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病魔の果てに
守るべきもの
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さくらの様子は、クミルから報告を受けていた。そして貞江は実際に家を訪れ、さくらの容体を確認し、肺炎だけでなく複数の合併症を起こしていると判断した。
それは貞江の経験によるものだろう。そして、その判断は正しい。
「さくらさん、入院しましょう。ここでは、適切な処置が出来ない」
その言葉に、さくらは動じる事は無かった。
「そうかい」
ただ一言、呟く様に吐くと、クミルに視線を向ける。そしてクミルは、さくらの感情を読み取って、全てを察した。
しかし、さくらの感情を読み取ったが故に、耐えがたい恐怖がクミルを襲った。
クミルにとって、さくらはどの様な存在なのか。赤の他人ではない。家族であり、年老いた母の様な存在でもあろう。
自分の一番大きな心の拠り所を失おうとしている、それがどれだけ恐ろしい事なのか。
大切な人を失う恐怖、それは何度体験しても、慣れる事はない。今クミルが感じているのは、これまでに味わった事の無い程の、恐怖なのだろう。
日を追う毎に、クミルの不安は大きくなる一方だった。それは、看病をしてきたからこそ、実感した事なのだろう。
病気に打ち勝つ抵抗力が、凡そ皆無だと思える程に、さくらの体は急激に衰えている。これ以上、病気が進んだら命の危険が有ると、素人でさえも容易に想像がつく。
クミルは身震いが止まらなかった。
「さだえさん……」
クミルは縋る様な瞳で、貞江を見つめる。そんなクミルに、貞江は軽く首を振った後、真剣な眼差しで答えた。
「あなたが悪いんじゃない。気持ちはわかるけど、今は従って」
「わたしに、できること、ない?」
何もない、そう答えるのは簡単だ。寧ろ、クミルは良くやった。
彼の献身的な看病が無ければ、さくらの容体は今頃もっと重症化していたかもしれない。
「あなたは、さくらさんが留守にしている間、この家を守って下さい」
「それだけ? ほかに、できること、ない? なんでもする。なんでも。さだえさん!」
貞江は少し言い淀んだ。
当然だ、ここから先は医者の領分だ。一般人に出来る事なんて、何もない。
有るとすれば、いざという時に備えて、準備を行う事。しかし口が裂けても、そんな事は言いたくない。
そんな時だった。さくらは、クミルの手を握ると、笑顔を見せた。
「いいんだよ。クミル、留守は任せるよ」
酷く冷たい手からは、以前の温もりが感じられない。力が入らないのだろう、手を握られた感触が、ほとんど感じられない。
それでも、さくらは笑顔を見せた。クミルを心配させない様に。
さくらの感情と共に、貞江の想いも伝わってくる。
後悔、失意、嘆き、怒り等、複雑に入り混じった感情が、貞江の中に入り混じり、己を責め続けている。それでも、さくらを助ける事を諦めていない。
それは、医師としての責任だけでは無かろう。さくらを大切に思っているからこそ、己を恥じて尚、抗おうとしているのだ。
両者の想いを読み取り、クミルは今にも零れ落ちそうな涙を、懸命に堪えた。
自分なりに、努力したつもりだった。しかし、これ以上は専門家に任せるしかない。当然だ、病気の知識は無いのだから。
さくらを治療する事は、貞江にしか出来ないのだ。
「あぁ、そうだ。あなたに重要なお願いがあります」
「なんですか? なんでもする!」
「さくらさんを運ぶのを、手伝って下さい。後、入院の準備も」
クミルの行動は、迅速そのものであった。念のためにと、貞江が呼び寄せていた孝道の出番が、ほとんどない位に。
クミルは、貞江の口から一挙に放たれる情報を、全て頭の中に叩き込み、必要な品を家の中からかき集める。
そして、遅れて到着した孝道と共に、ゆっくりとさくらをタンカに乗せて、往診用の軽ワゴンへと移動させた。
「さだえさん。さくらさんを、どうかお願いします」
「わかってます。私の命を賭けてでも、必ず救ってみせます!」
