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一章
初めての夜
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世界は神が創った。
混沌とした空間をかき混ぜ、光と闇に分けて世界を創り、生命の種をばら蒔いた。
種はやがて芽吹き、花を咲かせ、次の生命を生み出す。
生命はやがて知恵を授かり、文明を創り、繁栄した。
世界は創造神の名と同じ、ヴェルトラウムと名付けられ、六つの王国と無数の島々で秩序を維持した。
世界各地に伝わる、世界の始まりを教える伝説の序章がこれである。
◆◆◆
「…婚約破棄ですか?」
6歳のリーラは聡明だった。
モーント王国王位継承権二位の現国王の長女である、リーラ・ノイ・モーントは自他共に認める美少女でもあった。
白銀の髪と紫色の瞳。
白い肌は新雪を思わせ、紅く柔らかな唇は野いちごのようで、食べてしまいたくなる程可憐だ。
「ええ…残念だけれど、仕方の無い事ね。ジェード様はゾンネ王国の次期国王になられる御方。魔力の無い貴女に、王妃は務まらないと…」
「婚約破棄を言い渡されたのですね」
王妃である母親のロートが言い難そうにしている言葉じりを、リーラは引き継いで言葉にした。
ゾンネ王国はモーント王国の隣国にある同盟国で、この世界で最も力を有している大国だった。
世界には魔法と精霊が存在し、老若男女、身分に関係無く誰しも魔力を宿して誕生してくる。
王族の魔力は平民とは格が違い、その強い魔力故に国を統治していた。
王族と貴族は、6歳の誕生日に魔力の選別試験を受ける。選別試験は世界最北の王国、ガイスト王国に建立された王立魔法学院から試験官が訪れ、魔力の属性と保有量を調べられる。
7歳になると魔法学院に入学し、その結果によってクラスが振り分けられる決まりになっていた。
リーラはその試験に落ちた。
王族が試験に落ちるのは、前代未聞の出来事だった。
どんな人間でも、塵くらいは魔力を宿して生まれるはずだが、リーラには塵ほども無かったのだ。
魔力が無ければ例え王族でも学院に入学する事は許されない。
つまりリーラは、6歳にして人生の落伍者の烙印を捺され、良縁に恵まれる可能性は限りなく零となったのだ。
二歳上のゾンネ王国の後継者ジェードとの婚約は、リーラが生まれる前から決められた国同士の政略だった。しかし、魔力の無い王女など何の役にも立たないのは子供でも分かる事だった。婚約破棄されるのは至極当然の事だった。
「分かりました。お話しはそれだけですか?」
リーラは特にショックを受けた様子も無く、淡々と事実を受け止めた。
可憐な容姿と違い、リーラの態度は常に冷静で理知的だった。
そんな愛娘の大人びた態度にロートは戸惑いはしたが安堵の方が大きかった。
「実は…ジェード王太子の婚約者にローザが望まれて…お父様はそれをお受けしたのです」
「ローザが新しい婚約者となったのですね?」
ローザはリーラの4歳下の妹だった。
まだ2歳だが、生まれた時から確かな魔力を宿しており、確かにリーラよりジェードに相応しい相手だった。
「ええ…気持ちは納得出来ないかもしれないけれど…」
「そんな事はございません。喜ばしいことでございます」
リーラは可憐な美貌に微笑みをのせ、母親の部屋から退出するためにドレスを少し持ち上げて膝を折って頭を下げた。
「お話しがそれだけなら、これで失礼致します」
「リーラ、お待ちなさい」
「お母様?」
「まだお話は終わっていませんよ?貴女は学院に入学する事もできませんし、他国の王族からの正妃としての求婚も望めません。貴女に残された道は、この国の貴族からの求婚を待つか、他国の王族の第二夫人になるかです」
モーント王国は一夫一婦制度で、公には重婚は認められていない。他国の王族と貴族は一夫多妻制度が常識となっていたが、モーント王国の女にとって第二夫人や妾になるという立場は屈辱的なものだった。
「私はどちらも選びません。魔力が無くても民のために出来る事は沢山あるはずです」
「リーラ…」
愛娘の意外な返事に、赤い瞳を見開いてロートは困惑した。
「私は誰の元にも嫁ぎません。沢山お勉強をして、お父様やお兄様の手助けが出来るような役人になりとうございます」
「まぁ…何を言うの?女性が結婚もせずに役人として働くなんて、聞いた事も無いわ」
「…駄目でしょうか…?」
「貴女は私の大切な娘…可能な限り希望を叶えたいけれど…お父様は許さないでしょう」
女は結婚するのが当たり前。
子供を産んで一人前。
モーント王国だけでなく、この世界ではそれが常識なのだ。
リーラは母親の言葉を聞いて、可憐な美貌を曇らせた。
『…ジェード様との婚約を受け入れていたのは、どんな形でもあの御方の傍にいられればと思ったから…。今更、他の殿方と結婚する事なんて…考えられないわ…』
「あぁ…リーラ…そんな哀しい顔をしないで…」
ロートは立ち上がり、立ち尽くす愛娘を抱き締めた。
柔らかな母の胸に抱き締められたリーラは、確かな愛情を注がれている事を理解しているからこそ苦しかった。
リーラは家族を愛していた。
この苦しみは、自分の本心は胸の奥に押し込んで、結局家族の為に愛する事も出来ない人の元に嫁ぐ事を了承する自分を知っているからだ。
『大人になんかなりたくない…このままでいたいのに…』
時は無情に、平等に流れていく事を、幼いが聡いリーラは分かり過ぎる程分かっていた。
モーント王国は世界の中央に在る広大な大陸の南側に、ゾンネ王国はその北に位置していた。両国は魔法で造られた国境で分けられ、他国との関係と比べると同盟は強固で良好だった。
モーント王国の王城は、一週間も前から慌ただしい空気が流れていた。
ジェード王太子が婚約者となったローザに挨拶をしに来るのだ。
元々、お茶会等で三ヶ月毎に逢っている仲だったが、今回は改めて婚約者としてローザに逢いに来るため、城中の者達がそわそわと浮わついていた。
『…腫れ物扱いね…』
城の裏庭を一人で散歩していたリーラは、小さく溜め息を吐いた。
婚約破棄を言い渡されてから一ヶ月経っていても、城中の者達に気を使われ、慰められ、リーラはいい加減辟易していた。
今日のジェード王太子との対面も、頼んでもいないのに病欠扱いとなり、暇をもて余していた。
どんなに練習しても、勉強しても、魔力の気配さえ自分からは感じられない事が、昔からコンプレックスだった。
6歳までに魔力が現れなかったら…。
小さな頃から賢かったリーラは、誰にも言えない悩みを抱えながら密かに魔力以外で王女として出来る事を模索してきた。
本を読み、召使い達から話を集め、民が国に何を求めているのか自分なりに考えてきたのだ。
『…考えても無駄だったけれどね…』
リーラは薔薇の咲き誇る裏庭を抜け、鬱蒼とした森の中に足を踏み入れた。
この森は普段滅多に人が来ず、リーラの秘密の場所への入り口だった。
子供の足で五分程歩いた所に、誰が作ったのか分からない蔦が絡まったアーチがあった。
アーチを潜るとそこは違う次元に繋がっているようで、辺り一面がキラキラと光輝き、澄んだ湖が広がる空間が現れる。
リーラは肩に掛けていた紫色のマントを外し、地面に広げてその上に座った。
気分が落ち込んだり、何も考えたく無い時に、リーラはこの場所を訪れる。
『…あの御方も、今頃はお茶会に出席されてるのかしら』
リーラの初恋は、3歳の時だった。
相手は婚約者だったジェード王太子の弟、カイヤナイト・ヴァー・ゾンネ。
妾腹の生まれで、ジェードとは同じ歳の弟だった。
リーラと同じ珍しい白銀の髪で、藍晶石色の瞳は理知的で美しかった。
類稀な白皙の美貌と、年齢には見合わない落ち着きと聡明さは、凡庸な兄のジェードより王太子に相応しいと噂されていたが、彼が妾腹である事が彼の可能性を潰していた。
どれ程優秀でも、結局全ては出自が決定するのだ。『…カイ様はいつもどんな気持ちで、ご自分の境遇に耐えていらっしゃるのだろう…悔しいわ』
カイヤナイトの事を想えば、悔しさで瞳が潤む。
魔力が無い、王女のリーラ。
優秀だが妾腹の王子、カイヤナイト。
自分達の力ではどうにも出来ない事が現実にはあり過ぎて、リーラは歯痒くて堪らなかった。
「…また、一人で泣いてるの…?」
背後から聞こえた、愛しい想い人の声に、リーラは慌てて振り返った。
「カイ様…」
澄んだ紫色の瞳を見開くリーラを見て、ふわりと優しい微笑みを浮かべたカイヤナイトは、リーラの隣に腰を掛けた。
青い髪紐で後ろに括った白銀の髪。鮮やかな青いマント。その下の服は仕立ては良いが、余り王子の身分では着ない黒いチュニックとズボンをカイヤナイトは着ていた。その服の色が自国でのカイヤナイトの境遇を表しているようで、リーラの胸はまた悔しさに憤ったが、肩が触れ合い、リーラの心臓が甘く跳ねた。
「ど、どうして此処に?お茶会は…」
触れ合った肩からカイヤナイトの温もりが感じられて、リーラは視線を合わせられずに顔を伏せた。
「兄上達は、まだ楽しんでいるんじゃないかな?私は貴女を呼びに此処に来たのです」
「え?」
リーラはカイヤナイトに視線を戻し、小首を傾げた。
「私を呼びに?」
『何の御用かしら…?』
カイヤナイトはリーラの顔を優しい眼差しで見つめ、涙が滲んだ目尻を指で拭った。
触れられた箇所が発火したように熱くなって、普段は冷静なリーラの顔がどんどん赤くなってきた。
賢くて冷静でも、所詮リーラはまだ6歳の少女に過ぎない。
カイヤナイトが秘密のこの場所を知っているのは、リーラが彼にだけこっそりと教えたからだ。
3歳のリーラは魔力が芽生えない自分に焦り、一人で裏庭で泣いているのを、婚約してから初めての顔合わせのお茶会に来ていたジェードのお供として訪れていた当時5歳のカイヤナイトに目撃され、慰められたのが彼に惹かれ始めた最初の切っかけだった。
誰にも言えなかった悩みを、リーラは何故かカイヤナイトにだけは打ち明けられた。
彼はリーラの拙い話を黙って聞いた後、無いものを嘆くより、それ以外の出来る事を模索し、手に入れる努力をしてみたら良いと、3歳にでも解る言葉で助言してくれた。
リーラは、彼の前向きな心の力強さを尊敬し、やがてそれは恋心に変化していった。
お茶会の度に、リーラはカイヤナイトと短いが秘密の時間をこの場所で幾度も過ごした。
話を聞いてくれたお礼のつもりで、秘密の場所をこっそり教えたら、お茶会の度にカイヤナイトはこの場所を訪れるようになり、リーラと話をしてくれるようになったのだ。
「城中の者達が、今貴女を探していますよ」
「え?何かしら?何かあったのですか?」
「あったと言えばあったのかも…」
カイヤナイトは音も立てずに立ち上がり、リーラに手を差し出してきた。
リーラはその手を取ると、軽々と彼に引き上げられた。
「…カイ様、背が伸びたのですね」
三ヶ月前に会った時より目線が上になっている事に気付き、リーラは少し寂しくなった。
『…大人になったら、カイ様も誰かと結婚するのだわ…』
「…大きい私では駄目ですか?」
「え?いいえ!そういうつもりでは…」
困った顔で微笑まれ、リーラは慌てて首を横に振った。首を振る度に、リーラのサラサラとした艶やかな白銀の髪が背中で揺れた。
今日は自室で一日過ごすように言われていたため、纏っている白いドレスは装飾の少ない質素な作りで、髪は結んでもおらず、背中に垂らしただけの姿をしていた。
自分の姿に今更気が付いたリーラは、慌ててカイヤナイトから手を離して地面に敷いた自分のマントで姿を隠した。
慌てるリーラにまた優しい微笑みを浮かべたカイヤナイトは、不意にリーラの足元に片膝を突いて手を差し出した。
「リーラ姫」
「はい…」
真面目な顔になったカイヤナイトは、手を差し出したままリーラを見上げた。
「私は先程貴女のご両親に、貴女を将来私の花嫁にと、結婚の申し込みをして参りました」
「…え…?」
「私は、第二王子とは名ばかりで、将来的に高い地位に就くことはありません…ですが、貴女を誰にも渡したく無いのです」
「カイヤナイト様…?」
『何?私は…今…何を言われているの?』
「貴女には悪いが…貴女に魔力が無くて本当に良かった…そうでなかったら、貴女が婚約破棄される事など無かったのだから…」
カイヤナイトは立ち尽くすリーラの小さな手をそっと取り、手の甲に口付けを落とした。
「貴女が婚約破棄された事を喜ぶ私を、軽蔑しますか?」
「そんな…!」
カイヤナイトの言葉に、リーラは慌てて首を横に振った。
驚き過ぎて言葉が出て来ないのだ。
幼いリーラの反応に、カイヤナイトは優しい微笑みをまた顔に浮かべた。
「私の婚約者になって下さいますか?」
「はい…はい…っ」
大きな紫色の瞳から、大粒の涙が溢れた。
カイヤナイトは立ち上がり、恐る恐るリーラの身体を抱き締めた。
まだ細く、薄いカイヤナイトの身体だが、リーラにとっては誰よりも彼の温もりは安心出来た。
リーラも恐る恐るカイヤナイトの背中に腕を回して、初めて家族以外の存在を抱き締めた。
涙が止めどなく溢れてきて、リーラは初めて幸せでも涙が溢れるのだと知った。
「リーラ様、本当に良かったですね」
リーラの世話係り、ミモザ・フラウは、リーラの髪を優しくブラシでとかしながら、自分の事のように喜んでいた。
ミモザは男爵家の出自で魔法学院を卒業して直ぐに王城に召し上げられ、15歳からリーラ専属の世話係りをしている。
茶色の髪と瞳をしたミモザは、容姿は人並みだが、明るく世話好きな性格で、使用人達の間でも好かれ、頼られる存在だった。
「婚約してからもう三ヶ月経つのよ?まるで昨日の事のように言うんだから…」
「ですが、本当に嬉しかったんですよ。リーラ様は、ずっとカイヤナイト様を想ってこられたんですから」
「ミモザ…」
鏡越しにミモザを目で叱り、唇に人指し指を立てるリーラの姿は、おとぎ話の姫君より可憐だとミモザは、目尻を下げた。
「申し訳ございません。さぁ、今日はカイヤナイト様がお越しになる日です。とびっきり、美しく仕上げて差し上げますわ」
「…あまり華美にしないでね…。カイ様は、ゴテゴテヒラヒラはお好きじゃないそうですから」
リーラとカイヤナイトの婚約は、トントン拍子に両国の間で正式に決定された。
将来が不安視されていたリーラに、早々に新しい婚約者が決まって家族は安心し、城中の者達も手放しで喜んでいた。
相手があの、美しく優秀なカイヤナイト王子だということが、喜びを更に深めさせる要因だった。
モーント王国内でも、カイヤナイト王子の評判は良かった。例え妾腹でも、出自を上回る優秀さと、気さくで優しい人柄が周囲の人間の心を虜にしているのだ。
