父が腐男子で困ってます!

あさみ

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4・お見合いサイコパス

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「実は父さん、お見合いしようと思う」
「え?」

見合い。見合い?
動揺して言葉が出なかったが、ようやく了は口を開く。

「相手は男の人?」
「は? 何を言ってんだ!? 父さんは腐男子であって男が好きなワケではない! 美女が好きなんだ! 美女が大大大好きなんだ!」
「恥ずかしいから美女とか大声で言うのやめてくれる?」
ご近所に会話を聞かれたら、生きていけない。
「じゃあ、腐男子を声を大にして言おう!」
「どっちもダメだよ!」
突っ込み疲れる。

「それで何? 父さんは美女と見合いするの?」
「その通りだ」

冷静になって考える。
父が見合いをする。つまり自分に母親が新たに出来るという事だ。
自分の事はひとまず置いておいて、宗親の再婚に反対する気はなかった。
父はまだ若いし、それに男前だ。
恋愛するのは当然だとも、良い事だとも思えた。

「お見合い、良いんじゃないかな? 俺反対しないよ」
いつも自分勝手な父親だが、こうやって先に聞いてきてくれるのだから、息子の事を何より考えてくれているのだろうと感じた。
「じゃあ、早速写真を見てもらおう」
宗親は机の下から大きな見合い写真を持ち出した。
「おお、ドラマでよく見るヤツだ」
本物の見合い写真にテンションが何故か上がった。
開いてみると清楚な雰囲気の美女が写っていた。

「うわ、綺麗な人!」
つい声が大きくなった。それ位の美人だった。
髪は肩の下位の長さのストレートで、色白で小さな顔をしていた。
着物ではなく、ワンピースのような服を着ているが、笑顔から性格の朗らかさが伝わるようだった。
つい胸が高鳴る。
こんな人がお母さんになったら、毎日癒されそう。

「ちなみにこっちの写真がメインだ」
普通サイズの写真が何枚かテーブルに置かれた。
「見る見る」
美人の写真にテンションが上がっていた。
この人と宗親なら並んで歩いたらお似合いだろうと思う。

次の写真は水族館で撮った写真のようで、後ろにたくさんの魚が泳ぐ水槽が写っていた。
先程の写真よりも笑顔がイキイキとしていた。誰が撮ったんだろうかと思いながら次を見た。
「え?」
先ほどと同じ場所に、美女ではなく美少年が立っていた。
どう見てもさっきの写真とセットで、お互いを撮り合った写真に見える。
次を見た。またも今の美少年だった。
今度は紫色のネクタイを締め、ブレザーの制服を着ていた。多分どこかの私立高校で、入学式に撮ったものだろう。
少年は穏やかそうな笑顔で微笑んでいる。
おそらく彼は、この見合い相手の息子なんだろう。色白で優雅な雰囲気がとても似ている。

「どうだ? お前のお兄さんになる人だ」
「え、もう決定なの?」
ドキドキしながら聞いた。
「いや、そうなったら最高だと俺は思っている。知り合いから見合い写真を渡されたが、彼が一番の美形だった。いやもうすっごい父さん好みの攻だと思った! 俺は学生カップルも好きだが兄弟モノのBLも大好物だ! お前が一つ屋根の下で、彼の事を兄と慕い暮らすなんて考えるだけで鼻血が出そうだ!」
了は写真の束を投げつけていた。
「見合いの目的、絶対こっちの息子だろ! この美女に失礼だと思わないのかよ!?」
「それは誤解だ、リョウ! 俺は好みの女性を選んだ後で、年頃の息子がいないかチェックしただけだ! お前と彼の仲はあくまでついでではあるんだ! でもついでだからって妥協はできないだろう! これは俺が見合い写真を何百も見た中で見つけた奇跡の親子なんだ! もはや運命の出会いだ!」
いつも以上に力説された。
というか、見合い写真そんなに厳選したのかよと突っ込みたい。

