波が覚えているから

橙と猩々

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繁華街

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 春の夜は冷える。
 教授の研究をのんびり眺めているうちに遅い時間になってしまった。二人は梨花を車で送ろうと準備を整える。ゼミの助教でもあるローサリーは大学名が印字されたパーカーを羽織った。
 山手の大学から下って街中を通る時に、梨花は車窓から見知った青年の後ろ姿を見つける。

「教授!ちょっと停めて下さい」

 路肩に止められた車の後部座席から転がる様に降りると、並木に隠れて通りを歩く青年を伺う。
 短い髪に広い背中。良く焼けた首筋は黒いジャージとの境が分からない程。
 彼だ。ウィアーだ。
 海辺の漁場以外で彼を見るのは初めてでどきどきする。

———何処に行くのかな?

 梨花は衝動的に彼を追いかけていた。
 夜の繁華街は人通りが多くて追跡には困らない。煉瓦の歩道やガス灯をイメージした明かりはなんだかエモい。昼間とは違う様子に、梨花のテンションは上がっていたが学生が多い居酒屋を通り過ぎ、古びた背高いビルにスナックが乱立するエリアに入ると楽しい気持ちはすっかり萎んでいた。
 ウィアーは更にディープな街の奥へ進んでいく。
 通りを歩く客層は外国人が多くなり、扉が開閉するたびエスニックな香りがする。

———何処に行くんだろう。

 梨花は心配になって来た。技能実習生が職場から脱走して行方不明になっているというニュースを見たことがある。彼らがただ技能の習得の為に来たのでは無いことを梨花も知っていた。本当は牡蠣養殖のような日本人の働き手のない所へ派遣される。そして彼らはお金を手に入れる為にやって来る。制度は整わず、理想と現実は乖離する。それでも梨花は実家の家業が好きだった。海に浮かぶ牡蠣筏を見ない日が来ることなんて考えられない。大学で牡蠣の生態を研究しよう、そして家業を継ごう、と考えている。女が出しゃばる職場じゃない、なんて言われても諦めようと思ったことはない。そんなことを言っていられる時代でもないだろう。
 ウィアーが足を止めた。慣れた様子でガラス張りの扉を開けて店内へ入っていく。
 梨花は少し時間をおいて、その扉に張り付いて中を覗いた。しかし、霧がかかったように薄い煙が充満して良く見えない。

「何してますか?リカ」

 耳元で不思議な日本語の音がした。梨花は意味を理解する前に驚いて振り返る。

「このお店は梨花さんにはまだ早いですね」
「先生、私は入りたいデス」
 
 教授とローサリーだ。梨花を追いかけて来てくれたようだ。

「仕方ない子だ」

 先生は少し笑って扉を押し開いた。
 店内はカフェのようにテーブルや椅子が配置されている。客層は東南アジア系やアラブ系の外国人ばかり。場違いな雰囲気に梨花は焦ったが、二人は慣れた様子で席に着いた。

「教授ここはなんのお店なの?」
水タバコシーシャを楽しむ場所だよ」

 テーブルに綺麗なガラスでできたピッチャーのようなものが運ばれてくる。中で葉が燃やされていて、ホースが二本取り付けてあった。ローサリーはその一つを口元へもっていく。ガラスの中で水がぽこぽこと音を立てたかと思うと、彼女はゆっくり煙を吐いた。教授も同じように吸い始める。梨花は落ち着かずに店内を見回すと、ウィアーが店員と話をしていた。何かの紙を渡した後、教授たちの様にカウンター越しにシーシャを口にする。
 梨花は自分の顔が青ざめていくのが分かった。これはひょっとして法に触れるものではないのか。

「大丈夫、これは立派な嗜好品だよ。タバコと同じだから二十歳までは吸えないけどね。
 さて、梨花さん。君は彼を追ってこんな所まで来たの?」

 教授の目にはわずかな非難が籠っている。

「彼は大人だけれど君はまだ高校生だから、夜中の繁華街をうろつくのは感心しない」
「はい」

 梨花は先程から気分が急降下しっぱなしで、しおらしく頷いた。知らない世界は怖い。
 教授は梨花の様子に満足して店員を呼ぶと、何やら英語とは違う外国語で話し込む。そして、煙を吸ってリラックスしているローサリーからパーカーと大学の職員証を預かると、席を立ちながら梨花を手招きして、

「どうせなら、もっと大人の世界を見せてあげよう」

 と言った。
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