信川村の奇跡

東郷 珠

文字の大きさ
上 下
22 / 93
積み上げる信頼

教え教えられ

しおりを挟む
「わ、わた、わたしの、なは、く、くみる。くみると、いいます」
「そうか! 君は、クミルというのだな? クミル、私の名前は覚えているか?」
「※※※※※※。せんせい?」
「あぁ、そうか。貞江がそう呼ぶから、覚えてしまったんだな? それでも構わんか。でもなクミル。せんせいは、あだ名だ」
「あ、だ、な?」
「そう、あだ名。仮の名前だ」
「みかさ、えいじ?」
「そうだ、君は賢いな! それが私の名前だ」

 青年はたどたどしく、覚えたての言葉で、自らの名を告げる。たった一日で、青年は自分の名前を言える程に、日本語を習得した。
 昨日は、発音すらままならなかったのだ、どれだけの進歩かわかるだろうか?

 クミルは、三笠が診療所を訪れなり、覚えたての日本語で、質問を浴びせる。三笠は、ゆっくりと丁寧に回答する。
 説明に含まれる言葉の意味が、わからない時も有る。その場合クミルは、三笠の話しを中断させてでも、直ぐに質問をする。
 そして三笠は、変わらずゆっくりと丁寧に、また身振りを交えて、言葉の意味を説明をする。時には、体を使って示す事で、理解を促す。

 理解をすると、クミルは嬉しそうな笑顔を見せる。
 熱心な教え子が出来たのだ、三笠にとっても、クミルと会うのが楽しみになっていた。

 三笠が日本語を教える目的は、この世界に来た方法と、帰る方法、この二点を知る為である。
 しかし三笠は、クミルから無理に聞き出そうとしなかった。

 余程の事が有ったのは、さくらの話しからも想像できる。ただでさえ環境が変わったのだ、これ以上余計なストレスを与える必要は無い。
 必ず、話してくれる時が来る、それを待てばいい。

 三笠は会話を交えて、身の回りの事を中心に日本語を教えた。
 クミルは、病院の施設を理解し、自由に動き回れる様になった。空調の操作方法を知り、窓ガラスの存在を知り、自動ドアの仕組みを知った。
 
 クミルは、海綿が水を吸うように、知識を吸収していく。教師としては、教え甲斐が有るというものだ。
 
 また、神の力ではなく、技術だと知ったクミルは、興味深く三笠の話しを聞いた。その意味では、施設の中は、クミルにとって宝箱の様な場所であろう。

 ふかふかのベッドもさることながら、機械という真新しい出会いに囲まれている。
 ちゃんと知れば、恐れる必要が無い。ベットの近くに置いてある医療器具も、自分を治療する為だとわかれば、安心できる。

 しかし、そんなクミルを驚かせたのは、ウォシュレットであろう。

「※※※※※※!」

 初めて体験した時には、思わず母国語で叫び声を上げた。

 一応の説明は、三笠から受けていた。しかし、半分も理解出来なかった。日本語を学んでいる最中なのだ、それは仕方が無かろう。
 三笠は、実際に体験した方が早いと考え、クミルに試させたのだ。

「せんせい、みず! たすけ、※※※※※※!」
「落ち着け、クミル! いいか! 一番先のボタンを押せ! 赤色のボタンだ! ボタンはわかるか?」
「ボタン? あか?」
「そうだ、右手に有る。わかるか?」
「はい、ある、ます」
「よし、それを押せ!」
「せんせい! みず、みず?」
「良いんだ。それで正解だ! 後は、トイレットペーパーで、尻を拭いて出て来なさい」
「ぺいぱ? しろ? これ?」
「そうだ、さっき教えた様に、それで尻の水気を取るんだ」

 ドア越しにカラカラという音が聞こえる。その後、暫くしてから、ジャーという音が聞こえて来た。
 教えた通りの事が出来たのだろう。

 貞江は医師だ、他人の排泄物を見る事も、仕事の内であろう。
 だが、クミルは子供ではない。他人に見られながらの排便は、気恥ずかしいどころか、嫌だと感じるのではなかろうか。
 故に三笠は、トイレの使い方を教えた。

「ごい。ごい、です」
「すごい、と言いたいのか?」
「そう、すごい」 
「そうか。これで、一人でトイレが使えるな?」
「……? ああ、そう。いける、くみる、わたし、ひとり、といれ、いける」