「父さんは彼女との新しい家族を作る事を前向きに考えているが、リョウは反対か?」
真剣なトーンで聞かれると、了は首を振るしかなくなる。
父親が恋愛をしたり、結婚したいという思いを邪魔したくない。
「……反対じゃないよ」
答えると宗親はニッコリと笑った。

「よし、じゃあ来週の日曜はお見合いだから、予定空けておくんだぞ。あ、服が必要なら買っても良いから」
「へ?」
急展開に目を見開く。
「え、なに? もう日程決まってんの? というか俺も参加なの?」
「当たり前だろう。家族になるかもしれない人達だ。それに家族全員で会う方が効率が良い」
行きたくない。と思ったがこの父親を一人で行かすのも不安だ。
それにちょっと新しいお母さんになるかもしれない人に興味もあった。
もちろん悪い人ではないと思うけど、父に合う人なのか確かめたい気持ちもある。
了はテーブルに投げられたままの写真を見つめた。
そこに写る美形の息子の事も、やはり少し気になっていた。




見合い当日がやってきた。
相手の女性の名前は藤森美姫さん。39歳という事だから、宗親の一つ上になる。
息子の名前は藤森紫苑18歳、高校3年との事だった。

着替えて一階に下りた了は、スーツ姿の宗親を見て一瞬息を止めた。
元々整った顔だが、スーツを着ている上に普段は下ろしている前髪を左半分だけ上げているのが新鮮で目を見張る。
「なんだ? お父さんが格好良くて見惚れてたか?」
「違う! そんなんじゃない! スーツの上着が暑そうって思っただけ! つーか6月だし暑くない?」
「出る時は脱ぐよ。でもホテルに着いたら冷房もあるだろうし、着てた方が良いだろ」
そういうモノなんだろうか。お見合いの常識はよく分からない。

了の方は黒いパンツに白いシャツという無難中の無難な格好だった。
「それ高校の夏服と何が違うんだ?」
「しいて言えば生地とか?」
主役でもない自分が何を着れば良いか、それこそ了には分からなかった。


駅からタクシーに乗り、予約しているホテルまで向かった。
ホテルはテレビでもよく見かける有名で高級そうな所だった。もちろん了が来るのは初めてだ。
立派な建物に腰が抜けそうになる。
本格的すぎる見合いだと思った。
見合いとは普通レベルがこうなんだろうか。それともこの豪華さが、宗親にとっての真剣さの現れなんだろうか。


予約してある個室に案内された了は、スタッフに椅子を引かれてドギマギしながら座る。
「すみません」
ついそう声に出したが普通は黙っているモノなんだろうか。
相手方はまだ来ていなかった。
緊張で胸が苦しかった。自分の見合いではないのに、どうしてこうも緊張するのか不思議だった。
ああ、テーブルに豪華な布のテーブルクロスが掛けられているとか、どうでも良い事が気になった。

待ち合わせ時間になると相手方の藤森親子が現れた。
やっぱり似ている親子だと思った。二人共穏やかな顔つきで、母親の美姫は笑顔が明るく眩しい。
立ち合いの仲人のような人物はいないようで、当人同士が挨拶しながらの食事会という感じだった。
いつもおかしな発言ばかりする宗親だったが、公の場ではそつがないように見えた。
「息子のリョウです」
と紹介された時は緊張で挨拶の声が上ずった。
藤森親子の視線を浴びて冷汗が出た。

おもに親たちがお互いの住む地域や仕事、子供の事を話しながら食事が進んだ。
了は美姫と紫苑の顔を見ながら、ほとんど会話できずにいた。
ここにいる意味があっただろうかと思ったが、普段食べない豪華なコース料理を食べにきたのだと割り切れば良いかと思った。
豪華な食事は食べなれないせいか、美味しいのかよく分からなかった。

食後のコーヒーが出た後で、紫苑が了に話しかけてきた。
「ホテルの庭に散歩に行かないかな?」
「え、あ」
ドギマギしたが、親達を二人きりにしようという事だと理解した。
それに庭に出たら、この部屋よりは緊張しないだろう。
了は荷物を置いたまま、部屋の外に出た。

