信川村の奇跡

東郷 珠

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病魔の果てに

家族の時間

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 どんな名医でも、死を回避させ続ける事は出来ない。どんな設備を持ってしても、痛みを完全に消し去る事が出来ない。
 定められた寿命を、引き伸ばす事が出来るのは、神しか存在しまい。

 医者が出来る事は、痛みを伴わせても、僅かな時を患者に与える事だろう。
 若しくは痛みを和らげ、安らかな死を迎えさせる事だろう。

 何が正しいのか、誰にもわからない。どの判断が正解なのか、誰にも決められない。

 では、患者に生きる勇気を与えるのは、何だろう。医者の励ましか? それとも家族の励ましか?
 そのどちらでも有り、どちらでも無いのかもしれない。

 時に、複数の津波は重なり、堤防すら超えるほど大きくなる。
 それは容赦なく、街を破壊し人々を飲み込む。

 しかし、足掻こうする意志が、巨大なうねりから逃れさせる。
 生き残って、何もかもを失っても尚、絶望しない意志が、新たな街を造り上げる。
 また、強い意思に惹かれて、多くの優しさが背中を押す。

 ただ、意志の力とて、万能では無かろう。

 ☆ ☆ ☆

 さくらの症状は、一進一退を繰り返した。
 高齢故に起きる、体力や免疫力の低下は、病の進行を加速させる。
 ましてや、まともに飲食が出来ない体なら、尚更だろう。

 そして、問題は一つではない。
 病による体調変異は、新たな症状を引き起こす。複数が重なり続け、手が付けられなくなる。
 そうして、加速度的に命の炎は、小さくなっていく。

 貞江は戦っていた。
 咳を抑制しつつ、抗生物質による細菌への効果を確認し、次の対策を検討する。当然、薬剤耐性菌の発生を防ぐ必要も、充分に考慮しなければならない。
 それに併せて、他の症状も治療しなければならない。

 この時点で、疾病に耐え得るのは、抵抗力の高い者であろう。
 依然として高齢者の死因上位には、肺炎が有るのだ。

 長年研鑽し続けた、彼女の知識と技術が無ければ、とっくに全てが終わっていただろう。それは、さくらが用意した設備を無くして、成し得ない事だったろう。
 それとて、病と戦う患者の意思が無ければ、どんな設備もガラクタと変わらない。

 さくらは抗っていた。
 ギイとガアを、そしてクミルを笑顔にする為に。再び、愛すべき仲間達と、笑って話をする為に。
 その想いは、病に抵抗する力となる。

 声を発する事が辛くても、笑顔を届ける事は出来る。また、見舞いに訪れたギイとガアが滞在する時間は、ほんの僅かな時間である。
 当初こそ窓際まで歩み、会話を交わす事が出来た。他の来訪者に対しても、同じような対応が出来た。

 さくらが覚醒していられる時間は、日を追う毎に短くなっていく。しかし、体を動かせなくとも、覚悟を見せる事は出来る。
 さくらは、窓越しに掛けられる励ましに対し、拳を突き出して見せる事で、戦う意思を示した。

 ただギイとガアは、そんなに鈍感ではない。どれだけさくらが意思を示しても、その変化には気が付いている。容姿は、依然と別人の様に変わっている。
 元々やせ型ではあった、しかし頬はこけておらず、青白い顔もしていなかった。今は、酷くやつれて見える。
 
 自分達が届けた野菜を、食べる事が出来ないのだろう。それだけ、辛いのだろう。そんな想像は、容易に出来た。
 さくらを励ましたい、元気になって欲しい。しかし、ギイとガアが見舞いに訪れた時に、必ずしもさくらが起きているわけでは無い。ならば、何をすればいい。
 ギイとガアが考えた末に出した結論は、野菜の代わりに花を届ける事であった。
 
