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転職は慎重に
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十数年振りの移動魔法が無事成功した事に安堵いたしましたが、危惧しておりました通りに発作を起こしました。けれど大丈夫です。想定内です。
「…!……!」
移動先で発作を起こし、床に倒れてしまった私を誰かが抱き起こしてくれています。何を言われているのかは意識が朦朧としていて分かりません。ああ、それにしても苦しいです。痛いです。発作を起こす度に、自分のポンコツ心臓が恨めしいです。
前世でもずっと痛みに耐えてきましたが、今世は耐えきれるのか自信が無くなってきました。
前世を思い出してから、前向きに頑張ってきたつもりでしたが、もしかしたら全ては私の独りよがりだったのかもしれません。
ナハト様にも、リヒトにも、フローライトにも、私の存在は不要で、寧ろ居ない方が厄介事が減って良いのかもしれません。
いつもならばここで自分の精神状態を前向きに軌道修正出来るのですが、今は出来そうにありません。
苦しくて息が出来ません。もう何も聞こえませんし、何も見えません。
「……!」
誰かの声が一瞬耳に飛び込んで来た後、私の口の中に飲み慣れた薬の味が広がりました。嚥下しようと無意識に喉が動きましたが、体力の低下のせいか喉が詰まって薬を受け付けずに口から溢れそうになりました。けれど、柔らかな何かが口を塞いで逆流を防ぎました。喉に流れ落ちて行く薬の感触を最後に、私は完全に意識を失いました。
「…………」
人が生きている間に意識を失う回数は平均何回なのでしょうか。
私は前世も今世も、もう数え切れない程意識を失っています。これほど回数を経験しますと、自分の脳の状態が心配になります。
今回の発作もどうやら乗り切ったようです。ぼんやりと、遠くで人の声が聞こえてきます。目蓋が重く、まだ目を開ける事は出来ないようです。
「…セラフィナイト、大丈夫だ、無理に起きなくても良い」
深みのある声が、耳に優しく染み込みます。ああ、良かった、正確に移動魔法を発動出来ていたようです。この方がいらっしゃるなら、私は大丈夫です。
「…良い子だ、セラフィナイト」
優しい手付きで頭を撫でられ、私は安心して再び眠りに付きました。
ナハト様から閨事のお誘いをお断りされるようになってから、私の眠りは浅くなる事が多くなり、夢見が余り良くはございませんでした。
けれど久し振りに優しい夢を見る事が出来ました。全てはあのお方のおかげです。
夢は幼き日の思い出でした。
移動魔法を初めて試みた時の事です。確か、三歳でした。本当でしたら、自室から邸の庭園に移動するはずでしたが、何処をどう間違えたのか、モーント王国の王城の裏庭に移動してしまったのです。通常、三歳児は移動魔法のような高度な魔法は使えないのですが、私は魔力量が多かったので発動出来てしまったのです。
三歳児ですから、まだまだ自己管理が出来ておりませんし、その頃はまだナハト様とも出逢っておりませんから特効薬などもございません。移動した先で死にかけましたが、移動したのが王城だったのが不幸中の幸いでした。裏庭で発見された私は王宮医師に助けられ、何とか生命を繋ぎました。
通常、無断で王城に侵入すれば捕らえられ、悪くすれば処刑されますが、私はプランツ侯爵家の者でしたので軽い注意で済まされました。
プランツ侯爵家は何度も王族の婚家先となった名家で、私の祖母もモーント王家の王女でした。つまり、現国王の親戚となるのです。
私を裏庭で発見し、助けて下さったのは当時王太子であった現国王のゲルブ様でした。
柔和で端正なお顔のゲルブ様は、容姿だけでなく気性も優しいお方で、前王が急死され、弱冠二十歳で王になられたゲルブ様と私は六歳差ですので妹のように可愛がって頂きました。兄がゲルブ様の側近であった事も可愛がられる理由の一つです。
ゲルブ様が結婚されるまでは、ゲルブ様専用の離宮の温室で定期的にお会いしていたのですが、結婚されてからは私的にお呼ばれする機会は無くなってしまいました。その後は私もナハト様と婚約し、体調も不安定だったために引きこもりに拍車がかかり、ゲルブ様とお会いする事は無くなってしまいました。
モーント王国は一夫一妻制で性に保守的な国ですので、いくら幼くとも異性である私達が私的に二人で会う事は出来ません。ゲルブ様の結婚が決まった最後のお茶会で、私にゲルブ様はお約束をして下さいました。私に困った事が起きたら必ず助けて下さると。恐らくそれは、妹のように可愛がって下さった私への最後の餞のお言葉だったのでしょう。
ナハト様の不貞現場を目撃した瞬間、ゲルブ様のお言葉を思い出しました。
実家に戻っては直ぐに見つかってしまいますし、話が大きくなる可能性が大きいので移動先には向きません。
知らない場所に移動して、発作を起こしてしまえばそのまま帰らぬ人となってしまう可能性が大きいので除外しました。
最後の選択肢はモーント王国の王城です。しかもゲルブ様専用離宮の、思い出の温室です。私が突然移動魔法で現れても、ゲルブ様なら助けて下さるはずですし、発作が起きても対処して頂けるはずです。頭が冷えるまで匿って頂けるはずと望みを託し、移動先に選んだのです。それに、私がまさか現国王と未だに繋がりがあるとは誰も考えないはずですから。
「……ん」
優しい夢を見ていると、頭に優しい手の感触が致しました。心地好さに口角が自然に上がると、その手が唇をそっと撫でました。擽ったさに目を開けると、薄明かりの中に見知った男性のシルエットを見て益々口角が上がりました。
「…陛下」
明るく優しい茶色の髪に、黄色味の強い透明度の高い琥珀の瞳が柔らかな光を宿して私を見つめていました。
「名を呼んではくれないのか?」
私的な場では気さくなお人柄のゲルブ様は、からかうような口調で私に昔のように接する許可を下さいました。
「…ゲルブ様」
寝台に横たわったまま、そっと名を呼ぶ私に優しい笑みを向けて下さったゲルブ様は、昔のように頭をくしゃりと撫でて下さいました。
「私の小さな妖精姫は、今度はどんな無茶をしたのかな?」
光沢のある柔らかな白いシャツと焦げ茶色のズボンをゆったりと着たゲルブ様は、寝台の横の椅子に座りながら私の顔を覗き込んできます。
「…申し訳ございません…ご迷惑を」
「迷惑ではなく、心配だね。確かセラフィナイトは移動魔法は使用禁止にされていた筈だが、会わない間に変わったのかな?」
「……その…」
「うん、そんな筈はないね。倒れていた君のガウンのポケットの中に薬が入っていたし、発作の対処の仕方を書いたメモまで入っていた」
優しく笑いながらも、ゲルブ様は怒っているようです。困りました。
「ゲルブ様…あの」
「セラフィナイト」
「…はい」
「君が無茶をしたのには理由があるのだろう。だが、生命を失うかもしれない無茶は二度としないでくれ。君を失ったら、後を追いかねない者達が私が知っているだけでも三名はいる」
「…申し訳ございません…」
こんなに怒られるとは思っておりませんでした。本当に困りました。これでは、匿って貰うのは難しそうです。
「それで?このメモに、自分の居場所は誰にも教えないで欲しい、と書いてあるが」
ゲルブ様はズボンのポケットから紙を取り出して私が見えるようにヒラヒラと揺らしました。私が移動魔法を発動する前に書いた走り書きです。
「可愛い姫のお願いだからね。取り敢えず今のところは誰にも教えていないよ。君が倒れていたのは私専用の裏庭の温室だったからね。君がここにいる事を知っているのは、私の庭師と私の専用離宮のメイド長と、この私だけだ」
ゲルブ様は笑みを絶やさないまま、胸の前で腕を組まれました。筋張った男性的な腕を見て、ナハト様を思い出してしまいました。ナハト様とゲルブ様は一つ違いで年齢も近く、お顔は全く違いますが体格が似ておりました。お二人共、文武両道なのです。
「セラフィナイト?!」
ナハト様を思い出した瞬間、両目からボタボタと大粒の涙が溢れました。ゲルブ様が慌てていらっしゃいますが、止まりません。
「ああ、すまない。泣かないでくれ。私は君に泣かれると、どうすれば良いのか分からなくなる」
私は一応人妻ですし、ゲルブ様も正妃様と幼い王太子がおられる人夫です。気軽に抱き締める事は、モーントではご法度です。抱き締めようとして下さった腕がバタバタと動いていて、可愛らしいです。
「ふ…ふふふ…」
泣きながら笑う私にほっとした顔をしながら、ゲルブ様は困ったように笑いました。
「酷いな、君は。笑わなくても良いだろう?」
「申し訳ございません…ふふふ…でも…ゲルブ様、ギュッて、昔みたいにして欲しいですわ」
誰もいない離宮の一室ですから、今だけは童心に還ってゲルブ様に甘えたくなってしまいました。
私にとってのゲルブ様は、実の兄よりも兄のような、そんな存在なのです。ゲルブ様が持つ優しい包容力は、きっと幼い頃から培って来られた努力の賜物なのだと思います。生まれた時からこの国を背負う事が決められ、それを受け入れた覚悟のあるお方の。
「…君は本当に…」
私のお願いにゲルブ様は困惑し、諦めと笑みを混ぜた複雑な顔をなさった後、溜め息を吐かれました。じっとゲルブ様を見つめていると、椅子から立ち上がったゲルブ様は寝台に乗って私の上半身を抱き起こして下さいました。
「…ゲルブ様…」
「妖精は悪戯好きだからね…君はいつも突拍子も無い事をして私達を驚かす」
モーント王国は良質な薬草が採れる事で有名で、主産業の一つに薬がございます。良質な薬と優秀な薬師が多く、なかでも魔法薬師は挙ってモーント王国で働きたがる程、薬師にとって住みやすい国と云われております。
国王であるゲルブ様も優秀な薬師の一面があり、ゲルブ様に抱き締められるといつも優しい薬草の匂いがしました。
薬草の匂いでまたナハト様を思い出しましたが、今度はグッと涙を堪えました。ナハト様もよく薬草の香りをさせておりましたが、ゲルブ様とは違う香りでした。
「…すっかり大きくなってしまったな…あんなに小さくて、折れてしまいそうだったのに…」
ゲルブ様が幼子にするように私の背を優しく叩いて下さいます。久しく人の温もりから離れていたからか、ゲルブ様の温もりにまた涙が溢れました。
ああ、どうやら私は相当寂しくて、心が疲れていたようです。
前世を思い出してから早七年、努力を続けてまいりました。けれど、やはり、努力も大切ですが休む事も大切なのですね。体の疲労は直ぐに気付けますが、心の疲労は気付き難いのかもしれません。
「…私、子供を二人も産んだのですわ。もう昔のように子供ではありませんし、弱くもございませんわ」
ゲルブ様の胸に耳を充てながら、強がりを口にします。ゲルブ様の心臓の音と笑う振動が心地好く私に響きます。
「そうだね…君は強いよ。いつも、君の頑張りに勇気を貰っていた。今もだ」
トントンと背を叩く規則的な音、深みのある優しいゲルブ様のお声に癒され、私はまた少し眠くなってしまいました。本当に子供のようです。
「大丈夫…眠りなさい。君が望むなら、いつまでだって、守ってあげるから…」
ゲルブ様のお声が心地好く耳に染み込み、私はまたゆっくりと目を閉ざしました。
頭の中に前世の子守唄が流れます。リヒトには唄ってあげられた前世と今世の子守唄を、フローライトには一度も聞かせてあげられませんでした。それが悔やまれてなりません。
ゲルブ様の優しさに守られるように、モーント王国の離宮の客間で隠遁生活を送ってそろそろ一ヶ月、発作で落ちた体力を戻し、何も考えずに子供に還って心の疲労を癒す事に時間を費やしてきました。
好きな時に起き、好きな時に寝る。食べて、読んで、散歩して、メイド長と庭師の方に話し相手になって貰い、夜はゲルブ様と過ごす毎日は穏やかです。
客間の窓から見上げる月が欠けて満ちて、時の流れと失いつつあるものの大切さを想います。
ナハト様とのラブラブハッピーライフの野望は潰えましたが、ナハト様や子供達を幸せにする事は出来る筈と、気持ちを切り換える事に努めます。
病を抱える者を家族に持つ事の大変さを、私は前世を通して知り過ぎる程知っているつもりです。
ナハト様にとってセラフィナイトは最早最愛で溺愛する妻では無いのですから、今、私がナハト様の傍を離れても病む事は無く、今が離れる時なのかもしれません。
子供達の事も心残りですが、いつ死ぬかも分からない母親の元で育つより、安定した生活を約束されたシルフィード邸で育つ方がためになるはずです。離縁したら、実家に戻るつもりはございませんし、貴族籍から抜けるつもりでおりますから。
平民になったらどんな職を得れば良いでしょうか。前世も働いた事はございませんし、私に何が出来るでしょうか。刺繍の腕ならそこそこございますし、読み書きも出来ます。発作が心配ですから、やはり何処かの薬師のお店で働かせて貰うのはどうでしょうか。陰ながら子供達の成長を見守る事が出来るシルフィード公爵領に良い薬屋はあるのでしょうか。
「…そんなに哀しい顔をして、何を考えているのかな?」
窓ガラスに、背後のゲルブ様のお姿が映りました。今夜はいつもより遅くの訪れです。
「ゲルブ様、お役目ご苦労様です。今夜はいらっしゃらないのかと思っておりました」
振り返ってゲルブ様と向き合います。今夜は遅いからなのか、寝間着にナイトガウン姿のゲルブ様が気怠い雰囲気を醸し出しておられて、少し気まずく感じました。
「遅くなったから、もう寝ているかと思っていたよ。確認したら直ぐに退出するつもりでこんな姿で訪れてしまった。すまないね」
急いで来られたのか、髪が少し湿っていました。何だか、男性のこのような姿を見るのは久し振り過ぎて記憶違いを起こしているのかもしれませんが、ナハト様も閨事の後にお仕事をしなければならない時に今のゲルブ様と似た雰囲気を醸し出されておりました。
「……あ」
私は愚かにも今察しました。そうです、ゲルブ様には正妃様がおられるのです。政略結婚と聞き及んでおりましたが、夫婦仲は良好とお兄様が言っておられました。一ヶ月近くもゲルブ様の夜の時間を独占してしまっていたのですから、正妃様からクレームが出てもおかしくはございませんわ。
「ゲルブ様、申し訳ございませんでした。私ったら、すっかり甘えてしまって。どうぞ夜の訪いは今後は不要ですから、王妃様との時間を優先して下さい」
「セラフィナイト、君はそんな事を気にしなくても良いんだよ。私が君に会いたくて訪れているのだから」
ゲルブ様は私の頭に掌を乗せ、優しくポンポンと撫でて下さいました。
「…ですが…、流石に長居し過ぎました。ゲルブ様、私…」
「問題に対する答えが見つかったのかな?」
ゲルブ様は何も聞かずに今まで私を匿って下さっていました。その懐の深さに頭が下がります。
「はい…恐らくは…」
「今なら聞かせてくれるかな?それとも言いたくない?」
ゲルブ様の心配そうなお顔を見上げ、私は精一杯笑ってみせました。
「…離縁を考えておりましたが…、やっと覚悟が出来ました。これも全てゲルブ様のおかげです」
「……え?」
ゲルブ様は目を見開き、私を凝視されました。
「聞き間違いではないのか?離縁?ナハトと?!」
何だか随分と驚かれておられます。魔法学院の先輩後輩だとは聞いた事はございますが、ゲルブ様とナハト様は名を呼び捨てる程仲が宜しかったのでしょうか。
「…そうか…なるほど…フ、クックック…」
ゲルブ様は独り言ち、とても楽しそうに笑いました。笑い方が少々悪役です。どうされたのでしょうか。
「セラフィナイトも漸く分かったのだな。あの男の本性を。そうか、分かった。大丈夫だよ。離縁を決めたのなら私が後見となろう。セラフィナイトは何も心配せずに離宮に居れば良い。今度こそ私が君を守るから」
ゲルブ様は私の肩に腕を回して引き寄せ、天蓋付きの寝台へと促します。私は首を傾げながらも、促されるまま寝台に向かいます。
今度こそとはどういう意味なのでしょうか。
「あの…ゲルブ様…?」
「ん?何だい?」
寝台の端に座る私の横に座るゲルブ様は、優しい眼差しを向けて下さいます。
「私、貴族籍から抜け、平民になるつもりでおりますの。いつまでもゲルブ様のお手を煩わせるわけにはまいりませんから、近々お暇を」
「セラフィナイト、君に平民の暮らしは無理だ」
「でも…」
いえいえ、ゲルブ様、私の前世は平民ですから、大丈夫です。なせばなるはずです。
「病を抱えたまま、一人で平民として暮らす事は現実的ではない。自立したいのなら私の下でにしなさい」
ゲルブ様は私の髪を一房手に取り、毛先にそっと口付けを落とされました。
「…美しい髪だ。光の加減で白銀にも見える…」
ゲルブ様は切な気な瞳をなさいました。昔から、ゲルブ様は私の髪を褒めて下さっておりましたが、褒めて下さる度に私ではない誰かを想った瞳をされておりました。
「ゲルブ様…?」
「セラフィナイト…離縁するなら私のモノにならないか?」
「…え?」
モノ、とはどういう意味なのでしょうか。
「元シルフィード公爵夫人を後妻に欲しがる男は多いはずだ。君は社交界に一度も出た事が無い幻の妖精姫と評判だ。私の庇護下にいれば、守ってあげられる」
「私は、どのようなお役目を頂けますの?」
「私の寵妃だよ」
驚き過ぎて、当然と云うお顔のゲルブ様を私はマジマジと見つめてしまいました。
「それこそ現実的ではございませんわ。モーント王国は」
「そう、一夫一妻だ。側室も妾も置けない。だがね、抜け道があるんだ」
「抜け道…?」
「正妃も側室も妾も家門が絡んだ政治的な意味を持つ立場でもあるが、寵妃は国王の私的な恋人だ。他国では私的な恋人を妾にするが、モーントには妾制度は無いため、寵妃として離宮に囲う。名目上、寵妃の役目は予備の子を産む事。王と正妃との間に子が出来なかった時のためだ」
ゲルブ様のお言葉に、流石に私もハッと致しました。自分がいる部屋を見回し、視線をゲルブ様に戻しました。
「…この離宮は、寵妃のための物なのですね」
「そう。前王、つまりは私の父にも寵妃がいた。王太子時代からの恋人だ」
ゲルブ様は私の頬を優しく撫でながら微笑まれました。
「寵妃は憐れだ。離宮に閉じ込められ、王が死ねば追い出される。私が国王になった時、寵妃は作らないと決めていた」
「ゲルブ様…」
モーント王国の裏の一部を図らずも知る事となってしまった私は、呆然とするしかございませんでした。まさか、兄と慕うゲルブ様に、寵妃のお誘いをされるとは思いませんでした。むむむ、今のお申し出は契約寵妃と云うものでしょうか。これはスカウトですか。スカウトですね。公爵夫人から国王の寵妃とは、華麗なる転身と申せますでしょうか。けれど転職は慎重にしなければなりません。曲がりなりにも私は、まだゾンネ王国の公爵夫人なのですから。気軽に他国の王の寵妃になるわけにはまいりません。
「セラフィナイト…」
え、え、え?あら?あら?どうした事でしょう。ゲルブ様のお顔が真上にございます。寝台に押し倒され、ゲルブ様の唇を首筋に感じて驚きに体が強張ります。何が、どうして、このような状況に?あ、痛いです。覚えのあるチクリとした痛みの後にぞくりとした感覚が走り、頭がぐるぐるしてまいりました。
「…大丈夫、セラフィナイトの気持ちが付いてくるまでは、最後までしない」
さ、さ、最後までとは、つまり、それは、私を抱くと云う事でしょうか。いえいえ、そんなはずはございません。ゲルブ様に限って、そのような事をなさるはずはございません。だって、契約寵妃です。しかもまだオファーを承諾しておりません。
「…んっ」
再び痛みを感じ、ぞくぞくとした感覚が腰に走り、目が潤み始めました。
「…君の素肌は、クリームよりも滑らかだな…」
ざらっとした熱く濡れた感触が肌を滑ります。頭の中に赤ランプが点滅致します。
「…あ!駄目、駄目です…っ」
ゲルブ様の手が、私の胸を包みました。優しく、優しく、柔らかさを堪能するように胸を揉まれ、時折指先が突起を意図的に引っ掻きます。
かなり放置されていたとは云え、私の体は閨事に慣れております。ナハト様以外の男性の愛撫に容易く体が溶けるかと危惧しておりましたが、恐れていたような疼きを体が感じる事はございませんでした。
私はまだナハト様だけを愛しているのですから、当然と云えば当然です。
「や、あ…っ…お止め下さいっ、ゲルブ様…っ」
ゲルブ様の唇が地肌を這い、お胸の谷間に濡れた感触がした瞬間、突然強い光が放たれました。
「…っ!!」
光の強さに目を閉じ、次いで起こった震動と爆音に頭が真っ白になりました。
敵襲でしょうか。目を閉じていても分かる殺気に肌が粟立ち、体が震えます。
このような中途半端な状態のまま、ナハト様達を置いて儚くなるわけにはまいりませんわ。
「…!……!」
移動先で発作を起こし、床に倒れてしまった私を誰かが抱き起こしてくれています。何を言われているのかは意識が朦朧としていて分かりません。ああ、それにしても苦しいです。痛いです。発作を起こす度に、自分のポンコツ心臓が恨めしいです。
前世でもずっと痛みに耐えてきましたが、今世は耐えきれるのか自信が無くなってきました。
前世を思い出してから、前向きに頑張ってきたつもりでしたが、もしかしたら全ては私の独りよがりだったのかもしれません。
ナハト様にも、リヒトにも、フローライトにも、私の存在は不要で、寧ろ居ない方が厄介事が減って良いのかもしれません。
いつもならばここで自分の精神状態を前向きに軌道修正出来るのですが、今は出来そうにありません。
苦しくて息が出来ません。もう何も聞こえませんし、何も見えません。
「……!」
誰かの声が一瞬耳に飛び込んで来た後、私の口の中に飲み慣れた薬の味が広がりました。嚥下しようと無意識に喉が動きましたが、体力の低下のせいか喉が詰まって薬を受け付けずに口から溢れそうになりました。けれど、柔らかな何かが口を塞いで逆流を防ぎました。喉に流れ落ちて行く薬の感触を最後に、私は完全に意識を失いました。
「…………」
人が生きている間に意識を失う回数は平均何回なのでしょうか。
私は前世も今世も、もう数え切れない程意識を失っています。これほど回数を経験しますと、自分の脳の状態が心配になります。
今回の発作もどうやら乗り切ったようです。ぼんやりと、遠くで人の声が聞こえてきます。目蓋が重く、まだ目を開ける事は出来ないようです。
「…セラフィナイト、大丈夫だ、無理に起きなくても良い」
深みのある声が、耳に優しく染み込みます。ああ、良かった、正確に移動魔法を発動出来ていたようです。この方がいらっしゃるなら、私は大丈夫です。
「…良い子だ、セラフィナイト」
優しい手付きで頭を撫でられ、私は安心して再び眠りに付きました。
ナハト様から閨事のお誘いをお断りされるようになってから、私の眠りは浅くなる事が多くなり、夢見が余り良くはございませんでした。
けれど久し振りに優しい夢を見る事が出来ました。全てはあのお方のおかげです。
夢は幼き日の思い出でした。
移動魔法を初めて試みた時の事です。確か、三歳でした。本当でしたら、自室から邸の庭園に移動するはずでしたが、何処をどう間違えたのか、モーント王国の王城の裏庭に移動してしまったのです。通常、三歳児は移動魔法のような高度な魔法は使えないのですが、私は魔力量が多かったので発動出来てしまったのです。
三歳児ですから、まだまだ自己管理が出来ておりませんし、その頃はまだナハト様とも出逢っておりませんから特効薬などもございません。移動した先で死にかけましたが、移動したのが王城だったのが不幸中の幸いでした。裏庭で発見された私は王宮医師に助けられ、何とか生命を繋ぎました。
通常、無断で王城に侵入すれば捕らえられ、悪くすれば処刑されますが、私はプランツ侯爵家の者でしたので軽い注意で済まされました。
プランツ侯爵家は何度も王族の婚家先となった名家で、私の祖母もモーント王家の王女でした。つまり、現国王の親戚となるのです。
私を裏庭で発見し、助けて下さったのは当時王太子であった現国王のゲルブ様でした。
柔和で端正なお顔のゲルブ様は、容姿だけでなく気性も優しいお方で、前王が急死され、弱冠二十歳で王になられたゲルブ様と私は六歳差ですので妹のように可愛がって頂きました。兄がゲルブ様の側近であった事も可愛がられる理由の一つです。
ゲルブ様が結婚されるまでは、ゲルブ様専用の離宮の温室で定期的にお会いしていたのですが、結婚されてからは私的にお呼ばれする機会は無くなってしまいました。その後は私もナハト様と婚約し、体調も不安定だったために引きこもりに拍車がかかり、ゲルブ様とお会いする事は無くなってしまいました。
モーント王国は一夫一妻制で性に保守的な国ですので、いくら幼くとも異性である私達が私的に二人で会う事は出来ません。ゲルブ様の結婚が決まった最後のお茶会で、私にゲルブ様はお約束をして下さいました。私に困った事が起きたら必ず助けて下さると。恐らくそれは、妹のように可愛がって下さった私への最後の餞のお言葉だったのでしょう。
ナハト様の不貞現場を目撃した瞬間、ゲルブ様のお言葉を思い出しました。
実家に戻っては直ぐに見つかってしまいますし、話が大きくなる可能性が大きいので移動先には向きません。
知らない場所に移動して、発作を起こしてしまえばそのまま帰らぬ人となってしまう可能性が大きいので除外しました。
最後の選択肢はモーント王国の王城です。しかもゲルブ様専用離宮の、思い出の温室です。私が突然移動魔法で現れても、ゲルブ様なら助けて下さるはずですし、発作が起きても対処して頂けるはずです。頭が冷えるまで匿って頂けるはずと望みを託し、移動先に選んだのです。それに、私がまさか現国王と未だに繋がりがあるとは誰も考えないはずですから。
「……ん」
優しい夢を見ていると、頭に優しい手の感触が致しました。心地好さに口角が自然に上がると、その手が唇をそっと撫でました。擽ったさに目を開けると、薄明かりの中に見知った男性のシルエットを見て益々口角が上がりました。
「…陛下」
明るく優しい茶色の髪に、黄色味の強い透明度の高い琥珀の瞳が柔らかな光を宿して私を見つめていました。
「名を呼んではくれないのか?」
私的な場では気さくなお人柄のゲルブ様は、からかうような口調で私に昔のように接する許可を下さいました。
「…ゲルブ様」
寝台に横たわったまま、そっと名を呼ぶ私に優しい笑みを向けて下さったゲルブ様は、昔のように頭をくしゃりと撫でて下さいました。
「私の小さな妖精姫は、今度はどんな無茶をしたのかな?」
光沢のある柔らかな白いシャツと焦げ茶色のズボンをゆったりと着たゲルブ様は、寝台の横の椅子に座りながら私の顔を覗き込んできます。
「…申し訳ございません…ご迷惑を」
「迷惑ではなく、心配だね。確かセラフィナイトは移動魔法は使用禁止にされていた筈だが、会わない間に変わったのかな?」
「……その…」
「うん、そんな筈はないね。倒れていた君のガウンのポケットの中に薬が入っていたし、発作の対処の仕方を書いたメモまで入っていた」
優しく笑いながらも、ゲルブ様は怒っているようです。困りました。
「ゲルブ様…あの」
「セラフィナイト」
「…はい」
「君が無茶をしたのには理由があるのだろう。だが、生命を失うかもしれない無茶は二度としないでくれ。君を失ったら、後を追いかねない者達が私が知っているだけでも三名はいる」
「…申し訳ございません…」
こんなに怒られるとは思っておりませんでした。本当に困りました。これでは、匿って貰うのは難しそうです。
「それで?このメモに、自分の居場所は誰にも教えないで欲しい、と書いてあるが」
ゲルブ様はズボンのポケットから紙を取り出して私が見えるようにヒラヒラと揺らしました。私が移動魔法を発動する前に書いた走り書きです。
「可愛い姫のお願いだからね。取り敢えず今のところは誰にも教えていないよ。君が倒れていたのは私専用の裏庭の温室だったからね。君がここにいる事を知っているのは、私の庭師と私の専用離宮のメイド長と、この私だけだ」
ゲルブ様は笑みを絶やさないまま、胸の前で腕を組まれました。筋張った男性的な腕を見て、ナハト様を思い出してしまいました。ナハト様とゲルブ様は一つ違いで年齢も近く、お顔は全く違いますが体格が似ておりました。お二人共、文武両道なのです。
「セラフィナイト?!」
ナハト様を思い出した瞬間、両目からボタボタと大粒の涙が溢れました。ゲルブ様が慌てていらっしゃいますが、止まりません。
「ああ、すまない。泣かないでくれ。私は君に泣かれると、どうすれば良いのか分からなくなる」
私は一応人妻ですし、ゲルブ様も正妃様と幼い王太子がおられる人夫です。気軽に抱き締める事は、モーントではご法度です。抱き締めようとして下さった腕がバタバタと動いていて、可愛らしいです。
「ふ…ふふふ…」
泣きながら笑う私にほっとした顔をしながら、ゲルブ様は困ったように笑いました。
「酷いな、君は。笑わなくても良いだろう?」
「申し訳ございません…ふふふ…でも…ゲルブ様、ギュッて、昔みたいにして欲しいですわ」
誰もいない離宮の一室ですから、今だけは童心に還ってゲルブ様に甘えたくなってしまいました。
私にとってのゲルブ様は、実の兄よりも兄のような、そんな存在なのです。ゲルブ様が持つ優しい包容力は、きっと幼い頃から培って来られた努力の賜物なのだと思います。生まれた時からこの国を背負う事が決められ、それを受け入れた覚悟のあるお方の。
「…君は本当に…」
私のお願いにゲルブ様は困惑し、諦めと笑みを混ぜた複雑な顔をなさった後、溜め息を吐かれました。じっとゲルブ様を見つめていると、椅子から立ち上がったゲルブ様は寝台に乗って私の上半身を抱き起こして下さいました。
「…ゲルブ様…」
「妖精は悪戯好きだからね…君はいつも突拍子も無い事をして私達を驚かす」
モーント王国は良質な薬草が採れる事で有名で、主産業の一つに薬がございます。良質な薬と優秀な薬師が多く、なかでも魔法薬師は挙ってモーント王国で働きたがる程、薬師にとって住みやすい国と云われております。
国王であるゲルブ様も優秀な薬師の一面があり、ゲルブ様に抱き締められるといつも優しい薬草の匂いがしました。
薬草の匂いでまたナハト様を思い出しましたが、今度はグッと涙を堪えました。ナハト様もよく薬草の香りをさせておりましたが、ゲルブ様とは違う香りでした。
「…すっかり大きくなってしまったな…あんなに小さくて、折れてしまいそうだったのに…」
ゲルブ様が幼子にするように私の背を優しく叩いて下さいます。久しく人の温もりから離れていたからか、ゲルブ様の温もりにまた涙が溢れました。
ああ、どうやら私は相当寂しくて、心が疲れていたようです。
前世を思い出してから早七年、努力を続けてまいりました。けれど、やはり、努力も大切ですが休む事も大切なのですね。体の疲労は直ぐに気付けますが、心の疲労は気付き難いのかもしれません。
「…私、子供を二人も産んだのですわ。もう昔のように子供ではありませんし、弱くもございませんわ」
ゲルブ様の胸に耳を充てながら、強がりを口にします。ゲルブ様の心臓の音と笑う振動が心地好く私に響きます。
「そうだね…君は強いよ。いつも、君の頑張りに勇気を貰っていた。今もだ」
トントンと背を叩く規則的な音、深みのある優しいゲルブ様のお声に癒され、私はまた少し眠くなってしまいました。本当に子供のようです。
「大丈夫…眠りなさい。君が望むなら、いつまでだって、守ってあげるから…」
ゲルブ様のお声が心地好く耳に染み込み、私はまたゆっくりと目を閉ざしました。
頭の中に前世の子守唄が流れます。リヒトには唄ってあげられた前世と今世の子守唄を、フローライトには一度も聞かせてあげられませんでした。それが悔やまれてなりません。
ゲルブ様の優しさに守られるように、モーント王国の離宮の客間で隠遁生活を送ってそろそろ一ヶ月、発作で落ちた体力を戻し、何も考えずに子供に還って心の疲労を癒す事に時間を費やしてきました。
好きな時に起き、好きな時に寝る。食べて、読んで、散歩して、メイド長と庭師の方に話し相手になって貰い、夜はゲルブ様と過ごす毎日は穏やかです。
客間の窓から見上げる月が欠けて満ちて、時の流れと失いつつあるものの大切さを想います。
ナハト様とのラブラブハッピーライフの野望は潰えましたが、ナハト様や子供達を幸せにする事は出来る筈と、気持ちを切り換える事に努めます。
病を抱える者を家族に持つ事の大変さを、私は前世を通して知り過ぎる程知っているつもりです。
ナハト様にとってセラフィナイトは最早最愛で溺愛する妻では無いのですから、今、私がナハト様の傍を離れても病む事は無く、今が離れる時なのかもしれません。
子供達の事も心残りですが、いつ死ぬかも分からない母親の元で育つより、安定した生活を約束されたシルフィード邸で育つ方がためになるはずです。離縁したら、実家に戻るつもりはございませんし、貴族籍から抜けるつもりでおりますから。
平民になったらどんな職を得れば良いでしょうか。前世も働いた事はございませんし、私に何が出来るでしょうか。刺繍の腕ならそこそこございますし、読み書きも出来ます。発作が心配ですから、やはり何処かの薬師のお店で働かせて貰うのはどうでしょうか。陰ながら子供達の成長を見守る事が出来るシルフィード公爵領に良い薬屋はあるのでしょうか。
「…そんなに哀しい顔をして、何を考えているのかな?」
窓ガラスに、背後のゲルブ様のお姿が映りました。今夜はいつもより遅くの訪れです。
「ゲルブ様、お役目ご苦労様です。今夜はいらっしゃらないのかと思っておりました」
振り返ってゲルブ様と向き合います。今夜は遅いからなのか、寝間着にナイトガウン姿のゲルブ様が気怠い雰囲気を醸し出しておられて、少し気まずく感じました。
「遅くなったから、もう寝ているかと思っていたよ。確認したら直ぐに退出するつもりでこんな姿で訪れてしまった。すまないね」
急いで来られたのか、髪が少し湿っていました。何だか、男性のこのような姿を見るのは久し振り過ぎて記憶違いを起こしているのかもしれませんが、ナハト様も閨事の後にお仕事をしなければならない時に今のゲルブ様と似た雰囲気を醸し出されておりました。
「……あ」
私は愚かにも今察しました。そうです、ゲルブ様には正妃様がおられるのです。政略結婚と聞き及んでおりましたが、夫婦仲は良好とお兄様が言っておられました。一ヶ月近くもゲルブ様の夜の時間を独占してしまっていたのですから、正妃様からクレームが出てもおかしくはございませんわ。
「ゲルブ様、申し訳ございませんでした。私ったら、すっかり甘えてしまって。どうぞ夜の訪いは今後は不要ですから、王妃様との時間を優先して下さい」
「セラフィナイト、君はそんな事を気にしなくても良いんだよ。私が君に会いたくて訪れているのだから」
ゲルブ様は私の頭に掌を乗せ、優しくポンポンと撫でて下さいました。
「…ですが…、流石に長居し過ぎました。ゲルブ様、私…」
「問題に対する答えが見つかったのかな?」
ゲルブ様は何も聞かずに今まで私を匿って下さっていました。その懐の深さに頭が下がります。
「はい…恐らくは…」
「今なら聞かせてくれるかな?それとも言いたくない?」
ゲルブ様の心配そうなお顔を見上げ、私は精一杯笑ってみせました。
「…離縁を考えておりましたが…、やっと覚悟が出来ました。これも全てゲルブ様のおかげです」
「……え?」
ゲルブ様は目を見開き、私を凝視されました。
「聞き間違いではないのか?離縁?ナハトと?!」
何だか随分と驚かれておられます。魔法学院の先輩後輩だとは聞いた事はございますが、ゲルブ様とナハト様は名を呼び捨てる程仲が宜しかったのでしょうか。
「…そうか…なるほど…フ、クックック…」
ゲルブ様は独り言ち、とても楽しそうに笑いました。笑い方が少々悪役です。どうされたのでしょうか。
「セラフィナイトも漸く分かったのだな。あの男の本性を。そうか、分かった。大丈夫だよ。離縁を決めたのなら私が後見となろう。セラフィナイトは何も心配せずに離宮に居れば良い。今度こそ私が君を守るから」
