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水音④
此岸の華
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夢だと分かっているけど、凄まじく気分が悪い。
揺れる金髪。
女の細い手がシャツ越しでも分かる清兄の引き締まった背中を愛撫するように這う。
女の手が銀縁眼鏡を抜き取った。露にされた清兄の色気が溢れた目元に女は唇を寄せる。
清兄は冷たい美貌を変える事なく、女を見つめながら拒む素振りも見せずに女の腰を抱き続けている。
何やってるんだ、清兄。ちゃんと拒んでよ!そもそも、女!触るな!その男は僕のだ!
例え夢の中でも許さないよ?
ああ、嫌だ。早く目覚めたい。
この夢は予知夢なんかじゃなくて、ただの僕の不安が見せる夢。分かっているけど気分が悪い。
清兄…お願い…その女から離れて。
僕を見て。抱き締めて。
「清兄…っ」
自分の掠れた声で僕は漸く覚醒出来た。
ふかふかの布団。品良く焚き染められた香のノスタルジックな薫り。
平安時代よろしく、段を作って床より少し高い位置に敷かれた寝具は、衝立に囲まれている。
静寂と薄闇が落ちた部屋は寒々しくて、部屋の隅に配置されている燭台のぼんやりとした光源が益々その寒々しさを浮き彫りにしているように思えた。
夢からまだ覚醒しきれていない体はまだ鉛のような重さで敷き布団に埋もれているが、意識はかなり明瞭となって視覚は様々な情報を拾う。
障子から漏れる光の明暗は、まだ明け方だと僕に教えてくれる。
僕の寝室は二十畳の和室。襖で区切られていて、隣の部屋は僕の勉強部屋。更にその隣は今は無人の審神者の部屋。
奥宮の更に奥の奥に在る神子の宮殿には、今は僕だけしか住んでいない。
神子に仕えるお側使えや巫女達は、神子の宮を守るように建てられた建物に住み、神子とは寝食を共にしない。
起床から就寝までの間は、宮殿の管理のために使用人達が神子の宮殿にいるが、基本的に夜は人払いされていて誰もいない。
僕が望めば宮殿に常駐する使用人が置けるが、僕がそれを望むはずもない。
どんなに清められた場所でも、清兄がいなければ僕に真の安らぎなど無い。
隔離されたような場所にいても、流れ込んでくる思念の煩さに僕の神経は常にささくれだっている状態だった。
審神者代理の香音さんは、とても良くしてくれている。
彼の相変わらずの妙な思念は正直嬉しく無いが、それ以外は概ね満足出来る仕事をしてくれている。
本来なら僕の十八歳の誕生日までは神子の仕事はしない取り決めがなされているが、奥宮の長老達がそれを許すわけもない。
だって、神子への依頼は一回の相談料だけでも平均サラリーマンの年収を余裕で上回るのだ。
僕の存在は橘家にとっては金の鶏だ。金の卵を産み出すのだから、例え取り決めを破る事になっても長老達が態度を改める事はしない。
清兄が僕の傍にいないのをこれ幸いと、じゃんじゃん仕事を振ってこようとしてくるけど、香音さんがきちんと仕事の量と質を調整してくれている。
お陰で何とか神子として仕事をこなせているけど、やっぱりどんなに香音さんが優秀でも清兄じゃない。奥宮に来て僕は不覚にも既に五回倒れた。
「オムライス…食べておけば良かった…」
額に掛かる髪を払い、僕は張り付く喉をそのままに呟いた。
挨拶もせずに清兄と別れたあの日の夕食は、清兄お手製のオムライスだった。
子供の頃から、僕は清兄の残り物具材で作る素朴なオムライスが好きだった。
色々余裕が無くて、せっかく作ってくれていたオムライスを食べる事が出来なかった。
奥宮に来て、出される三度の食事はプロが作っているから美味しい筈なんだけど、残念ながらその味を今の僕は感じる事が出来ない。
今の僕は自分が存在している事が苦しい。
遮断出来ない思念。突然始まる未来知と、過去視。制御出来ない力に振り回されて、疲弊して行く精神と肉体。
清兄がいない。
第三者にとっては些末事であるだろう事実が、僕にとっては命取りになる程重要な事実。
声が聞きたい。顔が見たい。触れたい。抱き締められたい。ただもう…ひたすらに逢いたい。
僕の選択が間違っていたから、今ここに清兄はいない。
勇気を振り絞って掛けた電話に返信が無くて、僕の心は折れた。