 彼らは励ましの声を掛ける代わりに、花を窓枠に差していく。さくらが目を覚ました時に、それを見て元気になればいい。
 そんな想いが、さくらを鼓舞する。

 確固たる信念こそが、何かを成す力になる。一時的にでも、症状を食い止めたのは、想いの力だろう。

 ギイとガアは、どれだけ話す練習をしても、日本語の発生が出来ない。それは、声帯の構造上、仕方ない事だろう。
 どれだけ足掻いても、叶わないものがある。

 命は、溶けた蝋の様に、再度固めて利用する事は出来ない。燃え尽きるた線香は、ただの灰になる。
 限りが有る、終わりは来る、いずれ誰の下にも、死は訪れる。
 
 ☆ ☆ ☆

 さくらが入院をしてから一週間が過ぎ、二週目に突入する。
 これまで、緩やかに下降をしていたさくらの体調は、再び加速度的に悪化した。

 均衡を保てたのは、兵力増強の為だと言わんばかりに、病原体は侵攻を開始する。
 それは流石のさくらでも、抵抗出来るものではなかった。

 いつ危篤となってもおかしくない、それは明日なのか、明後日なのか、それとも数時間後なのか。そんな状態が、数日ほど続いた。

 さくらは、覚醒している僅かな時間を使って、家族に連絡をした。
 十月半ばを過ぎた日、さくらのPCには、宮川敏久、宮川洋子、宮川敏和の三名が表示されていた。

 さくらの様子は江藤を通じて、東京の家族へ克明に知らされていた。それ故に、さくらが長くない事も悟っていた。
 しかし、実際にさくらの姿を画面越しに見た家族は、言葉を無くした。

 以前の様な覇気が無く、虚ろな表情が痛々しくモニターに映る。酷くやつれ、見る影も無く変わり果て、声はとても小さく掠れて聞き辛い。

 さくらの声は、開発中の発生補助器具を用いて、ようやく聞き取れるレベルになる。
 更に、江藤がオペレーターとして、さくらの声を文字にして、画面へ映し出す。
 そうして、家族の遠隔面会が行われた。

 しかしさくらは、死を目の前にしても、病には一切触れなかった。

「どうだい? 周作は優秀だろ? これでデータは取れたはずだよ。既存の取引に食い込むんだ、販路の確保はしっかりとやりなよ」
「そんな事は、どうでもいいだろ! ばあちゃん、何で会いに行けないんだよ!」
「よせ、敏和。俺達にも、守るべきものが有る。お前の我儘で困らせるな!」
「良いんだよ敏久、あんまり敏和を叱らないでおくれ。踏ん張れなかった、あたしが悪いんだ」

 薬のおかげで、咳は抑えられている。しかし、今のさくらは、ただ意識が有るだけ。
 体を動かす事は出来ない、話す事はほぼ不可能に近い。

 既に敏和は、滂沱の涙を流している。敏久は、顔を顰めたまま、表情を変えようとしない。 
 
 さくらは、仕事を投げ出してまで、会いに来る事を禁じた。
 住民でさえ、窓越しでしかさくらと面会出来ないのだ。わざわざ感染リスクを冒してまで、数分程度の面会に、時間を使う必要はあるまい。
 
 確かに、さくらの言い分は尤もだろう。だが、納得は出来まい。
 だから、さくらは無理を承知で、面会を行った。

 文字による補助が無ければ、伝わり辛い言葉。紡ぐ事が、命を削る。
 どれだけの気力を振り絞って、この面会を成立させているのか。
 それが痛い程に伝わる。

 しかし、終わりを感じさせない様に、別れを思わせない様に、さくらは話す。
 どれだけ見た目が変わっても、さくらはさくらで有り続けた。

「こんな時まで仕事の話なんて、流石はお母さまですね。でも、ご自身のお体で、実証実験をなさらなくても」
「今のあたしには、こんな事しか出来ないからね。悪いね洋子、あんたにも我慢をさせた」
「いいんです。こうして話が出来るお時間を、頂戴したんですから」
「感謝してるよ、ありがとう」
「それは私の方です。ありがとうございます、お母さま」

 我慢をしていた。
 今にも尽きようとしている命を燃やし、それでも語りかけるさくらに、失礼だと思ったから。
 だけど、もう我慢は出来なかった。洋子の瞳から、涙が流れ出す。

 さくらは厳しい人だった、それ以上に愛情に溢れた人だった。
 仕事で失敗すれば、激しく叱咤された。上手くいった時は、その倍以上も褒めてくれた。
 それが嬉しくて、結果を出せる様に頑張った。

 敏久と結婚し家庭に入った後も、さくらは事ある毎に感謝の言葉を掛けてくれた。
 それが、やり甲斐へと変わった。

 敏久が好きだったのか、さくらと離れたくなかったのかわからない位に、その存在は大きくなっていった。

 さくらを失いたくない、この時間が終わらないで欲しい。
 それが不可能なのは、充分に理解している。しかし、望んで止まない。
 想いは溢れ、涙は止まらなかった。

「母さん。何かして欲しい事は有るか?」
「それなら、ギイとガア、それとクミルの面倒をみておくれ」
「そんな事か? 彼らは、家族に迎えるつもりだ。任せてくれ」

 敏久は、阿沼に連絡を取った。
 クミルに国籍を与えて欲しい。それが罪である事を理解した上で、頭を下げるつもりだった。
 その際さくらが、既に同様の願いをしていた事を知った。

 さくらの思いを汲み取り、行動したつもりだった。しかし、先んじて行動していたのは、さくらであった。

 さくらは、常に仕事を優先した。そんなさくらに、反発した時期も有った。
 しかし、さくらの下で経営を学ぶ決意をした時、どれだけ重いものを背負っているかを知った。

 従業員、その家族、それだけでも相当の数になる。関連企業を含めれば、膨大な数になる。
 更に顧客を含めれば、どれだけの数になるだろう。
 それだけの、生活を支えるのだ。並大抵の覚悟では務まらない。

 さくらの息子として恥じない様に、敏久は毅然とした態度を崩さなかった。
 それが、せめてもの孝行だと信じて。
 
「あんたは、自慢の息子だよ。あたしには、勿体無い」 
「母さん……、ありがとう」

 それ以上の言葉は出なかった。寧ろそれだけで、充分だろう。
 親子でも、理解し合えない関係がある。互いに尊重出来るから、心が繋がる。

「ばあちゃん、俺……」
「あんたは、優しいね。その優しさを、新しい兄弟に向けてくれないかい?」
「わかってる、わかってるよ。なあ、ばあちゃん。俺、俺さ」
「ゆっくりでいいよ」

 話したい事が沢山ある。しかし、涙で言葉が続かない。
 色んな事を聞いて欲しい、いっぱい褒めて欲しい。
 子供じみた願いだ。それが我儘なのも、理解している。

 大抵の子供は、幼い頃に祖父母と遊んだだろう。そして、父母とは異なる愛情を注がれるのだ。
 敏和には、その記憶が殆どない。

 子供だからわかるのだろう。祖父母は纏った空気が、他の人とは違う。
 そんな祖父母が、少し怖かった。その反面、気になってもいた。怖いもの見たさというものだろう。
 
 敏和は、決して優秀な成績ではなかった。勉強も運動も平凡そのものだ。
 家が裕福なのは知っていた、しかしクラスメイトと違い、何か手伝いをしなければ、小遣いを貰えなかった。

 それなのに敏和は、友人から頼りにされる事が多かった。そして、常に人の輪の中心にいた。
 それから更に成長し社会に出る頃、敏和は自分と他人の違いを知る。

 他人から信頼される、それがどれだけ大変で、どれだけ大切な事か。
 それを幼い頃から教えてくれていたのは、祖父母であった。

 裕福な家庭で、何不自由なく育ったとて、心が満たされなければ、歪んでいく。
 愛情は確かな形となって、存在していた。

 褒められる事が、嬉しかった。認められる事が、嬉しかった。頭を撫でられる事が、嬉しかった。笑ってくれる事が、嬉しかった。

 ばあちゃん、もう一度笑ってくれ。元気になってくれ。まだ逝かないでくれ。
 その一言が出ない。涙が止まらない。

「ばあちゃん……、俺、おで……、がんばるから! ぼっと、ぼっと、がんばぶばば!」

 だから、安心してくれ。
 敏和は、最後まで言葉を紡ぐ事は出来なかった。

 そして、ありったけの愛情を感じ、さくら目を細めた。

「洋子、敏久、敏和、ありがとう」

 それが、最後の言葉だった。主治医からストップの声がかかる。

 最後の時は、家族と共に迎えさせてやりたい。だが、家族と呼べるのは、彼らだけではない。
 これ以上は、ただでさえ残り少ない時間を、費やしてしまう。

 主治医の気持ちを、敏久達は理解していた。
 せめて、苦しむこと無く穏やかな最期を。そんな願いを籠めて、敏久は通信を切る。

 その温かな想いを受け取り、さくらは静かに目を閉じた。
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