ゲルブ様は私の肩に腕を回して引き寄せ、天蓋付きの寝台へと促します。私は首を傾げながらも、促されるまま寝台に向かいます。
今度こそとはどういう意味なのでしょうか。
「あの…ゲルブ様…?」
「ん?何だい?」
寝台の端に座る私の横に座るゲルブ様は、優しい眼差しを向けて下さいます。
「私、貴族籍から抜け、平民になるつもりでおりますの。いつまでもゲルブ様のお手を煩わせるわけにはまいりませんから、近々お暇を」
「セラフィナイト、君に平民の暮らしは無理だ」
「でも…」
いえいえ、ゲルブ様、私の前世は平民ですから、大丈夫です。なせばなるはずです。
「病を抱えたまま、一人で平民として暮らす事は現実的ではない。自立したいのなら私の下でにしなさい」
ゲルブ様は私の髪を一房手に取り、毛先にそっと口付けを落とされました。
「…美しい髪だ。光の加減で白銀にも見える…」
ゲルブ様は切な気な瞳をなさいました。昔から、ゲルブ様は私の髪を褒めて下さっておりましたが、褒めて下さる度に私ではない誰かを想った瞳をされておりました。
「ゲルブ様…?」
「セラフィナイト…離縁するなら私のモノにならないか?」
「…え?」
モノ、とはどういう意味なのでしょうか。
「元シルフィード公爵夫人を後妻に欲しがる男は多いはずだ。君は社交界に一度も出た事が無い幻の妖精姫と評判だ。私の庇護下にいれば、守ってあげられる」
「私は、どのようなお役目を頂けますの?」
「私の寵妃だよ」
驚き過ぎて、当然と云うお顔のゲルブ様を私はマジマジと見つめてしまいました。
「それこそ現実的ではございませんわ。モーント王国は」
「そう、一夫一妻だ。側室も妾も置けない。だがね、抜け道があるんだ」
「抜け道…?」
「正妃も側室も妾も家門が絡んだ政治的な意味を持つ立場でもあるが、寵妃は国王の私的な恋人だ。他国では私的な恋人を妾にするが、モーントには妾制度は無いため、寵妃として離宮に囲う。名目上、寵妃の役目は予備の子を産む事。王と正妃との間に子が出来なかった時のためだ」
ゲルブ様のお言葉に、流石に私もハッと致しました。自分がいる部屋を見回し、視線をゲルブ様に戻しました。
「…この離宮は、寵妃のための物なのですね」
「そう。前王、つまりは私の父にも寵妃がいた。王太子時代からの恋人だ」
ゲルブ様は私の頬を優しく撫でながら微笑まれました。
「寵妃は憐れだ。離宮に閉じ込められ、王が死ねば追い出される。私が国王になった時、寵妃は作らないと決めていた」
「ゲルブ様…」
モーント王国の裏の一部を図らずも知る事となってしまった私は、呆然とするしかございませんでした。まさか、兄と慕うゲルブ様に、寵妃のお誘いをされるとは思いませんでした。むむむ、今のお申し出は契約寵妃と云うものでしょうか。これはスカウトですか。スカウトですね。公爵夫人から国王の寵妃とは、華麗なる転身と申せますでしょうか。けれど転職は慎重にしなければなりません。曲がりなりにも私は、まだゾンネ王国の公爵夫人なのですから。気軽に他国の王の寵妃になるわけにはまいりません。
「セラフィナイト…」
え、え、え?あら?あら?どうした事でしょう。ゲルブ様のお顔が真上にございます。寝台に押し倒され、ゲルブ様の唇を首筋に感じて驚きに体が強張ります。何が、どうして、このような状況に?あ、痛いです。覚えのあるチクリとした痛みの後にぞくりとした感覚が走り、頭がぐるぐるしてまいりました。
「…大丈夫、セラフィナイトの気持ちが付いてくるまでは、最後までしない」
さ、さ、最後までとは、つまり、それは、私を抱くと云う事でしょうか。いえいえ、そんなはずはございません。ゲルブ様に限って、そのような事をなさるはずはございません。だって、契約寵妃です。しかもまだオファーを承諾しておりません。
「…んっ」
再び痛みを感じ、ぞくぞくとした感覚が腰に走り、目が潤み始めました。
「…君の素肌は、クリームよりも滑らかだな…」
ざらっとした熱く濡れた感触が肌を滑ります。頭の中に赤ランプが点滅致します。
「…あ!駄目、駄目です…っ」
ゲルブ様の手が、私の胸を包みました。優しく、優しく、柔らかさを堪能するように胸を揉まれ、時折指先が突起を意図的に引っ掻きます。
かなり放置されていたとは云え、私の体は閨事に慣れております。ナハト様以外の男性の愛撫に容易く体が溶けるかと危惧しておりましたが、恐れていたような疼きを体が感じる事はございませんでした。
私はまだナハト様だけを愛しているのですから、当然と云えば当然です。
「や、あ…っ…お止め下さいっ、ゲルブ様…っ」
ゲルブ様の唇が地肌を這い、お胸の谷間に濡れた感触がした瞬間、突然強い光が放たれました。
「…っ!!」
光の強さに目を閉じ、次いで起こった震動と爆音に頭が真っ白になりました。
敵襲でしょうか。目を閉じていても分かる殺気に肌が粟立ち、体が震えます。
このような中途半端な状態のまま、ナハト様達を置いて儚くなるわけにはまいりませんわ。
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