廊下に出ると、紫苑は大きく深呼吸した後で、了に微笑んだ。
「はぁ、自分の事じゃないのに緊張したね」
その一言で紫苑に魅了されてしまった。
こちらの警戒心を解くのが上手い人だなと感じた。

「お見合いもだけど、こんな場所も慣れないから冷汗出ました」
「うん、俺も同じ。料理も美味しいのかよく分からなかった」
「俺もです! フランス料理って綺麗だけど、味がよくわからないっていうか」
「だよね。あ、ホテルの人に聞かれると困るから庭に出ようか」
促されて歩き出す。
初対面だというのに、その話しやすさにつられて、了は紫苑に心を開きだしていた。

ホテルの敷地内には美しく整備された日本庭園が広がっていた。
東京ドーム2個分位あるらしいから、食後の散歩には丁度良い。

森のように緑の木々が茂っていたので、初夏だというのに木陰は涼しかった。
歩道に沿って歩きながら、植えられた植物を了は眺めた。
微かに甘い香りがするのはクチナシだろうか。アジサイも咲いている。
そんな風に植物を見ると、剛輝と遊んでいた子供の頃を思い出した。

「さっき母が離婚した理由を話してたでしょ」
紫苑の声にアジサイから視線を向ける。
「性格の不一致なんて言ってたけど、本当は違うんだ」
穏やかに紫苑は話していた。
母親に似た端正な顔立ちと、年齢よりも落ち着いた雰囲気の人だった。
イケメンと言うより王子様という言葉が似合いそうだと考える。

「俺の父はT大出身の某銀行のアメリカ勤務なんだけどね、親族全部が勉強ができるエリートって感じなんだ。父は男三人兄弟の真ん中で、兄は○○企業グループの役職で、弟は弁護士。もちろん祖父も大企業の副社長でさ、そんな所に一般人の高卒の母が嫁いだんだ」
ドラマのような華麗なる一族に、了は言葉が出ない。○○企業なんて有名すぎて目眩がする。
「母はとにかく明るく綺麗な人だったんで、父の一目惚れで結婚までしてしまったんだけど、父の実家とは仲が悪くてね」
なんとなく分かる気がした。
自分が同じ立場ならいたたまれない。
「貴方はどこの大学だったの? ご両親はどこの会社にお勤め? みたいな感じでイヤミを言われてバカにされて、俺が中学の時についに離婚って事になったんだ。父がアメリカに行く話があったんで丁度良いって感じで、俺は母親についていったんだ」
「そう……なんですね」
「ごめんね、いきなりこんな話して。ただ母はすごく善良で明るくて、頑張ってたのに結婚自体は失敗しちゃったってだけだから、君達親子に気に入ってもらって、幸せになってもらえたら良いなって思ってるんだ」
「はい」
この人は母親思いの良い人なんだなと思った。

「俺は親の離婚理由とか聞いてないし、父はその……ちょっと変な人なんですけど、悪い人間じゃないんで……」
腐男子なのは初対面では言えないと、言葉を呑み込んだ。
「ああ、作家さんだもんね。作家って変わっている人も多いって聞くよね。でも丈夫だよ、俺も母さんも読書好きだし、ミステリーも読むよ」
気を遣わせてしまった。でも母さんという呼び方になった事で、紫苑も心を開いてきてくれているのかなと思った。

道なりに歩いていると、草むらから急に猫が現れた。茶トラでおそらく雄猫だ。
「猫だ、かわいい」
了はつい笑顔になり目線を合せようとしゃがみ込む。
敵意はないですよと思いを込めて、ゆっくり瞬き挨拶をしてみる。
猫は人に懐いているようで、すぐに了の足に擦りついてきた。
「ヤバイ、何この猫、すっごいかわいい!」
撫でて膝の上に乗せると、顔を寄せてすりすりとしてしまう。
「懐いてるな、ここで飼われてるのかな?」
了の呟きに紫苑が答える。
「ホテルで飼ってるなんて事はなさそうだけど、緑があるから近所から遊びに来てるのかもね」
猫を抱く了を、紫苑はしゃがんで覗きこんでくる。
「懐いててかわいいね」
「シオンさんも触ります?」
訊ねると、紫苑は微かに眉を顰めた。
「猫は大好きなんだけどさ、俺って動物に嫌われる性質みたいなんだよね」
「そうなんですか?」
意外だった。こんなに穏やかで優しい人なのに、動物とは相性が良くないんだろうか。
「えっと、嫌いじゃないんなら、はい」
了は抱っこしていた猫を紫苑の腕に移動させた。
紫苑は幸せそうに、愛おしそうに目を細めた。
猫の匂いを嗅ぐように、きゅっと抱きしめた瞬間、猫はミャっと鳴いて飛び降りた。
「あ……」
紫苑の腕が宙に浮く。
「また逃げられちゃった」
しょんぼりした顔の紫苑が不憫で少しかわいい。