清兄から暫くしてから電話が来たけど、僕は怖くて話す事が出来なかった。
話せないならせめてメールでもと思って、何度も文章を打ったけど、結局送れずにその都度削除した。
時間をかけて清兄を手に入れるために画策していたのに、不用意な僕の言動が手に入れたかった未来への道を曲げてしまった。
よもやあのラウラと言う女と元サヤなんて事にはなっていないだろうが…今では確信なんか爪の垢程もない。
「…だから…あんな夢を見たんだ…」
清兄と離れてから、毎夜あの人を失う恐怖に震えながら眠りについていた僕は、ある晩酷く現実的な夢を見た。
たまに見る淫夢と違って、あの晩の夢は本当に清兄と抱き合ったような感覚を僕の体に残した。
夢で僕は清兄にキスをして、あの人の胸を舌と指で愛撫した。三十代とは思えない滑らかな肌の感触は、思い出すだけで体が疼く。
着痩せする清兄の引き締まった筋肉に覆われた体は、同性であっても見惚れる美しさだった。
初めて目の当たりにした清兄の勃起した性器は、想像以上の質量と長さで、見ただけで経験の無い僕の二つの孔が切なくなった。
身も蓋もない言い方だと、清兄の性器で奥を犯されたいと思った。
想像しただけで体が興奮して、僕自身の性器も硬く立ち上がった。
例え夢でもいきなり清兄の性器を自分の中に挿入する事は、流石に憚られて、先ずはしてみたかった口淫を試みた。
初めて口に含んだ性器は、不思議な感触だった。夢なのに温度も味も感じた。清兄の真似をして性器を愛撫したけど、相手が愛しい人なら、する方も目茶苦茶感じるんだと初めて知った。
正直清兄の性器は大きくて、喉の奥まで飲み込むようにしゃぶるのは苦しかったし、難しかったけど、僕は夢中になって行為に没頭した。
清兄の感じている顔も吐息も、堪らなく色っぽかった。
口で清兄の精液を受け止めて、味わうように全て飲み込んだ時の達成感と興奮は、未だに忘れられない。
濃くて、ぬるぬるして、味覚的には美味しくなかったけど、愛があるからか、もっともっと沢山飲みたいと思った。
口で性器を愛撫してるんだから、下の毛が口の中に入る事もあるって、夢なのにやけに現実味を感じたのが不思議だった。
「…清兄…会いたいよ…」
自分の唇を指の腹でなぞり、夢での口淫をトレースする。
想像しただけで、既に僕の性器は立ち上がっていた。清兄の手を想像しながら、空いた手を自分のそこに滑らせて直に握った。寝る時は浴衣だから、膝を開けば直ぐに触れられる。
「ん…っ」
自分の性器だから加減は分かってる。溜まった欲望を処理するための行為だから、特に罪悪感は無かった。自分の指を清兄の性器に見立ててしゃぶりながら、自分の性器を上下に擦り立てて射精した。
溜まっていた重怠い快感が爆ぜて、スッキリする筈が、腹の奥の器官がズクズクと熱を持ったまま疼いているのが分かって下半身に力を込めた。
「ふっ…ん…っ」
尻の奥もその下の余分な器官も、ぬるぬると濡れて蠕動しているのが分かって唇を引き結んだ。
自分の体が、男である清兄の体を欲しがっている。
ああ…周期が来た。
男性器で射精するだけでは満たされない劣情に翻弄される日常が来た。
この周期が何の為のモノなのか、最近分かりかけてきた。
これは本能だ。
子孫を残すために男の精を欲しがって疼く性。
「…清兄…」
視界が涙でぼやけた。吐いた自分の息が熱かった。
「何で…こんな体なんだ…」
清兄を想えば、揺れる決意と覚悟。
人生とは不可解で、僕にとっては時に苦痛を伴うものだ。
自分の精液で濡れた手を見ながら、ゆっくりと体を起こした。
起きるにはまだ早いけど、お風呂に入りたくて立ち上がった。
今日は神子の仕事は無い筈だから、一日部屋に籠る事が出来る。誰にも会いたくない。玄関に立ち入り禁止の札を出しておこう。そうすれば、審神者以外の人間は入って来ない。
清兄とお父さんと暮らしていたお陰で、僕の家事スキルは主婦レベルだ。本来なら使用人なんかいらない。自分の事は全て自分で出来るんだ。でも、僕の立場が一人でいる事を許さない。使用人達は、僕の世話だけでなく、僕を監視して護る役目を担っているからだ。
「…下手に永く続き過ぎたんだ…」
橘一族の始まりは、嘘か真か知らないが、神話の時代に遡る事が出来るらしい。これじゃ、この国の象徴である一族と同じレベルだ。尤も、橘一族は後世に生まれた一族で、始祖は天照大御神を奉った神宮の典侍の一人だったとか。
奥宮に住んでいた時に教え込まれた一族の伝承は、神話みたいで現実味は無かった。
神子の仕事が無い時は、基本僕は神子としての勉強を課せられている。
昔、奥宮でやらされた勉強とは違う、より専門的な勉強だ。一族の成り立ちを勉強するのにも、古文書を紐解きながらの難解作業を強いられている。
清兄に教えられて、学校に通っていなくても大学レベルの学力は持っているけど、神子の勉強は専門レベルだ。古文書の文字を読むだけで疲弊する。
勿論、古文書はコピー機で複写された物で、原書は保管されている。原書に触れたりしたら、僕はたちまちサイコメトリーの能力で、膨大な過去の思念に取り込まれて過呼吸で倒れるだろう。
古い物は僕には毒で、なるべく僕の身の回りの物は新しくて人の手が余り入っていない物が置かれている。昔の奥宮には無かったその配慮が、今はある。その辺りの指示は、多分、嫌、絶対清兄の指示だ。
「清兄…」
つらつらと取り留めなく思考を流しながら、僕は風呂場で機械的に体を清め、脱衣場で新しい藍染めの浴衣に着替えて玄関に向かった。
広い三和土にポツンと置いてある僕の草履を突っ掛けて引き戸を開けた。
広葉樹や針葉樹が連立する山奥の中に集落のように建てられた奥宮は、大小様々な建物が神殿を中心に扇状に配置されている。
薄暗い朝靄の中、ゆらゆらと揺れる灯りは、朝のお務めをしに神殿へ向かう巫女達が持つ灯りだ。
神殿の奥にあるのが、僕がいる神子殿だ。
僕は、所謂生き神だから、巫女のように神に仕える事はしない。儀礼的な仕事は月に一度、神殿で始祖に挨拶をして神楽舞いを披露するだけで良い。
感覚的にはご先祖様に、一族は繁栄してますから安心して下さい、と言う意味合いの挨拶だ。
肌を刺す冷気を肺一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐いた後は戸に立ち入り禁止の札を張って中に戻った。
お腹は空いてないけど、食べておかないと後で訪れるだろう香音さんの小言を聞かされて、抜いた分を追加で食べさせられる。清兄もそうだけど、審神者って生活面の食事に関しては凄くうるさい。
厨房でカップスープとロールパンと林檎を食べて、軽く掃除を済ませた後は勉強部屋へ向かった。
勉強部屋にはシンプルな机と椅子に書棚が並んでいて、テレビやパソコンの類いも完備されている。
机に起きっぱなしの携帯電話を見て、メールの着信を知らせる緑の点滅に気付いて鼓動が跳ねた。
飛び付くように携帯を取って開けば、清兄からのメールが届いていて、息が苦しくなった。
もうずっと、清兄からの直の連絡は途絶えていた。僕が清兄からの電話を拒否したからだ。以来、メールさえくれなくて、いよいよ完璧に見限られたかと絶望していた矢先だった。
メールの内容を確認するのが怖くて、小さな液晶画面を凝視していたら、突然目眩が始まって頭の中でスイッチが入ったような音と共に視界は暗転した。
しまった、未来知のスイッチが入った。
意識と肉体の解離の狭間で、脱力して倒れる体を何とか支えようと踏ん張るけど、力及ばず額を机の角にぶつけた後に後頭部を床板に打ち付けた。
ああ…最悪。また、たん瘤だ。
脳内に凄い速さで情報が入って来る。
漆黒の髪にグレーの瞳は、有栖川万里君だ。隣にいるのは誰?金髪に近い栗色に透明感のある茶色の瞳の美少年。綺麗な人間は見慣れているけど、少年は格別だった。少年から放たれる黄金色のオーラの目映さに瞠目した。
清兄のオーラも金色だったけど、少年のそれは輝きが違った。彼は生まれながらのカリスマだ。
清兄のオーラが少年より輝きが鈍いのは、橘であるが故だ。橘は表に出てはいけない一族だからだ。少年と比べて分かった。橘でなければ、清兄はどれ程の輝きを放ったのだろうか。
万里君と少年の次に脳内に現れたのは、写真の中の美女。金髪に碧眼のビスクドールのように美しい女性。女性にちらつく黒い影。血の色。呪詛。
ぐるぐると回る背景。フラッシュバックしているように、情景が浮かんでは消える。
ああ…無理だ。気持ち悪い。脳がショートする。鼻血が出そう。もう無理、何も視たくない。助けて、清兄!
「…音!水音!」
「はぁっ…っ」
名前を呼ばれ、肩を掴まれて揺さぶられた。
弾かれたように体がバウンドして、僕は目を見開いて息を吐いた。
鼓膜の奥で鼓動が早鐘を打つ。
「ミィ…良かった。これ、何本?」
香音さんが長い指を三本立てて振った。
「…三本」
「今日は何日?」
「十二月三日」
床に倒れたまま、上から見下ろしてくる香音さんの質問に答えた。
香音さんは一度息を短く吐き、僕の肩から手を退けた。
変な思考で僕を混乱させる人だけど、僕に不用意に触れたりしないから凄く助かっている。
今だって、僕の額と後頭部の傷の手当てをしたいけど、触れられる方が僕には辛いって事を理解してくれているから過分な接触を控えてくれた。
「立ち上がれる?」
「はい…」
僕は言葉少なに頷き、ゆっくりと立ち上がって椅子に座った。
香音さんは僕を見守りながら、部屋の棚から救急箱を取って、僕に触れないように手当てしてくれた。
縫う程じゃないけど、血が流れるくらいには深く切れた額の処置をしてくれる香音さんの顔を、僕はぼんやり見上げた。
『清兄と似てるけど…香音さんの方が線が太い…身長は清兄の方が高いけど…男っぽいっていうのかな?…髪も目も、橘一族特有の濡れたような漆黒だけど…清兄と印象が違う…』
「…そんな色っぽい目で俺を見るなよ。押し倒したくなるだろ?」
ニヤリと笑いながら救急箱を片付ける香音さんからは、でも全然欲情した気配がない。変な妄想はするけど、実際は香音さんにとって僕は性の対象では無い事が、この二ヶ月近い日々を一緒に過ごしてみて確信した事だった。
恐らく、香音さんから流れて来る思念もフェイクだ。橘一族の中枢にいる者達は、思念をコントロールする事に長けているから。
その事が分かっても特に感慨は無い。僕に本当の思念を読まれないようにするのは当然の事だし、寧ろそれが有難い。
僕が知りたいのはいつでも、清兄の気持ちだけだから。
『それに…香音さんのオーラを視れば、僕を大事に思ってくれている事が分かる…』
人が纏うオーラは一色じゃない。色々な色が層を成し、その人間の性質を僕に教える。
香音さんが纏うオーラの最も強い色は青と灰色。見た目に反して、香音さんは愛情深く、忠誠心の強い人だ。けれど、心に深い悲しみを抱いている。喪失感や絶望がちらつく。あ、駄目だ、過去視が…。
「ミィ!俺を見て!」
香音さんの大きな声と目の前で手を叩かれた音に我に返った僕は、心配顔の香音さんを認識してこめかみ辺りを手で抑えて苦笑した。
「…ごめん…ありがとう…」
「周期に入ったのか?」
「そうみたい…」
「暫く仕事は休んで良いから」
「そういうわけには行かないでしょ?明日も依頼が入ってる。五千万の仕事は無視出来ないよ」
「無理した結果体調不良が長引けば、最終的な損害は増す。休める時に休みなさい。それより、何か視たのか?」
僕が倒れていた状況を見て、香音さんは僕の能力がまた暴走した事を察したのだろう。
僕は未来知を伝えるか一瞬躊躇した。香音さんがどこまで僕の能力の精度を把握しているのか分からなかったからだ。奥宮では相変わらず能力の三割程度しか見せてない。
こめかみを抑えていた手を外して、机の上の携帯を指で撫でながら溜め息を吐いた。
「有栖川の後継者を知っていますか?」
「有栖川?ああ、万里の事か?知ってるよ」
そうなんだ、知ってたのか。やっぱり侮れないな、香音さんは。
「では、万里君と親しくて、金髪に近い淡い栗色の髪と薄い茶色の目をした少年に心当たりは?」
「万里と親しい少年?美少年か?」
「あ、はい、かなり」
「じゃ、成人の事だな」
「なるひと…」
聞き覚えの無い名前に僕は首を傾げた。
「名字は二ノ宮だ。そう言えば分かるか?」
「二ノ宮…先々代の巫女様が親しくされていた?」
「そう。二ノ宮人実。二ノ宮家の女傑だ。成人は彼女の孫だ。更に言うなら、先々代の巫女であった音子様の外孫でもある」
「外孫…あ、成る程、有栖川と二ノ宮は藤堂家に繋がるわけですね」
「そう。藤堂の総帥と結婚した音子様は五人の子を産み、次男が有栖川に婿養子に入り、末娘が二ノ宮に嫁いだ」
神子の審神者次席である香音さんは、清兄と違って奥宮に留まって若手の一族を取りまとめている。
