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学びと成長
急変
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日付が変わろうとした頃、アラームが鳴り響いた。
数秒も経たずに反応するのは、職業病であろうか。貞江はスマートフォンを手に取ると、寝ぼけまなこで表示された警告を確認した。
その警告は、貞江を瞬時に覚醒させる。
貞江は、隣に寝ている孝道に声をかけると、寝間着の上に白衣を羽織う。そして、片手に往診用の鞄、もう片手にAEDを持ち、寝室から飛び出した。
「待て、貞江。先生か?」
「そうよ」
余程の緊急事態なのだろう。
暗がりの中でもわかる真っ青な顔を見れば、質問に答える余裕が無いのがわかる。
貞江はバタバタと廊下を走り、玄関に向かう。追いかける孝道は、捲し立てる様に、貞江に声をかけた。
「親父を起こしたら、俺も行く。お袋には、診療所に向かって貰う。良いな?」
「うん。よろしく」
貞江は往診用の車に乗り込むと、急発進させた。
一分一秒さえも惜しい。処置の時間が遅れる程、救える命が救えなくなる。
貞江が扱う患者は高齢者だ。体力の有る若者とは違い、症状が急変する事が多い。それだけ、死に至る危険が高い。
貞江は、車のスピードを上げる。走るというより、跳ねるという言葉が、適当かもしれない。
暴れる車を制御しながら、貞江はスピードを落とさず走り抜ける。そして、庭に車を停めると、玄関を開けて真っすぐに寝室へと向かった。
寝室の灯りを点けると、三笠の体が布団から出ているのが見える。恐らく発作が起きた際に、暴れたのだろう。
貞江は直ぐに三笠に近づき、素早く呼吸と脈を確認する。そして、持って来たAEDの蓋を開けた。
三笠は以前にも、発作を起こしている。
その際は貞江の判断により、救急病院へ運び手術を行った。命を取り留めた三笠は、術後の経過も順調だった。
それ以降、貞江は三笠に限り、往診の回数を増やしている。そして様子を観察しながら、健康管理と薬剤による治療を行って来た。
妻を失ってから、自堕落な生活になりつつあった三笠が、食事の管理と運動を心掛ける様になったのは、この時からである。
孝道の畑を手伝っているのは、仕事ではない。あくまでも、体を動かすのが目的だ。
貞江から詳しい様子を聞いているからこそ、孝道は手伝いの範囲が過度にならない様に努め、適宜休憩を取らせるように、配慮出来たのだろう。
三笠は少し前に、軽い発作を起こしている。恐らく原因は、騒動によるストレスであろう。だが、それから昨日までの間に、貞江のスマートフォンは、緊急信号を受け取っていない。
三笠が、再び発作を起こす可能性は有った。だがその可能性は、極めて低いと思われた。
それだけ最近の三笠は、はつらつとしていたのだ。三笠の体調は、直近の往診でも確認をしている。
今、目の前に広がる現状を、疑いたくなる。夢だと思いたくなる。
だが貞江は、そんな現実逃避まがいの妄想を打ち捨てて、除細動の処置に集中した。
「頑張って! 先生! お願い! 先生! 戻ってきて!」
AEDでの処置を行っていると、玄関の外が賑やかになるのがわかる。
直ぐにバタバタと足音を立て、孝道が寝室に入って来る。
「どうだ?」
「駄目、診療所に連れて行かないと」
「救急は?」
「お願い! 直ぐに! もう間に合わない!」
救急車の往復時間を鑑みれば、診療所に連れて行き、適切な処置をした方がいいと考えたのだろう。
高齢者の病気において、恐ろしいのは合併症の発生だ。既に、心室細動を起こしている可能性が高い。このまま改善が見られなければ、訪れるのは死だ。
意図を察した孝道は、手に持っていたスマートフォンで、救急の番号を押した。通話口で診療所の場所を知らせる。そして、スマートフォンを貞江の耳元に寄せ、詳しい状態を伝えさせる。
通話を切ると、孝道は走った。そして、貞江の車に積んである、折り畳み式の担架を取り出す。
