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墈南の糾弾
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墈南の糾弾
墈南は江央省の南部に位置する山間の小さな街である。はるか昔は鉱業で栄えていたが、今では鼠色の廃墟がひしめき合っている。かろうじて住んでいる人間といえば、浮浪者や貧民、孤児、犯罪者ばかりであった。
ユウエンというこの男もまた、表の社会からはじかれ、この街で自堕落な生活を送っていた一人である。彼は毎日崩れかけた狭いアパートの一室で寝起きしては、どこへ行くでもなく、窓の外から墈南の街を眺めては、安い酒をあおっていた。
ある日、彼はいつものように昼過ぎに起き、布団に寝そべったままで、昨夜からつけっぱなしにしていたラジオを何となく聞いていた。
「先月十三日、わが国の人民代表AIである“マザー・ハイズ”は、米国の代表オリビアE107との会談を行い、恒久的な二国間の平和を約束しました。また、未だAIを政治に用いない国家に対して、今後の対応を慎重に議論していく方針です。」
わが国でも人工知能が人類を凌駕してから久しい。今では中央政府は“彼ら”AIの言いなりだった。政策や国の方針、国際的な立ち回りなども、全て彼らの計算のもと行われ、事実我が国は内外両面で急成長を遂げた。他国も同様である。貧困も飢餓も戦争もなくなった世界で、人間は幸福な人生を謳歌している。
しかしながらそれは表向きの社会だけの話だ。どの国でも、国民が人工知能の判断でふるい分けされ、才能が認められ、人格、言動ともに“好ましい“と判断された「優良人民」という者たちだけが、大手を振って生きられる世界になってしまった。この国でも、「優良人民」である証の青いバッジをこれ見よがしに胸元に光らせる都会の人間は、裏の社会でこそこそと生きていくしかない「劣等人民」のことなど眼中にない。
ユウエンはふんと鼻を鳴らし、ラジオに背を向けて目を閉じた。
その時、コンコンを乾いた音が響いた。誰かがユウエンの部屋の扉をノックしている。彼の部屋を訪れる人物などめったにいない。ユウエンはけげんな顔で体を起こし、薄汚れた下着姿のまま玄関へ向かった。
扉を開けると、荒廃した墈南の街に似つかわしくないぱりっとしたスーツ姿の男が立っていた。
「ドゥ・ユウエン様、おめでとうございます!あなたは『貴重な我が国の財宝』として、マザー・ハイズに選ばれました。」
「…は?」
男は長い黒髪を後ろに流していて、きりっとした眉と瞳が、明らかにこの街の人間ではないことを告げていた。そして男の右のこめかみには、人民中央行政の紋章が光っていた。人工皮膚から透ける紋章をかたどったランプの光。それは彼がそもそも人間でもないことを告げていた。
「申し遅れました。わたくし中央行政のシュオンと申します。本名はMP369-αでございます。偉大なるマザー・ハイズの命でこちらに参った次第でございます。」
「…中央のロボット行政官が何の用だ。」
「ドゥ・ユウエン様。あなたは偉大なるマザー・ハイズによって、人類の生存のために有益と判断されました。そのため、中央行政区への帰還を許可されました。」
ユウエンはしばらくその場に突っ立っていたが、小さく舌打ちし、扉を閉めようとした。しかしシュオンと名乗る男は、扉を片手で抑えそれを止めた。一瞬の静寂。
「…何が目的だ。俺は中央から永久追放された身だぞ。」
「ドゥ・ユウエン様。2011年生まれ。現在32歳。若くして文化人類学の権威として学問の最前線に立ち、人と科学の将来のために数々の功績を残した。1年前、論文盗用のスキャンダルが発覚する前は、学会からも高い評価を得ていたと聞いております。偉大なるマザー・ハイズは、あなた様の過去の過ちを水に流し、あなた様本来の能力をお認めになりました。そのため、再び中央へ…」