「大袈裟だ、貞江。さくらさんは、病気にやられる程、軟じゃねぇ! そうだろ?」
深く頭を下げるクミルに対し、貞江は声を張り上げる。そんな貞江を諭す様に、孝道が低い声で言い放つ。
孝道に答える様に、さくらは優し気な表情で、ゆっくりと首を縦に振る。
それは、クミルの心を深く抉る。
必要とされない事が、悲しかったのではない。さくらの為に何もできないのが、不甲斐ないのだ。
助けようとした。でも、助けられなかった。寧ろ、救われていたのは自分だ。この村を訪れてから、ずっとさくらに守られていた。
病に倒れてからも、それは変わらなかった。
衰弱していく、咳が酷くなる。それでもさくらは、自分の事よりクミルに気を配った。
大丈夫だ、心配ない。
あんたにはやる事があるだろ、それを優先しな。
あたしの事はほっといていい。
いつまでもこの部屋にいたら、あんたにも移っちまう。
ギイとガアが、心配しないように、あんたからよく言っておくれ。
ありがとう。
助かるよ。
悪いね。
美味しいよ。
色々と工夫してくれたね、凄いよ。
頑張ってるね、偉いよ。
そのどれもが、クミルには嬉しかった。同時に、切なくもあった。
さくらへの想いが、クミルの中で溢れ出す。気が付くと、クミルはさくらの手を握りしめていた。
そしてさくらは、寝かされた車のシートの上で自力で体を起こし、クミルの頭を優しく撫でた。
「馬鹿だね、あんたは。ごほっ、ごほっ。何度も言ってるだろ、心配するなって。ごほっ、ごほごほっがはっ。でも、ありがとう。あんたは、優しい子だよ。ごほっ、ごほごほっ。ほんとに優しい子だ、ありがとう」
やがて、さくらを乗せた車は、走り去る。
車を見送るクミルは、光を失ったネックレスの欠片を握りしめて、強く祈っていた。
どうか、どうか。もし奇跡があるなら、どうかもう一度、もう一度だけ。
さくらさんの命をお救い下さい。
これが、永遠の別れになる。そんな予感を振り払う様に、クミルはいつまでも祈り続けていた。
☆ ☆ ☆
診療所に到着した時には、既にみのりが点滴の準備を進めていた。
さくらをベッドに移すと、直ぐに点滴が行われる。それと同時に、バイタルを計る機械をさくらに繋げる。
やらなくてはならない事など、山ほどある。その全てを頭の中でプランニングし、みのりに指示を出しながら、貞江は休む事なく手を動かし続けた。
そんな中さくらは、朦朧とする意識の中で、一通のメールを送る。そして、静かに目を閉じた。
「お母さま?」
「あぁ、ごめんなさい。手が止まってたわね」
「いえ。それより、何か気になる事でも?」
「姉さ、いえ。さくらさんが、ようやくお休みになったの」
「そうですか。余り眠れていないご様子でしたから、少しは休まると良いんですけど」
「でも、スマホを触ってたのよね」
「メールですか?」
「多分ね」
「安心して下さい、お母さま。幾らさくらさんでも、こんな状態で無理をしたら、私が叱ります!」
「あなたに任せるわ。私より安心だもの」
みのりの補助を受け、貞江がさくらの治療を進めている間、メールを受け取った江藤は、電話をかけていた。
相手は、さくらの息子であり、宮川グループの現社長の宮川敏久である。
江藤は、定期的に村の状況を敏久に報告していた。
報告の方法は、記録が残るメールで行い、電話等で口頭の報告はしなかった。
その江藤が、メール以外に電話をかけてきた。それが、どれだけ重要であるか、敏久は直ぐに理解した。
「社長、お久しぶりです。メールはご覧になられましたか?」
「いま見てます。母の具合が、予想以上に思わしくないんですね。それで、母は何と?」
「はい。さくらさんが御昵懇になさっている方々に、通知する様にと」
「理解しました。江藤さん、引き続き母の事を頼みます」
通知という単語一つで、理解出来るのであろうか。江藤は首を傾げながら、敏久に報告をした。
しかし、淡々とした敏久の反応で、江藤はさくらの意図に気が付いた。
さくらと付き合いの有る者達は、敏久とも交流が有る。しかし中には、さくらという存在が有るから、敏久と交流を図っている者も少なくはない。