「多分、力が強かったんだと思いますよ。かわいくて愛しくてぎゅってしたくなっても我慢して、そっと抱いてあげないと」
「ああ、そっか、そうなんだね。動物とか飼った事ないし、よく分かってなかったよ。教えてくれてありがとう」
「いいえ」
素直な人だなと思った。
お金持ちの家で育ったようだし、もしかすると一般人が知っている事を逆に知らないのかもしれない。

「動物に嫌われるって話したけど、動物園でもそうだったんだよね。俺が行くと動物はみんな逃げて小屋に隠れちゃうんだ」
「そんな事ってあります? 逆にすごい才能みたいですけど」
「あ、でも魚は大丈夫だったよ」
「魚ですか?」
「うん。魚は俺の事嫌いじゃないみたいだったから、母さんとも水族館に行ったりした」
それが見せられたあの写真なのかと納得した。
「小学校の時には金魚も飼ってたんだ。素手で触ると手の平の中でピクピク動いて、気持ち良いし、かわいかった。でも金魚ってすぐ死んじゃうんだね」
それ素手で触ったせいじゃないですかね!?
突っ込みたいのを必死に堪えた。

話しながら暫く歩くと、30センチ幅位の小さな川が流れていた。
「川まである!」
テンションが上がった了に紫苑が微笑む。
「このホテルの庭に滝があるんだよ」
「滝?」
「見に行こうか?」
「はい」
滝を目指して、二人で木々の間を進んだ。


広場のように開けた場所の先に大きな滝があった。
どうやらこの滝の前で結婚式の写真を撮るのが鉄板らしい。
記念写真の邪魔にならないように、人目ににつかない端っこに移動して水に近寄る。
人工の滝が勢いよく池に落ちていく。この池から続いて、先ほど見た川に繋がっているのだろう。

「水の側は涼しいですね。あ、携帯カバンに入れたままだった。写真撮れば良かった!」
この美しい人と滝を写真に収めたい気がしていた。
少しテンションが上がってはしゃぐ了に、紫苑は声をかける。
「足元が濡れているから、滑らないように気をつけて」
「大丈夫っ、えっ……」

バシャンと音を立てて、了は池の中に落ちていた。
幸い深さはなかったが、水飛沫で頭まで濡れてしまっていた。
「……」
「リョウ君! 大丈夫!?」
慌てた様子で、紫苑が片手を差し出す。その手を了はじっと見つめた。

今、確かに背中を押された。
紫苑以外、近くに人はいない。
紫苑に押されたんだという確信がある。でも紫苑は心配そうに了を見つめて、手を差し出している。
勘違いなんだろうか? 落ちそうになったのを支えてくれようとした?
でも背中には確かに押された感触があった。
「……ありがとうございます」
何も聞けずに紫苑の手を握って池から上がった。

濡れたせいで身体が冷えたのか、紫苑を疑う気持があるせいか、日が出ているのにとても寒く感じた。
「服もビショビショだね、ホテルの人に話して部屋を借りよう」
「え?」
意外な言葉に面食らう。
「いや、父さんの所に戻れば……」
「大事なお見合いをトラブルで邪魔したくないんだ。それにお金なら心配しないで。さっきも言ったように父方の親戚はお金持ちだから、うちは母子家庭だけどお金に不自由はしていないんだ。俺に関しては無限にお金を出してもらえるから安心して。カードもあるし」
お金の問題でもないとは思ったが、実際濡れた服はどうにかしたかった。