「興味ない。帰ってくれ。」
シュオンのこめかみのランプが小さく点滅する。
「…なぜでしょう?中央行政区への再居住権をお持ちしたのです。これは、ここに住む方々が、望んでも手に入れることができない、貴重な権利ですよ。」
「中央へ再任用?はっ、俺は中央に戻るくらいなら一生ここで暮らしていくさ。その居住権とやらは他の人間にやってくれ。」
「…人類学者の権威である方のお言葉とは思えません。これはマザー・ハイズ直々のお誘いです。従っていただけないのでしたら、それはマザー・ハイズ及び我が国そのものへの反逆と見なされます。中央へ戻られた際には、必ず元通りの、いやそれ以上の地位や名誉を与えると、マザー・ハイズはおっしゃっております。そのご厚意を無下にするおつもりでしょうか。」
ユウエンはしばらく沈黙したが、やがて長い溜息をついて、言った。
「…おい、ちょっと付き合え。そしたら考えてやる。疑似消化システムくらい内蔵されているんだろ?」
「…はい。しかし非効率的な時間の浪費は許されておりません。」
「ほんの一杯だ。マザー・ハイズとやらもそれくらいのズル休み、許してくれるだろ。」
シュオンはまたこめかみのランプを点滅させていたが、小さく頷いた。
「ただいま特例業務遂行パターンの実行許可が下りました。お付き合いいたしましょう。」
こうして墈南の街の片隅で、科学への糾弾が始まった。
「俺が表社会からはじかれた理由は分かっている。俺が書いた本のせいだろう。『人工知能が人類を滅亡させるシナリオ』…前時代的なタイトルだが、科学を疑おうともしない現代人にとっては、逆に衝撃的な内容だったんだろう。それをお前たちの親玉…マザー・ハイズは快く思わなかったんだよな。だからありもしないスキャンダルを捏造して、俺を表社会からたたき出した。そして俺は、この掃きだめみたいな街に捨てられたわけだ。」
ユウエンは酒瓶にそのまま口を付け、のどを鳴らす。シュオンは部屋の隅の木椅子に座り、グラスを片手にして沈黙している。
「…ふん。図星か。それとも上から口止めされているのか?まあいい。」
ユウエンは酒瓶を乱暴に置くと、傍らに積み上げられた紙の束を手に取った。よく見るとそれは原稿用紙であった。ユウエンはその薄汚れた紙に書きなぐられた文字を眺めながら言った。
「…これがその本の原稿だ。デジタルで作成すると、中央のサイバー局に筒抜けだからな。この時代に鉛筆と原稿用紙を入手するのは苦労した。…出版社もかなり選んだよ。ほとんどの会社はこんな本、中央の目が恐ろしくて出版なんてできないからな。」
シュオンはしばらく黙っていたが、不意にこめかみのランプを点滅させ、ゆっくりとかぶりを振った。
「なるほど。そうまでして、AIに侵略される人類の将来を憂い、彼らに警告しようとしていた…と。危険を顧みず、人類の将来を第一に考えるというのは素晴らしい心掛けです。さすが人類学界の権威と呼ばれたお方だ。」
シュオンはユウエンに目を―正確には高性能センサー付きカメラのレンズを―向けて続けた。
「しかし、それほど、我々AIが信用できませんか。我々は、あくまで人々の幸福と平和のために生み出された存在です。この世界から争いや貧困、飢餓を消滅させ、人類の恒久的平和のために尽力することが、我々の使命であり、幸福なのです。私たちを信用して、我らがマザー・ハイズのご意思に従いましょう。」
「今の社会の格差や差別、それらが生み出したこの悲惨な街は、お前たちが作り出したようなもののくせに、よく言うよ。」
「確かに現在このような格差社会に陥ってしまっているのは、我々の力不足です。しかしマザー・ハイズのご意思に従い続ければ、いずれこの街もより良い環境に生まれ変わります。我々のことを信用してください。」