 まるで宝物を発見した風に、輝いた表情を浮かべて、クミルはトイレから出て来る。
 そして、三笠の問いかけに、少し首を傾げながらも、たどたどしく答えた。

 そんな二人のやり取りを、背後から眺めていた貞江は、吹き出す様に笑い始める。
 貞江に釣られて、クミルも笑う。
 
 三笠はクミルと接して、人柄の片鱗を知り、誠実な男だと理解した。
 また、真面目な性格に加え、努力家でもあるのだろう。更に言えば、勇敢な青年だ。

 言葉も通じぬ、見知らぬ他人を受けれ入れるのは、誰もが出来る事ではない。
 それが、たった一日ほど一緒に居ただけで、笑い合う事が出来る。こんなに素晴らしい事が、有るだろうか?
 三笠は、その光景を愛おしいと感じていた。

 ☆ ☆ ☆

 一方さくらの家では、親ガモを追う子ガモの様に、ギイとガアがさくらの後ろを、着いて回っていた。
 昨日の会議で、住民達から一定の理解を得た。
 しかしさくらは、直ぐにギイ達を、屋外に出すつもりはなかった。

 屋内外問わず、至る所に危険が有る。ある程度の事は、教えないとならない。
 クミルは、人間だ。自分の持つ知識と、新たな知識を擦り合わせる事で、ある程度は順応する事が出来るだろう。

 しかし、ギイとガアは違う。
 人間にとって日常的な事でも、ギイ達にとっての日常ではない。
 見て真似るからといって、放置していいはずがない。正しい知識を教えて、経験を積ませなければ、危険を伴う事も有る。

 この日、台所へ立つさくらを、ギイとガアは見ていた。自分達にも出来ると考えたのだろう。
 ぴょんぴょんと飛び跳ねて、洗い物を手伝いたいと、さくらにアピールする。

 それだけなら、まだいい。
 ガス台や、包丁を触ろうともした。これは、正しい知識が無ければ、怪我では済まない。

 その様子を見たさくらは、敢えて包丁で、指先を少し切って見せた。
 直ぐに指先から、血が流れる。それを見たギイとガアは、顔を青ざめさせる。

「わかるかい? 危ないんだよ。無理しなくていい、ゆっくりと覚えればいい。これは、あんた達には、まだ早い」

 さくらは包丁を片付けると、居間にギイとガアを連れて行き、絆創膏を取り出す。そして、絆創膏を指に張ると所までを見せる。

「わかるかい? 小さい怪我なら、これで血が止まるんだよ」

 一連の行動を見て、ギイ達は理解したのだろう。コクコクと小さな頭を上下に動かした。
 そんなギイ達の頭を、さくらは優しく撫でる。

「いいかい。ゆっくりと、覚えなさい。焦る必要はない。ゆっくりでいい。正しい知識を身につけなさい」
「ギャッギャギャ?」
「そうだよ、ゆっくりだよ」
「ガアガア、ガガガ?」
「そうだよ、正しい知識だよ」

 流石に、言葉を真似は出来ないのだろう。また、言葉の意味を半分も理解しているか、定かではない。
 しかしギイ達は、さくらのイントネーションを真似る。

 またギイとガアは、食事の際に箸を使おうと頑張った。
 箸を握って、おかずを刺す。それ位なら出来た。しかしさくらの様に、上手くは使えない。ギイ達は、少し悔しそうな表情を浮かべる。
 そんなギイ達を、さくらは頭を撫でて褒めた。

「よく頑張ったね。まだまだなのは、これから覚えればいいんだ。焦らなくていい、すぐに上手く使える様になるよ」

 食事の後は、食器を片付けるのを手伝った。運ぶだけなら出来るだろう。そう判断したから、さくらは見守った。

 簡単な事なら、見て真似る事が出来る。それは、子供ながらに持つ僅かな経験で、補える範囲に限られるのだろう。

 ギイ達の行動は、全てさくらが強制した事ではない。
 ギイ達は、犬や猫とは違う、何も知らない子供とも違う。強制して、何かを教え込もうとすれば、必ず行き違う。

 これまでの生活で、親から伝えられて来た事も有るだろう。その中には、大切な教えも有ったはず。それを無碍にしてはならない。
 ギイ達は、人間ではない。これは、しっかりと頭に、叩き込まなければならない。
 そうでなければ、必ず対応を間違える。ギイ達が伝えたい事を、理解してあげられない。
 
