髪で彫りの深い、女優さんのような顔をした受付の人が湊の名前を呼んだ。名札には『mio』と書かれている
「カウンセ…?」
「希望の治療とか最初に話し合いすんの。いってら~」
「大翔…帰らないで、待っててね…?」
「…もちろん」
大翔は呆れたようにクスッと笑った。
湊はいつもクールだと思ったけど、こんな一面もあったんだな、と。
大翔は小さいスケッチブックとシャーペンをオレンジジャージのポケットから出して、周りをキョロキョロと見渡した。
顔を左に向け、大きな窓から駐車場を眺める大翔。服装は部室にいるときと同じ、絵の具のついた白Tシャツとオレンジのジャージ。
駐車場の向こうには一軒家が建っている。
その家の外に、黒いキャップを深く被った大きい男がいた。
男は黒いTシャツに黒のパンツをはいている。配達員だと思うが、なんだか行動が不自然だ。
一軒家から蜂の王子様クリニックまで、重そうな段ボールを何個も何回も、往復して持ってきている。
ウィーン
ドンッ
大翔の後ろにある引き戸の向こうから、自動扉が開く音と、段ボールを雑に置く音が聞こえる。
左側の窓を見ると往復を繰り返した配達員は、暑そうに額を手で拭った。
そんなに重い荷物が何箱もあるのなら、入り口に車を横付けしてそこから運べばいいのに。
この配達員は、なぜ一軒家にある荷物を持ってくるのか。配達ミス?引っ越し屋さん?
男の顔は見えないが、不満たらたらなオーラが出ている気がした。そのわりにはテキパキ動いている。早く終わらせたいのだろう。
(この人…どんだけ段ボールもってくるんだ?)
大翔は配達員の行動が面白くて、シャーペンを持地ながら右手で口元を押さえた。魅力的な彼を描く手が止まらなかった。
身長は高い方で、がっしりとした肩幅。白い肌。キャップからは薄い茶色の毛先がはみ出ている。
(なんか見覚えあるような…)
カラカラ…
大翔の後ろにある引き戸が開く音がした。ペタペタとスリッパで歩く音が聞こえる。
大翔の横を通る。ふわっと甘くて重い、でも爽快感のある香りがした。ブランデーのようなバニラのような香り。
(あれ?この香水の匂い、何だっけ。)
前を見ると、さきほどの配達員の後ろ姿があった。受付に向かって真っ直ぐ歩いている。
(何かお酒っぽい匂いの香水だから、ドキドキした記憶だけあるんだけど…何があったんだっけ…)
大翔は配達員の後ろ姿を眺めながら記憶を辿った。
“めっちゃ俺の顔見るじゃん”
目と鼻の先でいたずらっぽく笑う茶色の目をした男。
その時に感じた香水とワックスと、後ろの方でデミグラスソースの残り香も混ざって…
(あっ…)
「ミオー。玄関に荷物全部置いといたから」
「ありがと~レオ。じゃあ1番奥の部屋までお願い」
「嘘だろ…?あれ、すっごい重いんだけど?」
「だから頼んでるんじゃん」
「たまに実家来たらこれだよ…」
レオと呼ばれた男性は、受付を背にして、玄関に向かって歩き始めた。キャップを取り、顔の汗をパタパタと仰ぐ。
日焼け止め塗り直してねぇ…と小言を言っていた。
ふと横を見ると、顔を両手で押さえて前かがみになっている患者がいた。
隣の椅子には小さいスケッチブックとシャーペンが置かれている。
スケッチブックには名前が描かれていた。“中光 大翔”(なかみつ たいし)と。レオはその名前にはよく見覚えがある。保健室でたくさん話した、黄色のサンダルを履いた後輩と同じ名前だから。
(ちゅうこう だいしょう…?)