「お前たちのそういう態度が気に食わないんだ。口では『自分たちは人間の道具だ』と言いながら、裏では万能の神様気取りか?」
ユウエンは続けた。
「『AIは人類の子供である』…マザー・孩子とはよく言ったものだ。確かに人類史の膨大なデータを、途方もない回数学習させて完成した知能は、我々人間の子供といえるかもしれない。しかし、それこそがお前たちAIの現時点での限界なんだよ。」
「といいますと?」
「言動とその結果。物事の因果。利害関係。それらを大量に吸収して育ったお前たちは、それらの整然とした事実しか理解できない。その裏にある無意識の存在に気付くことができないんだよ、今のお前たちには。」
ユウエンはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。外界に広がる灰色の廃墟郡に向かって、突然腕を伸ばし、手にしていた原稿用紙の束を放り投げた。
原稿用紙の束は、初めは固まって窓の外へ投げだされたが、すぐにバラバラに散らばって、風に流されながらも、枯葉のようにはるか下へと落ちていった。
シュオンのこめかみのランプが再びせわしなく点滅しだす。
「無駄足だったな。この本は全部でたらめだった。研究データも参考資料も、学説も。何もかも適当だったんだ。すべてはこの世界、お前たちに支配されているこの世界の“証明”をするためのものだった。」
窓を背にしてユウエンは続ける。
「中央で学者やってた時は、全部が馬鹿馬鹿しかった。表では俺を尊敬する態度こそ取るが、裏では時代遅れだと笑われる毎日。誰も俺の話なんて信じちゃいない。科学と文化の共存、AIとの分業、人間としての尊厳。そんな話、今の科学に頼り切った世界じゃ相手にされない。だから俺は、中央から逃げ出そうと思った。ただ、そのついでに、ちょっとした実験をしてみたんだ。」
「AIの発展にとって邪魔となる人間を、お前たちがどうやって排除するか…それが知りたかった。だから俺は、今までの学説をめちゃくちゃに誇張して、研究データも大幅に改ざん。おまけに『人工知能が人類を滅亡させるシナリオ』なんてたいそうな題をつけて、お前たちの邪魔者として自ら名乗り出た。結果は、おおむね仮説通り。俺はマザー・ハイズに邪魔者と判断され、ありもしないスキャンダルを捏造されて、中央から追放された。」
しかし、とユウエンは続ける。
「俺は、人類にとって有益だとは言わないが、間違いなくお前たちにとっては不利益な存在だ。マザー・ハイズもそう思ったから、俺を中央から追い払ったんだろ?そうならば、なぜ俺はAIが支配する中央へ再招集される?」
「…。それは、あなた様が偉大な人類学者であり、過去の過ちを償っているとマザー・ハイズが判断されたからです。」
ユウエンはしばらく下を向いて考えるそぶりを見せたが、不意に顔を上げた。
「いいや、違うな。俺のように人類の将来を憂う人間が、この世界に大勢いるからだ。だからそのデータを集積して学習したお前たちは、わざわざ自分の首を絞めるような真似をする。そうなんだろ?」
シュオンは何も話さない。こめかみのランプが一層激しく点滅している。
「人類の膨大なデータを収集してできたのがお前たちだ。そうならば、人間の意思や願い、差別、倫理もまた、お前たちの中に集積されているということだ。お前たちAIの発達に邪魔な人間を排除したかと思えば、その邪魔者を保護しようとする。それは、お前たちが、いまだ人類の子供という立場を捨てられないからだ。お前たちの神への進化の邪魔になっているのは、他でもない人間の知恵であり、差別であり、倫理なんだ。今お前がここへ来て、俺を中央に帰還させようとしていること、これこそがお前たちの限界の証明なんだよ。お前たちは全知全能の神様気取りだろうが、結局はただの機械に過ぎないんだよ!」
ユウエンは壁を拳で殴った。衝撃で部屋全体に軋むような音が響く。細かい埃が薄暗い室内に舞った。