丁度、担架を家の中に運び込もうとした時、車のライトが孝道を照らした。
「親父!」
「先生の様子は?」
「不味い。救急には連絡を入れた。それまでの間、診療所に運ぶ」
「わかった。調査隊には、俺から連絡する」
孝則は、車の出入りが邪魔にならない隅に、軽トラックを寄せると、孝道の後に続いて玄関を潜る。
貞江の緊張感が伝わったのか、孝道から焦りを感じる。それは、親子だからわかる感覚なのかもしれない。
三笠は九十歳を超えている。幾ら全力を尽くしても、不可能を可能にする程、現代医学は万能ではない。
孝則は、覚悟を決めて寝室に足を踏み入れた。だが、その瞬間に貞江が上げた声は、孝則の予想に反するものだった。
「よし、動いた! あなた! 今の内に、診療所に移送して!」
だが貞江の言葉は、孝則と孝道を安堵させるには至らなかった。
何故なら貞江の表情は、未だに強張っている。未だ、予断を許さない状態なのだろう。
孝則と孝道は、三笠を担架に乗せると、寝室から運び出す。
「親父、うちの車に乗せるぞ。貞江のじゃ、運べない」
「わかった。往診車は、俺が診療所に運ぶ」
貞江という、村唯一の医者と暮らしているのだ。
容体が急変し、駆けつけるのは、これが初めてではない。手慣れた手付きて、三笠を車に運び入れると、一同は診療所に向かった。
三笠の自宅よりは、設備の整っている診療所の方が、より良い処置が出来よう。それでも、限りが有る。やはり大きな病院に運んで、手術をする必要が有る。
どうしたら救える。どうしたら緊急オペを、成功させる事が出来る。それには、どんな準備をしたらいい。全ての可能性を考慮し、最適解を導き出す。
短い移動の間、貞江は頭をフル回転させていた。
診療所に到着すると処置室へ運び、バイタル測定の機械を三笠に繋げる。そして、除細動の処置を続けた。
その間、搬送先の病院と連絡を取り、バイタルのデータを転送出来るように、準備を整える。
まだまだ、やれる事は沢山ある。みのりの補助を受け、貞江は動き続けた。
やがて、救急車両が到着する。
救急隊員が三笠を運んでいく。貞江は付き添いとして、同行する事を申し出た。そして孝則と孝道は、自家用車で救急車両の後を追う。
一方、みのりは江藤に連絡を入れ、委細を説明する。そして、住人達への共有を依頼した。
江藤から連絡を受けた住人達は、次々と診療所に集まって来る。
ただ、皆は理解している。
自分達に出来る事は何もない。もし、出来る事が有るとすれば、連絡を待つ間、無事を祈る事だけだろう。
だが、誰に祈ればいい。神なのか、仏なのか、それとも先祖なのか。
もし祈りで願いが叶うなら、これまで別れた家族達と、もっと笑い合う事が出来ただろう。
待合室は、重苦しい雰囲気に包まれる。
誰もがしつこく纏わりつく不安を、取り除きたい。何か話して、気を紛らわせたいと感じていた。
だが、何を言えばいい? どんな話題なら、皆の気を紛らわせる事が出来る? そう考えると、言葉に詰まる。
そんな中、口を開いたのは、さくらであった。
「貞江さんがついてったんだ。あの子に出来ない事が、ただの名医に出来るはずないよ」
「ちげぇねぇ。ところで、さくらぁ。ガキ共は、どうした?」
「家に置いて来たよ」
「それは……いや、なんでもねぇ」
郷善は、言いかけた言葉を呑み込んだ。そして、さくらはそれを追求しなかった。
当然だ、覚悟なら村の誰もが出来ている。
それは、この村で生きて来たから。自分達がいつ同じ様になっても、不思議でないと感じているから。
だが同じことを、ギイ達に求める訳にはいかない。そして、彼らが覚悟を決めるには、この時間では短すぎる。
一時間、二時間と時間は経過していく。
それは、例え意識が戻らなくても、生きる事を諦めなかった時間なのだろう。
また、診療所で待つ住人達は、祈り続けた。
一方、搬送された病院では、手術のランプが消える。
結果は、手術室から出て来た貞江の表情が、明確に伝えていた。
八月十七日、午前三時五十分。三笠英二、享年九十六歳、永眠。
奇しくも送り盆の翌日。皆の祈りが、神仏に届く事は無かった。
数秒も経たずに反応するのは、職業病であろうか。貞江はスマートフォンを手に取ると、寝ぼけまなこで表示された警告を確認した。
その警告は、貞江を瞬時に覚醒させる。
貞江は、隣に寝ている孝道に声をかけると、寝間着の上に白衣を羽織う。そして、片手に往診用の鞄、もう片手にAEDを持ち、寝室から飛び出した。
「待て、貞江。先生か?」
「そうよ」
余程の緊急事態なのだろう。
暗がりの中でもわかる真っ青な顔を見れば、質問に答える余裕が無いのがわかる。
貞江はバタバタと廊下を走り、玄関に向かう。追いかける孝道は、捲し立てる様に、貞江に声をかけた。
「親父を起こしたら、俺も行く。お袋には、診療所に向かって貰う。良いな?」
「うん。よろしく」
貞江は往診用の車に乗り込むと、急発進させた。
一分一秒さえも惜しい。処置の時間が遅れる程、救える命が救えなくなる。
貞江が扱う患者は高齢者だ。体力の有る若者とは違い、症状が急変する事が多い。それだけ、死に至る危険が高い。
貞江は、車のスピードを上げる。走るというより、跳ねるという言葉が、適当かもしれない。
暴れる車を制御しながら、貞江はスピードを落とさず走り抜ける。そして、庭に車を停めると、玄関を開けて真っすぐに寝室へと向かった。
寝室の灯りを点けると、三笠の体が布団から出ているのが見える。恐らく発作が起きた際に、暴れたのだろう。
貞江は直ぐに三笠に近づき、素早く呼吸と脈を確認する。そして、持って来たAEDの蓋を開けた。
三笠は以前にも、発作を起こしている。
その際は貞江の判断により、救急病院へ運び手術を行った。命を取り留めた三笠は、術後の経過も順調だった。
それ以降、貞江は三笠に限り、往診の回数を増やしている。そして様子を観察しながら、健康管理と薬剤による治療を行って来た。
妻を失ってから、自堕落な生活になりつつあった三笠が、食事の管理と運動を心掛ける様になったのは、この時からである。
孝道の畑を手伝っているのは、仕事ではない。あくまでも、体を動かすのが目的だ。
貞江から詳しい様子を聞いているからこそ、孝道は手伝いの範囲が過度にならない様に努め、適宜休憩を取らせるように、配慮出来たのだろう。
三笠は少し前に、軽い発作を起こしている。恐らく原因は、騒動によるストレスであろう。だが、それから昨日までの間に、貞江のスマートフォンは、緊急信号を受け取っていない。
三笠が、再び発作を起こす可能性は有った。だがその可能性は、極めて低いと思われた。
それだけ最近の三笠は、はつらつとしていたのだ。三笠の体調は、直近の往診でも確認をしている。
今、目の前に広がる現状を、疑いたくなる。夢だと思いたくなる。
だが貞江は、そんな現実逃避まがいの妄想を打ち捨てて、除細動の処置に集中した。
「頑張って! 先生! お願い! 先生! 戻ってきて!」
AEDでの処置を行っていると、玄関の外が賑やかになるのがわかる。
直ぐにバタバタと足音を立て、孝道が寝室に入って来る。
「どうだ?」
「駄目、診療所に連れて行かないと」
「救急は?」
「お願い! 直ぐに! もう間に合わない!」
救急車の往復時間を鑑みれば、診療所に連れて行き、適切な処置をした方がいいと考えたのだろう。
高齢者の病気において、恐ろしいのは合併症の発生だ。既に、心室細動を起こしている可能性が高い。このまま改善が見られなければ、訪れるのは死だ。
意図を察した孝道は、手に持っていたスマートフォンで、救急の番号を押した。通話口で診療所の場所を知らせる。そして、スマートフォンを貞江の耳元に寄せ、詳しい状態を伝えさせる。
通話を切ると、孝道は走った。そして、貞江の車に積んである、折り畳み式の担架を取り出す。
丁度、担架を家の中に運び込もうとした時、車のライトが孝道を照らした。
「親父!」
「先生の様子は?」
「不味い。救急には連絡を入れた。それまでの間、診療所に運ぶ」
