2 / 93
未知との出会い
忘れ去られた村
しおりを挟む
都心から僅か数時間の山間に、ひっそりと小さな村が存在した。
周囲をぐるりと山に囲まれた村へ行くには、山間に沿って造られた数キロの山道を通るしかない。この村の存在を知る者は、近くの市街地に住む一部の住人くらいだろう。
国からも存在を忘れ去られ、平成の大合併で恩恵を受ける事が叶わなかった村の名を、信川村という。
村を囲む山々は、開発により多くの緑を失った狭い日本の国土において、数少ない緑溢れる楽園であった。
手付かずの自然が残る山には、熊、タヌキ、キツネ、イノシシなどの動物を始め、多くの野鳥や昆虫等が生息する。
また森には、ブナやカエデ等の広葉樹が生い茂っている。木々から生る実は、多くの動物達の腹を満たしていた。
山から流れる川は、陽を浴びてキラキラと光り、イワナやヤマメ等の姿を見る事が出来る。また、山間を吹き抜ける風は、夏の暑さを和らげ、雲を村へと運んでくる。
動物達の楽園と共存する様に、平地には田畑が広がる。ただし、近年では休耕地が多くなり、多くの田畑には草が生い茂っている。
田畑の周辺には、既に住む者がおらず、廃屋と化した家々も各所に点在する。中には倒壊し、草木と一体化している物も有る。
今でも明りが灯る家はごく僅か、耕作地として活用されている土地の近くに、ぽつりと点在している。
村の中でも中心部周辺の道しか舗装はされておらず、住民達が主に使うのは、畑へ向かうあぜ道である。そして、元は小さな商店街だっただろう場所は、誰も住む者はいない。
村の中心部には、古めかしく小さな役場がある。役場周辺には、村が管理している幾つかの建物が有るが、使用頻度の高いのは集会場と火葬場であろう。
それ以外の施設は、役場から少し離れた場所に、診療所が存在するくらいである。
無論、コンビニはおろか商店は存在しない。村へは、移動販売すら訪れない。ほとんどの場合は、山道を通って市街地へ向かい、収穫した作物を卸すついでに、買い物をして帰って来る。
住民達が総出で、村で所有する小型のバスを利用し、近くの市街地に買い出しへ行く事もあるが、年に数回しかない稀なケースである。
村を訪れる者も、電気や水道といったインフラ整備をする者に限られる。自然が豊かとはいえ、近くの町ですら存在を知らない村に、観光客など訪れはしない。
都心やベッドタウンに住む者達からすれば、不便極まりない事だろう。それ故か、多くの者は都心へと移り住み過疎化が進み、現在の住民は十八名。そして、平均年齢は七十歳を超えていた。
そんな信川村に、八十を超える老婆が、五年前に移り住む。村はそれを機に、少しずつ変革を遂げた。
古くなった診療所の改築、上下水道の整備、発電施設の修繕と送電網の整備、そしてITインフラの構築など、次々と新たな事業が立ち上がった。
当然、事業のほとんどは、国庫からの補助があってこそ実行可能であった。しかし、中には老婆の資産を利用したものや、一般企業からの援助を受けて行った事業も存在する。
ただの老人ならば、村の再生に関われるほどの、多額の資産を持つことはないだろう。ましてや、村の事業を活性化させることは、不可能である。
しかし老婆は、若い頃に立ち上げた小さな会社を、一部上場にまで押し上げ、大企業へと成長させた経済界の重鎮であった。
夫の死と共に、夫が経営していた会社の株を相続した彼女は、自らの経営する会社と夫が経営していた会社を合併させた上で、息子に後を継がせて引退し、信川村に移住した。
普通ならば、突然現れたよそ者が、村を好き勝手にする事を、住民達は良くは思うまい。だが、信川村の住民達は、よくある排他的な集落の人間とは違った。
二十名以下であっても、真面目で頑固な者、無口で多くを語らない者、明るく社交的な者、穏やかで聞き上手な者など、様々なタイプの住民が存在する。
その中には故郷を離れ海を渡り、この村を終の住み処と決めた夫婦もいる。その夫婦は、帰化申請を済ませ、今では日本人になっている。
ただ一つ言えるのは、村の住民達は総じて優しかった。
「さくら、今日も散歩か? そう言えば昨日の天気、早めにわかって助かったぞ」