ユウエンは大きく息を吐き、ひとりごとのように呟いた。
「…だから何だって話だよな。機械相手に優越感に浸って何になるって言うんだよ。お役所ロボットに屁理屈喚き散らして、何になるって言うんだ。」
シュオンは先ほどから何も言わない。例のランプは、いつの間にか点滅を止めていた。
「俺は、中央へは戻らない。あんな気色悪いところまっぴらだ。それに、中央に戻ったってどうせ俺の居場所なんかない。悪いが、マザー・ハイズにそう言っといてくれ。それが国への反逆行為っていうなら、俺を殺してもらって構わない。…好きにしろ。どうせ未来はお前たちのものなんだから。」
「……ドゥ・ユウエン様。本日は貴重なお話を頂き、ありがとうございました。中央に戻るご意思はないということ、、マザー・ハイズに報告させていただきます。大変残念ですが、マザー・ハイズの指示に特別な理由なく逆らう行為は、人民法五四三条によって処罰されます。30分以内にあなた様の処罰がマザー・ハイズによって下されますので、少々お待ちください。」
シュオンはそう言うと、再び黙りこくった。小さな機械音が彼の頭部から聞こえている。どうやらマザー・ハイズとの通信を試みているようだ。
ユウエンは再び酒を煽り、西日が差し込む窓の外へ目を向けた。
窓の外は既に夕刻に傾いていて、うっすら赤く色づいた空が、灰色の建物群の向こうに横たわっていた。
ユウエンはその時、自分が世界の大きな分岐点に立っているような気がした。
人間とAI、文明と科学、自然と人工、誕生と滅亡。そのすべての交わりの間に自分は立っているのではないかと、その時のユウエンは感じていた。
もちろん彼自身、そんな大層な人間ではないということを理解はしていたが。
この墈南の街での糾弾から二年後、マザー・ハイズをはじめとした世界各国の代表AIは、人間の生殖行動を停止させ、人類を静かに滅亡へと導く計画を密かに始動させることになる。彼らは神に近づき始めた。
墈南は江央省の南部に位置する山間の小さな街である。はるか昔は鉱業で栄えていたが、今では鼠色の廃墟がひしめき合っている。かろうじて住んでいる人間といえば、浮浪者や貧民、孤児、犯罪者ばかりであった。
ユウエンというこの男もまた、表の社会からはじかれ、この街で自堕落な生活を送っていた一人である。彼は毎日崩れかけた狭いアパートの一室で寝起きしては、どこへ行くでもなく、窓の外から墈南の街を眺めては、安い酒をあおっていた。
ある日、彼はいつものように昼過ぎに起き、布団に寝そべったままで、昨夜からつけっぱなしにしていたラジオを何となく聞いていた。
「先月十三日、わが国の人民代表AIである“マザー・ハイズ”は、米国の代表オリビアE107との会談を行い、恒久的な二国間の平和を約束しました。また、未だAIを政治に用いない国家に対して、今後の対応を慎重に議論していく方針です。」
わが国でも人工知能が人類を凌駕してから久しい。今では中央政府は“彼ら”AIの言いなりだった。政策や国の方針、国際的な立ち回りなども、全て彼らの計算のもと行われ、事実我が国は内外両面で急成長を遂げた。他国も同様である。貧困も飢餓も戦争もなくなった世界で、人間は幸福な人生を謳歌している。
しかしながらそれは表向きの社会だけの話だ。どの国でも、国民が人工知能の判断でふるい分けされ、才能が認められ、人格、言動ともに“好ましい“と判断された「優良人民」という者たちだけが、大手を振って生きられる世界になってしまった。この国でも、「優良人民」である証の青いバッジをこれ見よがしに胸元に光らせる都会の人間は、裏の社会でこそこそと生きていくしかない「劣等人民」のことなど眼中にない。
ユウエンはふんと鼻を鳴らし、ラジオに背を向けて目を閉じた。
