短編集:嵌められたスパイ

Fata.シャーロック

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嵌められたスパイ

奪われたもの

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 すぐに玄関の扉が開く音が聞こえ、僕は内心慌てる。メモリの件について話していることをマフィン君が知ったら、きっとまた面倒なことになる。

「まだ決まらないのかい」僕はシャーロックに催促した。
「僕は暇じゃない。とっとと終わりにしたいんだ。君もいつまでこんな茶番に付き合っているつもりだい」
「そうだな、そろそろここらで幕とするか」

 シャーロックは短くなった煙草をベット脇の灰皿に投げ捨て、封筒を僕の膝に落とし、「指を出せ」と低く言った。
 
 へえ、指一本で済ましてくれるのか。
 優しいじゃないかと少し拍子抜けしながら、僕はさっと右手を出した。白くて細くてすらりと長い、どんな時でも思い通りに動いてくれた自慢の指たちを。
 利き手ほどではないけれど、この指たちには今までずいぶん世話になった。離れた子は後で手厚く葬ってあげよう。

 シャーロックは樫の木のように細く頑丈な手で僕の手を掴む。そして、品定めでもするつもりか、ゆっくりと親指で僕の指の一本一本に触れた。さらさらと、なでるように。
 ただその動作があんまり遅いので、僕は戸惑った。じらしているようには見えない。彼はまるで、感傷に浸っているみたいだった。僕の指を切るのがそんなに惜しいのか? 意味が分からない。

 そうこうする内にも階段を上がって来るマフィン君の足音が聞こえ、僕はもう我慢出来なくなった。もう少しで「馬鹿じゃないか、君の指じゃないのに!」と怒鳴る所だった。
 ところがその時、シャーロックはいきなり床に膝をついた。僕の座る椅子にぴたり身を寄せる格好で。そして、僕の手を握っていない方の手で懐から何かを抜き取ると、

 それを・・・僕の指にはめた・・・・・・・


 は?


 絶句する僕の首筋にシャーロックの手が伸びた。まるで死人のそれのように冷え切った細い指。彼は僕の耳元に顔を寄せ、いっそ戦慄を覚えるほどに魅惑的なテノールで囁いた。

「俺はお前の人生をもらう」

 全身の血が逆流し、頭の中が真っ白になった。僕は立ち上がろうとしたけれど、シャーロックに肩を抑えられていたのと酷いめまいを覚えたのとでそれが叶わなかった。
 僕は薬指に嵌った銀色の輪をなで回した。心の何処かではまだ、これが指輪型の爆弾であることを期待していた。でも僕の精密な指の感覚は、紛う事なきプラチナの質感と小さく彫られたSとRの文字をすぐに探り当てる。ちょっと待て、これは僕とこの男の頭文字じゃないか。

「じょ、冗談だろう、シャーロック」
「何がだ」

 僕は再び煙草に火を付けるシャーロックの瞳を、食い入るように見た。けれど彼の瞳はやけに透き通っていて、いつものような嘘も企みも陰りも全く姿を消していた。ただ炎が揺れているだけ。そして僕が僕を見つめ返しているだけだ。そこへ来て、僕はようやく全てを理解した。

「つまり、」僕は手の平で額を覆った。
「全部芝居だったんだね?」

 マフィン君の告白から、切れ者過ぎるあの返しまで、これは全部が全部罠だったんだな?

「ああ」シャーロックは僕を見もせずに頷いた。
「あいつは自分に演劇の才能があることを知って喜んでいたな」

 うかつだった……。僕は溜息をついた。
 僕はマフィン君のことを「真面目で優しい子だ」と決めつけ過ぎていた。いや、普段は本当にそうなのだけど、よく考えてみれば彼は、母親を騙して家出も当然にここへ引っ越して来たという前科があった。
 目的のためなら嘘も芝居も辞さない悪漢ピカロ。彼はそれに変身したのではない。本質がそうだったのだ。ああ、何故それに気づかなかった!

「でも、一体何と引き換えに協力させたんだ」
「目的が達成された暁には、今後一生に渡ってお前さんの邪魔をする者はいなくなるだろうと予言した。特にユウミさんとの仲のことを」

 やられた……。

 僕はうめいた。確かにこの男との契約で、僕はこれから先の自由と時間を奪われた。大家のユウミさんと結ばれるという未来は、これで完全になくなってしまったのだ。ああ、なんて酷い現実。夢なら今すぐ覚めて欲しい。
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