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漢字一文字タイトルシリーズ №4 「杯」

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 葬儀社に勤務して30年。いまだかつてない光景に、今回私は遭遇した。

 今回亡くなったのは、結婚を三日後の今日に控えた31歳の男性である。死因は酒気を帯びたドライバーが運転する4トントラックに撥ねられ、即死。
ああ、何てことだろう。折角晴れの日を迎え様としていたのに。本来、披露宴として招待されたお客さんが、皮肉にも弔客として来訪するのは、何とも遣り切れず堪らない思いで一杯だろう。しかし私が驚いたのは、状況が逆転したことではない。

 まずは読経を上げる人物である。20世紀までは、寺の坊主が金をもらってダミ声で拝むのが相場だった。「坊主丸儲け」と言う言葉がある通り、それこそお布施は法衣の懐に入るのが、常套であり自然のことだった。余談だが末寺は宗教法人の一端を担っているので、納税は軽減されている。葬儀社とは言え一介の企業に勤務している私にしてみれば、法人税が高く付くのが正直癪に触る。しかし今回、読経を上げるのは聖職者ではなく、導師と呼ばれる人で、言い方は悪いが何処にでもいる一介の人物である。ちなみにこの導師の方は、現在でも生活の一部として宗教活動を行い、儀典においては会場に於いて読経を読み上げる。ただし一種のボランティアであり、お布施は決して頂いていない。人の弔いを生業としている立場上、矛盾な物言いではあるが余程そちらの方が、健全で崇高な行為だと私は思った。その導師は黒いスーツを着た初老の男性で、祭壇前に座ると数珠を両掌に掛ける。鈴(りん)を鳴らすと、会場に響き渡るほどの音声で経文を唱え始めた。また一部の弔客で、導師と同じ宗派を信仰している人も合わせて声を出し、声量豊かに唱えた。その様相は決して悲しいものではなく、寧ろ温かい気持ちの中で、亡き者を送り出す優しい雰囲気だった。
 
 ところがである。私も予測していなかった不測の事態が発生した。焼香が始まった際、この会場にまったく相応しくない弔客が来場した。その人は白い角隠しを被り、首から下が白無垢で覆われた女性だ。しかも腹部がやけに膨らんでいる。一目に身重であることが判った。当然、読経が止まり弔客は勿論のこと導師もその異様な姿に、眼を皿にして息を呑んだ。導師は立ち上がり、その女性に詰め寄ろうとした。私は両者の間に入り、取り敢えず導師を制止した。導師は「止めるな」と言わんばかりに、厳しい視線を私に送った。
 しかし彼女なりに、意図が有ってその様な出で立ちをチョイスしたのだろうと推測し、訊いてみた。実はこの日、本来ならば結婚式及び披露宴を開く予定だった。ところが前述通り、彼が急死して結婚式は中止。まさか最愛の人が突然目の前から消えたのは、彼女にしてみれば想定外であったはずだ。ただでさえ未曾有な暗渠の中で、もがいているに違いない。ただ葬儀とは言え、温かい雰囲気で執り行われていたのに、突如空気を一変させたのは事実だ。おそらく弔客から「この落とし前はどう着けるんだ?」とクレームを受けても不思議ではない。
 そこで彼女は白無垢の袂から、真紅の杯を私に差し出した。もし彼が存命であれば、永遠の契りを交わしたかったのであろうと、私は悟った。私は祭壇に供えられた日本酒の敏を下ろした。そして不釣り合いながらも、

「これより契りの杯を今は亡きご主人に捧げたいと思います。皆様、御同意お願い致します」

 一部の弔客はさすがに呆れて、席を外し会場のエントランスへ向かった。常識のある方の正当な態度だと思った。しかし男性の親族や由縁のある人たちはその場に残った。
 私は真紅の杯に酒を注ぎ、女性は口を着けて杯を揚げながら飲み干した。女性の唇から杯が離れると、誰だろうかゆっくりと掌を叩いた。さらに二人、三人と続き、やがて多数の弔客が祝福し、会場は拍手の渦に包まれた。
 確かに考えてみれば、葬儀会場で祝言を挙げることは非常識も甚だしい。しかしこよなく愛した人の今生の別れを、葬儀のセオリー通りに送り出すのは些か疑問が有ったのも事実だ。
 これは一個人の意見だが、この世に生を受けるのも歓喜であれば、亡き者が再び新しい命として生まれ変わるのも歓喜であろう。結果、私はこの式を温かく演出する一助を託したにしか過ぎないのだ。

 会場から男性の棺が出され霊柩車に納められると、花嫁は火葬所へ向かう合図を知らせる為、真紅の杯を叩き割った……。
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