「そうかい。あんたもやっと、スマホを使える様になったんだね」
「うるさい! そういうのは、うちのに言え! いつまでも、使い方を覚えようとないんだ。しょうがなく、俺が覚えたんだ」
「郷善さん、何言ってのさ。華子さんは、とっくに使い方をマスターしてるよ。旦那を立てて、使えないふりをしてたんだよ。色々と感謝が、足りてないじゃないかい? それとも八十五になって、そろそろボケてきたのかい?」
「この人は、最近じゃどんどん怒りっぽくなってるんですよ。さくらさんからも、何か言ってあげて下さい」
「おい、華子! お前まで何を言い出すんだ!」
「歳をとっても、子供なんですよ。さて、華子さん。私はそろそろ散歩に戻りますね」
「おい、さくら! 下らない事を言うな! お前の方が、三つも年上なんだぞ! お前の方が先にボケるに決まってる! それと、都会育ちの軟弱もんが、あぜ道でなんかで躓くなよ! それに、熱中症にも気をつけろ、ババアなんだからな」
「あなた、そんな言い方」
「いいよ、華子さん。心配してくれて、ありがとうね。あんたも気をつけなよ、じじい!」
五年前に移り住んだ老婆の名は、宮川さくらという。
そして、住民達はまるで家族の様に、さくらと接した。それは、さくらが村を訪れてから行った、数々の事業に起因するところもある。
ただ村の住民達は、よそ者としてではなく、さくらを新しい家族として受け入れた。
自然が人の心を豊かにするのか、進んだ文明が人から心の豊かさを奪うのか。
これが都会であったなら、こうは行くまい。
隣近所であっても、挨拶の一つすら交わさない。集合住宅の隣部屋は、顔をすら見た事がない他人がすんでいる。これでは、都会の方が排他的であると、言わざるを得ない。
数少ない住民は、共に支え合いながら暮らしている。それ故だろうか、住民達は皆が家族という意識が強いのだろう。そして老婆を、新たな家族として、温かく受け入れた。
だからこそ、さくらは自分の資産を投げうって、村へ恩返しをした。また住民達は、さくらから受けた恩を忘れない。
そうして、関係は築かれていく。
日課の散歩に勤しめば、決まって畑の方角から、声をかけられる。そして、他愛も無い会話を楽しむ。歯に衣着せぬやり取りも、心が通じ合った仲だからこそだろう。
「むっ、さくらか」
「おや、先生。これから畑かい?」
「あぁ、今日は桑山の家に寄ってから、畑に向かうつもりだ」
「そうかい。今日は郷善の所じゃなくて、孝道の手伝いかい。それにしても先生は、見かけに寄らず元気だね」
「そうか? 私は、そんなに老けて見えるか?」
「先生。あんた、自分を何歳だと思ってるんだい?」
「確かにな、九十を超えれば、老いもするか。だがこう見えて、健康そのものだぞ。孝則には、負けておらん! 最近はお前を見習って、歩くようにしているしな」
「あはは。あの村長は、殺したって死にはしないよ。比べるだけ損さ。それより、健康なのは良い事だね。あたしも、見習わなきゃね」
「お前は、少し落ち着いた方がいい。年甲斐もなく、あっちこっちと飛び回っていれば、いつか大怪我をするぞ!」
「あっはは。相変わらず面白いね、先生」
村の中をゆっくりと歩いていると、誰かしらに会う。
しかし山間の村とはいえ、十八名の住民には過ぎた広さだろう。田畑のほとんどが休耕地となっているのも、その証拠だろう。
また家々は、隣り合ってはいない。例えば、先生と呼ばれた老人が、畑の手伝いに行くには、一キロ近くの距離を歩かなければならない。
井戸端会議の様な、住民のコミュニケーションは、農作業の合間にする事が出来る。また、村で唯一の医師が、定期的に回診をしている。
だが、夫婦で暮らしている者ならいざ知らず、それだけでは住民全ての安否を、迅速に確認する事は出来ない。
その為さくらは、かつて自分が経営していた企業と交渉し、Wifiの基地局を設置させた。そして操作が簡便な、シニア向けのスマートフォンの試作機を住民達に持たせた。
当試作機には、今や当然となった、防塵、防水や位置情報を確認出来る機能は備わっている。ただ重要なのは、感覚的な操作が可能か否かであろう。
機器が声に反応し、全ての操作を可能としている。また画面を長押しすれば、指定した全ての連絡先を、呼び出す事も可能である。
