波が覚えているから

橙と猩々

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「いらっしゃいませ。こんにちは」
 
  大学の研究室の扉を開けると直ぐに声を掛けられた。梨花は教授の大学に来るのは初めてで、緊張しながら室内を見渡す。壁際にパソコンが並び、部屋の中央には四角い機械が陣取っているが、梨花達の他には誰もいなかった。確かに少し皺がれた声を聞いたはずなのに。

「こんにちは」
「わあっ!」

 再び耳元で声を掛けられて、梨花は飛びのく。見れば書籍棚に鳥籠が置かれていて、中にはグレーの羽毛の鳥が鎮座していた。

「びっくりした。この子がしゃべったの?」
「そうです。彼女ハ、ヨウムという鳥です。名前はワトソンです」

 梨花は恐る恐る籠の鳥を覗き込む。鳩よりやや小さいサイズだが、淡灰色の鱗のような羽毛、赤い尾羽、太い指は、ふわふわした生き物というより恐竜そのものだ。ワトソンの白い眼球に浮かぶ鋭い黒目に睨まれた気がして、梨花は後退った。途端に、

「ピーピー!バックします」

 と黒い嘴から機械音が発せられる。
 驚く梨花の後ろで、教授とローサリーが爆笑する。

「ははっ。春休みの間に学生がワトソンを自宅に連れ帰っていたんだけど、ごみ収集車のアナウンスを気に入ってしまってね。この調子だよ」
「ワトソンは賢いデス。たくさん日本語話せる。私の先輩デス」

 二人と一羽に揶揄われてむっ、とした梨花だが、鳥の意外な特技に素直に感心する。教授はそんな学生の反応を見慣れているのか、

「ヨウムは五歳児くらいの知能があるんだ。鳥頭なんて馬鹿にした言葉があるが、実際は鳥は賢い生き物だよ。なんたって、音声でコミュニケーションをとれるのは人間と鳥だけなんだからね」

 と言った。
 梨花はふと、夜の海岸を思い出す。
 東南アジアの青年達は、いつも竹で編んだ籠の中に鳥を入れて連れ歩いていた。

「教授、黒くて嘴の黄色いペットの鳥って分かりますか?人の言葉を真似るようだったけど」
「……ああ、たぶん九官鳥だね」
「九官鳥!聞いた事あるかも」
「お喋り上手で有名だからね。人の声もそっくりに覚えてしまうよ。
 ここにもいるけど、赤やピンク色を怖がるから会わせられなくてごめんね」

 そう言われて梨花は自分が制服のままであることを思い出した。
 グレーのセーラーに朱色のスカーフ。襟にも同じラインが入っている。梨花は、鳥に会えなくても残念だとは思わないので、生返事をした。

「ふうん。でも、どうして鳥はしゃべるのかな?」

 教授がふっ、と目元を和らげる。

「鳥がなぜ鳴くのか、僕たちの永遠の研究テーマだね。いくつか理由はあるけど、僕は求愛の為だと思っているよ。綺麗な声で歌ったり、複雑な文法を駆使したり。時には人間の言葉だって覚えてしまう。そんな涙ぐましい努力は恋人を得る為であって欲しいよね」
「鳥ハ、あなたが好きです、と言っているんですネ」

 ローサリーの艶やかな黒髪と彫りの深い整った顔が輝いた。
 その複雑な色の虹彩を見ていると、梨花は海を渡った先の遠い国に憧憬する。

「私ノ国では結婚を決めるのは男性でした。相手は兄弟の友達だったり、一度すれちがっただけの隣のクラスの生徒だったり。女性はどきどきしながら夫が現れるのヲ待っています。デモ、私は先生に出会って先生が好きになった。」
 彼女の国は、宗教的なしがらみや独特な風習があるようだった。全く文化の違う日本へやって来るという決断はどんなに覚悟がいることだろうか。
「……ローサリーさんは自分で選んだんだね」

 凄いね、と梨花が言うと、ローサリーは柔らかく微笑んだ。

「リカもきっと大丈夫。
 私ハ、この世界に出来ない事はそんなに多くないと知っています。
 だからもっと勉強しなければいけまセン。ワトソンのように。
 言葉を伝えるのは大切なコトです」

———私にも出来るのかな?

 遠い国に行くことが。
 新しい事を知ることが。
 好きだと伝えることが?
 梨花の胸は何かを期待して熱くなる。
 それらは、梨花がこの大学に入って海洋生物の研究をしたいと近い将来について考えるよりも非現実的できらきらしたものだった。

「ソウ言えば、先生、ソレはなんですか?」

 ローサリーが海辺から持ち帰ったクーラーボックスをつつく。

「可愛い生き物が入っているよ。音声ではないけど、パルス音でコミュニケーションをとれるから、僕の研究にぴったりなんだ。細胞をとってPCRにかけて遺伝子配列を……」

 教授が話終わるのを待たずに、梨花はクーラーボックスに手を伸ばす。隣でローサリーも興味深々だったが、蓋を開くと途端に広がるホルマリンと血の匂いに顔を顰めた。

「先生、これは……」
「イルカだよ。どうだい?」

 黄土色の液体の中にはイルカの頭が入っていた。梨花はその濁った瞳を見て涙目になる。

「……どうしよう、目が合いました」
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