そんな者達を、どれだけ己の人脈として取り込めるかが、今後の行方を左右すると言っても過言では無かろう。
恐らく、さくらは試しているのだ。間違いなくやり遂げる事を見越して。
さくらという存在が無くなっても、経済界の中枢に鎮座する者達が、離れていかない様に。
それは己の病気すら利用し、息子の力にならんとする、さくらなりの愛情なのだろう。
そして江藤は、さくらから依頼された、もう一つの仕事を遂行する。それは、阿沼に時間を作らせる事である。
さくらが望めば、阿沼は時間を作るだろう。しかし会話では、さくらに負担をかける。そこで江藤が提案したのは、チャット形式での対談であった。
そして入院した翌日、さくらと阿沼の対談が行われた。
ギイとガアの処遇、クミルの国籍取得、信川村へのバックアップ等と内容のほとんどが、さくらからの依頼であった。
中には、既に根回し済みであり、ただの意思確認に過ぎない事案も含まれる。
そして阿沼は、その全てを承諾した。
「信太。後は、頼むね」
「わかってます。敏則さんとあなたに受けた恩を、忘れた日は一度も有りません。あの子達の事は、お任せください」
「酷いだろ? あんたが、そういう性格だってわかっていてさ」
「そんな事はありませんよ。あなたにとってあの子達は、孫も同然でしょう。いいんです、お気になさらず」
「信太。あんたがいるから、安心して逝ける」
「敏則さんと一緒に、向こうでお待ちください。私も使命を終えたら、そちらに向かいます」
「あぁ。でも、ゆっくり来な」
「はい。では、あちらで一杯やりましょう。あの頃みたいに」
「そうだね。楽しみにしてるよ」
「では、また」
「あぁ。またね」
諦めている訳ではない。だがさくらは、阿沼に後を託した。
内閣官房長官ではなく、旧友である阿沼信太に。
また、さくらと阿沼が交わした言葉は、ありがとうでも、お疲れ様でもない。その言葉が意味する事は、言うまでもない。
宮川さくらという物語の結末が、既に見えていたのだろう。
故にさくらは、守るべきものを守る為に動いた。
今はまだ、意識を保っていられる時間が有るから。
それは貞江の経験によるものだろう。そして、その判断は正しい。
「さくらさん、入院しましょう。ここでは、適切な処置が出来ない」
その言葉に、さくらは動じる事は無かった。
「そうかい」
ただ一言、呟く様に吐くと、クミルに視線を向ける。そしてクミルは、さくらの感情を読み取って、全てを察した。
しかし、さくらの感情を読み取ったが故に、耐えがたい恐怖がクミルを襲った。
クミルにとって、さくらはどの様な存在なのか。赤の他人ではない。家族であり、年老いた母の様な存在でもあろう。
自分の一番大きな心の拠り所を失おうとしている、それがどれだけ恐ろしい事なのか。
大切な人を失う恐怖、それは何度体験しても、慣れる事はない。今クミルが感じているのは、これまでに味わった事の無い程の、恐怖なのだろう。
日を追う毎に、クミルの不安は大きくなる一方だった。それは、看病をしてきたからこそ、実感した事なのだろう。
病気に打ち勝つ抵抗力が、凡そ皆無だと思える程に、さくらの体は急激に衰えている。これ以上、病気が進んだら命の危険が有ると、素人でさえも容易に想像がつく。
クミルは身震いが止まらなかった。
「さだえさん……」
クミルは縋る様な瞳で、貞江を見つめる。そんなクミルに、貞江は軽く首を振った後、真剣な眼差しで答えた。
「あなたが悪いんじゃない。気持ちはわかるけど、今は従って」
「わたしに、できること、ない?」
何もない、そう答えるのは簡単だ。寧ろ、クミルは良くやった。
彼の献身的な看病が無ければ、さくらの容体は今頃もっと重症化していたかもしれない。
「あなたは、さくらさんが留守にしている間、この家を守って下さい」
「それだけ? ほかに、できること、ない? なんでもする。なんでも。さだえさん!」
貞江は少し言い淀んだ。
当然だ、ここから先は医者の領分だ。一般人に出来る事なんて、何もない。