そして、付属のツールを腕に装着していれば不整脈を検知し、自動的にスマートフォンが緊急連絡を行う。また付属ツールの装着時に、スマートフォンと一定の距離が離れると、緊急連絡先に信号が飛ぶ様にもなっている。
付け加えるなら、アプリを使って自宅に居ながら、集会を行う事が出来る様になった。それ以外にも、ホーム画面には住民用の掲示板が表示され、回覧版よりも早く情報の伝達を行える様になった。
年齢が高くなれば、体を動かす事自体が大変になる。また、付属ツールを身につけてさえいれば、例え徘徊しても捜索がし易くなる。その上、身体に重大な危機が訪れた時に、直ぐに連絡が出来れば、迅速な処置により救命が可能になる。
スマートフォンから収集されるデータや、掲示板等を管理する者も、村には存在している。
既に定年を迎えているが、現役時代はさくらの右腕として信頼されていた男性が、スマートフォンのプロジェクトと共に信川村へ移り住んでいる。
彼は、試作機の使用に基づくデータを企業に報告し、また心拍数等のデータを村の医師へと渡している。
信川村は、さくらの移住と共に、変革を遂げた。
しかし、この村の存在を知る者は、村の名を別称で呼ぶ。
姥捨て山と。
確かに、住民の平均年齢を考えれば、その通り名は相応しいのかも知れない。ただし、住民達は決して捨てられたのではない。
この村を愛していた為、村から離れなかっただけである。そして、村へ移り住んだ者達も、豊かな自然と不便さを愛した。
この村の空気は、都会の様に排気ガス等で汚れていない。胸いっぱいに吸い込めば、活力が漲る。
街灯が無ければ、明りがついている家の数が少ない。夜空を見上げれば、満天の星空に心を揺り動かされる。
何よりも、自分達が精魂込めて作った、採れたての野菜は、何物にも代えがたい旨さが有る。
都会に住む者達は、文明の進歩に踊らされ、本当の幸せを見失っているのだろう。住む場所に不自由せず、自らの手で作った作物は格別の味である。これ以上の贅沢が、他に有るだろうか。
都会では見かけなくなった、蝶やバッタなどが飛び交い、美しい緑が眼と心を癒す。そんな贅沢が、他に有るだろうか。
この村には、自然が溢れている。
だからこそさくらは、その豊かな自然を壊さない様に、老人達の住みやすさを考え、様々な事業を立ち上げた。
日本中からその存在を忘れられた村、地図にすら掲載されていない、利便性の少ない秘境の地。そんな場所だから、そんな場所に住む人々だから、物語が生まれる。
これから語るのは、言葉が通じないどころか、種族さえも違う者達が、心を通い合わせる物語。ゴブリンという人間とは異なる化け物が、現代社会で平和に暮らすには何が必要なのか。それを描いた物語である。
周囲をぐるりと山に囲まれた村へ行くには、山間に沿って造られた数キロの山道を通るしかない。この村の存在を知る者は、近くの市街地に住む一部の住人くらいだろう。
国からも存在を忘れ去られ、平成の大合併で恩恵を受ける事が叶わなかった村の名を、信川村という。
村を囲む山々は、開発により多くの緑を失った狭い日本の国土において、数少ない緑溢れる楽園であった。
手付かずの自然が残る山には、熊、タヌキ、キツネ、イノシシなどの動物を始め、多くの野鳥や昆虫等が生息する。
また森には、ブナやカエデ等の広葉樹が生い茂っている。木々から生る実は、多くの動物達の腹を満たしていた。
山から流れる川は、陽を浴びてキラキラと光り、イワナやヤマメ等の姿を見る事が出来る。また、山間を吹き抜ける風は、夏の暑さを和らげ、雲を村へと運んでくる。
動物達の楽園と共存する様に、平地には田畑が広がる。ただし、近年では休耕地が多くなり、多くの田畑には草が生い茂っている。
田畑の周辺には、既に住む者がおらず、廃屋と化した家々も各所に点在する。中には倒壊し、草木と一体化している物も有る。
今でも明りが灯る家はごく僅か、耕作地として活用されている土地の近くに、ぽつりと点在している。
村の中でも中心部周辺の道しか舗装はされておらず、住民達が主に使うのは、畑へ向かうあぜ道である。そして、元は小さな商店街だっただろう場所は、誰も住む者はいない。