『こんなに幸せで良いのかしら…』
リーラはこの日を心待ちにしていた。三ヶ月振りにカイヤナイトに逢えるのだ。
魔法学院は全寮制で、入学後は長期休暇以外は自国に帰る事は難しい。学院が在るガイスト王国は遠く、出入国が難しい特別な国だったからだ。
『お忙しい中、私に逢いに来て下さるなんて…』
子供でも、王族の一員は与えられた領地の管理をしなくてはならない。自国に帰れば仕事が待っており、カイヤナイトも例外では無い。
ゾンネ王国の王子達は、大国の王子にしては女性にマメなタイプなのかもしれない。元婚約者のジェードも、休暇の度に来訪してくれていたのだ。国が決めた婚約なら、形だけで結婚まで逢う事も無いのはざらにある事だ。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、リーラはカイヤナイトの事ばかり考えていた。
白銀の髪は背中に垂らし、両サイドだけ編み込んで後ろでまとめ、濃い紫色のリボンを結ぶ。
6歳の少女らしく、肌の露出の無いクラシカルなハイネックのドレスは淡い紫色で、リーラの清楚な美しさを際立たせてくれていた。
何の取り柄も無い自分を婚約者に選んでくれたカイヤナイトのために、リーラが出来る事は彼の目を楽しませる事だけだと思い、身支度にも力が入る。
お洒落や流行の事には疎いリーラは、カイヤナイトのために出来る努力をしているつもりだが、それが果たして的を得ている行為なのかは自信が無かった。
『…私を他の人には渡したく無いと言って下さった…好きだからとは言って下さらなかったけれど…それ以上望んではバチが当ってしまうわね…』
魔力の無いリーラを将来の妻に望んでくれたカイヤナイトのために、美しく賢く健康であろうと努力し続けていく事をリーラは改めて決意した。
モーント王国の8月は寒くも暑くもない過ごし易い気候で、暑い気候の国々から旅行者が訪れ、城下町は賑わいを見せる。
リーラはカイヤナイトに乞われて、王城内で城下町が見渡せる場所まで案内していた。
王城の南側にある一番高い塔は、リーラも一人でよく訪れる場所だった。
昨日の昼過ぎに到着したカイヤナイトは、リーラとの挨拶もそこそこに、父王ゲルブと5歳上の兄ブラウに捕まって談話室に入ってしまい、中々出て来なかった。
カイヤナイトが二人から解放されたのは、夕日が沈もうとしている時刻だったらしく、自室で本を読みながら待っていたリーラは待ちくたびれてソファーでうたた寝をしていた。
リーラは遠くで誰かに名前を呼ばれた気がしたが、夢現に返事をした後の記憶が無かった。
夕食も摂らず眠り続けたリーラは、カイヤナイトが逢いに来てくれるのを楽しみにし過ぎて睡眠不足だったのだ。
今朝、すっきりした頭でリーラは目覚めたが、夕方にカイヤナイトが自室までリーラを訪ねてくれた事をミモザから教えられ、寝てしまった自分を内心で罵った。
『カイ様の滞在期間は一週間しか無いのに!貴重な一日を潰してしまった!あぁ…もう、私のバカバカバカ!』
頭を抱えて分かりやすく嘆くリーラの姿を微笑まし気に見守っていたミモザの胸中は、安堵に満ちていた。
聡いリーラは年齢よりも大人びた思考で、使用人達の手を煩わせる事もなく、常に王女としての立場を忘れない振る舞いをしてきた。
ミモザはそれが心配でならなかったのだ。
王女の立場を忘れない事は良い事だが、まだ6歳の少女ならば喜怒哀楽を見せ、時には我が儘も必要だと思っていたのだ。
子供でいられらる時間は短い。
張り詰めた心でい続ける事は難しく、いつか心が裂けて取り返しのつかない事になるのではと、危惧していたのだ。
『カイヤナイト様のお陰で、本来のリーラ様が見られるようになって、本当に良かった…』
嘆くリーラを慰めながら、ミモザは愛する主人の身支度を整えた。
リーラの要望通り、今日も髪を後ろに垂らしたまま両サイドだけ三つ編みにして、青色のリボンで結んだ。
今日もハイネックの簡素なデザインの青色のドレスを選んだが、清楚な仕上がりにミモザも満足だった。余計な飾りが無い方が、確かにリーラの美しさが映えると、ミモザは感心していた。
リーラがカイヤナイトの好みを口にしたのは、以前彼から直接聞いたからのようだった。
『王子の女性の好みというより、カイヤナイト様はリーラ様の美しさを理解された上でそのように仰ったのでしょうね…リーラ様は気付いていらっしゃらないけど、相当愛されてますわね~』
「さぁ、テラスに参りましょう。カイヤナイト様がお待ちですよ」
「え?」
「朝食を是非ご一緒にと、承っておりました」
「もう、何でもっと早く教えてくれないの?」
「リーラ様が可愛らしくて…つい…」
「ミモザったら…あ、ほら、早く参りましょう。お待たせするわけには」
リーラは鏡台の椅子から立ち上がると、置き時計を確認して慌てた。
「リーラ様、落ち着いて下さい。まだ大丈夫ですから」
ミモザは笑いながらリーラの後に付き従った。
王城の西側の棟がリーラ達家族の生活空間となっており、一階の裏庭にテラスがあった。
家族は気を利かせて同席はせず、リーラはカイヤナイトと二人で多少の緊張はあるものの和やかに朝食を楽しんだ。
カイヤナイトは饒舌なタイプでは無く、リーラも少女にしては口数は少ない方だが、何故か二人でいる時は沈黙も気にならない。
カイヤナイトが巧みに場の空気をコントロールしているからだが、幼いリーラにはまだそこまで察する経験値が無かった。
朝食の会話の中で城下町の話しになり、実はまだリーラは城の外に出して貰った経験が無い事を伝えた。出た事は無いが、城下町の様子は塔から見えると言う話しに、カイヤナイトが是非その景色を見てみたいと言った。
朝食後にリーラはカイヤナイトを案内して、王城の南にある塔に登った。
「…あぁ…なるほど。確かに良く見える」
カイヤナイトは風になびく髪を手で押さえながら、藍晶石色の瞳を細めた。
「活気があって、見ているだけで元気が出てきます」
リーラは身を乗り出すようにして景色に魅入った。
城下町は整備され、白と茶色の煉瓦で建てられた建物が多く、所々で市場の屋台が出て人々の賑わいが見てとれた。
「この国は…穏やかですね」
カイヤナイトが遠い目をしながらポツリと呟いた。
「穏やか…ですか?」
リーラは小首を傾げながら横に立つカイヤナイトを見上げた。
書物や人から聞いた話でしか他の国を知らないリーラには、実際に感じる各々の国が持つ空気の違いは分からなかった。
「ゲルブ国王やロート王妃も穏やかで、こんな言い方は失礼かもしれませんが…王族とは思えない夫婦仲の良さに正直毎回驚かされていました」
「…ゾンネ王国は違うのですか?」
確かにリーラの両親は仲が良かった。
ロートはモーント王国の公爵家の令嬢で、ゲルブとの結婚は生まれる前から決められたものだった。
だが、二人は決められた結婚でも、縁があって夫婦になるのなら互いに愛し合う努力をした方が良いと言って、今に至っている。
「そうですね…情の種類が違います…」
『情の種類…?』
カイヤナイトの言葉は、リーラにはまだ難しかった。
また小首を傾げるリーラを見て、カイヤナイトは困ったように微笑み、風で乱れたリーラの髪を優しく手櫛で直した。
「明日はブラウ王太子殿下の領地を一緒に視察する約束になっているのですが、王城の外に出られた事が無いならご同行されますか?」
カイヤナイトの意外な申し出に、リーラは瞳を輝かせた。
「本当ですか?嬉しい!」
「…恐れながら…陛下と殿下がお許しになるとは思えませんが」
後ろに控えていたミモザの進言に、従者達が無言で頷いていた。ゲルブも、ブラウも美しく聡明なリーラを溺愛しているのだ。
『そうだった…お父様もお兄様も心配性だから…』
「大丈夫です…、私にお任せ下さい」
顔を曇らせるリーラに微笑み、カイヤナイトは自信あり気に請け負った。
頼もしいカイヤナイトの態度に、リーラの彼への想いは更に深くなった。
どんな手を使ったのか、カイヤナイトの言葉通り、リーラは兄のブラウの領地への視察に同行出来る事になった。
ブラウの領地は王城がある王都の隣にあり、馬車で二時間も走れば到着する距離だった。
リーラの領地はその隣にあるが、管理は兄と兄の相談役が代理で行っていた。
モーント王国は大地の恵みが強く、水と緑が豊かな国で、特産物は農作物や薬だった。特に薬草は高値で売買され、魔法の材料としても希少な薬草が栽培されていた。
『凄い、凄い…。城の先生方から教えて頂いてはいたけれど、実際に自分の目で見るとまた印象が違うわ…』
牧歌的な印象が強かった自国に対しての考え方がリーラの中で変化した。モーント王国は、知性的な国だったのだ。
「こんなに、魔法薬の加工技術が優れているとは思わなかったです」
帰りの馬車の中で、ブラウとカイヤナイトに興奮気味に話すリーラの姿は愛らしかった。
新雪の如き肌は上気し、頬がほんのりと桃色に染まり、紫色の理知的な瞳はキラキラと輝いていた。
カイヤナイトとブラウはリーラを優しい眼差しで見つめながら各々頷いた。
「国の薬師達の腕も、世界に誇れるものだ」
「薬草だけでなく、リーラ姫の領地では魔道具に欠かせない希少な鉱石が採れるようです」
「え?そうなんですか?初めて聞きました」
カイヤナイトの補足情報に、リーラの瞳は益々光輝いた。
「鉱石といえばゾンネ王国だよな」
リーラの可愛さに目尻を下げながら、ブラウは斜向かいに座るカイヤナイトへ視線を向けた。
「そうですね…。優れた魔道具職人が多いのも特徴ですね」
頷くカイヤナイトの美貌に見惚れながら、リーラはワクワクする気持ちを抑えられず、珍しく自分から兄におねだりをした。
「お兄様、次は私の領地に行ってみたいです」
「え?…いや、でも…リーラの領地は隣でも少し遠いからなぁ…泊まりになってしまうから」
ブラウが茶色の髪を掻き上げながら、困った顔で笑った。
「また次の機会にお連れしては如何ですか?自分の領地を知りたいと思う事は素晴らしい事です」
カイヤナイトがすかさずリーラを援護した。
「まぁ…そうなんだけど、父が何と言うか」
「次と言っても、また私の次の長期休暇ですから、しっかり準備も出来て安心です。私も何があっても必ずリーラ姫をお守り致しますし」
「私だけでは心許ないが、カイが一緒なら問題無いかな…。父に話してみるよ」
カイヤナイトが一緒に行くと言うだけで許されるのは何故なのか、リーラには不思議だった。いくら賢く優秀とはいえ、カイヤナイトもまだ8歳の少年にすぎないのだ。
だがその疑問より、また次の長期休暇にカイヤナイトと逢える事が分かって、リーラは嬉しくてたまらなかった。
カイヤナイトがリーラの婚約者になってから過ごした初めての休暇は、リーラにとっては初めて心から楽しめる日々だった。
魔力が無くても、王女として国に何を返せるのか考えてはいても、具体的な道を見付ける事が出来なかったリーラに、実際に自分の目で見る事で、カイヤナイトは幾つかの道標を示唆してくれたようにリーラには感じた。
『私も、あの御方の為に何か出来たらよいのに…』
まだジェード王太子の婚約者だった時も、カイヤナイトに秘密のあの場所でいつも自分の悩みばかり聞いて貰っていたのだ。時には励まされ、時には諭され、今思えば甘えてばかりいた事にリーラは気付いた。
『カイ様が、私と結婚して得する事って何かしら…?』
少ない政治的な知識を総動員しても、利点は一つも思い浮かばなかった。
ハンカチにチクチクと細かい刺繍を施しながら、リーラはつらつらと考え続けた。
しかし幾ら考えても答えは見付からず、自室のソファーに座って刺繍の課題に取り組んでいたリーラは、誰もいない事が分かった上で大きな溜め息を吐き出した。
『お得なところが全く無いなんて…どうしよう。カイ様に婚約破棄されたら…私、死んでしまうかも…』
男女間の恋愛感情にはまだまだ疎いリーラは、カイヤナイトの真意が分からず一人で思い悩み続けた。
リーラの心配を余所に、婚約破棄をされる事もなく、二人は順調に健全に関係を育んでいた。
一年に三回ある魔法学院の長期休暇の度にリーラの元を訪れてくれるカイヤナイトの美しさは、歳を経る毎に増していった。
婚約者として初めてモーント王国を訪れてから、今回で19回目の来訪になるカイヤナイトは既に14歳となり、細く薄かった体はまだ成長過程ではあるものの、少年と青年の狭間のしなやかな力強さをその身に宿すようになっていた。
リーラも12歳となり、身長も伸びて体つきも少女から柔らかな曲線の女性へと変化が著しかった。
自他共に認める美貌も、幼さが薄れ、憂いを帯びた紫の瞳が見る者を虜にする妖しさを漂わせるようになっていた。
リーラの憂いの原因は勿論、カイヤナイトだった。
『…何でそんなに優しいの?ああ、また!そんなに優しく微笑んだら、またライバルが増えてしまう』
王城で開かれるお茶会は、まだ社交界デビューをする前の王族や貴族の子供達の練習の場であり、子供達の社交の場でもあった。
王城の東の棟の庭は、公の社交場としてのスペースで、季節の花を飾り、設置したテーブルに王城の料理人達が腕を振るった料理やデザート類がところ狭しと並べられていた。
今回のお茶会は、他国の王子や王女、貴族の令息や令嬢達が多く参加していた。
この場の誰よりも美しく華があるカイヤナイトの元に、多くの王女や令嬢達が群がっていた。
カイヤナイトは嫌な顔をする事もなく、終始にこやかに優しく少女達に接していた。
リーラはモヤモヤとする気持ちを抑えながら、お茶会のホストの一人としてカイヤナイトを見習って苦手な笑顔を顔に貼り付けて出席者達をもてなしていた。
「リーラ姫、お久し振りです。またお逢い出来て光栄です」
自国の貴族である、プランツ侯爵家の子息グリューンが親しげにリーラの傍らに寄って話し掛けてきた。
「グリューン様、抜け駆けは狡いですよ」
自国の貴族の子息達にいつの間にか取り囲まれていたリーラは、大人びた美貌に笑みを貼り付かせたまま固まっていた。
『今日に限って…何なんでしょうか?魔力の無い私に構ったところで、良い事など何も無いのだから、他のご令嬢の元に行けば良いのに…』
リーラは微笑みを貼り付かせたまま首を傾げた。
「お久し振りです、皆様。学院での日々は如何ですか?」
リーラに話し掛けられた子息達は、ここぞとばかりに自分達をアピールし出す。
「忙しいですが、とても刺激的です。これで、貴女がいれば言うこと無しなのですが…。リーラ姫、学院でもカイヤナイト殿下の周囲はあのように賑やかですよ」
リーラを取り巻く子息達の中で一番家の格が上で年上のグリューンが口火を切ると、後に続くように他の子息達もカイヤナイトが如何に女性にモテて不誠実であるかを親切顔をして教え始める。
「そうです。リーラ姫がいらっしゃるのに、いつも親しげに女性達と接しておられる」
「ゾンネ王国は多妻が許されているからなぁ…。第二夫人の座を狙っている令嬢達の迫力が凄いですよ」
「リーラ姫、勿論、私はモーント王国の男です。他の女性など寄せ付けたりしませんよ」
「グリューン様、また、抜け駆けですよ。私もそうです、リーラ姫」
「カイヤナイト殿下との婚約は白紙に戻しては如何ですか?」
皆、リーラよりも年上な為、身長が高いせいか取り囲まれると少し怖かった。
カイヤナイトへのやっかみと、リーラに対して少なからず好意を抱いてくれているらしい事は、疎いリーラにも理解できたが、正直リーラにとっては有り難迷惑でしかなかった。
「白紙…ですか…?」
どう反応すれば良いのか困り、いつもはとりつく島もないリーラの素っ気ない態度とは違った、物慣れない幼気な態度に、子息達の心に万が一の可能性を抱かせてしまったようだった。
「リーラ姫…」
グリューンはリーラの細くしなやかな手を取り、澄んだ紫色の瞳に吸い寄せられるように真っ直ぐに視線をリーラの双眸に向けた。
「グリューン殿、気安く婚約者のいる姫君の手を握るものではないよ」
「ジェード殿下!」
明るい金の髪を掻き上げながら、大勢の取り巻きを引き連れて登場したのは元婚約者のジェード王太子だった。
彼も、珍しく妹のローザに逢いに来ていた。
リーラと婚約していた時は、長期休暇の度に訪れていたが、ローザと婚約してからは多忙を理由に最初の挨拶以来モーント王国を訪れるのは婚約者として二度目だった。
休暇に逢いに来ないのは、わざわざ国を訪れなくても、既に魔法学院に在籍しているローザとは学院で逢う事が可能であるのも理由の一つではあるらしかった。
カイヤナイトとは違う種類の美形であるジェードは、婚約破棄してから初めてリーラと対面した割には罪悪感を微塵も感じさせない明るい笑顔を浮かべていた。
「久しぶりだね、リーラ姫」
「お久しぶりです、ジェード殿下」
リーラも特に何の感慨もなく、いつも通りの挨拶を返した。
しかし、事情を知っている周囲は気まずげに目配せし合い、波が引くようにリーラとジェードから離れて行った。
正直、取り囲まれる事に疲れていたリーラは、無意識に小さく吐息を洩らした。
「面白いように人がいなくなったね」
ジェードは肩を竦めながら明るく笑った。
「そうですね」
リーラも笑いながらジェードを見上げた。
久しぶりに見るジェードも、カイヤナイト同様に成長していた。
大国の王太子らしく仕立ての良い服に、彼の瞳と同じ鮮やかな緑色のマントを纏い、マントを留める
ピンの見事な装飾は、黄金に輝いていた。
「最後に逢ってから…もう6年経ったんだね…元気そうだ」
「おかげさまで」
ジェードは美しく艶やかに成長している元婚約者を眩し気に見つめた。
白銀の髪はアップにされ、細く白いリーラの首筋が露になっていた。珍しくデコルテの開いた薄紫色のドレスを着ているリーラは、年齢よりも大人びて見え、ミモザがたまには印象を変えましょうと言って腕を振るった結果、男達の視線を集めてしまう事になっていた。
「…少しは、私の事を恨んでくれた?」
「…何故ですか?殿下のお立場なら、当たり前の事です。恨むなんて」
「…そう言うと思ってたよ…。私は、貴女から恨まれたかった」
「…何故ですか…?」
「何故って…」
リーラはキョトンとした無防備な表情で、ジェードを見上げた。
普段は明るいジェードが、酷く大人びた表情で笑った。
「…貴女は賢いけれど、まだまだ子供なんだね…これならまだ、私にもチャンスはあるかな…」
「え?」
ジェードの呟きにリーラは眉を寄せたが、近付いてくる軽い足音に意識が向いて視線を音の方に向けた。
「ジェード様!こちらにいらしたのですね!」
真っ直ぐなリーラの髪とは違い、華やかに波打つ明るい金の髪に、薄い桃色の瞳が可愛らしい妹のローザが、無邪気にジェードに抱き付いた。
「カイヤナイト様、案内してくれてありがとう!」
後ろに控えるようにして佇んでいたカイヤナイトが、ローザの言葉に優しい微笑みを浮かべたまま頷いた。
「お役に立てて何よりです」
「やっと見つけた!探しましたよ?ジェード様、お茶会が終わったら、ゲームで遊びましょう?面白いゲームを頂いたのです!」
「ゲームですか?」
ローザの無邪気なお願いに、ジェードは苦笑を浮かべた。
長期休暇の度にモーント王国を訪れていた時は、ジェードも当時2歳のローザを妹のように可愛がり、よく遊び相手をしていた。
ローザは昔も今もジェードに懐いていたが、婚約者になってから学院でも滅多に逢えなくなって寂しく思っていたのだ。
「ローザ姫…実はこのお茶会が終わったら、私は国に帰らねばならないのです。次の休みにはもう少し時間を作ります。ゲームはその時一緒にやりましょう」
ジェードの言葉にローザは素直に涙を溢した。
泣かれたジェードは慌てて救いを求めるようにカイヤナイトとリーラを見た。
「ローザ、ジェード様は王太子なのですよ。自国でやらなければならないお役目があるのです。貴女は殿下の婚約者なのですから、泣いて困らせてはいけません」
「でも…」
リーラの冷静な説得は、幼いローザには納得し難いものだった。
「ローザ様、兄は約束を守る男です。次は必ず貴女の為に時間を作ります。信じてあげて下さい」
「約束…?」
カイヤナイトの言葉に、ローザはジェードを見上げて首を傾げながら聞いた。
ジェードは苦笑しながら頷いた。
「はい、約束します」
「じゃあ、…我慢します」
「流石ローザ様です。兄の代わりは勤まりませんが、私で良ければゲームのお相手をさせて頂きます」
カイヤナイトの優しい言葉にローザは笑顔を見せた。
『…カイ様は本当に…優しいお方だわ…。だから、きっと…私の婚約者になって下さったんだわ』
カイヤナイトの優しさに甘えたままで良いのか、リーラはこの時初めて迷い始めた。
今までは、ずっと想いを寄せていたカイヤナイトが、自分の婚約者になってくれた事を単純に喜んでいた。
だが、少し成長した今のリーラは、カイヤナイトの未来を考えた時、自分の存在が邪魔になるような気がして憂鬱になる事が多くなった。
『今だって、私以外の方達に優しい微笑みを向けるだけで嫌なのに…結婚して、もしカイ様が第二夫人を迎えたりしたら…私、どんな意地悪をするか分からないわ…』
リーラは自分の顔が嫉妬で嫌な顔になっている気がして、カイヤナイトから視線を逸らした。
「…リーラ様?どうされました?顔色が悪い…」
目敏いカイヤナイトはリーラの様子に直ぐ気付き、白皙の美貌を曇らせた。
「大丈夫です…私、まだ他の方達へのご挨拶が終わっていませんので、失礼致しますね」
リーラは視線を合わせられず顔を俯かせ、足早にカイヤナイト達から離れた。
華奢なリーラの後ろ姿を見送るカイヤナイトとジェードの眼差しは、各々の想いに揺れていたが、無論リーラが気付く筈も無かった。
お茶会が終わり、疲労を感じたリーラはいつもよりも早い時間に眠る支度を終えた。
お世話係りのミモザは、今年の3月に兄のブラウの相談役であるマイン子爵と結婚した為、リーラが就寝する時間が終業時間となり、王城にあった自分の部屋ではなく夫と暮らす屋敷へと帰るようになっていた。
新婚のミモザを早く帰すために、リーラは早めの就寝を心掛けているが、今日は流石に早すぎて逆にミモザを心配させてしまった。
ミモザ以外の世話係りを置きたくなかったが、ミモザのためにも考える時が迫っている事をリーラは認めるしかなかった。
『いつまでも、同じではいられないのね…』
リーラは窓に映る自分の姿を見つめて溜め息を吐いた。
真っ直ぐに伸びた白銀の髪は既に腰下まで届き、身長は同じ年齢の少女達より高くなってしまい、12歳には見えない。以前は骨ばっていた体つきも、触れると柔らかく、胸の膨らみも目立ってきた。何より初潮を迎えた事がリーラは嫌で堪らなかった。
自分の体が大人に近付けば近付く程、気持ちも純粋ではいられなくなる自分に気付いていたからだ。
6年前はただカイヤナイトに逢えるだけで嬉しくて幸せだったのに、今は自分以外の女性が彼に近付くだけで胸に黒い渦が巻く。
カイヤナイトの微笑みを一人占めしたい自分の不純な心を、彼に知られた時の事を想像するだけで怖くて堪らなくなる。
『嫌われたくない…』
優しいカイヤナイトに相応しく、リーラは自分も優しい人間でいたいのだ。
『でも…今のままではいずれ知られて、嫌われてしまう…』
窓から見える紅い夕焼けの空を見上げながら、リーラは深い溜め息を吐いた。
誰もいない自室に一人でいると気持ちが沈んで来てしまい、リーラは秘密のあの場所が恋しくなってきた。
夕飯も断って自室にこもっているため、部屋の外に出るのもはばかられ、リーラは闇の色が濃くなって行く外の景色を残念な気分で見つめていた。
『せっかく、カイ様が滞在されているのに…何をやっているのかしら私は…』
リーラは窓から離れ、ベッドの脇の小さなテーブルの上に置いた本を手に取った。
本は今一番リーラが力を入れて勉強をしている、薬草の育て方と薬の作り方が載っていた。
『魔法薬は魔力が無ければ作れないけど、薬草やただの薬なら私にも作る事が出来るわ』
眠くなるまで本を読もうとベッドの中に入ろうとしたリーラは、不意に叩かれたドアの音に驚いて肩を跳ね上げた。
「は、はい?」
「お姉様!ローザです!入ります!」
返事も待たずドアを開けたローザを背後にいたカイヤナイトが珍しくたしなめていた。
「ローザ姫、返事も待たずにドアを開けてはいけませんよ」
「あ、ごめんなさい!お姉様、怒った?」
無邪気なローザの態度にリーラは困ったように微笑みながら、ベッドから降りて二人の元に近付いた。
「いいえ。でも、ビックリしたわ。急に開けてはいけませんよ?」
「はい!」
ローザは笑顔で頷き、部屋に入ってきた。
ドアの入り口で困った顔で佇むカイヤナイトを見て、リーラは胸がドキドキしているのを誤魔化すように笑顔を作った。
「カイ様、どうぞ、お入り下さい」
カイヤナイトはリーラを見て、困った顔に苦い微笑みをのせた。
『あ…はしたない事を言ったかしら』
カイヤナイトの変化に目敏く気付き、途端にお腹の辺りが重くなった気がして、リーラは泣きたくなった。
「失礼します」
カイヤナイトは片手でトレイを持ち、ドアを静かに閉めた。後ろで一つに纏められた白銀の髪がサラサラと肩甲骨の辺りで揺れ、鮮やかな青いマントがヒラリと翻った。
「お姉様、寝ようとなさってたの?」
白い絹の夜着を纏ったリーラを見て、ローザは不思議そうに聞いてきた。ローザはまだ普段着の桃色のドレスを着ていたのだ。
『嫌だわ…夜着をカイ様に見られるなんて…』
リーラは自分の姿に気付いて慌てて紫のガウンを着て、困ったように微笑んだ。
「流石にまだ寝られないから、本を読もうとしていたの。ところで、何のご用?」
「これ、これ、見て下さい!昼間言ってたゲームです。カイヤナイト様から頂いたのです!一緒に遊びましょう!」
ローザは手に持っていた紙を広げて、満面の笑顔を見せた。
「…これは、何ですか?」
スタートとゴールの表示マスの間に沢山のマスがくねくねと描かれた紙を見て、リーラは小首を傾げた。
「学院で知り合ったヤパン島出身の友人から頂いた、島の伝統的なスゴロクというゲームです」
「スゴロク…」
カイヤナイトは説明しながら、テーブルの上に持っていたトレイを置いた。
「サイコロを振って、出た数字だけ進むのです。お姉様、三人で一緒に遊びましょう!」
キラキラとした瞳で無邪気にお願いされては、リーラも断る気になれず、苦笑しながら頷いた。
「食欲が無いと聞きましたが、何も召し上がらないのも体に悪いですから…宜しければこれを」
カイヤナイトはテーブルに置いたトレイに掛かった布巾を取った。
「わぁ、いいなぁ~。私もこっちのお夕食の方が良かったわ」
一口サイズのサンドイッチとまだ湯気が立っているトマトクリームスープがトレイに乗っていた。
「あ…ありがとうございます…」
カイヤナイトの気遣わしげな眼差しを見て、リーラは自分が恥ずかしくなった。
「お姉様、私にも一口下さいな。あ~ん」
ローザは椅子に座って可愛らしく口を開けて待っていた。リーラは淑女らしくない振る舞いを姉として嗜めなくてはならなかったが、ローザにはそんな所作も許してしまえる可愛らしさがあった。
「しょうがないわねぇ…」
リーラは優しく微笑みながら、ローザの好きなハムとチーズのサンドイッチを口に運んだ。
「美味しい?」
リーラの問いにニコニコ笑って頷くローザの無邪気な可愛らしさに、リーラは羨望にも似た気持ちを抱いた。
『魔力もあって、素直で、可愛らしくて…私もこうだったら良かったのに…』
自分の容姿が人より優れているのは分かっているが、ただそれだけだった。整っているが愛嬌の無い冷たい自分の顔が、リーラは年々疎ましくなってきていた。
本を読んで知識を蓄えても、結局魔力が使え無いリーラはこの世界では役立たずでしか無い。考えないようにしているが、魔力の無い自分の存在意義をふとした瞬間に見失い、堂々巡りの負の感情に心が支配されて、息をするのが苦痛で堪らなくなるのだ。
「…リーラ様」
「え?」
不意にカイヤナイトに名前を呼ばれ、ローザから視線を移すと唇にサンドイッチの感触を覚えて目を見開いた。
「はい、あ~ん」
カイヤナイトは珍しく悪戯を思い付いた少年のような瞳でリーラを見つめ、リーラはカイヤナイトの言葉に操られるように口元のサンドイッチを咥えた。
「美味しいですか?」
笑みを含んだカイヤナイトの優しい問いに、リーラは頬を染めながら頷いた。
リーラの好きなコールスローが挟まったサンドイッチを選ぶカイヤナイトの気遣いに、リーラの恋心は切なく震えた。
「…熟睡されてますね」
「そうですね…」
軽く食事を摂った後、ローザの希望通りリーラ達はスゴロクゲームを楽しんだ。
最初は軽く付き合うつもりで遊び始めたが、やってみると意外に面白く、三人は時間も忘れてゲームに興じた。
中々一位になれないローザは、自分が一位になるまでゲームは止めないとムキになり、カイヤナイトやリーラが幾ら手加減しても勝てず、気付けばゲームを始めてから三時間以上経過していた。
時刻は既に夜の十時を過ぎ、いつもなら既に就寝しているローザは、眠気の限界が来たようだった。
いつの間にかソファーでサイコロを握りしめながら寝息を立てているローザを見て、カイヤナイトとリーラは互いに困ったように笑いあった。
「…ローザの世話係りを呼んできますね。カイヤナイト様はお部屋にお戻り下さい。今日はローザに付き合って下さってありがとうございました」
リーラの言葉を聞いてカイヤナイトは小さく笑った。
「私も久し振りに子供に戻って遊べました。本来なら、貴女も、ローザ姫のように無邪気で然るべきなのだと思うと…少々切なくなりましたが…」
カイヤナイトはほつれた前髪を後ろに払いながら、珍しく真顔に戻ってリーラを見つめた。
微笑みの無いカイヤナイトの美貌は、整い過ぎて冷たい印象をリーラに与えた。
「…カイ様?」
知らない人に思えてリーラは戸惑った。
カイヤナイトは小さな溜め息を一つ吐いて立ち上がり、リーラのベッドからシーツを剥ぎ取ってローザにそっと掛けた。
「リーラ様、こちらに」
カイヤナイトはソファーに座ったまま固まったリーラに手を差し出し、リーラは操られるようにその手に手を重ねた。
カイヤナイトの掌は熱かった。その熱に触れた瞬間、リーラの鼓動は何故か煩いくらい音を立て始めた。
カイヤナイトはリーラをベッドまで誘い、目線で横になるように促した。
『何も言われて無いのに…勝手に体がカイ様に従っていく…怖いけど…嫌じゃないのは、何故…?』
ベッドに横たわり、リーラは自分を見下ろすカイヤナイトの感情の読めない美貌を見上げた。
カイヤナイトは横たわるリーラの隣に座り、リーラの額に掛かった髪を優しく指で払った。
「…プランツ侯爵家のご子息や他の方達から、何を言われていたのですか…?」
「…え?」
「貴女のこの手を握って…彼は貴女に何を言ったのですか?」
カイヤナイトはリーラの手を取り、手の甲にそっと口付けた。口付けられた部分が焼けたように熱くなり、リーラの鼓動は益々速くなった。
「え…あ…あの…」
カイヤナイトの質問の意図が分からず、リーラは戸惑った。口調は静かだが、心なしか怒っているように感じて、リーラは口ごもった。
「私との婚約を破棄しろとでも言われましたか?」
「え?…あ」
『そう言えば…白紙にしろと言われたような…』
リーラの表情を見て、カイヤナイトは額を押さえて溜め息を吐き出した。
「カイヤナイト様…?」
「他には何を貴女に吹き込んだんですか?」
「…学院でも…カイ様の周りは沢山の女性で賑やかだと…」
「それを聞いて、貴女はどう思ったのですか?」
カイヤナイトの問いにリーラは唇を引き結んだ。
『そんな事…言えるわけない…言ったら私の汚い心を知られてしまう…』
カイヤナイトは何も言わないリーラを、静かに見下ろし続けた。
いつもは優しく美しい藍晶石色の瞳が、今は酷く冷たい色に見えてリーラは哀しくなってきた。
何故か分からないが、カイヤナイトはリーラに対して怒っていた。優しく穏やかなカイヤナイトを怒らせるなど、余程の事を自分は仕出かしていたのだと思うと、哀しみが恐怖に変わって無意識に体が震えてきた。
『どうしよう…嫌われてしまったのかもしれない…嫌な事ばかり考えていたから…バチが当たったのだわ…』
「…私の事を嫌いになりましたか?」
カイヤナイトは、白皙の美貌を更に青ざめさせて、リーラに問い掛けてきた。
『…何を仰っているの?嫌いになったのは…カイ様の方では?』
リーラは紫の瞳を見開いて、首を横に振った。
「では…何故…何も仰って下さらないのですか?モーント王国の王女である貴女は、婚約者である私の周りにいる女性を認めない筈ですよね…?何とも思って下さらない程…私は貴女にとって、どうでも良い男なのですか?」
「え?ち、違います…そんな…何故…」
「リーラ姫…貴女は御自分が思っているより、何倍も男にとって魅力的な女性なのですよ?」
ベッドに散ったリーラの白銀の髪を一房取り、カイヤナイトは祈るように一度目を瞑って髪に口付けた。髪の先にカイヤナイトの唇の感触を感じた気がして、リーラの背中がゾクリと初めての感覚に震えた。
『やだ…何…?』
「魔力が有っても無くても、貴女を欲しがる男は沢山いるのです。寧ろ、魔力が無いからこそ、立場を越えて数多の男達が貴女を妻として望むのです」
カイヤナイトはリーラの顔の側に手を突き、上から覗き込むようにリーラの瞳と視線を合わせた。
「…何故…?」
美しいカイヤナイトの瞳に、自分の姿が映っている事に気付いて、リーラは嬉しくて涙が滲んできた。
「貴女が魅力的だからに決まっているでしょう?」
「私が…?」
「貴女の容姿も、心も、誰が見たって美しいのです。何より身分や外見で人を判断しない貴女を知れば、誰だって貴女が欲しくなるのです。兄との婚約が破棄された後、一体どれ程の男達から求婚の話があったと思っているんですか?私は誰よりも早く貴女のご両親に結婚の申し込みをする事が出来たから、今、貴女とこうしていられるのです」
「…もしかして…カイ様は…私を好いて下さっているのですか…?」
「…は?」
リーラのまさかの発言に、カイヤナイトは鋭い双眸を見開いた。
「魔力が無い私の将来を憐れんで、婚約者になって下さったわけではないのですか…?」
「…待って下さい…どういう事ですか?」
「どう…とは?」
「もしかして…貴女は今まで、私が貴女を好きだから求婚したと…思っていなかったのですか?」
「え…私の事…す、好きなんですか?」
「貴女を誰にも渡したくないと…伝えた筈ですよね?」
「それは…そう言う意味だったのですか?」
「…リーラ様…」
カイヤナイトは額を押さえて、深い深い溜め息を吐き出した。
「それ以外の意味を逆にお聞きしたいが…そうか…伝わっていなかったのか…だからか…」
カイヤナイトは呆れたような顔をしたかと思えば、心底安堵したような不思議な表情を浮かべてリーラを見つめた。
「リーラ姫…私は、貴女が好きです。だから求婚しました。貴女の私への想いをお聞かせ頂けませんか?」
「言っても…良いのですか…?」
いつもの優しいカイヤナイトに戻った事に気付いたリーラは、体温が感じられる程近いカイヤナイトにドキドキしながら、おずおずと口を開いた。
「聞かせて下さい…」
優しい声音に励まされるように、リーラは想いを初めて言葉にした。
「好きです…」
リーラの言葉を聞いたカイヤナイトの眼差しに熱がこもった。
「本当に?」
リーラは幼気な仕草で小さく頷いた。
「大好きです」
「愛してますか?」
「愛してます」
「…私も貴女を愛してます」
「カイ様…」
「リーラ」
カイヤナイトはリーラの体を抱き寄せて、震えるリーラの唇に初めて唇を重ねた。
『え?え?何?何で?』
ただ重ねるだけの口付けだが、その優しく甘美な感触にリーラの体も心も蕩けた。
「ずっと貴女に触れたかった…」
カイヤナイトは横たわるリーラの上に覆い被さるような体勢になり、吐息の触れる距離のままリーラを見つめた。
「カイ様…」
「貴女の体に触れる許可を頂けませんか…?」
『触れる?触れるって…どういう事…?』
リーラの戸惑いが分かっているカイヤナイトは、誤魔化す事はせずハッキリと教えてくれた。
しなやかな指をリーラの唇に当て、ゆっくり滑らせて首筋を撫で、まだ発達途中の胸を撫で、薄いお腹に指を滑らせて最後は下腹の下の秘密の花園をくすぐった。
「今触れた場所全てに口付けたい…」
カイヤナイトの囁きに、リーラは全身を真っ赤に染めた。
「駄目です…」
リーラはカイヤナイトを見ていられず、顔を横に向けた。
「嫌ですか?」
不安気なカイヤナイトの声音にリーラの胸は震えた。
「違います…駄目なのです…」
「どうして?」
「私達は…まだ…子供ですもの…」
「子供にだって、愛しい人に触れたい欲求はあります…リーラ様は私に触れたくないのですか?」
紳士な筈のカイヤナイトの意外な一面に触れたリーラは、想像もした事が無い行為の要求に困惑を深めた。
「…困ります…」
「リーラ様…」
「こうして…抱き合うだけでは駄目なのですか…?」
「…リーラ様は…まだ子供なのですね…」
カイヤナイトは目尻に溜まったリーラの涙を唇で吸い取り、困ったように微笑んだ。
「カイ様は…私に触れて楽しいのですか?」
「ええ、とても」
子供と言われて若干の自尊心が刺激され、意外に負けん気の強いリーラは挑むような気持ちでカイヤナイトの物慣れた様子を責めた。
「…もしかして…私以外の方に触れた事があるのですか?」
「まさか。私は貴女だから、全て知りたいのです」
カイヤナイトは余裕の態度で、リーラの負けん気をいなした。
「カイ様…」
困った顔を隠す事も出来ず、リーラはカイヤナイトを見つめた。彼の顔は酷く真剣で、リーラは視線に縫い留められたように動きを封じられた。
「妾腹の出である私の自国での立場は、貴女が思っているより厳しい…。いつ貴女を誰かに奪われるか分からないのが現状です。幸い、貴女のご家族は私を受け入れて下さっていますが、どんな横槍が入って来るか分からないのです…」
カイヤナイトの焦る意味をリーラは彼女なりに理解したが、やはり突然の展開にまだ幼いリーラは困惑するしかなかった。
「…私に触れても…楽しくないと思うのですが…」
少しずつ成長しているが、リーラの体はまだ大人になりきっておらず、柔らかな凹凸はまだ少ないのだ。
リーラの言葉に、カイヤナイトは困ったように微笑んだ。
「貴女を知りたいだけなんです…駄目ですか…?」
「…ローザが…」
自室のソファーにはローザが寝ているのだ。
「大丈夫です…」
カイヤナイトは小さく笑うと、背後の虚空に視線を向けて指で空気を切るような動きを見せた。
途端に部屋の灯りが小さくなり、物音さえ聞こえなくなった。
『今のは…魔法?詠唱も何もせず、指を動かすだけで灯りと音を遮断できるなんて…聞いた事も見た事も無いわ…』
カイヤナイトは決して魔法をリーラの前では使う事が無かった。魔力の無い自分にコンプレックスを持つリーラの心を傷つけたく無かったからだろう。
「…カイヤナイト様」
カイヤナイトはリーラの額に口付けを落とし、ゆっくりと順番に顔中に口付けを落とした。
「大好きです…」
耳殻に口付けられた時小さく囁かれた言葉に、リーラの体は甘く震えた。
ただ口付けられているだけなのに、体はどんどん熱を持ち、リーラは切なさで眉を寄せた。
『どうしよう…熱い…』
まだ触れられていない下腹の奥が熱くて、リーラは無意識に太ももを擦り合わせた。
無意識のリーラの痴態に、カイヤナイトは蕩けるような微笑みを浮かべた。
耳殻から顎先に唇を滑らせ、首筋に吸い付かれたリーラは、チクチクする痛みに眉を寄せた。
「ん…っ…あ…っ…」
痛みの後にゾクゾクとした快感が走り、リーラは知らず知らずのうちに甘い吐息を洩らしていた。
首筋に何度も口付けられながら、夜着の上から小さな乳房を掌で包まれて、軽い痛みと痺れるような甘い快感に肩を何度もすぼめた。
「触れると痛みますか…?」
カイヤナイトの優しい問いに、リーラは羞恥で頭の中が沸騰しそうな程熱くなったが、正直に頷いた。
「…少し」
成長中の胸は凝りがあり、そこを押されると痛むのだ。
カイヤナイトは照れ臭そうに微笑み、リーラの夜着を上にゆっくりとたくし上げた。
下着を着けていない胸が空気に触れ、薄桃色の胸の先端が少しだけ硬く尖ってきていた。
「カ、カイ様…駄目…」
カイヤナイトは凝りに触れないように唇を先端に寄せ、舌先でくすぐるように舐めた。
舐められた途端走る鋭い快感に、リーラの口から高い声が洩れた。
「あん…っ…んんっ…駄…駄目ぇ…」
「駄目じゃない筈です…ほら、こんなに硬くして…」
カイヤナイトは低く囁きながら、飽きることなくリーラの乳房の先端に吸い付いたり舐めたりした。
『嫌…どうしよう…恥ずかしい…でも、なんて気持ち良いの…吸われる度に体の奥が…』
カイヤナイトはリーラの固く閉じた太ももに掌を滑らせて、無言の要求を伝えてくる。
脚を開いて自分から全てを見せろと、言葉は無くてもカイヤナイトの想いがリーラに伝わってくるのだ。
『こんな…はしたない事…しては駄目なのに…』
羞恥心と貞操観念をしっかり植え込まれているリーラの心の葛藤を見て取って、カイヤナイトは優しく悪魔のように誘惑してくる。
「大丈夫です…私達は婚約者同士なのですから…互いを知るために、必要な事なのです…」
操られるように、リーラはゆっくりと閉じていた脚を緩めた。
『恥ずかしい…恥ずかしいのに…』
カイヤナイトに誘われるまま、リーラは脚を開いて膝を立てた。
「腰を浮かせて…」
言葉通りにすると、着けていた下着を抜き取られ、リーラは羞恥に耐えながらまだ固い蕾の花園をカイヤナイトに晒した。
「…まだ誰も…貴女のここを見た男はいないですよね?」
カイヤナイトの問いにリーラは何度も頷いた。
「…ジェードにも?」
「カイ様だけです…」
リーラは顔を掌で覆い、震えながら答えた。
「…良かった…」
カイヤナイトは吐息混じりに呟くと、リーラの脚の間に体を移動させ、固い蕾にゆっくりと口付けた。
「あ!嫌っ、汚いです…っ」
閉じようとするリーラの脚を押さえ、カイヤナイトは舌先を花園に差し入れた。
ぞわぞわとした快感の後、体の奥から蜜が溢れてきてリーラは羞恥心の限界で泣き出してしまった。
カイヤナイトはリーラの変化に直ぐ気付き、行為を直ぐに止めて愛し気に震える体を優しく抱き締めた。
「…リーラ様…リーラ…ありがとう…」
「カイ様…」
顔を覆っていた手を離し、リーラは目の前の美貌を見つめた。カイヤナイトは切なさの混じった優しい微笑みを浮かべていた。
「私の無茶なお願いを聞いて下さって…ありがとうございます」
「もう…いいのですか…?」
涙に濡れた瞳を何度もまたたかせ、リーラは情けない顔をしてカイヤナイトを見上げた。
「はい…試すような事をして…申し訳ありません…」
「…謝らないで下さい…」
リーラはおずおずとカイヤナイトの頬に初めて自分から触れた。想像よりも暖かく、滑らかな感触に胸が震えた。
「リーラ…?」
カイヤナイトは自分に触れるリーラの手に自分の手を重ねた。
「恥ずかしかったです…でも…嬉しかった…」
カイヤナイトの掌の温もりに力を得て、リーラは自分の想いを正直に伝えた。
「…それは…また…貴女に触れても良いと言う意味で、間違いありませんか?」
「…はしたないと、思われますか…?」
「いいえ…リーラ…嬉しいです…」
はにかみながら二人は微笑み、二度目の口付けを交わした。
互いの想いを知った初めての夜は、羞恥と背徳と歓喜に満ちていた。
◆◆◆
秩序によって隔てられた光と闇は、やがて反発し合い、光は闇を排除しようとし、闇は光を覆い隠そうとした。
再び世界は混沌とし始め、神は自身に代わって混沌を治め、秩序に導く存在を造った。
依り代伝説の始まりである。
◆◆◆
混沌とした空間をかき混ぜ、光と闇に分けて世界を創り、生命の種をばら蒔いた。
種はやがて芽吹き、花を咲かせ、次の生命を生み出す。
生命はやがて知恵を授かり、文明を創り、繁栄した。
世界は創造神の名と同じ、ヴェルトラウムと名付けられ、六つの王国と無数の島々で秩序を維持した。
世界各地に伝わる、世界の始まりを教える伝説の序章がこれである。
◆◆◆
「…婚約破棄ですか?」
6歳のリーラは聡明だった。
モーント王国王位継承権二位の現国王の長女である、リーラ・ノイ・モーントは自他共に認める美少女でもあった。
白銀の髪と紫色の瞳。
白い肌は新雪を思わせ、紅く柔らかな唇は野いちごのようで、食べてしまいたくなる程可憐だ。
「ええ…残念だけれど、仕方の無い事ね。ジェード様はゾンネ王国の次期国王になられる御方。魔力の無い貴女に、王妃は務まらないと…」
「婚約破棄を言い渡されたのですね」
王妃である母親のロートが言い難そうにしている言葉じりを、リーラは引き継いで言葉にした。
ゾンネ王国はモーント王国の隣国にある同盟国で、この世界で最も力を有している大国だった。
世界には魔法と精霊が存在し、老若男女、身分に関係無く誰しも魔力を宿して誕生してくる。
王族の魔力は平民とは格が違い、その強い魔力故に国を統治していた。
王族と貴族は、6歳の誕生日に魔力の選別試験を受ける。選別試験は世界最北の王国、ガイスト王国に建立された王立魔法学院から試験官が訪れ、魔力の属性と保有量を調べられる。
7歳になると魔法学院に入学し、その結果によってクラスが振り分けられる決まりになっていた。
リーラはその試験に落ちた。
王族が試験に落ちるのは、前代未聞の出来事だった。
どんな人間でも、塵くらいは魔力を宿して生まれるはずだが、リーラには塵ほども無かったのだ。
魔力が無ければ例え王族でも学院に入学する事は許されない。
つまりリーラは、6歳にして人生の落伍者の烙印を捺され、良縁に恵まれる可能性は限りなく零となったのだ。
二歳上のゾンネ王国の後継者ジェードとの婚約は、リーラが生まれる前から決められた国同士の政略だった。しかし、魔力の無い王女など何の役にも立たないのは子供でも分かる事だった。婚約破棄されるのは至極当然の事だった。
「分かりました。お話しはそれだけですか?」
リーラは特にショックを受けた様子も無く、淡々と事実を受け止めた。
可憐な容姿と違い、リーラの態度は常に冷静で理知的だった。
そんな愛娘の大人びた態度にロートは戸惑いはしたが安堵の方が大きかった。
「実は…ジェード王太子の婚約者にローザが望まれて…お父様はそれをお受けしたのです」
「ローザが新しい婚約者となったのですね?」
ローザはリーラの4歳下の妹だった。
まだ2歳だが、生まれた時から確かな魔力を宿しており、確かにリーラよりジェードに相応しい相手だった。
「ええ…気持ちは納得出来ないかもしれないけれど…」
「そんな事はございません。喜ばしいことでございます」
リーラは可憐な美貌に微笑みをのせ、母親の部屋から退出するためにドレスを少し持ち上げて膝を折って頭を下げた。
「お話しがそれだけなら、これで失礼致します」
「リーラ、お待ちなさい」
「お母様?」
「まだお話は終わっていませんよ?貴女は学院に入学する事もできませんし、他国の王族からの正妃としての求婚も望めません。貴女に残された道は、この国の貴族からの求婚を待つか、他国の王族の第二夫人になるかです」
モーント王国は一夫一婦制度で、公には重婚は認められていない。他国の王族と貴族は一夫多妻制度が常識となっていたが、モーント王国の女にとって第二夫人や妾になるという立場は屈辱的なものだった。
「私はどちらも選びません。魔力が無くても民のために出来る事は沢山あるはずです」
「リーラ…」
愛娘の意外な返事に、赤い瞳を見開いてロートは困惑した。
「私は誰の元にも嫁ぎません。沢山お勉強をして、お父様やお兄様の手助けが出来るような役人になりとうございます」
「まぁ…何を言うの?女性が結婚もせずに役人として働くなんて、聞いた事も無いわ」
「…駄目でしょうか…?」
「貴女は私の大切な娘…可能な限り希望を叶えたいけれど…お父様は許さないでしょう」
女は結婚するのが当たり前。
子供を産んで一人前。
モーント王国だけでなく、この世界ではそれが常識なのだ。
リーラは母親の言葉を聞いて、可憐な美貌を曇らせた。
『…ジェード様との婚約を受け入れていたのは、どんな形でもあの御方の傍にいられればと思ったから…。今更、他の殿方と結婚する事なんて…考えられないわ…』
「あぁ…リーラ…そんな哀しい顔をしないで…」
ロートは立ち上がり、立ち尽くす愛娘を抱き締めた。
柔らかな母の胸に抱き締められたリーラは、確かな愛情を注がれている事を理解しているからこそ苦しかった。
リーラは家族を愛していた。
この苦しみは、自分の本心は胸の奥に押し込んで、結局家族の為に愛する事も出来ない人の元に嫁ぐ事を了承する自分を知っているからだ。
『大人になんかなりたくない…このままでいたいのに…』
時は無情に、平等に流れていく事を、幼いが聡いリーラは分かり過ぎる程分かっていた。
モーント王国は世界の中央に在る広大な大陸の南側に、ゾンネ王国はその北に位置していた。両国は魔法で造られた国境で分けられ、他国との関係と比べると同盟は強固で良好だった。
モーント王国の王城は、一週間も前から慌ただしい空気が流れていた。
ジェード王太子が婚約者となったローザに挨拶をしに来るのだ。
元々、お茶会等で三ヶ月毎に逢っている仲だったが、今回は改めて婚約者としてローザに逢いに来るため、城中の者達がそわそわと浮わついていた。
『…腫れ物扱いね…』
城の裏庭を一人で散歩していたリーラは、小さく溜め息を吐いた。
婚約破棄を言い渡されてから一ヶ月経っていても、城中の者達に気を使われ、慰められ、リーラはいい加減辟易していた。
今日のジェード王太子との対面も、頼んでもいないのに病欠扱いとなり、暇をもて余していた。
どんなに練習しても、勉強しても、魔力の気配さえ自分からは感じられない事が、昔からコンプレックスだった。
6歳までに魔力が現れなかったら…。
小さな頃から賢かったリーラは、誰にも言えない悩みを抱えながら密かに魔力以外で王女として出来る事を模索してきた。
本を読み、召使い達から話を集め、民が国に何を求めているのか自分なりに考えてきたのだ。
『…考えても無駄だったけれどね…』
リーラは薔薇の咲き誇る裏庭を抜け、鬱蒼とした森の中に足を踏み入れた。
この森は普段滅多に人が来ず、リーラの秘密の場所への入り口だった。
子供の足で五分程歩いた所に、誰が作ったのか分からない蔦が絡まったアーチがあった。
アーチを潜るとそこは違う次元に繋がっているようで、辺り一面がキラキラと光輝き、澄んだ湖が広がる空間が現れる。
リーラは肩に掛けていた紫色のマントを外し、地面に広げてその上に座った。
気分が落ち込んだり、何も考えたく無い時に、リーラはこの場所を訪れる。
『…あの御方も、今頃はお茶会に出席されてるのかしら』
リーラの初恋は、3歳の時だった。
相手は婚約者だったジェード王太子の弟、カイヤナイト・ヴァー・ゾンネ。
妾腹の生まれで、ジェードとは同じ歳の弟だった。
リーラと同じ珍しい白銀の髪で、藍晶石色の瞳は理知的で美しかった。
類稀な白皙の美貌と、年齢には見合わない落ち着きと聡明さは、凡庸な兄のジェードより王太子に相応しいと噂されていたが、彼が妾腹である事が彼の可能性を潰していた。
どれ程優秀でも、結局全ては出自が決定するのだ。『…カイ様はいつもどんな気持ちで、ご自分の境遇に耐えていらっしゃるのだろう…悔しいわ』
カイヤナイトの事を想えば、悔しさで瞳が潤む。
魔力が無い、王女のリーラ。
優秀だが妾腹の王子、カイヤナイト。
自分達の力ではどうにも出来ない事が現実にはあり過ぎて、リーラは歯痒くて堪らなかった。
「…また、一人で泣いてるの…?」
背後から聞こえた、愛しい想い人の声に、リーラは慌てて振り返った。
「カイ様…」
澄んだ紫色の瞳を見開くリーラを見て、ふわりと優しい微笑みを浮かべたカイヤナイトは、リーラの隣に腰を掛けた。
青い髪紐で後ろに括った白銀の髪。鮮やかな青いマント。その下の服は仕立ては良いが、余り王子の身分では着ない黒いチュニックとズボンをカイヤナイトは着ていた。その服の色が自国でのカイヤナイトの境遇を表しているようで、リーラの胸はまた悔しさに憤ったが、肩が触れ合い、リーラの心臓が甘く跳ねた。
「ど、どうして此処に?お茶会は…」
触れ合った肩からカイヤナイトの温もりが感じられて、リーラは視線を合わせられずに顔を伏せた。
「兄上達は、まだ楽しんでいるんじゃないかな?私は貴女を呼びに此処に来たのです」
「え?」
リーラはカイヤナイトに視線を戻し、小首を傾げた。
「私を呼びに?」
『何の御用かしら…?』
カイヤナイトはリーラの顔を優しい眼差しで見つめ、涙が滲んだ目尻を指で拭った。
触れられた箇所が発火したように熱くなって、普段は冷静なリーラの顔がどんどん赤くなってきた。
賢くて冷静でも、所詮リーラはまだ6歳の少女に過ぎない。
カイヤナイトが秘密のこの場所を知っているのは、リーラが彼にだけこっそりと教えたからだ。
3歳のリーラは魔力が芽生えない自分に焦り、一人で裏庭で泣いているのを、婚約してから初めての顔合わせのお茶会に来ていたジェードのお供として訪れていた当時5歳のカイヤナイトに目撃され、慰められたのが彼に惹かれ始めた最初の切っかけだった。
誰にも言えなかった悩みを、リーラは何故かカイヤナイトにだけは打ち明けられた。
彼はリーラの拙い話を黙って聞いた後、無いものを嘆くより、それ以外の出来る事を模索し、手に入れる努力をしてみたら良いと、3歳にでも解る言葉で助言してくれた。
リーラは、彼の前向きな心の力強さを尊敬し、やがてそれは恋心に変化していった。
お茶会の度に、リーラはカイヤナイトと短いが秘密の時間をこの場所で幾度も過ごした。
話を聞いてくれたお礼のつもりで、秘密の場所をこっそり教えたら、お茶会の度にカイヤナイトはこの場所を訪れるようになり、リーラと話をしてくれるようになったのだ。
「城中の者達が、今貴女を探していますよ」
「え?何かしら?何かあったのですか?」
「あったと言えばあったのかも…」
カイヤナイトは音も立てずに立ち上がり、リーラに手を差し出してきた。
リーラはその手を取ると、軽々と彼に引き上げられた。
「…カイ様、背が伸びたのですね」
三ヶ月前に会った時より目線が上になっている事に気付き、リーラは少し寂しくなった。
『…大人になったら、カイ様も誰かと結婚するのだわ…』
「…大きい私では駄目ですか?」
「え?いいえ!そういうつもりでは…」
困った顔で微笑まれ、リーラは慌てて首を横に振った。首を振る度に、リーラのサラサラとした艶やかな白銀の髪が背中で揺れた。
今日は自室で一日過ごすように言われていたため、纏っている白いドレスは装飾の少ない質素な作りで、髪は結んでもおらず、背中に垂らしただけの姿をしていた。
自分の姿に今更気が付いたリーラは、慌ててカイヤナイトから手を離して地面に敷いた自分のマントで姿を隠した。
慌てるリーラにまた優しい微笑みを浮かべたカイヤナイトは、不意にリーラの足元に片膝を突いて手を差し出した。
「リーラ姫」
「はい…」
真面目な顔になったカイヤナイトは、手を差し出したままリーラを見上げた。
「私は先程貴女のご両親に、貴女を将来私の花嫁にと、結婚の申し込みをして参りました」
「…え…?」
「私は、第二王子とは名ばかりで、将来的に高い地位に就くことはありません…ですが、貴女を誰にも渡したく無いのです」
「カイヤナイト様…?」
『何?私は…今…何を言われているの?』
「貴女には悪いが…貴女に魔力が無くて本当に良かった…そうでなかったら、貴女が婚約破棄される事など無かったのだから…」
カイヤナイトは立ち尽くすリーラの小さな手をそっと取り、手の甲に口付けを落とした。
「貴女が婚約破棄された事を喜ぶ私を、軽蔑しますか?」
「そんな…!」
カイヤナイトの言葉に、リーラは慌てて首を横に振った。
驚き過ぎて言葉が出て来ないのだ。
幼いリーラの反応に、カイヤナイトは優しい微笑みをまた顔に浮かべた。
「私の婚約者になって下さいますか?」
「はい…はい…っ」
大きな紫色の瞳から、大粒の涙が溢れた。
カイヤナイトは立ち上がり、恐る恐るリーラの身体を抱き締めた。
まだ細く、薄いカイヤナイトの身体だが、リーラにとっては誰よりも彼の温もりは安心出来た。
リーラも恐る恐るカイヤナイトの背中に腕を回して、初めて家族以外の存在を抱き締めた。
涙が止めどなく溢れてきて、リーラは初めて幸せでも涙が溢れるのだと知った。
「リーラ様、本当に良かったですね」
リーラの世話係り、ミモザ・フラウは、リーラの髪を優しくブラシでとかしながら、自分の事のように喜んでいた。
ミモザは男爵家の出自で魔法学院を卒業して直ぐに王城に召し上げられ、15歳からリーラ専属の世話係りをしている。
茶色の髪と瞳をしたミモザは、容姿は人並みだが、明るく世話好きな性格で、使用人達の間でも好かれ、頼られる存在だった。
「婚約してからもう三ヶ月経つのよ?まるで昨日の事のように言うんだから…」
「ですが、本当に嬉しかったんですよ。リーラ様は、ずっとカイヤナイト様を想ってこられたんですから」
「ミモザ…」
鏡越しにミモザを目で叱り、唇に人指し指を立てるリーラの姿は、おとぎ話の姫君より可憐だとミモザは、目尻を下げた。
「申し訳ございません。さぁ、今日はカイヤナイト様がお越しになる日です。とびっきり、美しく仕上げて差し上げますわ」
「…あまり華美にしないでね…。カイ様は、ゴテゴテヒラヒラはお好きじゃないそうですから」
リーラとカイヤナイトの婚約は、トントン拍子に両国の間で正式に決定された。
将来が不安視されていたリーラに、早々に新しい婚約者が決まって家族は安心し、城中の者達も手放しで喜んでいた。
相手があの、美しく優秀なカイヤナイト王子だということが、喜びを更に深めさせる要因だった。
モーント王国内でも、カイヤナイト王子の評判は良かった。例え妾腹でも、出自を上回る優秀さと、気さくで優しい人柄が周囲の人間の心を虜にしているのだ。
『こんなに幸せで良いのかしら…』
リーラはこの日を心待ちにしていた。三ヶ月振りにカイヤナイトに逢えるのだ。
魔法学院は全寮制で、入学後は長期休暇以外は自国に帰る事は難しい。学院が在るガイスト王国は遠く、出入国が難しい特別な国だったからだ。
『お忙しい中、私に逢いに来て下さるなんて…』
子供でも、王族の一員は与えられた領地の管理をしなくてはならない。自国に帰れば仕事が待っており、カイヤナイトも例外では無い。
ゾンネ王国の王子達は、大国の王子にしては女性にマメなタイプなのかもしれない。元婚約者のジェードも、休暇の度に来訪してくれていたのだ。国が決めた婚約なら、形だけで結婚まで逢う事も無いのはざらにある事だ。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、リーラはカイヤナイトの事ばかり考えていた。
白銀の髪は背中に垂らし、両サイドだけ編み込んで後ろでまとめ、濃い紫色のリボンを結ぶ。
6歳の少女らしく、肌の露出の無いクラシカルなハイネックのドレスは淡い紫色で、リーラの清楚な美しさを際立たせてくれていた。
何の取り柄も無い自分を婚約者に選んでくれたカイヤナイトのために、リーラが出来る事は彼の目を楽しませる事だけだと思い、身支度にも力が入る。
お洒落や流行の事には疎いリーラは、カイヤナイトのために出来る努力をしているつもりだが、それが果たして的を得ている行為なのかは自信が無かった。
『…私を他の人には渡したく無いと言って下さった…好きだからとは言って下さらなかったけれど…それ以上望んではバチが当ってしまうわね…』
魔力の無いリーラを将来の妻に望んでくれたカイヤナイトのために、美しく賢く健康であろうと努力し続けていく事をリーラは改めて決意した。
モーント王国の8月は寒くも暑くもない過ごし易い気候で、暑い気候の国々から旅行者が訪れ、城下町は賑わいを見せる。
リーラはカイヤナイトに乞われて、王城内で城下町が見渡せる場所まで案内していた。
王城の南側にある一番高い塔は、リーラも一人でよく訪れる場所だった。
昨日の昼過ぎに到着したカイヤナイトは、リーラとの挨拶もそこそこに、父王ゲルブと5歳上の兄ブラウに捕まって談話室に入ってしまい、中々出て来なかった。
カイヤナイトが二人から解放されたのは、夕日が沈もうとしている時刻だったらしく、自室で本を読みながら待っていたリーラは待ちくたびれてソファーでうたた寝をしていた。
リーラは遠くで誰かに名前を呼ばれた気がしたが、夢現に返事をした後の記憶が無かった。
夕食も摂らず眠り続けたリーラは、カイヤナイトが逢いに来てくれるのを楽しみにし過ぎて睡眠不足だったのだ。
今朝、すっきりした頭でリーラは目覚めたが、夕方にカイヤナイトが自室までリーラを訪ねてくれた事をミモザから教えられ、寝てしまった自分を内心で罵った。
『カイ様の滞在期間は一週間しか無いのに!貴重な一日を潰してしまった!あぁ…もう、私のバカバカバカ!』
頭を抱えて分かりやすく嘆くリーラの姿を微笑まし気に見守っていたミモザの胸中は、安堵に満ちていた。
聡いリーラは年齢よりも大人びた思考で、使用人達の手を煩わせる事もなく、常に王女としての立場を忘れない振る舞いをしてきた。
ミモザはそれが心配でならなかったのだ。
王女の立場を忘れない事は良い事だが、まだ6歳の少女ならば喜怒哀楽を見せ、時には我が儘も必要だと思っていたのだ。
子供でいられらる時間は短い。
張り詰めた心でい続ける事は難しく、いつか心が裂けて取り返しのつかない事になるのではと、危惧していたのだ。
『カイヤナイト様のお陰で、本来のリーラ様が見られるようになって、本当に良かった…』
嘆くリーラを慰めながら、ミモザは愛する主人の身支度を整えた。
リーラの要望通り、今日も髪を後ろに垂らしたまま両サイドだけ三つ編みにして、青色のリボンで結んだ。
今日もハイネックの簡素なデザインの青色のドレスを選んだが、清楚な仕上がりにミモザも満足だった。余計な飾りが無い方が、確かにリーラの美しさが映えると、ミモザは感心していた。
リーラがカイヤナイトの好みを口にしたのは、以前彼から直接聞いたからのようだった。
『王子の女性の好みというより、カイヤナイト様はリーラ様の美しさを理解された上でそのように仰ったのでしょうね…リーラ様は気付いていらっしゃらないけど、相当愛されてますわね~』
「さぁ、テラスに参りましょう。カイヤナイト様がお待ちですよ」
「え?」
「朝食を是非ご一緒にと、承っておりました」
「もう、何でもっと早く教えてくれないの?」
「リーラ様が可愛らしくて…つい…」
「ミモザったら…あ、ほら、早く参りましょう。お待たせするわけには」
リーラは鏡台の椅子から立ち上がると、置き時計を確認して慌てた。
「リーラ様、落ち着いて下さい。まだ大丈夫ですから」
ミモザは笑いながらリーラの後に付き従った。
王城の西側の棟がリーラ達家族の生活空間となっており、一階の裏庭にテラスがあった。
家族は気を利かせて同席はせず、リーラはカイヤナイトと二人で多少の緊張はあるものの和やかに朝食を楽しんだ。
カイヤナイトは饒舌なタイプでは無く、リーラも少女にしては口数は少ない方だが、何故か二人でいる時は沈黙も気にならない。
カイヤナイトが巧みに場の空気をコントロールしているからだが、幼いリーラにはまだそこまで察する経験値が無かった。
朝食の会話の中で城下町の話しになり、実はまだリーラは城の外に出して貰った経験が無い事を伝えた。出た事は無いが、城下町の様子は塔から見えると言う話しに、カイヤナイトが是非その景色を見てみたいと言った。
朝食後にリーラはカイヤナイトを案内して、王城の南にある塔に登った。
「…あぁ…なるほど。確かに良く見える」
カイヤナイトは風になびく髪を手で押さえながら、藍晶石色の瞳を細めた。
「活気があって、見ているだけで元気が出てきます」
リーラは身を乗り出すようにして景色に魅入った。
城下町は整備され、白と茶色の煉瓦で建てられた建物が多く、所々で市場の屋台が出て人々の賑わいが見てとれた。
「この国は…穏やかですね」
カイヤナイトが遠い目をしながらポツリと呟いた。
「穏やか…ですか?」
リーラは小首を傾げながら横に立つカイヤナイトを見上げた。
書物や人から聞いた話でしか他の国を知らないリーラには、実際に感じる各々の国が持つ空気の違いは分からなかった。
「ゲルブ国王やロート王妃も穏やかで、こんな言い方は失礼かもしれませんが…王族とは思えない夫婦仲の良さに正直毎回驚かされていました」
「…ゾンネ王国は違うのですか?」
確かにリーラの両親は仲が良かった。
ロートはモーント王国の公爵家の令嬢で、ゲルブとの結婚は生まれる前から決められたものだった。
だが、二人は決められた結婚でも、縁があって夫婦になるのなら互いに愛し合う努力をした方が良いと言って、今に至っている。
「そうですね…情の種類が違います…」
『情の種類…?』
カイヤナイトの言葉は、リーラにはまだ難しかった。
また小首を傾げるリーラを見て、カイヤナイトは困ったように微笑み、風で乱れたリーラの髪を優しく手櫛で直した。
「明日はブラウ王太子殿下の領地を一緒に視察する約束になっているのですが、王城の外に出られた事が無いならご同行されますか?」
カイヤナイトの意外な申し出に、リーラは瞳を輝かせた。
「本当ですか?嬉しい!」
「…恐れながら…陛下と殿下がお許しになるとは思えませんが」
後ろに控えていたミモザの進言に、従者達が無言で頷いていた。ゲルブも、ブラウも美しく聡明なリーラを溺愛しているのだ。
『そうだった…お父様もお兄様も心配性だから…』
「大丈夫です…、私にお任せ下さい」
顔を曇らせるリーラに微笑み、カイヤナイトは自信あり気に請け負った。
頼もしいカイヤナイトの態度に、リーラの彼への想いは更に深くなった。
どんな手を使ったのか、カイヤナイトの言葉通り、リーラは兄のブラウの領地への視察に同行出来る事になった。
ブラウの領地は王城がある王都の隣にあり、馬車で二時間も走れば到着する距離だった。
リーラの領地はその隣にあるが、管理は兄と兄の相談役が代理で行っていた。
モーント王国は大地の恵みが強く、水と緑が豊かな国で、特産物は農作物や薬だった。特に薬草は高値で売買され、魔法の材料としても希少な薬草が栽培されていた。
『凄い、凄い…。城の先生方から教えて頂いてはいたけれど、実際に自分の目で見るとまた印象が違うわ…』
牧歌的な印象が強かった自国に対しての考え方がリーラの中で変化した。モーント王国は、知性的な国だったのだ。
「こんなに、魔法薬の加工技術が優れているとは思わなかったです」
帰りの馬車の中で、ブラウとカイヤナイトに興奮気味に話すリーラの姿は愛らしかった。
新雪の如き肌は上気し、頬がほんのりと桃色に染まり、紫色の理知的な瞳はキラキラと輝いていた。
カイヤナイトとブラウはリーラを優しい眼差しで見つめながら各々頷いた。
「国の薬師達の腕も、世界に誇れるものだ」
「薬草だけでなく、リーラ姫の領地では魔道具に欠かせない希少な鉱石が採れるようです」
「え?そうなんですか?初めて聞きました」
カイヤナイトの補足情報に、リーラの瞳は益々光輝いた。
「鉱石といえばゾンネ王国だよな」
リーラの可愛さに目尻を下げながら、ブラウは斜向かいに座るカイヤナイトへ視線を向けた。
「そうですね…。優れた魔道具職人が多いのも特徴ですね」
頷くカイヤナイトの美貌に見惚れながら、リーラはワクワクする気持ちを抑えられず、珍しく自分から兄におねだりをした。
「お兄様、次は私の領地に行ってみたいです」
「え?…いや、でも…リーラの領地は隣でも少し遠いからなぁ…泊まりになってしまうから」
ブラウが茶色の髪を掻き上げながら、困った顔で笑った。
「また次の機会にお連れしては如何ですか?自分の領地を知りたいと思う事は素晴らしい事です」
カイヤナイトがすかさずリーラを援護した。
「まぁ…そうなんだけど、父が何と言うか」
「次と言っても、また私の次の長期休暇ですから、しっかり準備も出来て安心です。私も何があっても必ずリーラ姫をお守り致しますし」
「私だけでは心許ないが、カイが一緒なら問題無いかな…。父に話してみるよ」
カイヤナイトが一緒に行くと言うだけで許されるのは何故なのか、リーラには不思議だった。いくら賢く優秀とはいえ、カイヤナイトもまだ8歳の少年にすぎないのだ。
だがその疑問より、また次の長期休暇にカイヤナイトと逢える事が分かって、リーラは嬉しくてたまらなかった。
カイヤナイトがリーラの婚約者になってから過ごした初めての休暇は、リーラにとっては初めて心から楽しめる日々だった。
魔力が無くても、王女として国に何を返せるのか考えてはいても、具体的な道を見付ける事が出来なかったリーラに、実際に自分の目で見る事で、カイヤナイトは幾つかの道標を示唆してくれたようにリーラには感じた。
『私も、あの御方の為に何か出来たらよいのに…』
まだジェード王太子の婚約者だった時も、カイヤナイトに秘密のあの場所でいつも自分の悩みばかり聞いて貰っていたのだ。時には励まされ、時には諭され、今思えば甘えてばかりいた事にリーラは気付いた。
『カイ様が、私と結婚して得する事って何かしら…?』
少ない政治的な知識を総動員しても、利点は一つも思い浮かばなかった。
ハンカチにチクチクと細かい刺繍を施しながら、リーラはつらつらと考え続けた。
しかし幾ら考えても答えは見付からず、自室のソファーに座って刺繍の課題に取り組んでいたリーラは、誰もいない事が分かった上で大きな溜め息を吐き出した。
『お得なところが全く無いなんて…どうしよう。カイ様に婚約破棄されたら…私、死んでしまうかも…』
男女間の恋愛感情にはまだまだ疎いリーラは、カイヤナイトの真意が分からず一人で思い悩み続けた。
リーラの心配を余所に、婚約破棄をされる事もなく、二人は順調に健全に関係を育んでいた。
一年に三回ある魔法学院の長期休暇の度にリーラの元を訪れてくれるカイヤナイトの美しさは、歳を経る毎に増していった。
婚約者として初めてモーント王国を訪れてから、今回で19回目の来訪になるカイヤナイトは既に14歳となり、細く薄かった体はまだ成長過程ではあるものの、少年と青年の狭間のしなやかな力強さをその身に宿すようになっていた。
リーラも12歳となり、身長も伸びて体つきも少女から柔らかな曲線の女性へと変化が著しかった。
自他共に認める美貌も、幼さが薄れ、憂いを帯びた紫の瞳が見る者を虜にする妖しさを漂わせるようになっていた。
リーラの憂いの原因は勿論、カイヤナイトだった。
『…何でそんなに優しいの?ああ、また!そんなに優しく微笑んだら、またライバルが増えてしまう』
王城で開かれるお茶会は、まだ社交界デビューをする前の王族や貴族の子供達の練習の場であり、子供達の社交の場でもあった。
王城の東の棟の庭は、公の社交場としてのスペースで、季節の花を飾り、設置したテーブルに王城の料理人達が腕を振るった料理やデザート類がところ狭しと並べられていた。
今回のお茶会は、他国の王子や王女、貴族の令息や令嬢達が多く参加していた。
この場の誰よりも美しく華があるカイヤナイトの元に、多くの王女や令嬢達が群がっていた。
カイヤナイトは嫌な顔をする事もなく、終始にこやかに優しく少女達に接していた。
リーラはモヤモヤとする気持ちを抑えながら、お茶会のホストの一人としてカイヤナイトを見習って苦手な笑顔を顔に貼り付けて出席者達をもてなしていた。
「リーラ姫、お久し振りです。またお逢い出来て光栄です」
自国の貴族である、プランツ侯爵家の子息グリューンが親しげにリーラの傍らに寄って話し掛けてきた。
「グリューン様、抜け駆けは狡いですよ」
自国の貴族の子息達にいつの間にか取り囲まれていたリーラは、大人びた美貌に笑みを貼り付かせたまま固まっていた。
『今日に限って…何なんでしょうか?魔力の無い私に構ったところで、良い事など何も無いのだから、他のご令嬢の元に行けば良いのに…』
リーラは微笑みを貼り付かせたまま首を傾げた。
「お久し振りです、皆様。学院での日々は如何ですか?」
リーラに話し掛けられた子息達は、ここぞとばかりに自分達をアピールし出す。
「忙しいですが、とても刺激的です。これで、貴女がいれば言うこと無しなのですが…。リーラ姫、学院でもカイヤナイト殿下の周囲はあのように賑やかですよ」
リーラを取り巻く子息達の中で一番家の格が上で年上のグリューンが口火を切ると、後に続くように他の子息達もカイヤナイトが如何に女性にモテて不誠実であるかを親切顔をして教え始める。
「そうです。リーラ姫がいらっしゃるのに、いつも親しげに女性達と接しておられる」
「ゾンネ王国は多妻が許されているからなぁ…。第二夫人の座を狙っている令嬢達の迫力が凄いですよ」
「リーラ姫、勿論、私はモーント王国の男です。他の女性など寄せ付けたりしませんよ」
「グリューン様、また、抜け駆けですよ。私もそうです、リーラ姫」
「カイヤナイト殿下との婚約は白紙に戻しては如何ですか?」
皆、リーラよりも年上な為、身長が高いせいか取り囲まれると少し怖かった。
カイヤナイトへのやっかみと、リーラに対して少なからず好意を抱いてくれているらしい事は、疎いリーラにも理解できたが、正直リーラにとっては有り難迷惑でしかなかった。
「白紙…ですか…?」
どう反応すれば良いのか困り、いつもはとりつく島もないリーラの素っ気ない態度とは違った、物慣れない幼気な態度に、子息達の心に万が一の可能性を抱かせてしまったようだった。
「リーラ姫…」
グリューンはリーラの細くしなやかな手を取り、澄んだ紫色の瞳に吸い寄せられるように真っ直ぐに視線をリーラの双眸に向けた。
「グリューン殿、気安く婚約者のいる姫君の手を握るものではないよ」
「ジェード殿下!」
明るい金の髪を掻き上げながら、大勢の取り巻きを引き連れて登場したのは元婚約者のジェード王太子だった。
彼も、珍しく妹のローザに逢いに来ていた。
リーラと婚約していた時は、長期休暇の度に訪れていたが、ローザと婚約してからは多忙を理由に最初の挨拶以来モーント王国を訪れるのは婚約者として二度目だった。
休暇に逢いに来ないのは、わざわざ国を訪れなくても、既に魔法学院に在籍しているローザとは学院で逢う事が可能であるのも理由の一つではあるらしかった。
カイヤナイトとは違う種類の美形であるジェードは、婚約破棄してから初めてリーラと対面した割には罪悪感を微塵も感じさせない明るい笑顔を浮かべていた。
「久しぶりだね、リーラ姫」
「お久しぶりです、ジェード殿下」
リーラも特に何の感慨もなく、いつも通りの挨拶を返した。
しかし、事情を知っている周囲は気まずげに目配せし合い、波が引くようにリーラとジェードから離れて行った。
正直、取り囲まれる事に疲れていたリーラは、無意識に小さく吐息を洩らした。
「面白いように人がいなくなったね」
ジェードは肩を竦めながら明るく笑った。
「そうですね」
リーラも笑いながらジェードを見上げた。
久しぶりに見るジェードも、カイヤナイト同様に成長していた。
大国の王太子らしく仕立ての良い服に、彼の瞳と同じ鮮やかな緑色のマントを纏い、マントを留める
ピンの見事な装飾は、黄金に輝いていた。
「最後に逢ってから…もう6年経ったんだね…元気そうだ」
「おかげさまで」
ジェードは美しく艶やかに成長している元婚約者を眩し気に見つめた。
白銀の髪はアップにされ、細く白いリーラの首筋が露になっていた。珍しくデコルテの開いた薄紫色のドレスを着ているリーラは、年齢よりも大人びて見え、ミモザがたまには印象を変えましょうと言って腕を振るった結果、男達の視線を集めてしまう事になっていた。
「…少しは、私の事を恨んでくれた?」
「…何故ですか?殿下のお立場なら、当たり前の事です。恨むなんて」
「…そう言うと思ってたよ…。私は、貴女から恨まれたかった」
「…何故ですか…?」
「何故って…」
リーラはキョトンとした無防備な表情で、ジェードを見上げた。
普段は明るいジェードが、酷く大人びた表情で笑った。
「…貴女は賢いけれど、まだまだ子供なんだね…これならまだ、私にもチャンスはあるかな…」
「え?」
ジェードの呟きにリーラは眉を寄せたが、近付いてくる軽い足音に意識が向いて視線を音の方に向けた。
「ジェード様!こちらにいらしたのですね!」
真っ直ぐなリーラの髪とは違い、華やかに波打つ明るい金の髪に、薄い桃色の瞳が可愛らしい妹のローザが、無邪気にジェードに抱き付いた。
「カイヤナイト様、案内してくれてありがとう!」
後ろに控えるようにして佇んでいたカイヤナイトが、ローザの言葉に優しい微笑みを浮かべたまま頷いた。
「お役に立てて何よりです」
「やっと見つけた!探しましたよ?ジェード様、お茶会が終わったら、ゲームで遊びましょう?面白いゲームを頂いたのです!」
「ゲームですか?」
ローザの無邪気なお願いに、ジェードは苦笑を浮かべた。
長期休暇の度にモーント王国を訪れていた時は、ジェードも当時2歳のローザを妹のように可愛がり、よく遊び相手をしていた。
ローザは昔も今もジェードに懐いていたが、婚約者になってから学院でも滅多に逢えなくなって寂しく思っていたのだ。
「ローザ姫…実はこのお茶会が終わったら、私は国に帰らねばならないのです。次の休みにはもう少し時間を作ります。ゲームはその時一緒にやりましょう」
ジェードの言葉にローザは素直に涙を溢した。
泣かれたジェードは慌てて救いを求めるようにカイヤナイトとリーラを見た。
「ローザ、ジェード様は王太子なのですよ。自国でやらなければならないお役目があるのです。貴女は殿下の婚約者なのですから、泣いて困らせてはいけません」
「でも…」
リーラの冷静な説得は、幼いローザには納得し難いものだった。
「ローザ様、兄は約束を守る男です。次は必ず貴女の為に時間を作ります。信じてあげて下さい」
「約束…?」
カイヤナイトの言葉に、ローザはジェードを見上げて首を傾げながら聞いた。
ジェードは苦笑しながら頷いた。
「はい、約束します」
「じゃあ、…我慢します」
「流石ローザ様です。兄の代わりは勤まりませんが、私で良ければゲームのお相手をさせて頂きます」
カイヤナイトの優しい言葉にローザは笑顔を見せた。
『…カイ様は本当に…優しいお方だわ…。だから、きっと…私の婚約者になって下さったんだわ』
カイヤナイトの優しさに甘えたままで良いのか、リーラはこの時初めて迷い始めた。
今までは、ずっと想いを寄せていたカイヤナイトが、自分の婚約者になってくれた事を単純に喜んでいた。
だが、少し成長した今のリーラは、カイヤナイトの未来を考えた時、自分の存在が邪魔になるような気がして憂鬱になる事が多くなった。
『今だって、私以外の方達に優しい微笑みを向けるだけで嫌なのに…結婚して、もしカイ様が第二夫人を迎えたりしたら…私、どんな意地悪をするか分からないわ…』
リーラは自分の顔が嫉妬で嫌な顔になっている気がして、カイヤナイトから視線を逸らした。
「…リーラ様?どうされました?顔色が悪い…」
目敏いカイヤナイトはリーラの様子に直ぐ気付き、白皙の美貌を曇らせた。
「大丈夫です…私、まだ他の方達へのご挨拶が終わっていませんので、失礼致しますね」
リーラは視線を合わせられず顔を俯かせ、足早にカイヤナイト達から離れた。
華奢なリーラの後ろ姿を見送るカイヤナイトとジェードの眼差しは、各々の想いに揺れていたが、無論リーラが気付く筈も無かった。
お茶会が終わり、疲労を感じたリーラはいつもよりも早い時間に眠る支度を終えた。
お世話係りのミモザは、今年の3月に兄のブラウの相談役であるマイン子爵と結婚した為、リーラが就寝する時間が終業時間となり、王城にあった自分の部屋ではなく夫と暮らす屋敷へと帰るようになっていた。
新婚のミモザを早く帰すために、リーラは早めの就寝を心掛けているが、今日は流石に早すぎて逆にミモザを心配させてしまった。
ミモザ以外の世話係りを置きたくなかったが、ミモザのためにも考える時が迫っている事をリーラは認めるしかなかった。
『いつまでも、同じではいられないのね…』
リーラは窓に映る自分の姿を見つめて溜め息を吐いた。
真っ直ぐに伸びた白銀の髪は既に腰下まで届き、身長は同じ年齢の少女達より高くなってしまい、12歳には見えない。以前は骨ばっていた体つきも、触れると柔らかく、胸の膨らみも目立ってきた。何より初潮を迎えた事がリーラは嫌で堪らなかった。
自分の体が大人に近付けば近付く程、気持ちも純粋ではいられなくなる自分に気付いていたからだ。
6年前はただカイヤナイトに逢えるだけで嬉しくて幸せだったのに、今は自分以外の女性が彼に近付くだけで胸に黒い渦が巻く。
カイヤナイトの微笑みを一人占めしたい自分の不純な心を、彼に知られた時の事を想像するだけで怖くて堪らなくなる。
『嫌われたくない…』
優しいカイヤナイトに相応しく、リーラは自分も優しい人間でいたいのだ。
『でも…今のままではいずれ知られて、嫌われてしまう…』
窓から見える紅い夕焼けの空を見上げながら、リーラは深い溜め息を吐いた。
誰もいない自室に一人でいると気持ちが沈んで来てしまい、リーラは秘密のあの場所が恋しくなってきた。
夕飯も断って自室にこもっているため、部屋の外に出るのもはばかられ、リーラは闇の色が濃くなって行く外の景色を残念な気分で見つめていた。
『せっかく、カイ様が滞在されているのに…何をやっているのかしら私は…』
リーラは窓から離れ、ベッドの脇の小さなテーブルの上に置いた本を手に取った。
本は今一番リーラが力を入れて勉強をしている、薬草の育て方と薬の作り方が載っていた。
『魔法薬は魔力が無ければ作れないけど、薬草やただの薬なら私にも作る事が出来るわ』
眠くなるまで本を読もうとベッドの中に入ろうとしたリーラは、不意に叩かれたドアの音に驚いて肩を跳ね上げた。
「は、はい?」
「お姉様!ローザです!入ります!」
返事も待たずドアを開けたローザを背後にいたカイヤナイトが珍しくたしなめていた。
「ローザ姫、返事も待たずにドアを開けてはいけませんよ」
「あ、ごめんなさい!お姉様、怒った?」
無邪気なローザの態度にリーラは困ったように微笑みながら、ベッドから降りて二人の元に近付いた。
「いいえ。でも、ビックリしたわ。急に開けてはいけませんよ?」
「はい!」
ローザは笑顔で頷き、部屋に入ってきた。
ドアの入り口で困った顔で佇むカイヤナイトを見て、リーラは胸がドキドキしているのを誤魔化すように笑顔を作った。
「カイ様、どうぞ、お入り下さい」
カイヤナイトはリーラを見て、困った顔に苦い微笑みをのせた。
『あ…はしたない事を言ったかしら』
カイヤナイトの変化に目敏く気付き、途端にお腹の辺りが重くなった気がして、リーラは泣きたくなった。
「失礼します」
カイヤナイトは片手でトレイを持ち、ドアを静かに閉めた。後ろで一つに纏められた白銀の髪がサラサラと肩甲骨の辺りで揺れ、鮮やかな青いマントがヒラリと翻った。
「お姉様、寝ようとなさってたの?」
白い絹の夜着を纏ったリーラを見て、ローザは不思議そうに聞いてきた。ローザはまだ普段着の桃色のドレスを着ていたのだ。
『嫌だわ…夜着をカイ様に見られるなんて…』
リーラは自分の姿に気付いて慌てて紫のガウンを着て、困ったように微笑んだ。
「流石にまだ寝られないから、本を読もうとしていたの。ところで、何のご用?」
「これ、これ、見て下さい!昼間言ってたゲームです。カイヤナイト様から頂いたのです!一緒に遊びましょう!」
ローザは手に持っていた紙を広げて、満面の笑顔を見せた。
「…これは、何ですか?」
スタートとゴールの表示マスの間に沢山のマスがくねくねと描かれた紙を見て、リーラは小首を傾げた。
「学院で知り合ったヤパン島出身の友人から頂いた、島の伝統的なスゴロクというゲームです」
「スゴロク…」
カイヤナイトは説明しながら、テーブルの上に持っていたトレイを置いた。
「サイコロを振って、出た数字だけ進むのです。お姉様、三人で一緒に遊びましょう!」
キラキラとした瞳で無邪気にお願いされては、リーラも断る気になれず、苦笑しながら頷いた。
「食欲が無いと聞きましたが、何も召し上がらないのも体に悪いですから…宜しければこれを」
カイヤナイトはテーブルに置いたトレイに掛かった布巾を取った。
「わぁ、いいなぁ~。私もこっちのお夕食の方が良かったわ」
一口サイズのサンドイッチとまだ湯気が立っているトマトクリームスープがトレイに乗っていた。
「あ…ありがとうございます…」
カイヤナイトの気遣わしげな眼差しを見て、リーラは自分が恥ずかしくなった。
「お姉様、私にも一口下さいな。あ~ん」
ローザは椅子に座って可愛らしく口を開けて待っていた。リーラは淑女らしくない振る舞いを姉として嗜めなくてはならなかったが、ローザにはそんな所作も許してしまえる可愛らしさがあった。
「しょうがないわねぇ…」
リーラは優しく微笑みながら、ローザの好きなハムとチーズのサンドイッチを口に運んだ。
「美味しい?」
リーラの問いにニコニコ笑って頷くローザの無邪気な可愛らしさに、リーラは羨望にも似た気持ちを抱いた。
『魔力もあって、素直で、可愛らしくて…私もこうだったら良かったのに…』
自分の容姿が人より優れているのは分かっているが、ただそれだけだった。整っているが愛嬌の無い冷たい自分の顔が、リーラは年々疎ましくなってきていた。
本を読んで知識を蓄えても、結局魔力が使え無いリーラはこの世界では役立たずでしか無い。考えないようにしているが、魔力の無い自分の存在意義をふとした瞬間に見失い、堂々巡りの負の感情に心が支配されて、息をするのが苦痛で堪らなくなるのだ。
「…リーラ様」
「え?」
不意にカイヤナイトに名前を呼ばれ、ローザから視線を移すと唇にサンドイッチの感触を覚えて目を見開いた。
「はい、あ~ん」
カイヤナイトは珍しく悪戯を思い付いた少年のような瞳でリーラを見つめ、リーラはカイヤナイトの言葉に操られるように口元のサンドイッチを咥えた。
「美味しいですか?」
笑みを含んだカイヤナイトの優しい問いに、リーラは頬を染めながら頷いた。
リーラの好きなコールスローが挟まったサンドイッチを選ぶカイヤナイトの気遣いに、リーラの恋心は切なく震えた。
「…熟睡されてますね」
「そうですね…」
軽く食事を摂った後、ローザの希望通りリーラ達はスゴロクゲームを楽しんだ。
最初は軽く付き合うつもりで遊び始めたが、やってみると意外に面白く、三人は時間も忘れてゲームに興じた。
中々一位になれないローザは、自分が一位になるまでゲームは止めないとムキになり、カイヤナイトやリーラが幾ら手加減しても勝てず、気付けばゲームを始めてから三時間以上経過していた。
時刻は既に夜の十時を過ぎ、いつもなら既に就寝しているローザは、眠気の限界が来たようだった。
いつの間にかソファーでサイコロを握りしめながら寝息を立てているローザを見て、カイヤナイトとリーラは互いに困ったように笑いあった。
「…ローザの世話係りを呼んできますね。カイヤナイト様はお部屋にお戻り下さい。今日はローザに付き合って下さってありがとうございました」
リーラの言葉を聞いてカイヤナイトは小さく笑った。
「私も久し振りに子供に戻って遊べました。本来なら、貴女も、ローザ姫のように無邪気で然るべきなのだと思うと…少々切なくなりましたが…」
カイヤナイトはほつれた前髪を後ろに払いながら、珍しく真顔に戻ってリーラを見つめた。
微笑みの無いカイヤナイトの美貌は、整い過ぎて冷たい印象をリーラに与えた。
「…カイ様?」
知らない人に思えてリーラは戸惑った。
カイヤナイトは小さな溜め息を一つ吐いて立ち上がり、リーラのベッドからシーツを剥ぎ取ってローザにそっと掛けた。
「リーラ様、こちらに」
カイヤナイトはソファーに座ったまま固まったリーラに手を差し出し、リーラは操られるようにその手に手を重ねた。
カイヤナイトの掌は熱かった。その熱に触れた瞬間、リーラの鼓動は何故か煩いくらい音を立て始めた。
カイヤナイトはリーラをベッドまで誘い、目線で横になるように促した。
『何も言われて無いのに…勝手に体がカイ様に従っていく…怖いけど…嫌じゃないのは、何故…?』
ベッドに横たわり、リーラは自分を見下ろすカイヤナイトの感情の読めない美貌を見上げた。
カイヤナイトは横たわるリーラの隣に座り、リーラの額に掛かった髪を優しく指で払った。
「…プランツ侯爵家のご子息や他の方達から、何を言われていたのですか…?」
「…え?」
「貴女のこの手を握って…彼は貴女に何を言ったのですか?」
カイヤナイトはリーラの手を取り、手の甲にそっと口付けた。口付けられた部分が焼けたように熱くなり、リーラの鼓動は益々速くなった。
「え…あ…あの…」
カイヤナイトの質問の意図が分からず、リーラは戸惑った。口調は静かだが、心なしか怒っているように感じて、リーラは口ごもった。
「私との婚約を破棄しろとでも言われましたか?」
「え?…あ」
『そう言えば…白紙にしろと言われたような…』
リーラの表情を見て、カイヤナイトは額を押さえて溜め息を吐き出した。
「カイヤナイト様…?」
「他には何を貴女に吹き込んだんですか?」
「…学院でも…カイ様の周りは沢山の女性で賑やかだと…」
「それを聞いて、貴女はどう思ったのですか?」
カイヤナイトの問いにリーラは唇を引き結んだ。
『そんな事…言えるわけない…言ったら私の汚い心を知られてしまう…』
カイヤナイトは何も言わないリーラを、静かに見下ろし続けた。
いつもは優しく美しい藍晶石色の瞳が、今は酷く冷たい色に見えてリーラは哀しくなってきた。
何故か分からないが、カイヤナイトはリーラに対して怒っていた。優しく穏やかなカイヤナイトを怒らせるなど、余程の事を自分は仕出かしていたのだと思うと、哀しみが恐怖に変わって無意識に体が震えてきた。
『どうしよう…嫌われてしまったのかもしれない…嫌な事ばかり考えていたから…バチが当たったのだわ…』
「…私の事を嫌いになりましたか?」
カイヤナイトは、白皙の美貌を更に青ざめさせて、リーラに問い掛けてきた。
『…何を仰っているの?嫌いになったのは…カイ様の方では?』
リーラは紫の瞳を見開いて、首を横に振った。
「では…何故…何も仰って下さらないのですか?モーント王国の王女である貴女は、婚約者である私の周りにいる女性を認めない筈ですよね…?何とも思って下さらない程…私は貴女にとって、どうでも良い男なのですか?」
「え?ち、違います…そんな…何故…」
「リーラ姫…貴女は御自分が思っているより、何倍も男にとって魅力的な女性なのですよ?」
ベッドに散ったリーラの白銀の髪を一房取り、カイヤナイトは祈るように一度目を瞑って髪に口付けた。髪の先にカイヤナイトの唇の感触を感じた気がして、リーラの背中がゾクリと初めての感覚に震えた。
『やだ…何…?』
「魔力が有っても無くても、貴女を欲しがる男は沢山いるのです。寧ろ、魔力が無いからこそ、立場を越えて数多の男達が貴女を妻として望むのです」
カイヤナイトはリーラの顔の側に手を突き、上から覗き込むようにリーラの瞳と視線を合わせた。
「…何故…?」
美しいカイヤナイトの瞳に、自分の姿が映っている事に気付いて、リーラは嬉しくて涙が滲んできた。
「貴女が魅力的だからに決まっているでしょう?」
「私が…?」
「貴女の容姿も、心も、誰が見たって美しいのです。何より身分や外見で人を判断しない貴女を知れば、誰だって貴女が欲しくなるのです。兄との婚約が破棄された後、一体どれ程の男達から求婚の話があったと思っているんですか?私は誰よりも早く貴女のご両親に結婚の申し込みをする事が出来たから、今、貴女とこうしていられるのです」
「…もしかして…カイ様は…私を好いて下さっているのですか…?」
「…は?」
リーラのまさかの発言に、カイヤナイトは鋭い双眸を見開いた。
「魔力が無い私の将来を憐れんで、婚約者になって下さったわけではないのですか…?」
「…待って下さい…どういう事ですか?」
「どう…とは?」
「もしかして…貴女は今まで、私が貴女を好きだから求婚したと…思っていなかったのですか?」
「え…私の事…す、好きなんですか?」
「貴女を誰にも渡したくないと…伝えた筈ですよね?」
「それは…そう言う意味だったのですか?」
「…リーラ様…」
カイヤナイトは額を押さえて、深い深い溜め息を吐き出した。
「それ以外の意味を逆にお聞きしたいが…そうか…伝わっていなかったのか…だからか…」
カイヤナイトは呆れたような顔をしたかと思えば、心底安堵したような不思議な表情を浮かべてリーラを見つめた。
「リーラ姫…私は、貴女が好きです。だから求婚しました。貴女の私への想いをお聞かせ頂けませんか?」
「言っても…良いのですか…?」
いつもの優しいカイヤナイトに戻った事に気付いたリーラは、体温が感じられる程近いカイヤナイトにドキドキしながら、おずおずと口を開いた。
「聞かせて下さい…」
優しい声音に励まされるように、リーラは想いを初めて言葉にした。
「好きです…」
リーラの言葉を聞いたカイヤナイトの眼差しに熱がこもった。
「本当に?」
リーラは幼気な仕草で小さく頷いた。
「大好きです」
「愛してますか?」
「愛してます」
「…私も貴女を愛してます」
「カイ様…」
「リーラ」
カイヤナイトはリーラの体を抱き寄せて、震えるリーラの唇に初めて唇を重ねた。
『え?え?何?何で?』
ただ重ねるだけの口付けだが、その優しく甘美な感触にリーラの体も心も蕩けた。
「ずっと貴女に触れたかった…」
カイヤナイトは横たわるリーラの上に覆い被さるような体勢になり、吐息の触れる距離のままリーラを見つめた。
「カイ様…」
「貴女の体に触れる許可を頂けませんか…?」
『触れる?触れるって…どういう事…?』
リーラの戸惑いが分かっているカイヤナイトは、誤魔化す事はせずハッキリと教えてくれた。
しなやかな指をリーラの唇に当て、ゆっくり滑らせて首筋を撫で、まだ発達途中の胸を撫で、薄いお腹に指を滑らせて最後は下腹の下の秘密の花園をくすぐった。
「今触れた場所全てに口付けたい…」
カイヤナイトの囁きに、リーラは全身を真っ赤に染めた。
「駄目です…」
リーラはカイヤナイトを見ていられず、顔を横に向けた。
「嫌ですか?」
不安気なカイヤナイトの声音にリーラの胸は震えた。
「違います…駄目なのです…」
「どうして?」
「私達は…まだ…子供ですもの…」
「子供にだって、愛しい人に触れたい欲求はあります…リーラ様は私に触れたくないのですか?」
紳士な筈のカイヤナイトの意外な一面に触れたリーラは、想像もした事が無い行為の要求に困惑を深めた。
「…困ります…」
「リーラ様…」
「こうして…抱き合うだけでは駄目なのですか…?」
「…リーラ様は…まだ子供なのですね…」
カイヤナイトは目尻に溜まったリーラの涙を唇で吸い取り、困ったように微笑んだ。
「カイ様は…私に触れて楽しいのですか?」
「ええ、とても」
子供と言われて若干の自尊心が刺激され、意外に負けん気の強いリーラは挑むような気持ちでカイヤナイトの物慣れた様子を責めた。
「…もしかして…私以外の方に触れた事があるのですか?」
「まさか。私は貴女だから、全て知りたいのです」
カイヤナイトは余裕の態度で、リーラの負けん気をいなした。
「カイ様…」
困った顔を隠す事も出来ず、リーラはカイヤナイトを見つめた。彼の顔は酷く真剣で、リーラは視線に縫い留められたように動きを封じられた。
「妾腹の出である私の自国での立場は、貴女が思っているより厳しい…。いつ貴女を誰かに奪われるか分からないのが現状です。幸い、貴女のご家族は私を受け入れて下さっていますが、どんな横槍が入って来るか分からないのです…」
カイヤナイトの焦る意味をリーラは彼女なりに理解したが、やはり突然の展開にまだ幼いリーラは困惑するしかなかった。
「…私に触れても…楽しくないと思うのですが…」
少しずつ成長しているが、リーラの体はまだ大人になりきっておらず、柔らかな凹凸はまだ少ないのだ。
リーラの言葉に、カイヤナイトは困ったように微笑んだ。
「貴女を知りたいだけなんです…駄目ですか…?」
「…ローザが…」
自室のソファーにはローザが寝ているのだ。
「大丈夫です…」
カイヤナイトは小さく笑うと、背後の虚空に視線を向けて指で空気を切るような動きを見せた。
途端に部屋の灯りが小さくなり、物音さえ聞こえなくなった。
『今のは…魔法?詠唱も何もせず、指を動かすだけで灯りと音を遮断できるなんて…聞いた事も見た事も無いわ…』
カイヤナイトは決して魔法をリーラの前では使う事が無かった。魔力の無い自分にコンプレックスを持つリーラの心を傷つけたく無かったからだろう。
「…カイヤナイト様」
カイヤナイトはリーラの額に口付けを落とし、ゆっくりと順番に顔中に口付けを落とした。
「大好きです…」
耳殻に口付けられた時小さく囁かれた言葉に、リーラの体は甘く震えた。
ただ口付けられているだけなのに、体はどんどん熱を持ち、リーラは切なさで眉を寄せた。
『どうしよう…熱い…』
まだ触れられていない下腹の奥が熱くて、リーラは無意識に太ももを擦り合わせた。
無意識のリーラの痴態に、カイヤナイトは蕩けるような微笑みを浮かべた。
耳殻から顎先に唇を滑らせ、首筋に吸い付かれたリーラは、チクチクする痛みに眉を寄せた。
「ん…っ…あ…っ…」
痛みの後にゾクゾクとした快感が走り、リーラは知らず知らずのうちに甘い吐息を洩らしていた。
首筋に何度も口付けられながら、夜着の上から小さな乳房を掌で包まれて、軽い痛みと痺れるような甘い快感に肩を何度もすぼめた。
「触れると痛みますか…?」
カイヤナイトの優しい問いに、リーラは羞恥で頭の中が沸騰しそうな程熱くなったが、正直に頷いた。
「…少し」
成長中の胸は凝りがあり、そこを押されると痛むのだ。
カイヤナイトは照れ臭そうに微笑み、リーラの夜着を上にゆっくりとたくし上げた。
下着を着けていない胸が空気に触れ、薄桃色の胸の先端が少しだけ硬く尖ってきていた。
「カ、カイ様…駄目…」
カイヤナイトは凝りに触れないように唇を先端に寄せ、舌先でくすぐるように舐めた。
舐められた途端走る鋭い快感に、リーラの口から高い声が洩れた。
「あん…っ…んんっ…駄…駄目ぇ…」
「駄目じゃない筈です…ほら、こんなに硬くして…」
カイヤナイトは低く囁きながら、飽きることなくリーラの乳房の先端に吸い付いたり舐めたりした。
『嫌…どうしよう…恥ずかしい…でも、なんて気持ち良いの…吸われる度に体の奥が…』
カイヤナイトはリーラの固く閉じた太ももに掌を滑らせて、無言の要求を伝えてくる。
脚を開いて自分から全てを見せろと、言葉は無くてもカイヤナイトの想いがリーラに伝わってくるのだ。
『こんな…はしたない事…しては駄目なのに…』
羞恥心と貞操観念をしっかり植え込まれているリーラの心の葛藤を見て取って、カイヤナイトは優しく悪魔のように誘惑してくる。
「大丈夫です…私達は婚約者同士なのですから…互いを知るために、必要な事なのです…」
操られるように、リーラはゆっくりと閉じていた脚を緩めた。
『恥ずかしい…恥ずかしいのに…』
カイヤナイトに誘われるまま、リーラは脚を開いて膝を立てた。
「腰を浮かせて…」
言葉通りにすると、着けていた下着を抜き取られ、リーラは羞恥に耐えながらまだ固い蕾の花園をカイヤナイトに晒した。
「…まだ誰も…貴女のここを見た男はいないですよね?」
カイヤナイトの問いにリーラは何度も頷いた。
「…ジェードにも?」
「カイ様だけです…」
リーラは顔を掌で覆い、震えながら答えた。
「…良かった…」
カイヤナイトは吐息混じりに呟くと、リーラの脚の間に体を移動させ、固い蕾にゆっくりと口付けた。
「あ!嫌っ、汚いです…っ」
閉じようとするリーラの脚を押さえ、カイヤナイトは舌先を花園に差し入れた。
ぞわぞわとした快感の後、体の奥から蜜が溢れてきてリーラは羞恥心の限界で泣き出してしまった。
カイヤナイトはリーラの変化に直ぐ気付き、行為を直ぐに止めて愛し気に震える体を優しく抱き締めた。
「…リーラ様…リーラ…ありがとう…」
「カイ様…」
顔を覆っていた手を離し、リーラは目の前の美貌を見つめた。カイヤナイトは切なさの混じった優しい微笑みを浮かべていた。
「私の無茶なお願いを聞いて下さって…ありがとうございます」
「もう…いいのですか…?」
涙に濡れた瞳を何度もまたたかせ、リーラは情けない顔をしてカイヤナイトを見上げた。
「はい…試すような事をして…申し訳ありません…」
「…謝らないで下さい…」
リーラはおずおずとカイヤナイトの頬に初めて自分から触れた。想像よりも暖かく、滑らかな感触に胸が震えた。
「リーラ…?」
カイヤナイトは自分に触れるリーラの手に自分の手を重ねた。
「恥ずかしかったです…でも…嬉しかった…」
カイヤナイトの掌の温もりに力を得て、リーラは自分の想いを正直に伝えた。
「…それは…また…貴女に触れても良いと言う意味で、間違いありませんか?」
「…はしたないと、思われますか…?」
「いいえ…リーラ…嬉しいです…」
はにかみながら二人は微笑み、二度目の口付けを交わした。
互いの想いを知った初めての夜は、羞恥と背徳と歓喜に満ちていた。
◆◆◆
秩序によって隔てられた光と闇は、やがて反発し合い、光は闇を排除しようとし、闇は光を覆い隠そうとした。
再び世界は混沌とし始め、神は自身に代わって混沌を治め、秩序に導く存在を造った。
依り代伝説の始まりである。
◆◆◆
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ムーンライトノベルズさんにも掲載しています。
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