波が覚えているから

橙と猩々

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 タクシーが海沿いの道路を走って高い塀に囲まれた一角で停まる。タクシーから降りた梨花と教授は壁の上部には有刺鉄線が張られている古い刑務所のような建物の門を潜った。因みにローサリーはあのままシーシャを楽しんでいる。迷彩服を着た軍人が出て来て教授と話し始め、いくつかの証明書の提示を求めていた。その中にはローサリーの職員証もあり、梨花は彼女のふりをしてパーカーのチャックを上まで閉めた。
 梨花はここが何処か知っていた。
 さすがに入ったのは初めてだが。
 再び気分が高揚する。
 教授に連れられて入ったのは米軍基地内のバーだった。
 そもそもお酒だけを楽しむバーに入ったのも初めてできょろきょろと店を見回す。
 カウンター席に腰かけると、教授はドル紙幣を出して何やら英語で注文した。直ぐに、透明な小さなコップに入れられたお酒とペリエが置かれる。

「君は水だよ。僕のは……リキュールをリキュールで割るなんて流石だね」

 そう言いながら教授は二層のアルコールが入ったグラスを摘むように持ち上げる。

「教授はどうしてここに来たの?」

 梨花はペリエの瓶を両手でつかんだまま聞いた。

「君が気になってる彼がここにもやってくるからだよ。さっきの店で聞いたんだ。先回りして待っていようと思ってね」
「えっ!」
「彼、何か探しているようなんだよ」

 教授がこともなげに言った。梨花は驚いて身を乗り出す。

「それでお店をまわっているの?」
「さあ。彼は大人だから、シーシャも吸えるし酒を飲むことも出来るからね」

 ウィアーは大人で、梨花は子供。
 教授はそう言いたいようだった。

「……教授は意地悪だね」

 彼は素知らぬ顔でグラスを傾ける。それは、梨花には真似できない大人の仕草だ。

「そうだね。梨花さん、君はあの青年の国に付いていきたいくらい好きなの?」

———そうだ、好きだ。

 ウィアーに会うまで自分が小さな子供のような恋をするとは思わなかった。
 彼を見ているだけの恋。
 それだけで波間で心が揺れるような、
 海の中で息を止めるような心地になる。
 梨花は不自然に沈黙したが、教授は分かっているのか話を続ける。

「ローサリーは僕を選んでくれた。彼女の国では女性が家庭から出ることは無い。僕と異国で暮らし大学で働く事を選択するのは簡単なことじゃなかったはずだ」

 知ってる、分かってるから、と梨花は言いたかった。
 でも、今聞き分けが良い子供になったとして、
 この胸をかきむしりたくなるような想いが、もう一度訪れるかなんて分からないじゃないか。
 梨花が無意識にスカーフを握ると、バーの扉が開いた。
 教授越しに見やるとウィアーが入って来たのが分かった。カウンターから筋肉が逞しい外国人が出て行って、親しげに話し始めた。二人は立ったままグラスを合わせると豪快にあおる。
 その姿はいつもの無邪気そうな笑顔を浮かべてたどたどしい日本語を話す彼ではない。
 ウィアーが大人の男性だと梨花はぼんやり意識する。
 ふと、彼と目が合った。
 彼の日本人より真に黒い瞳が大きく見開かれる。
 次の瞬間、彼は殺気だって梨花の腕を掴むとそのまま引きずり出すように店を出た。

「ここにいては、いけません!」

 ウィアーはそう言って、自分が乗って来ただろう自転車を起こすとサドルに跨って梨花を後ろに乗せようとする。
 突然の事に何も言えなくなった梨花だったが、はっ、としてそのハンドルを奪い取った。

「日本で飲酒運転は駄目だよ!」
 
 梨花は自転車の後輪にウィアーを乗せて颯爽と自転車をこぎ始める。
 米軍基地を出ればすぐに下り坂になって力を入れなくてもペダルは回った。
 恐らく、ウィアーは梨花が中年の男に騙されていると思って助けてくれようとしたのだろう。
 梨花の背にかかる両手の熱さに、じんわり全身を包まれるようだ。
 スピードに乗った自転車に、海辺の夜景が後方へ流れていく。
 梨花のショートに切った横髪とウィアーの「りかサン、二人乗りも違反です」と言う声も。
 風に乗ってグレーのスカートが巻き上がる。
 入学した時は、地元でも主流のブレザーだったら良いのにと思っていた。
 でも、あの日。
 ウィアーと出会った。
 あのスカーフを受けとった後のむずむずして落ち着かない指も。
 スカートのポケットに隠すようにしてその手を突っ込んだことも。
 顔のほてりや、リュックサックがあたる背の熱さも。
 全て覚えている。
 きっと、今日の事だってずっと覚えている。
 梨花は言葉にならない雄弁な心音を聞きながら、彼の音も知りたかったと思った。
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