村の中心部には、古めかしく小さな役場がある。役場周辺には、村が管理している幾つかの建物が有るが、使用頻度の高いのは集会場と火葬場であろう。
それ以外の施設は、役場から少し離れた場所に、診療所が存在するくらいである。
無論、コンビニはおろか商店は存在しない。村へは、移動販売すら訪れない。ほとんどの場合は、山道を通って市街地へ向かい、収穫した作物を卸すついでに、買い物をして帰って来る。
住民達が総出で、村で所有する小型のバスを利用し、近くの市街地に買い出しへ行く事もあるが、年に数回しかない稀なケースである。
村を訪れる者も、電気や水道といったインフラ整備をする者に限られる。自然が豊かとはいえ、近くの町ですら存在を知らない村に、観光客など訪れはしない。
都心やベッドタウンに住む者達からすれば、不便極まりない事だろう。それ故か、多くの者は都心へと移り住み過疎化が進み、現在の住民は十八名。そして、平均年齢は七十歳を超えていた。
そんな信川村に、八十を超える老婆が、五年前に移り住む。村はそれを機に、少しずつ変革を遂げた。
古くなった診療所の改築、上下水道の整備、発電施設の修繕と送電網の整備、そしてITインフラの構築など、次々と新たな事業が立ち上がった。
当然、事業のほとんどは、国庫からの補助があってこそ実行可能であった。しかし、中には老婆の資産を利用したものや、一般企業からの援助を受けて行った事業も存在する。
ただの老人ならば、村の再生に関われるほどの、多額の資産を持つことはないだろう。ましてや、村の事業を活性化させることは、不可能である。
しかし老婆は、若い頃に立ち上げた小さな会社を、一部上場にまで押し上げ、大企業へと成長させた経済界の重鎮であった。
夫の死と共に、夫が経営していた会社の株を相続した彼女は、自らの経営する会社と夫が経営していた会社を合併させた上で、息子に後を継がせて引退し、信川村に移住した。
普通ならば、突然現れたよそ者が、村を好き勝手にする事を、住民達は良くは思うまい。だが、信川村の住民達は、よくある排他的な集落の人間とは違った。
二十名以下であっても、真面目で頑固な者、無口で多くを語らない者、明るく社交的な者、穏やかで聞き上手な者など、様々なタイプの住民が存在する。
その中には故郷を離れ海を渡り、この村を終の住み処と決めた夫婦もいる。その夫婦は、帰化申請を済ませ、今では日本人になっている。
ただ一つ言えるのは、村の住民達は総じて優しかった。
「さくら、今日も散歩か? そう言えば昨日の天気、早めにわかって助かったぞ」
「そうかい。あんたもやっと、スマホを使える様になったんだね」
「うるさい! そういうのは、うちのに言え! いつまでも、使い方を覚えようとないんだ。しょうがなく、俺が覚えたんだ」
「郷善さん、何言ってのさ。華子さんは、とっくに使い方をマスターしてるよ。旦那を立てて、使えないふりをしてたんだよ。色々と感謝が、足りてないじゃないかい? それとも八十五になって、そろそろボケてきたのかい?」
「この人は、最近じゃどんどん怒りっぽくなってるんですよ。さくらさんからも、何か言ってあげて下さい」
「おい、華子! お前まで何を言い出すんだ!」
「歳をとっても、子供なんですよ。さて、華子さん。私はそろそろ散歩に戻りますね」
「おい、さくら! 下らない事を言うな! お前の方が、三つも年上なんだぞ! お前の方が先にボケるに決まってる! それと、都会育ちの軟弱もんが、あぜ道でなんかで躓くなよ! それに、熱中症にも気をつけろ、ババアなんだからな」
「あなた、そんな言い方」
「いいよ、華子さん。心配してくれて、ありがとうね。あんたも気をつけなよ、じじい!」
五年前に移り住んだ老婆の名は、宮川さくらという。
そして、住民達はまるで家族の様に、さくらと接した。それは、さくらが村を訪れてから行った、数々の事業に起因するところもある。
ただ村の住民達は、よそ者としてではなく、さくらを新しい家族として受け入れた。
自然が人の心を豊かにするのか、進んだ文明が人から心の豊かさを奪うのか。
これが都会であったなら、こうは行くまい。