「わかった。調査隊には、俺から連絡する」
孝則は、車の出入りが邪魔にならない隅に、軽トラックを寄せると、孝道の後に続いて玄関を潜る。
貞江の緊張感が伝わったのか、孝道から焦りを感じる。それは、親子だからわかる感覚なのかもしれない。
三笠は九十歳を超えている。幾ら全力を尽くしても、不可能を可能にする程、現代医学は万能ではない。
孝則は、覚悟を決めて寝室に足を踏み入れた。だが、その瞬間に貞江が上げた声は、孝則の予想に反するものだった。
「よし、動いた! あなた! 今の内に、診療所に移送して!」
だが貞江の言葉は、孝則と孝道を安堵させるには至らなかった。
何故なら貞江の表情は、未だに強張っている。未だ、予断を許さない状態なのだろう。
孝則と孝道は、三笠を担架に乗せると、寝室から運び出す。
「親父、うちの車に乗せるぞ。貞江のじゃ、運べない」
「わかった。往診車は、俺が診療所に運ぶ」
貞江という、村唯一の医者と暮らしているのだ。
容体が急変し、駆けつけるのは、これが初めてではない。手慣れた手付きて、三笠を車に運び入れると、一同は診療所に向かった。
三笠の自宅よりは、設備の整っている診療所の方が、より良い処置が出来よう。それでも、限りが有る。やはり大きな病院に運んで、手術をする必要が有る。
どうしたら救える。どうしたら緊急オペを、成功させる事が出来る。それには、どんな準備をしたらいい。全ての可能性を考慮し、最適解を導き出す。
短い移動の間、貞江は頭をフル回転させていた。
診療所に到着すると処置室へ運び、バイタル測定の機械を三笠に繋げる。そして、除細動の処置を続けた。
その間、搬送先の病院と連絡を取り、バイタルのデータを転送出来るように、準備を整える。
まだまだ、やれる事は沢山ある。みのりの補助を受け、貞江は動き続けた。
やがて、救急車両が到着する。
救急隊員が三笠を運んでいく。貞江は付き添いとして、同行する事を申し出た。そして孝則と孝道は、自家用車で救急車両の後を追う。
一方、みのりは江藤に連絡を入れ、委細を説明する。そして、住人達への共有を依頼した。
江藤から連絡を受けた住人達は、次々と診療所に集まって来る。
ただ、皆は理解している。
自分達に出来る事は何もない。もし、出来る事が有るとすれば、連絡を待つ間、無事を祈る事だけだろう。
だが、誰に祈ればいい。神なのか、仏なのか、それとも先祖なのか。
もし祈りで願いが叶うなら、これまで別れた家族達と、もっと笑い合う事が出来ただろう。
待合室は、重苦しい雰囲気に包まれる。
誰もがしつこく纏わりつく不安を、取り除きたい。何か話して、気を紛らわせたいと感じていた。
だが、何を言えばいい? どんな話題なら、皆の気を紛らわせる事が出来る? そう考えると、言葉に詰まる。
そんな中、口を開いたのは、さくらであった。
「貞江さんがついてったんだ。あの子に出来ない事が、ただの名医に出来るはずないよ」
「ちげぇねぇ。ところで、さくらぁ。ガキ共は、どうした?」
「家に置いて来たよ」
「それは……いや、なんでもねぇ」
郷善は、言いかけた言葉を呑み込んだ。そして、さくらはそれを追求しなかった。
当然だ、覚悟なら村の誰もが出来ている。
それは、この村で生きて来たから。自分達がいつ同じ様になっても、不思議でないと感じているから。
だが同じことを、ギイ達に求める訳にはいかない。そして、彼らが覚悟を決めるには、この時間では短すぎる。
一時間、二時間と時間は経過していく。
それは、例え意識が戻らなくても、生きる事を諦めなかった時間なのだろう。
また、診療所で待つ住人達は、祈り続けた。
一方、搬送された病院では、手術のランプが消える。
結果は、手術室から出て来た貞江の表情が、明確に伝えていた。
八月十七日、午前三時五十分。三笠英二、享年九十六歳、永眠。
奇しくも送り盆の翌日。皆の祈りが、神仏に届く事は無かった。
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