紫苑はホテルのスタッフに池に落ちた事を説明し、部屋を用意してもらっていた。
泊りではないのに特別に使わせてもらえるらしい。

案内された部屋に着くと、紫苑に浴衣を渡された。
「服は脱いだらホテル内のクリーニングに出してもらえるって。すぐに終わるらしいからシャワーが済んだら、部屋で浴衣着て待ってれば良いって」
「すげー! 高級ホテルすげー!」
つい興奮してしまった。
「脱いだ服は俺が渡してくるから、バスルームの洗面台に置いておいてよ。あと、母さんたちの様子も一回見てくる」
「いろいろ有難うございます!」
紫苑の気遣いに、やっぱり押されたのは勘違いなのかと思えてきた。


シャワーを浴びた後、浴衣姿で部屋に戻ると、紫苑の姿があった。
窓際のソファに座っていた紫苑は、了を見ると近づいてきた。
「1時間もあれば服のクリーニングは完了するって。あと母さん達も1時間位庭を散歩するって言ってたから、丁度良かったよ。あ、一応カバンとか持ってきておいたよ」
「有難うございます」
本当に気が利く人だなと感心した。

ふと紫苑の顔が近づいた。その距離の近さにドキリとする。
宗親じゃないんだから、世の中の男子はみんな男子を好きだなんて想像はしていないが、この状況を見ると、もしかするともしかするのか? と疑いたくなってきた。クリーニンングに出してしまったので、浴衣の下には下着も何も着ていない。
「え、えっと……」
近づく顔にドキドキしていると、紫苑が呟いた。
「まだ髪が濡れているね。乾かしてあげるよ」
「え?」
紫苑はバスルームからタオルを取ってくると、勝手に了の髪を拭き始める。距離の近さに心臓が早くなる。
「え、あ、大丈夫なんで……」
「これ位気にしないでよ。もしかしたら俺達、兄弟になるかもしれないんだしさ」
紫苑はこのお見合いを成功させたいと願っているのだろうか。
もしかしたら美姫さんはすでに宗親に好意を持っていて、紫苑もその事を聞かされているとか?

考えていたら、紫苑がバスルームからドライヤーを持ってきた。
「ちゃんと乾かそうね」
「えっと、はい、どうも……」
鏡の前の椅子に座らされた。なんだか不思議な状況だった。
他人に髪を触れられるのは気持ちが良かった。
了は鏡に映る紫苑の長く美しい指先を見つめた。

「よし、乾いたかな」
暫くすると紫苑が呟いた。
「そこのドライヤーのコンセント抜いてもらえる?」
「あ、はい」
鏡の横のコンセントに手を伸ばした。
「いてっ」
何かがチクリとした。
「うわ、なんか針が落ちてる。なんでだよ?」
指先を見たら血が滲んでいた。
「大変だ」
紫苑は了の指先を口に含んで舐めた。
「ええ!?」
誰かに指を舐められるなんて経験は初めてだった。人の口の中ってなんかいやらしい。

動揺する了を気にした様子もなく、紫苑はカバンから絆創膏を取り出した。
「念のため貼っておくね」

今の行為に変な意味はなかったのだろうかと考えた。
脳が宗親に感化されて、腐男子脳になっていただけで、紫苑は親切心でやっているのだろうか。

「……すごい準備が良いんですね。バンソーコーとか持ち歩いてるなんて」
疑いながら訊ねたが、紫苑はニコリと笑った。
「うん、心配性だからね、絆創膏も裁縫道具もガムテープも持ち歩いているよ」
「ガムテープ? えっとそれは何に使うんですか?」
「靴底が壊れる事ってたまにあるだろう?」
「え、いや、ほぼ壊れないです。いや、壊れる事はあるかもだけど、数年に一度位じゃないですか? わざわざ持ち歩くんですか?」
「うん、何かの役に立つかもしれないしね」
紫苑は当たり前という顏をしていた。邪気がないように見える。
「あ、そうだ。替えの下着もあるよ。今穿いてないなら新品だしあげるよ」
「ちょっと待ってさい! 用意良すぎですから!」
頭が混乱してきた。