隣近所であっても、挨拶の一つすら交わさない。集合住宅の隣部屋は、顔をすら見た事がない他人がすんでいる。これでは、都会の方が排他的であると、言わざるを得ない。
数少ない住民は、共に支え合いながら暮らしている。それ故だろうか、住民達は皆が家族という意識が強いのだろう。そして老婆を、新たな家族として、温かく受け入れた。
だからこそ、さくらは自分の資産を投げうって、村へ恩返しをした。また住民達は、さくらから受けた恩を忘れない。
そうして、関係は築かれていく。
日課の散歩に勤しめば、決まって畑の方角から、声をかけられる。そして、他愛も無い会話を楽しむ。歯に衣着せぬやり取りも、心が通じ合った仲だからこそだろう。
「むっ、さくらか」
「おや、先生。これから畑かい?」
「あぁ、今日は桑山の家に寄ってから、畑に向かうつもりだ」
「そうかい。今日は郷善の所じゃなくて、孝道の手伝いかい。それにしても先生は、見かけに寄らず元気だね」
「そうか? 私は、そんなに老けて見えるか?」
「先生。あんた、自分を何歳だと思ってるんだい?」
「確かにな、九十を超えれば、老いもするか。だがこう見えて、健康そのものだぞ。孝則には、負けておらん! 最近はお前を見習って、歩くようにしているしな」
「あはは。あの村長は、殺したって死にはしないよ。比べるだけ損さ。それより、健康なのは良い事だね。あたしも、見習わなきゃね」
「お前は、少し落ち着いた方がいい。年甲斐もなく、あっちこっちと飛び回っていれば、いつか大怪我をするぞ!」
「あっはは。相変わらず面白いね、先生」
村の中をゆっくりと歩いていると、誰かしらに会う。
しかし山間の村とはいえ、十八名の住民には過ぎた広さだろう。田畑のほとんどが休耕地となっているのも、その証拠だろう。
また家々は、隣り合ってはいない。例えば、先生と呼ばれた老人が、畑の手伝いに行くには、一キロ近くの距離を歩かなければならない。
井戸端会議の様な、住民のコミュニケーションは、農作業の合間にする事が出来る。また、村で唯一の医師が、定期的に回診をしている。
だが、夫婦で暮らしている者ならいざ知らず、それだけでは住民全ての安否を、迅速に確認する事は出来ない。
その為さくらは、かつて自分が経営していた企業と交渉し、Wifiの基地局を設置させた。そして操作が簡便な、シニア向けのスマートフォンの試作機を住民達に持たせた。
当試作機には、今や当然となった、防塵、防水や位置情報を確認出来る機能は備わっている。ただ重要なのは、感覚的な操作が可能か否かであろう。
機器が声に反応し、全ての操作を可能としている。また画面を長押しすれば、指定した全ての連絡先を、呼び出す事も可能である。
そして、付属のツールを腕に装着していれば不整脈を検知し、自動的にスマートフォンが緊急連絡を行う。また付属ツールの装着時に、スマートフォンと一定の距離が離れると、緊急連絡先に信号が飛ぶ様にもなっている。
付け加えるなら、アプリを使って自宅に居ながら、集会を行う事が出来る様になった。それ以外にも、ホーム画面には住民用の掲示板が表示され、回覧版よりも早く情報の伝達を行える様になった。
年齢が高くなれば、体を動かす事自体が大変になる。また、付属ツールを身につけてさえいれば、例え徘徊しても捜索がし易くなる。その上、身体に重大な危機が訪れた時に、直ぐに連絡が出来れば、迅速な処置により救命が可能になる。
スマートフォンから収集されるデータや、掲示板等を管理する者も、村には存在している。
既に定年を迎えているが、現役時代はさくらの右腕として信頼されていた男性が、スマートフォンのプロジェクトと共に信川村へ移り住んでいる。
彼は、試作機の使用に基づくデータを企業に報告し、また心拍数等のデータを村の医師へと渡している。
信川村は、さくらの移住と共に、変革を遂げた。
しかし、この村の存在を知る者は、村の名を別称で呼ぶ。
姥捨て山と。
確かに、住民の平均年齢を考えれば、その通り名は相応しいのかも知れない。ただし、住民達は決して捨てられたのではない。
この村を愛していた為、村から離れなかっただけである。そして、村へ移り住んだ者達も、豊かな自然と不便さを愛した。