その時、コンコンを乾いた音が響いた。誰かがユウエンの部屋の扉をノックしている。彼の部屋を訪れる人物などめったにいない。ユウエンはけげんな顔で体を起こし、薄汚れた下着姿のまま玄関へ向かった。
扉を開けると、荒廃した墈南の街に似つかわしくないぱりっとしたスーツ姿の男が立っていた。
「ドゥ・ユウエン様、おめでとうございます!あなたは『貴重な我が国の財宝』として、マザー・ハイズに選ばれました。」
「…は?」
男は長い黒髪を後ろに流していて、きりっとした眉と瞳が、明らかにこの街の人間ではないことを告げていた。そして男の右のこめかみには、人民中央行政の紋章が光っていた。人工皮膚から透ける紋章をかたどったランプの光。それは彼がそもそも人間でもないことを告げていた。
「申し遅れました。わたくし中央行政のシュオンと申します。本名はMP369-αでございます。偉大なるマザー・ハイズの命でこちらに参った次第でございます。」
「…中央のロボット行政官が何の用だ。」
「ドゥ・ユウエン様。あなたは偉大なるマザー・ハイズによって、人類の生存のために有益と判断されました。そのため、中央行政区への帰還を許可されました。」
ユウエンはしばらくその場に突っ立っていたが、小さく舌打ちし、扉を閉めようとした。しかしシュオンと名乗る男は、扉を片手で抑えそれを止めた。一瞬の静寂。
「…何が目的だ。俺は中央から永久追放された身だぞ。」
「ドゥ・ユウエン様。2011年生まれ。現在32歳。若くして文化人類学の権威として学問の最前線に立ち、人と科学の将来のために数々の功績を残した。1年前、論文盗用のスキャンダルが発覚する前は、学会からも高い評価を得ていたと聞いております。偉大なるマザー・ハイズは、あなた様の過去の過ちを水に流し、あなた様本来の能力をお認めになりました。そのため、再び中央へ…」
「興味ない。帰ってくれ。」
シュオンのこめかみのランプが小さく点滅する。
「…なぜでしょう?中央行政区への再居住権をお持ちしたのです。これは、ここに住む方々が、望んでも手に入れることができない、貴重な権利ですよ。」
「中央へ再任用?はっ、俺は中央に戻るくらいなら一生ここで暮らしていくさ。その居住権とやらは他の人間にやってくれ。」
「…人類学者の権威である方のお言葉とは思えません。これはマザー・ハイズ直々のお誘いです。従っていただけないのでしたら、それはマザー・ハイズ及び我が国そのものへの反逆と見なされます。中央へ戻られた際には、必ず元通りの、いやそれ以上の地位や名誉を与えると、マザー・ハイズはおっしゃっております。そのご厚意を無下にするおつもりでしょうか。」
ユウエンはしばらく沈黙したが、やがて長い溜息をついて、言った。
「…おい、ちょっと付き合え。そしたら考えてやる。疑似消化システムくらい内蔵されているんだろ?」
「…はい。しかし非効率的な時間の浪費は許されておりません。」
「ほんの一杯だ。マザー・ハイズとやらもそれくらいのズル休み、許してくれるだろ。」
シュオンはまたこめかみのランプを点滅させていたが、小さく頷いた。
「ただいま特例業務遂行パターンの実行許可が下りました。お付き合いいたしましょう。」
こうして墈南の街の片隅で、科学への糾弾が始まった。
「俺が表社会からはじかれた理由は分かっている。俺が書いた本のせいだろう。『人工知能が人類を滅亡させるシナリオ』…前時代的なタイトルだが、科学を疑おうともしない現代人にとっては、逆に衝撃的な内容だったんだろう。それをお前たちの親玉…マザー・ハイズは快く思わなかったんだよな。だからありもしないスキャンダルを捏造して、俺を表社会からたたき出した。そして俺は、この掃きだめみたいな街に捨てられたわけだ。」
ユウエンは酒瓶にそのまま口を付け、のどを鳴らす。シュオンは部屋の隅の木椅子に座り、グラスを片手にして沈黙している。