やっぱり紫苑の行動はおかしい気がする。
池に落ちて、着替えるはめになり、部屋を用意してもらって、髪を乾かされて、指に絆創膏を貼ってもらい、濡れた下着の替えを用意してくれて……。
何もおかしくない。親切にしかされていない。でも違和感がある。

その時、急に一つの単語が浮かんだ。
代理ミュンヒハウゼン症候群。
自分以外の誰かにわざと障害を負わせて、世話をする自分に他者からの注目を集めようとする精神疾患だ。
少し違う気がするが、この症状に近い。
要は偶然ではなく仕組まれた出来事だって事だ。

了は恐々と紫苑を見つめる。
最初に心配したような同性愛的な興味ではなさそうだ。
なら単純に親の関心を惹きたいのだろうか。
それとも実はお見合いに反対している?
あるいは生まれつきのサイコパス?

その時、部屋の電話が鳴った。すぐに紫苑が出る。
「洋服のクリーニングが終わったようだから、取ってくるよ」
紫苑は美しい笑みを浮かべて部屋から出ていった。



着替えを終えた了は、紫苑と共に宗親がいる個室に向かった。
部屋に入ると、すっかり打ち解けた様子で笑顔で話す、美姫と宗親の二人が見えた。
宗親の顔を見ただけで何だかほっとしてしまった。
紫苑の意図が分からずに不安だったのが、どうでも良くなった。

「お帰り、随分長い時間、二人で仲良く過ごしてたんだな。後で父さんに詳しく話してくれよな」
ニヤニヤと笑って言う、その裏の意味に気づいていた。
別にあんたの期待する展開になってないし!
その存在に安心したのもつかの間、また普段のように雑な扱いになってしまいそうだ。

「ちょっとトイレに行ってくるから待っててくれ」
宗親がドアに向かうと、紫苑もそれに続く。
「俺も行きます」

気まずい事に個室に美姫と二人で残されてしまった。
何を話したら良いか考えていたら、美姫から声をかけられた。
「リョウ君、今日は本当にありがとう」
「え、あ、いや」
何に対しての礼だろうと思っていると、美姫は美しく微笑んだ。

「紫苑と仲良くしてくれたでしょう?」
「あ、ああ、はい……」
いいろいろ複雑な気持ちだった。紫苑への疑念は消えていない。

「実はね、あの子の父方の家が複雑で、紫苑はちょっと変わった子なのよ」
「変わった子……ですか?」
複雑というかエリート一家だという事は聞いていた。

「子供の頃から英才教育を受けていて、同じ年の子供達とあまり交流がなかったのよ。きょうだいも居ないし、勉強ばかりで、いつも一人で過ごす事が多くて。動物すら飼った事がなかったから、子供や動物にどう接して良いか、あまりわかってなかったのよ。いつも周りは大人ばかりだったから。本当は動物も好きなのに、触り方や距離の詰め方が分からずに、すぐに嫌われちゃうの。不器用で見ていてなんだか可哀そうだったのよ」
先ほど猫に逃げられた様子を思い出した。

「でも魚だけは逃げないでくれるって、水族館が気に入ってね、あの子が嬉しそうだったから、何度も遊びに行ったの。縁日で買った金魚が死んでしまった時にはえんえん泣いちゃってね、動物には嫌われちゃうけど、本当はとても優しい良い子なのよ」
なんだか涙が出そうだった。
不器用なだけの人を、俺はさっきまで精神疾患だとか、サイコパスではないかと疑っていた。
俺の方が人でなしだ。

「実はお見合い写真を見た時に、リョウ君の写真も一緒に貰ってたの。紫苑が貴方の写真を見てね、瞳を輝かせて、弟が出来たら仲良くなりたい、優しくしたいって言ってて、ついおばさん張り切っちゃった」
おばさんって感じゃないです。若くて綺麗ですと言いたかったが、彼女の言葉に口を挟めない。