この村の空気は、都会の様に排気ガス等で汚れていない。胸いっぱいに吸い込めば、活力が漲る。
街灯が無ければ、明りがついている家の数が少ない。夜空を見上げれば、満天の星空に心を揺り動かされる。
何よりも、自分達が精魂込めて作った、採れたての野菜は、何物にも代えがたい旨さが有る。
都会に住む者達は、文明の進歩に踊らされ、本当の幸せを見失っているのだろう。住む場所に不自由せず、自らの手で作った作物は格別の味である。これ以上の贅沢が、他に有るだろうか。
都会では見かけなくなった、蝶やバッタなどが飛び交い、美しい緑が眼と心を癒す。そんな贅沢が、他に有るだろうか。
この村には、自然が溢れている。
だからこそさくらは、その豊かな自然を壊さない様に、老人達の住みやすさを考え、様々な事業を立ち上げた。
日本中からその存在を忘れられた村、地図にすら掲載されていない、利便性の少ない秘境の地。そんな場所だから、そんな場所に住む人々だから、物語が生まれる。
これから語るのは、言葉が通じないどころか、種族さえも違う者達が、心を通い合わせる物語。ゴブリンという人間とは異なる化け物が、現代社会で平和に暮らすには何が必要なのか。それを描いた物語である。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
短編集 【雨降る日に……】
星河琉嘩
ライト文芸
街の一角に佇む喫茶店。
その喫茶店に来る人たちの話です。
1話1話がとても短いお話になっています。
その他のお話も何か書けたら更新していきます。
【雨降る日に……】
【空の上に……】
【秋晴れの日に】
【君の隣】
【君の影】

【完結済】ラーレの初恋
こゆき
恋愛
元気なアラサーだった私は、大好きな中世ヨーロッパ風乙女ゲームの世界に転生していた!
死因のせいで顔に大きな火傷跡のような痣があるけど、推しが愛してくれるから問題なし!
けれど、待ちに待った誕生日のその日、なんだかみんなの様子がおかしくて──?
転生した少女、ラーレの初恋をめぐるストーリー。
他サイトにも掲載しております。

それでも平凡は天才を愛せるか?
由比ヶ浜 在人
ライト文芸
鷹閃大学。世界屈指の名門であるこの大学には奇人が多い。平凡は彼らとの交流に悩み、苦悩し、対立する。
※小説家になろうにて同タイトルで公開しています。

セリフ集
ツムギ
ライト文芸
フリーのセリフ集を置いています。女性用、男性用、性別不詳で分けておりますが、性別関係なく、お好きなセリフをお読み下さって大丈夫です。noteにも同じ物をのせています。
配信や動画内でのセリフ枠などに活用して頂いて構いません。使用報告もいりません。可能ならば作者である望本(もちもと)ツムギの名前を出して頂けると嬉しい限りです。
随時更新して行きます。
神楽囃子の夜
紫音
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。

【完結】離婚の危機!?ある日、妻が実家に帰ってしまった!!
つくも茄子
ライト文芸
イギリス人のロイドには国際結婚をした日本人の妻がいる。仕事の家庭生活も順調だった。なのに、妻が実家(日本)に戻ってしまい離婚の危機に陥ってしまう。美貌、頭脳明晰、家柄良しの完璧エリートのロイドは実は生活能力ゼロ男。友人のエリックから試作段階の家政婦ロボットを使わないかと提案され、頷いたのが運のツキ。ロイドと家政婦ロボットとの攻防戦が始まった。
僕の彼女は婦人自衛官
防人2曹
ライト文芸
ちょっと小太りで気弱なシステムエンジニアの主人公・新田剛は、会社の先輩の女子社員に伊藤佳織を紹介される。佳織は陸上自衛官という特殊な仕事に就く女性。そのショートカットな髪型が良く似合い、剛は佳織に一目惚れしてしまう。佳織は彼氏なら職場の外に人が良いと思っていた。4度目のデートで佳織に告白した剛は、佳織からOKを貰い、2人は交際開始するが、陸上自衛官とまだまだ底辺エンジニアのカップルのほのぼのストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる