悪役令嬢の早死にする母親に転生したらしいので、幸せ家族目指して頑張ります。

百尾野狐子

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戦略的撤退です

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ゲームの本編に登場する主要キャラクターは、ヒロインである『あなた』。デフォルト名は無く、名前はプレイヤーが設定いたします。
ヒーロー候補は各王国の王太子、貴族の子息、騎士、商家の子息と多数おり、変わり種の精霊王やイケオジ枠のガイスト王もいたと記憶しております。ゲームを始める前にヒーロー候補を七人自分で選ばなければならないのが、このゲームの変わっているところかもしれません。
私は、ナハト様一筋でしたから、ナハト様を見るためだけに全てのヒーロー候補者を選び、気が遠くなる程の組み合わせを経て、厳選した候補者を主軸としてゲームをプレイしていました。それは何故か。勿論、ナハト様の登場回数に違いがあったからです。
フローライトはマルチな悪役令嬢ですが、ヒロインの対抗馬級の悪役令嬢の役割を担うのは、ヒーローがゾンネ王国、モーント王国、ガイスト王国の出自の方の時だけなのです。他の王国の方々だと、少々持ち味がトーンダウンする役割で、ナハト様の登場回数が極端に減少致します。
裏を返せば、フローライトがゾンネ、モーント、ガイストの三国の候補者達と関わらなければ、ナハト様を筆頭にシルフィード公爵家に災いが降りかかる危険は減少すると云う事です。
ただ、シルフィード公爵家はゾンネ王国にございますし、私自身がモーント王国の侯爵家の出自です。更に、ゲーム本編のモーント王国のヒーロー候補者の一人は私の甥と云う設定でございました。
ゾンネとモーントの候補者を避けるのは至難の技と思われます。頭が痛いです。
ガイスト王国に関わりがあるのは、王立魔法学院があるからなのでしょう。
ああ、そうです、すっかり忘れておりましたが、この世界の王公貴族の子供達は七歳から魔法学院に入学しなければならないのです。私のように事情がある場合は免除されますが、魔力がある限りは必ず入学しなければならない義務がございます。
ゲームのヒロインは魔力が無い設定ですので、よくある乙女ゲームの魔法学院を舞台にした青春イベントはございません。ですから、フローライトが魔法学院でヒロインと出逢う事は無いのが唯一の救いです。
ヒロインを平民設定でゲームをプレイすると、王公貴族のヒーロー候補者と出逢う確率が下がるのでとても難しく、初心者向きではございませんでした。しかし、ゲームに慣れた強者達が好んで選んでいたのは平民ヒロインらしく、何でも平民ヒロインの時にだけ、隠しイベントやルートがあり、全年齢版にも関わらずお色気シーンが観られると云う都市伝説までございました。
平民ヒロインにはナハト様の登場回数がほとんどございませんでしたので、何度も繰り返しプレイすると云う事はいたしませんでしたから、余り記憶がハッキリ残っておりません。
私がナハト様を観るために選んでいたヒロインは王族か貴族の出自のヒロインで、フローライトが婚約者になったヒーロー候補者が、真のヒーローだと分かるのです。
断罪されるためだけに存在するフローライトですが、この世界は虚構ではないのです。私が今ここに存在している事がその証拠です。私の全てをかけて、フローライトを悪役令嬢にはさせませんわ。
「セラ…気分はどうだ?」
夫婦の寝室のソファーに座り、窓から見える満月を見ながらつらつらと考え事をしていた私は、ナハト様がお部屋に入って来た事に気付けずにおりました。
「ナハト様、申し訳ございません」
お仕事を終えて帰宅されたナハト様に気付かずにぼんやりしていたなんて、妻失格ですわ。私は慌てて立ち上がろうといたしましたが、ナハト様に肩を押さえられて動きを止めました。
「わざわざ立ち上がらなくても良い。今夜も遅くなるから、先に寝ているように言っただろ?」
ナハト様は公爵家当主の証である深い赤色のマントを外し、ソファーの背凭れに無造作に掛けて私の隣に座りました。
自然に肩に回されるナハト様の力強い腕と体温と薫りに、パブロフの犬のように体が熱くなってきます。
今日は王城で会議があるとおっしゃっていましたので、服装がクラバットにジャケット姿のナハト様です。クラバットピンに使われている宝石が私の瞳の色なのが、なんとも妻心を擽ります。
いつもは後ろに流して一つに纏められている金の髪が、聡明な額にハラハラと落ちて色気倍増です。
怜悧な美貌には疲労の色が微かに滲み、私は無意識にナハト様のシャープな顎を指先で撫でていました。お髭が薄いナハト様ですから、顎に触れてもざらつく事はございません。
薄い唇に視線が移り、ついついいやらしい目で見てしまいます。硬質な印象の強いナハト様の唇が柔らかい事を知っているのは、私だけです。ええ、多分、きっと。
「…ナハト様のお顔を見てから眠りたかったのです」
ナハト様の視線を感じましたが、目を合わせる事が出来ずに視線を唇から外して手も自分の胸元に引き寄せました。これ以上触れていたら、我慢が出来なくなるからです。
「不調を感じる事は無かったか?」
ナハト様から距離を取ろうと身動ぎしましたが、ナハト様が私の顎を指で押し上げて珍しく少々強引に顔を上げさせて視線を合わせてこられました。おお、久しぶりの顎クイですわ。ああ、綺麗です。淡青色の瞳が、明かりを落とした光を反射して妖しく輝いています。
「…はい」
「本当に?セラは直ぐに無理をするから心配なんだ」
優しいナハト様のお声に耳は喜んでおりますが、心は欲しい温もりが得られなくて軋んでおります。
ナハト様が心配性なのは通常運転でございますが、フローライトを出産してからはその心配性に拍車がかかりました。
確かに死にかけました。
リヒトの時よりも危険な状態となり、私が寝台から降りられるようになったのは出産後半年経過してからでした。
フローライトも母乳で育てるつもりでしたのに、初乳をあげたっきり、私の母乳で育てる事が出来ませんでした。今回は私の希望をナハト様は叶えて下さいませんでした。泣き落としも効果はございませんでした。更に、私は寝室から出る事も暫く禁止され、私が寝室から出られるようになったのはフローライトの一歳のお誕生日パーティーの時でした。つまり、一年間、私は寝室で静養と云う名の軟禁状態だったのです。
それだけ私の体調が悪く、ナハト様を筆頭に邸の皆に心配をかけたのだと理解していましたから、大人しくしてまいりました。ですが、でも、しかし、夫婦の営みが消滅した事には、全く、全然、些かも、納得しておりませんわ。
寝室から出られるようになってから再び体力増加、筋力アップの鍛練を始め、コツコツ努力してまいりましたのに、ナハト様は私の誘いに一度も応えて下さいませんでした。ええ、そうです。恥を忍んで私から閨事のお誘いを何度もしたのです。けれど、私の体調が心配だからと、口付けさえ拒まれるのは一体どういう事ですの。
フローライトが二歳のお誕生日を迎えるまで、忍耐強くナハト様をお誘いしてまいりましたが、何度も拒まれれば流石の私でも心が折れてしまいます。口付けさえして下さらないのは、最早私はナハト様にとっては性の対象では無いのだと分かります。
相変わらず私に優しく、過保護ですが、ナハト様にとっては妻と云う名の家族で、最早ナハト様の子を産んだ女でしか無いのです。
子供を二人も授かり、設定よりも長く生きたのだから私の役目は終わりと云う事なのでしょうか。
違う形で設定の強制力が働いているのか、思い描いたように物事が進みません。フローライトも今年で三歳になってしまいますが、リヒトの時より確実にフローライトと過ごす時間が足りていませんし、心の距離が遠く感じます。ナハト様がフローライトに余り会わせて下さらないのです。
リヒトとの時間も少なくなっております。以前にも増してリヒトは後継者教育が忙しくなり、あの子に会える時間が無いのです。
同じ邸にいますのに、各々別の時間を過ごして共有する物がございません。家族なのに、バラバラです。笑顔の絶えない、ラブラブハッピー家族とは程遠い現状に、私自身どうしたらよいのか呆然としております。
「セラ…やはり体調が優れないんじゃないのか?顔色が悪い」
額にナハト様の大きな掌が充てられました。乾いたお医者様の手の感触です。また心が軋みます。
「…では、先に休ませて頂きますね」
「ああ、そうしなさい」
ナハト様は当たり前のように私を横抱きにして寝台に運びます。病人を看護する医療従事者の動きで、私を寝台に寝かせて下さいました。
「お休み、セラ」
優しく微笑んで下さるナハト様に微笑みを返し、私も就寝のご挨拶をいたします。
「お休みなさい…ナハト様」
私達の間にあるのは医師と患者の関係しかございません。この先、これがずっと続くのでしょうか。夫婦の寝室の使用を止めようかとも思っていますが、それをすると決定的になってしまう気がして行動に移せずにおります。
以前はあった就寝の口付けもございません。目を閉じると直ぐにナハト様の気配が動くのが分かります。きっとこの後執務室へ行かれるのでしょう。目蓋が熱くなってきました。
扉が閉まる音がして、静寂の音が耳に煩く感じます。暫く息を潜め、睡魔が訪れるのを静かに待っていましたが、脳内で様々な感情や出来事、後悔が渦を巻き始めて眠れそうにないです。
「…はぁ」
そっと吐いたつもりの溜め息が思いの外大きくて、私は慌てて自分の口を自分の手で押さえました。
静寂がまた煩くなり、私は眠る事を諦めて寝台から降りました。バルコニーへと続く窓際まで行き、遠くになった満月を見上げました。
赤い満月が切っ掛けで産気付き、もう少しで三年が経とうとしております。
この三年の間に、様々な変化がございました。先ずは、あの、私を溺愛してくれていたお兄様がご結婚されたのです。フローライトを出産して直ぐにご結婚されたので、私は式に出席も出来ず、未だにお会い出来ていませんが、フローライトと同じ歳の息子が既に誕生しているのです。まるで、設定の強制力が働いたように。お兄様の息子はグリューンと命名されたと聞いた時、ゲームの本編が近付いてきている事を実感致しました。お兄様の息子は私の甥でフローライトの従兄弟です。はい、彼はヒーロー候補者です。
そして次の年には、何と王太子夫妻に大望の王子が誕生致しました。ジェードと命名されたと聞いて、更に実感が深まりました。彼はいずれ王太子となる、ヒーロー候補者の一人です。
この世界がゲームでは無いと分かってはおりますが、設定と云う名の運命が用意されて、世界は定められた運命の終着点を目指して流れているように感じます。
私がいくら抗っても、運命には逆らえないのでしょうか。
「ナハト様…」
満月の冴えた光がナハト様の醸し出す空気に似ていて胸が痛みます。恋しくてたまりません。私の願いはただ、愛し愛される夫婦で、笑い合える家族でいる事だけですのに、何故これ程叶えるのが難しいのでしょうか。
このまま、本編が始まるのを指を咥えて待っていても良いのでしょうか。フローライトとの今の距離感では、いくら私が生きていても悪役令嬢になるのを阻止できないのではないでしょうか。
リヒトには乳母はおりませんが、フローライトには乳母がおります。設定では私が亡き後、セーラがフローライトの専属侍女として彼女のお世話をしておりましたが、私が生きているためにフローライトには設定にはいなかった乳母がおります。
シルフィード家の遠い親戚筋の紹介で、出産後に直ぐ夫に先立たれて婚家から追い出されてしまったと云う事情がある女性です。元はフランメ王国の男爵家の出身で、嫁いだ先がゾンネ王国の伯爵家で立場は第二夫人であったそうです。子供が男の子だったので、既に第一夫人が生んだ跡継ぎがいるらしく、追い出されてしまったそうです。
ナハト様の事情とは少し違いますが、家から追い出されたのはナハト様と同じです。子供を不憫に思ったのか、ナハト様はその女性をフローライトの乳母として雇い、今日に至ります。
「…ナハト様…」
熱くなった頭を冷やすように、窓ガラスに額を充てて目を閉じます。
フローライトの乳母の名はルイーゼと云い、フランメ王国に多い特徴の燃えるような赤髪をしており、瞳も赤い妖艶な美女です。ポッテリとした赤い唇の下にある黒子がセクシーで、女性的な体型をしています。前世のアニメで観たレオタードを着た泥棒三姉妹の長女に似ております。ナハト様と同じ歳だと聞いているので、今二十七歳です。女盛りです。
正直、私は彼女が気に入りません。本当は解雇したいのですが、フローライトが懐いていて、解雇出来ないのです。
私があげたかった母乳を彼女が与え、私がいつでも抱き締めて傍にいてあげたかったのに、フローライトの傍にいるのは乳母である彼女です。フローライトは母乳は一歳前に卒業したらしいのですが、世話係りとしてルイーゼは今も傍にいるのです。
何より一番気に入らないのは、彼女がナハト様に好意を持っている事です。