有るとすれば、いざという時に備えて、準備を行う事。しかし口が裂けても、そんな事は言いたくない。
そんな時だった。さくらは、クミルの手を握ると、笑顔を見せた。
「いいんだよ。クミル、留守は任せるよ」
酷く冷たい手からは、以前の温もりが感じられない。力が入らないのだろう、手を握られた感触が、ほとんど感じられない。
それでも、さくらは笑顔を見せた。クミルを心配させない様に。
さくらの感情と共に、貞江の想いも伝わってくる。
後悔、失意、嘆き、怒り等、複雑に入り混じった感情が、貞江の中に入り混じり、己を責め続けている。それでも、さくらを助ける事を諦めていない。
それは、医師としての責任だけでは無かろう。さくらを大切に思っているからこそ、己を恥じて尚、抗おうとしているのだ。
両者の想いを読み取り、クミルは今にも零れ落ちそうな涙を、懸命に堪えた。
自分なりに、努力したつもりだった。しかし、これ以上は専門家に任せるしかない。当然だ、病気の知識は無いのだから。
さくらを治療する事は、貞江にしか出来ないのだ。
「あぁ、そうだ。あなたに重要なお願いがあります」
「なんですか? なんでもする!」
「さくらさんを運ぶのを、手伝って下さい。後、入院の準備も」
クミルの行動は、迅速そのものであった。念のためにと、貞江が呼び寄せていた孝道の出番が、ほとんどない位に。
クミルは、貞江の口から一挙に放たれる情報を、全て頭の中に叩き込み、必要な品を家の中からかき集める。
そして、遅れて到着した孝道と共に、ゆっくりとさくらをタンカに乗せて、往診用の軽ワゴンへと移動させた。
「さだえさん。さくらさんを、どうかお願いします」
「わかってます。私の命を賭けてでも、必ず救ってみせます!」
「大袈裟だ、貞江。さくらさんは、病気にやられる程、軟じゃねぇ! そうだろ?」
深く頭を下げるクミルに対し、貞江は声を張り上げる。そんな貞江を諭す様に、孝道が低い声で言い放つ。
孝道に答える様に、さくらは優し気な表情で、ゆっくりと首を縦に振る。
それは、クミルの心を深く抉る。
必要とされない事が、悲しかったのではない。さくらの為に何もできないのが、不甲斐ないのだ。
助けようとした。でも、助けられなかった。寧ろ、救われていたのは自分だ。この村を訪れてから、ずっとさくらに守られていた。
病に倒れてからも、それは変わらなかった。
衰弱していく、咳が酷くなる。それでもさくらは、自分の事よりクミルに気を配った。
大丈夫だ、心配ない。
あんたにはやる事があるだろ、それを優先しな。
あたしの事はほっといていい。
いつまでもこの部屋にいたら、あんたにも移っちまう。
ギイとガアが、心配しないように、あんたからよく言っておくれ。
ありがとう。
助かるよ。
悪いね。
美味しいよ。
色々と工夫してくれたね、凄いよ。
頑張ってるね、偉いよ。
そのどれもが、クミルには嬉しかった。同時に、切なくもあった。
さくらへの想いが、クミルの中で溢れ出す。気が付くと、クミルはさくらの手を握りしめていた。
そしてさくらは、寝かされた車のシートの上で自力で体を起こし、クミルの頭を優しく撫でた。
「馬鹿だね、あんたは。ごほっ、ごほっ。何度も言ってるだろ、心配するなって。ごほっ、ごほごほっがはっ。でも、ありがとう。あんたは、優しい子だよ。ごほっ、ごほごほっ。ほんとに優しい子だ、ありがとう」
やがて、さくらを乗せた車は、走り去る。
車を見送るクミルは、光を失ったネックレスの欠片を握りしめて、強く祈っていた。
どうか、どうか。もし奇跡があるなら、どうかもう一度、もう一度だけ。
さくらさんの命をお救い下さい。
これが、永遠の別れになる。そんな予感を振り払う様に、クミルはいつまでも祈り続けていた。
☆ ☆ ☆
診療所に到着した時には、既にみのりが点滴の準備を進めていた。
さくらをベッドに移すと、直ぐに点滴が行われる。それと同時に、バイタルを計る機械をさくらに繋げる。
やらなくてはならない事など、山ほどある。その全てを頭の中でプランニングし、みのりに指示を出しながら、貞江は休む事なく手を動かし続けた。
そんな中さくらは、朦朧とする意識の中で、一通のメールを送る。そして、静かに目を閉じた。
「お母さま?」
「あぁ、ごめんなさい。手が止まってたわね」
「いえ。それより、何か気になる事でも?」
「姉さ、いえ。さくらさんが、ようやくお休みになったの」
「そうですか。余り眠れていないご様子でしたから、少しは休まると良いんですけど」
「でも、スマホを触ってたのよね」
「メールですか?」
「多分ね」
「安心して下さい、お母さま。幾らさくらさんでも、こんな状態で無理をしたら、私が叱ります!」
「あなたに任せるわ。私より安心だもの」
みのりの補助を受け、貞江がさくらの治療を進めている間、メールを受け取った江藤は、電話をかけていた。
相手は、さくらの息子であり、宮川グループの現社長の宮川敏久である。
江藤は、定期的に村の状況を敏久に報告していた。
報告の方法は、記録が残るメールで行い、電話等で口頭の報告はしなかった。
その江藤が、メール以外に電話をかけてきた。それが、どれだけ重要であるか、敏久は直ぐに理解した。
「社長、お久しぶりです。メールはご覧になられましたか?」
「いま見てます。母の具合が、予想以上に思わしくないんですね。それで、母は何と?」
「はい。さくらさんが御昵懇になさっている方々に、通知する様にと」
「理解しました。江藤さん、引き続き母の事を頼みます」
通知という単語一つで、理解出来るのであろうか。江藤は首を傾げながら、敏久に報告をした。
しかし、淡々とした敏久の反応で、江藤はさくらの意図に気が付いた。
さくらと付き合いの有る者達は、敏久とも交流が有る。しかし中には、さくらという存在が有るから、敏久と交流を図っている者も少なくはない。
そんな者達を、どれだけ己の人脈として取り込めるかが、今後の行方を左右すると言っても過言では無かろう。
恐らく、さくらは試しているのだ。間違いなくやり遂げる事を見越して。
さくらという存在が無くなっても、経済界の中枢に鎮座する者達が、離れていかない様に。
それは己の病気すら利用し、息子の力にならんとする、さくらなりの愛情なのだろう。
そして江藤は、さくらから依頼された、もう一つの仕事を遂行する。それは、阿沼に時間を作らせる事である。
さくらが望めば、阿沼は時間を作るだろう。しかし会話では、さくらに負担をかける。そこで江藤が提案したのは、チャット形式での対談であった。
そして入院した翌日、さくらと阿沼の対談が行われた。
ギイとガアの処遇、クミルの国籍取得、信川村へのバックアップ等と内容のほとんどが、さくらからの依頼であった。
中には、既に根回し済みであり、ただの意思確認に過ぎない事案も含まれる。
そして阿沼は、その全てを承諾した。
「信太。後は、頼むね」
「わかってます。敏則さんとあなたに受けた恩を、忘れた日は一度も有りません。あの子達の事は、お任せください」
「酷いだろ? あんたが、そういう性格だってわかっていてさ」
「そんな事はありませんよ。あなたにとってあの子達は、孫も同然でしょう。いいんです、お気になさらず」
「信太。あんたがいるから、安心して逝ける」
「敏則さんと一緒に、向こうでお待ちください。私も使命を終えたら、そちらに向かいます」
「あぁ。でも、ゆっくり来な」
「はい。では、あちらで一杯やりましょう。あの頃みたいに」
「そうだね。楽しみにしてるよ」
「では、また」
「あぁ。またね」
諦めている訳ではない。だがさくらは、阿沼に後を託した。
内閣官房長官ではなく、旧友である阿沼信太に。
また、さくらと阿沼が交わした言葉は、ありがとうでも、お疲れ様でもない。その言葉が意味する事は、言うまでもない。
宮川さくらという物語の結末が、既に見えていたのだろう。
故にさくらは、守るべきものを守る為に動いた。
今はまだ、意識を保っていられる時間が有るから。
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