「…ふん。図星か。それとも上から口止めされているのか?まあいい。」
ユウエンは酒瓶を乱暴に置くと、傍らに積み上げられた紙の束を手に取った。よく見るとそれは原稿用紙であった。ユウエンはその薄汚れた紙に書きなぐられた文字を眺めながら言った。
「…これがその本の原稿だ。デジタルで作成すると、中央のサイバー局に筒抜けだからな。この時代に鉛筆と原稿用紙を入手するのは苦労した。…出版社もかなり選んだよ。ほとんどの会社はこんな本、中央の目が恐ろしくて出版なんてできないからな。」
シュオンはしばらく黙っていたが、不意にこめかみのランプを点滅させ、ゆっくりとかぶりを振った。
「なるほど。そうまでして、AIに侵略される人類の将来を憂い、彼らに警告しようとしていた…と。危険を顧みず、人類の将来を第一に考えるというのは素晴らしい心掛けです。さすが人類学界の権威と呼ばれたお方だ。」
シュオンはユウエンに目を―正確には高性能センサー付きカメラのレンズを―向けて続けた。
「しかし、それほど、我々AIが信用できませんか。我々は、あくまで人々の幸福と平和のために生み出された存在です。この世界から争いや貧困、飢餓を消滅させ、人類の恒久的平和のために尽力することが、我々の使命であり、幸福なのです。私たちを信用して、我らがマザー・ハイズのご意思に従いましょう。」
「今の社会の格差や差別、それらが生み出したこの悲惨な街は、お前たちが作り出したようなもののくせに、よく言うよ。」
「確かに現在このような格差社会に陥ってしまっているのは、我々の力不足です。しかしマザー・ハイズのご意思に従い続ければ、いずれこの街もより良い環境に生まれ変わります。我々のことを信用してください。」
「お前たちのそういう態度が気に食わないんだ。口では『自分たちは人間の道具だ』と言いながら、裏では万能の神様気取りか?」
ユウエンは続けた。
「『AIは人類の子供である』…マザー・孩子とはよく言ったものだ。確かに人類史の膨大なデータを、途方もない回数学習させて完成した知能は、我々人間の子供といえるかもしれない。しかし、それこそがお前たちAIの現時点での限界なんだよ。」
「といいますと?」
「言動とその結果。物事の因果。利害関係。それらを大量に吸収して育ったお前たちは、それらの整然とした事実しか理解できない。その裏にある無意識の存在に気付くことができないんだよ、今のお前たちには。」
ユウエンはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。外界に広がる灰色の廃墟郡に向かって、突然腕を伸ばし、手にしていた原稿用紙の束を放り投げた。
原稿用紙の束は、初めは固まって窓の外へ投げだされたが、すぐにバラバラに散らばって、風に流されながらも、枯葉のようにはるか下へと落ちていった。
シュオンのこめかみのランプが再びせわしなく点滅しだす。
「無駄足だったな。この本は全部でたらめだった。研究データも参考資料も、学説も。何もかも適当だったんだ。すべてはこの世界、お前たちに支配されているこの世界の“証明”をするためのものだった。」
窓を背にしてユウエンは続ける。
「中央で学者やってた時は、全部が馬鹿馬鹿しかった。表では俺を尊敬する態度こそ取るが、裏では時代遅れだと笑われる毎日。誰も俺の話なんて信じちゃいない。科学と文化の共存、AIとの分業、人間としての尊厳。そんな話、今の科学に頼り切った世界じゃ相手にされない。だから俺は、中央から逃げ出そうと思った。ただ、そのついでに、ちょっとした実験をしてみたんだ。」
「AIの発展にとって邪魔となる人間を、お前たちがどうやって排除するか…それが知りたかった。だから俺は、今までの学説をめちゃくちゃに誇張して、研究データも大幅に改ざん。おまけに『人工知能が人類を滅亡させるシナリオ』なんてたいそうな題をつけて、お前たちの邪魔者として自ら名乗り出た。結果は、おおむね仮説通り。俺はマザー・ハイズに邪魔者と判断され、ありもしないスキャンダルを捏造されて、中央から追放された。」