レオは足を止めて、顔を隠している男の頭頂部を上から見下ろした。
毎年7月に全国から選ばれた美術部、写真部の作品が東京都美術館に展示される大きな展示会だ。
6月に都道府県ごとに高等学校総合文化展(通称 高文展)が開始され、こから選ばれた数作品だけが、全国に進むことができる。
全高文展で大賞を取った人の中で、特に有名なアーティストといえば、イギリス人のペイン・霧だ。彼の描く立体的で空想的な絵本は、美術界では国際的に知られている。その世界観から、現代のダリとも言われている。
現在、5月。
美術部の大翔と湊は放課後の美術室で、ひたすら作品づくりに没頭していた。
ほかにも10数名の部員が机やイーゼルに自分の絵を並べ、己と向き合っていた。
美術部の活動は火・木のみだが、自由に出入りができるので、美術部の生徒たちは自主的に活動している。
高文展の締め切りまで1ヶ月をきり、火・木以外にも部室に顔を出す生徒が増えた。
すぐ隣にある写真部も高文展に出展する。元々、写真部の活動は月1回あるかないか。今日も隣からは物音一つ聞こえてこない。
大翔は白いTシャツに、白線が2本入ったオレンジのジャージを履いていた。
紺色のエプロンをして、イーゼルにかけたA1サイズの水張りされたキャンバスに筆を走らせる。
窓際にあるシンクで湊が筆を洗っている。湊は薄水色のシャツの袖をまくり、制服を着たまま白いエプロンをしている。
「うっ…」
うめき声が聞こえ、大翔は振り向いた。シンクの前で片膝を震えている湊の後ろがあった。
「え?どしたん?」
思わず大翔は湊の横に駆け寄った。
「いや、ちょっと…古傷が傷んで…」
そう言って湊はポケットからフリスクのケースを出した。一粒だして、ガリっと噛んだ。
「フリスク…?」
「あ、これ痛み止め。ケースはフリスクだけど」
「え?痛み止めって噛んでいいん?水で飲むんじゃないん?」
湊は苦しそうに二カッと笑いながら話した。
「痛い方の奥歯で噛むとよく効くんだよ~」
「奥歯?歯が痛いの?」
「うん。虫歯ではないよ。昔治療した歯だから」
「いや、虫歯じゃん。被せ物の下から虫歯になることあるって聞いたけど」
「は???じゃあ何のために治療したの??」
「歯医者行けよ普通に」
「いや、もう10年は行ってないけど、今までトラブルなかったから大丈夫」
「今、トラブルになってるじゃん。10年大丈夫だから、ずっと大丈夫って何理論?」
大翔はあまりにも正論を言い過ぎた。生まれてこの方、虫歯になったことのない彼には逃げても逃げても追ってくる虫歯の恐怖を知らないのだ。
湊の言っていることは支離滅裂に聞こえるが、虫歯治療をしたものは何故か虫歯の痛さより治療の怖さのほうが勝ってしまう。都合のいい解釈をして、なんとか歯医者に行かないようにしてしまうのだ。
大翔は無言で部室を出てた。扉の外からは電話する声が聞こえる。
「千鶴、俺らが通ってる歯医者ってなんて名前だっけ?蜂の王子様クリニック?あ~。ありがと。」
「もしもし、いつもお世話になってる中光大翔です。僕ではなくて友達なんですけど、歯が痛いらしくて。本人は嫌がってますが、連れていきますので、見れる日って…今日の16時いけるんですか?ちょっと待ってバスの時間…あっ行けます!じゃあ今から行きます」
湊は荷物をまとめて逃げようとした。
他の部員が湊の腕を掴んだ。
「歯は自然治癒力ないから…」
「がんばれ!削られてこい!」
「抜かれませんよ~に☆」
湊は涙目だった。
「先輩ひどい…他人事だと思って…嫌だ…歯医者嫌だ…!」
大翔が部室内に戻りバタバタと自分と湊の画材を片付け始める。
「先輩ありがとうございます!湊、俺が片付け終わるまで逃げるなよ」
美術部からは珍しく大きな音が聞こえた
蜂の王子様クリニック
黒を基調にし黄金の蜂がモチーフの、住宅街にある町の歯医者さん。
待合室はシャンデリアに黒光りするソファー。受付の下にはスタッフの顔写真パネルが飾られている。