「さっき、あの子がここに様子を見に来たんだけど、リョウ君と仲良く庭を散歩出来たのがとっても楽しかったみたいで、すぐにまた飛び出して、ふふ、リョウ君の事大好きになっちゃったのねって思ったの。だからあの子と仲良くしてくれてすごく感謝してるの」

「感謝だなんて、とんでもないですよ。俺の方こそシオンさんに世話を焼いてもらって、すごく優しくしてもらいました! だから感謝の言葉を言うのは俺の方です!」
「ありがとう」
美姫はその名の通り、美しいお姫様のように微笑んだ。

宗親達と合流すると、ホテルのエントランスに向かった。
美姫と笑顔で話す紫苑の顔が、さっきまでと違って見える。
同年代の子供や動物への接し方が分からない、ただの不器用な少年。
多分、さっきまでの事も了とも仲良くなりたかっただけなのだ。
でもやり方が分からなかったから、池に突き落とした。
そんな不器用な人を嫌いになれるわけがない。

「シオンさん!」
タクシー乗り場で紫苑に声をかけた。
「良かったら連絡先交換しませんか?」
驚いたような表情の後で、紫苑は今日一番の笑顔を見せてくれた。
そこにいた全員が笑顔になった。



家に帰り、スーツから着替えた後も、宗親はニヤニヤとしてご機嫌な様子だった。
いつものリビングで了はため息交じりに言う。
「言っておくけどシオンさんとは、父さんが考えるようなBL展開はなかったから!」
「でも連絡先交換はしてたじゃないか」
「それは変な意味じゃないから! 人間として普通に友達になりたいって思っただけだってば! それより、父さんの方こそどうなんだよ? 美姫さんと結婚前提に付き合うの?」
返事が予想できずにドキドキした。
自分でもどちらを望んでいるのか分からない。

「美姫さんとは話も合うし、お互いの息子も気に入ったし」
ゴクりと唾を飲み込む。
「これは前向きに検討しながらの、お友達から始めましょうって事になった」
「ん? それはつまりどっちなんだ?」
宗親は緑茶を一口飲んだ後で呟いた。
「ま、お友達だな」
「なんだ」
力が抜けた。残念なのかほっとしているのか、やっぱりよく分からない。

「でもまだ正式に付き合う可能性は残ってるからな。今後は友達として家族ぐるみの付き合いをして、一緒にバーベキューや旅行なんかにも行ったりして、気付けば恋をしてキスをして、大人の関係になり、やがてお前と紫苑君は結ばれるという未来もある!」
「どうして途中から俺の話になった! 父さんの見合いの話だっただろ!」
「どっちも一緒だよ。俺達もお前達も、未来はどうなっているかは分からないだろ?」
確かにそうだ。
「でも俺の恋愛対象は女性だけどね!」

「そうそう、紫苑君に聞いたよ。二人でホテルの部屋にずっと居たんだって?」
「それ、変な意味じゃないから!」
全力で突っ込む。
「ああ、知ってるよ。お前を池に突き落としてしまったって謝ってきた」
「え?」
いつ聞いたんだと思ったが、二人でトイレに行っていた時か。しかも突き落としたって……。

「お前とどうやって仲良くなれば良いかわからなくてテンパってたらしい。後でお前に謝って欲しいって言われた」
「そうなんだ。別にぜんぜん気にしてないのに」
むしろ俺の方がサイコパス疑ってスミマセンって感じだ。
「あとホテルの部屋代も俺が出しておいた」
「そうなの?」
「いや、いくら金を持っているって言っても、さすがに子供に出させるワケにはいかないだろう。安心しろ、ホテルの池に落ちたせいだって事ですごい割引価格だったから、貧乏な我が家でも問題ない」
「あ、そう……」

 



騒がしかった見合いの翌日。
週明けの月曜日、いつものように登校した了は、教室で予想外の人物を見つけて目を見張る。
金色に近い茶色の髪の超絶美少年。
芸能活動もしていると噂の有名人。

咲田奏がそこにいた。


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