本人は隠しておりますが、私には分かります。
ナハト様は使用人として接しておりますし、彼女に特別な想いを抱いているようには見えません。けれど、彼女とナハト様が並んで話している所を遠くから目撃した私の心がどれ程乱れたか、今思い出しても血圧が上がります。
「駄目だわ…このままでは駄目…」
私は窓から離れ、寝台に置いていたナイトガウンを羽織って寝室の扉に足を向けます。
乱れた心を落ち着かせるには子供達の寝顔を見るに限ります。
日中は各々忙しく中々会えないのですが、夜中は流石に子供達は寝室で寝ております。夫婦の寝室にナハト様が戻って来る時はかなり遅い時間ですし、戻って来ない時もございます。そういう時、私は子供達の寝顔を見に行きます。
「セラフィナイト様、いかがなさいましたか」
寝室の扉を開けると、扉の脇には専属護衛のミネルバが控えておりました。
「この時間はミネルバだったのね」
「リヒト様とフローライト様のお顔を見に行かれるのですか?」
「ええ」
「お供致します」
私がいる部屋の扉の脇には常に護衛が控えております。基本的にはミネルバとシェリーが交代で護衛に付いてくれておりますが、夜の護衛は違う騎士の時がございます。ミネルバは慣れていますから説明の手間が省けます。
夫婦の寝室は二階にございますから、階段で子供部屋がある三階へと向かいます。以前は子供部屋も二階にございましたが、いつの間にか三階に移動しておりました。ナハト様の執務室も三階で、子供部屋へ向かうには執務室を通り過ぎる必要がございます。
いつもはきっちり閉まっている硬い癒瘡木で出来た執務室の扉が今は少し開いております。
「…っ…」
久しく聞いていない、けれど聞き覚えのあるナハト様の息遣いを耳にして、はしたないけれど扉の隙間に視線を走らせました。
「……!」
人は驚き過ぎると言葉を忘れるのだと知りました。執務室のソファーに横たわるナハト様の股間に顔を埋めている赤い髪の女性の姿に、私は瞠目して立ち竦みました。
あ、まずいです。心臓が嫌な拍動を刻み始めました。呼吸が乱れてきて上手く息が吐けません。これは過呼吸です。
「セラフィナイト様、失礼致します」
ミネルバは私の体を横抱きにして、音も立てずに踵を返します。来た通路を戻るミネルバの足取りに迷いはございません。
頭の中がぐちゃぐちゃです。
私室の寝台の端に座らされ、ミネルバに背中を優しく撫でられながら、私は何とか呼吸を元に戻そうと努力致します。
涙が止まらないのは苦しいからです。
「ミネルバ…っ…」
「大丈夫です。セラフィナイト様、大丈夫です」
優しいミネルバの声に泣きながら笑いました。
ええ、そうね。見ない振り、知らない振りをしていれば、なんとなく上手く行く事もございます。
既に夫婦関係は破綻していたのを、今まで見ない振りをしてきたのですから、それを続けていれば、これからも引きこもって何も成さずに終わりを待てば良いのです。
「…はっ…はぁ…はぁ…」
呼吸が少し戻って来ました。
「セラフィナイト様…」
優しいミネルバの声の中に不安が滲んでいる事に気づきます。ミネルバも執務室で何が起きていたのか、目撃した事が分かります。
ナハト様の服は乱れておりませんでしたが、赤髪の女、ええ、最早、女でかまいません、あの女の頭で決定的な所は見えなかったので実際に下半身が乱されていたのかは分かりませんが、不貞が行われていた事は間違いございません。
不貞です。浮気です。許せません。
「…ミネルバ…、紙とペンを…」
「はい」
ミネルバはサイドテーブルの引き出しに備えてある紙とペンを取り出して私に渡してくれました。
まだ乱れたままの呼吸を抑えながら、紙に走り書きを致します。
今はもう頭が煮えていて冷静になれそうにありません。物理的に距離を置いて、とにかく冷静になりたいのです。このままでは魔力が暴走して、皆様にご迷惑を掛けてしまいそうです。
「ミネルバ、ごめんなさいね…後は宜しくね」
「セラフィナイト様!お待ち下」
ミネルバの言葉を最後まで聞く前に私は魔法を発動させました。移動魔法を使ったのはまだまだ幼かった時以来です。
セラフィナイト、今は戦略的撤退を致します。決して、逃げるわけではございませんわ。
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