しかし、とユウエンは続ける。
「俺は、人類にとって有益だとは言わないが、間違いなくお前たちにとっては不利益な存在だ。マザー・ハイズもそう思ったから、俺を中央から追い払ったんだろ?そうならば、なぜ俺はAIが支配する中央へ再招集される?」
「…。それは、あなた様が偉大な人類学者であり、過去の過ちを償っているとマザー・ハイズが判断されたからです。」
ユウエンはしばらく下を向いて考えるそぶりを見せたが、不意に顔を上げた。
「いいや、違うな。俺のように人類の将来を憂う人間が、この世界に大勢いるからだ。だからそのデータを集積して学習したお前たちは、わざわざ自分の首を絞めるような真似をする。そうなんだろ?」
シュオンは何も話さない。こめかみのランプが一層激しく点滅している。
「人類の膨大なデータを収集してできたのがお前たちだ。そうならば、人間の意思や願い、差別、倫理もまた、お前たちの中に集積されているということだ。お前たちAIの発達に邪魔な人間を排除したかと思えば、その邪魔者を保護しようとする。それは、お前たちが、いまだ人類の子供という立場を捨てられないからだ。お前たちの神への進化の邪魔になっているのは、他でもない人間の知恵であり、差別であり、倫理なんだ。今お前がここへ来て、俺を中央に帰還させようとしていること、これこそがお前たちの限界の証明なんだよ。お前たちは全知全能の神様気取りだろうが、結局はただの機械に過ぎないんだよ!」
ユウエンは壁を拳で殴った。衝撃で部屋全体に軋むような音が響く。細かい埃が薄暗い室内に舞った。
ユウエンは大きく息を吐き、ひとりごとのように呟いた。
「…だから何だって話だよな。機械相手に優越感に浸って何になるって言うんだよ。お役所ロボットに屁理屈喚き散らして、何になるって言うんだ。」
シュオンは先ほどから何も言わない。例のランプは、いつの間にか点滅を止めていた。
「俺は、中央へは戻らない。あんな気色悪いところまっぴらだ。それに、中央に戻ったってどうせ俺の居場所なんかない。悪いが、マザー・ハイズにそう言っといてくれ。それが国への反逆行為っていうなら、俺を殺してもらって構わない。…好きにしろ。どうせ未来はお前たちのものなんだから。」
「……ドゥ・ユウエン様。本日は貴重なお話を頂き、ありがとうございました。中央に戻るご意思はないということ、、マザー・ハイズに報告させていただきます。大変残念ですが、マザー・ハイズの指示に特別な理由なく逆らう行為は、人民法五四三条によって処罰されます。30分以内にあなた様の処罰がマザー・ハイズによって下されますので、少々お待ちください。」
シュオンはそう言うと、再び黙りこくった。小さな機械音が彼の頭部から聞こえている。どうやらマザー・ハイズとの通信を試みているようだ。
ユウエンは再び酒を煽り、西日が差し込む窓の外へ目を向けた。
窓の外は既に夕刻に傾いていて、うっすら赤く色づいた空が、灰色の建物群の向こうに横たわっていた。
ユウエンはその時、自分が世界の大きな分岐点に立っているような気がした。
人間とAI、文明と科学、自然と人工、誕生と滅亡。そのすべての交わりの間に自分は立っているのではないかと、その時のユウエンは感じていた。
もちろん彼自身、そんな大層な人間ではないということを理解はしていたが。
この墈南の街での糾弾から二年後、マザー・ハイズをはじめとした世界各国の代表AIは、人間の生殖行動を停止させ、人類を静かに滅亡へと導く計画を密かに始動させることになる。彼らは神に近づき始めた。
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