その横にはシャンパングラスに歯ブラシが何本も入れてあった。金色の総入れ歯も展示されている。
「どうみてもホストクラブなんだけど、ここ」
「それが歯医者なんだよな~」
「受け付けの人、キレイ過ぎてさらに緊張する」
湊は頬を押さえ痛そうな顔をしながら、俯いていた。
「内山湊さ~ん カウセリング室にどうぞ~」
黒髪で彫りの深い、女優さんのような顔をした受付の人が湊の名前を呼んだ。名札には『mio』と書かれている
「カウンセ…?」
「希望の治療とか最初に話し合いすんの。いってら~」
「大翔…帰らないで、待っててね…?」
「…もちろん」
大翔は呆れたようにクスッと笑った。
湊はいつもクールだと思ったけど、こんな一面もあったんだな、と。
大翔は小さいスケッチブックとシャーペンをオレンジジャージのポケットから出して、周りをキョロキョロと見渡した。
顔を左に向け、大きな窓から駐車場を眺める大翔。服装は部室にいるときと同じ、絵の具のついた白Tシャツとオレンジのジャージ。
駐車場の向こうには一軒家が建っている。
その家の外に、黒いキャップを深く被った大きい男がいた。
男は黒いTシャツに黒のパンツをはいている。配達員だと思うが、なんだか行動が不自然だ。
一軒家から蜂の王子様クリニックまで、重そうな段ボールを何個も何回も、往復して持ってきている。
ウィーン
ドンッ
大翔の後ろにある引き戸の向こうから、自動扉が開く音と、段ボールを雑に置く音が聞こえる。
左側の窓を見ると往復を繰り返した配達員は、暑そうに額を手で拭った。
そんなに重い荷物が何箱もあるのなら、入り口に車を横付けしてそこから運べばいいのに。
この配達員は、なぜ一軒家にある荷物を持ってくるのか。配達ミス?引っ越し屋さん?
男の顔は見えないが、不満たらたらなオーラが出ている気がした。そのわりにはテキパキ動いている。早く終わらせたいのだろう。
(この人…どんだけ段ボールもってくるんだ?)
大翔は配達員の行動が面白くて、シャーペンを持地ながら右手で口元を押さえた。魅力的な彼を描く手が止まらなかった。
身長は高い方で、がっしりとした肩幅。白い肌。キャップからは薄い茶色の毛先がはみ出ている。
(なんか見覚えあるような…)
カラカラ…
大翔の後ろにある引き戸が開く音がした。ペタペタとスリッパで歩く音が聞こえる。
大翔の横を通る。ふわっと甘くて重い、でも爽快感のある香りがした。ブランデーのようなバニラのような香り。
(あれ?この香水の匂い、何だっけ。)
前を見ると、さきほどの配達員の後ろ姿があった。受付に向かって真っ直ぐ歩いている。
(何かお酒っぽい匂いの香水だから、ドキドキした記憶だけあるんだけど…何があったんだっけ…)
大翔は配達員の後ろ姿を眺めながら記憶を辿った。
“めっちゃ俺の顔見るじゃん”
目と鼻の先でいたずらっぽく笑う茶色の目をした男。
その時に感じた香水とワックスと、後ろの方でデミグラスソースの残り香も混ざって…
(あっ…)
「ミオー。玄関に荷物全部置いといたから」
「ありがと~レオ。じゃあ1番奥の部屋までお願い」
「嘘だろ…?あれ、すっごい重いんだけど?」
「だから頼んでるんじゃん」
「たまに実家来たらこれだよ…」
レオと呼ばれた男性は、受付を背にして、玄関に向かって歩き始めた。キャップを取り、顔の汗をパタパタと仰ぐ。
日焼け止め塗り直してねぇ…と小言を言っていた。
ふと横を見ると、顔を両手で押さえて前かがみになっている患者がいた。
隣の椅子には小さいスケッチブックとシャーペンが置かれている。
スケッチブックには名前が描かれていた。“中光 大翔”(なかみつ たいし)と。レオはその名前にはよく見覚えがある。保健室でたくさん話した、黄色のサンダルを履いた後輩と同じ名前だから。
(ちゅうこう だいしょう…?)
レオは足を止めて、顔を隠している男の頭頂部を上から見下ろした。
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