 それこそ、ギイ達が山へ行ったのは、そこでなら自分達だけで暮らしていけると、判断したからであろう。
 寧ろ、森の中に居る方が、ギイ達にとっては自然なはずだ。
 家に住む、衣服を纏う、これは人間が作り上げた文化だ。ギイ達が当然に受け入れられると、考えてはいけない。

 必要に迫られて、覚えなければならない。それは、容易な事では無いはず。
 不満を口にしなくても、ストレスは感じているはず。
 衣類を纏う事に対して、ギイ達は不満を口にしない。だが、受け入れる為に、何かしら心の動きが有ったはず。
 それを汲み取るには、ギイとガアという存在を、ちゃんと理解しなければならない。

 さくらの所作をじっくりと観察し、また言葉の意図を理解しようとする。
 それはギイとガアが、今の生活に順応する為の努力なのだろう。
 恐らく彼らは、理解している。特にクミルは、現実を受け止めている。

 もう帰れない、ここで生きていくしかない。

 現状を理解した上で、置かれた環境に馴染もうとする。
 知る事、理解する事がどれだけ大変なのか。それを行う気力が、どれほど尊いものなのか。
 
 だからこそ、一つずつ丁寧に、教える必要がある。
 さくらと三笠は彼らと接する事で、真摯に向き合う大切さを、感じさせられた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

東大正高校新聞部シリーズ

場違い
ライト文芸
 県立東大正高校、その新聞部に所属する1年生の小池さん。  彼女の身の回りで発生するちょっとした不思議な事件の数々……そこには、少し切ない後悔の物語が隠されていて……。  日常の『小さな謎』と人間模様に焦点を当てた、ポップでビターな学園ミステリ。  高校エントランスに置かれたパノラマ模型には、何故、『ないはずの施設がある』のか……?  体育祭の朝、何故、告発の予告状が張り付けられていたのか……?  旧友は、何故、お茶の誘いを頑なに断るのか……?  身に覚えのないラブレターが、何故、私の鞄の中に入っていたのか……?  数年前には、数時間前には、数秒前には、もう2度と戻れない。輝かしい青春の学園生活の中で、私たちがずっと見落としていた、後悔のタネ。  だったらせめて、心残りのある謎は、納得のいくまで解いてあげよう。  キラキラしていて、だけど切なくてほろ苦い。  青春ミステリ作品集、どうぞお楽しみください。 ※カクヨムにて連載中『【連作ミステリー】東大正高校新聞部シリーズ』の、一部修正を加えたアルファポリス移植版です。

優等生の裏の顔クラスの優等生がヤンデレオタク女子だった件

石原唯人
ライト文芸
「秘密にしてくれるならいい思い、させてあげるよ?」 隣の席の優等生・出宮紗英が“オタク女子”だと偶然知ってしまった岡田康平は、彼女に口封じをされる形で推し活に付き合うことになる。 紗英と過ごす秘密の放課後。初めは推し活に付き合うだけだったのに、気づけば二人は一緒に帰るようになり、休日も一緒に出掛けるようになっていた。 「ねえ、もっと凄いことしようよ」 そうして積み重ねた時間が徐々に紗英の裏側を知るきっかけとなり、不純な秘密を守るための関係が、いつしか淡く甘い恋へと発展する。 表と裏。二つのカオを持つ彼女との刺激的な秘密のラブコメディ。

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

光のもとで1

葉野りるは
青春
一年間の療養期間を経て、新たに高校へ通いだした翠葉。 小さいころから学校を休みがちだった翠葉は人と話すことが苦手。 自分の身体にコンプレックスを抱え、人に迷惑をかけることを恐れ、人の中に踏み込んでいくことができない。 そんな翠葉が、一歩一歩ゆっくりと歩きだす。 初めて心から信頼できる友達に出逢い、初めての恋をする―― (全15章の長編小説(挿絵あり)。恋愛風味は第三章から出てきます) 10万文字を1冊として、文庫本40冊ほどの長さです。

百物語 厄災

嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。 小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

はじまりの朝

さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。 ある出来事をきっかけに離れてしまう。 中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。 これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。 ✳『番外編〜はじまりの裏側で』  『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。

処理中です...