一族の古いしきたりに縛られ、一族至上主義である長老達と若手の一族達との間を取り持っているのも香音さんのようだ。だからなのか、香音さんは橘の系譜についても詳しかった。
音の名を持つ橘の人間が、橘一族以外の人間と婚姻関係を結ぶ事はかなり稀な事だった。
先々代の巫女であった音子様は、神子に近い能力を持った巫女であったらしく、藤堂の総帥との婚姻は相当の反対があったらしい。
いくら藤堂家が名より実を取る資産家であっても、橘一族の宝である巫女を手放す程の価値を、長老達は見出だせなかったようだった。
婚姻が結ばれた背景には、類い稀なカリスマ性と能力を持った藤堂家の総帥の手腕と、稀代の巫女であった音子様の優れた能力の賜物であったらしい。
「…橘の能力を多少なりとも継いで生まれたのが、長男、三男、そして末娘の天音さんだ」
「…あまね」
香音さんの説明を聞きながら、脳裏には写真の中のビスクドールのように美しい女性の姿がフラッシュバックした。
「あまねさんには、会った事が?」
「…清音の代わりに、何度か一族のパーティーに出席した時に。西洋人形のような女性だったよ」
「…ああ…成る程…意味が繋がったよ」
香音さんの説明で、僕が視た未来知の意味を理解した。
「香音さん、なるべく早く万里君と成人君との密談の場をセッティングしてもらえるかな…」
「密談…?何を視たんだ?」
香音さんの質問に、僕はどう答えたら良いか困った。
「今確実に分かっている事は、あまねさんの身に危険が迫っているって事。ただの事故ではなく、誰かによる故意の事故が起きる。背景には呪詛が見え隠れしています。それから…今回の未来知には僕や清兄が関わっているようです」
「…どういう事だ?」
「僕の未来知は本来もっと明確に視える。でも、僕や清兄が関わる未来になると…何て言うか…切り取られたパズルのピースみたいに、人物や出来事なんかが小間切れに視える」
「今回がそうだったわけ?」
「そう。未来知だけでは明確に視えなくても、実際に彼等と逢えば、どんな未来が待っているのか予測できる。早い方が、安全な未来への選択が増えるから」
僕の言葉に香音さんは腕を胸の前で組んで逡巡していた。
神子の僕が、橘と縁戚関係にある一族の特定の人間と密会する意味を考えると、審神者である立場では色々と考える事があるのも知っている。
神子は特定の家門を寵用してはならない。パワーバランスを崩すからだ。
有栖川と二ノ宮の両家は、橘にとってはそれほど脅威でもなく、会ったところで大した恐れを周囲に抱かせるものではないけれど。
問題は、彼等が藤堂の血を継いでいるからだ。
世界的にも台頭してきたコングロマリットである藤堂グループを統べる男の血を継ぐ人間が、橘の神子の能力を利用する事が出来たらどうなるかは、想像に難くない。
下手をしたら、橘一族の存在が表に出てしまう恐れがある。
「…返答は明日まで待って貰えるかな?」
香音さんが組んでいた腕をほどいて、僕を見た。
僕は頷き、昨日まで無かった机の上の本やファイルの束を見た。
「…今日のノルマはこれですか?」
「ん?ああ、そう。対外的な事は審神者の仕事だけど、ミィにも経営学の基本くらいは噛って貰わないとね。本格的に神子の仕事をするとなると、海千山千の猛者達と渡り合う事もある。知識は武器だ。能力だけに頼っていては駄目だからね」
香音さんは、清兄よりも目尻の下がった奥二重の怜悧な双眸を意地悪そうに細めて笑った。
「…清兄と同じ事を言いますね」
溜め息を吐きながら、机に積まれた専門書を手に取ってパラパラと捲った。
「審神者だからね。さて、じゃ、俺は本殿の執務室にいるから、何かあったら内線を。一人の方が集中できるだろ?」
ニヤリと笑う香音さんから流れてきた思念は、僕をからかいたい思いと、心配している思いと、大量の事務仕事の書類の山をどう捌くかを算段している思考だった。
審神者って大変だ…。
僕は頷き、そのまま香音さんを見送らずに本を読み始めた。
香音さんは何も言わなかったけど、どうやら昼食は後で使用人が運んで来てくれるようだった。
本を読みながら、大事なところはノートに書き、二時間程集中してノルマをこなした。
奥宮での暮らしは淡々と時間が過ぎる。
仕事がなければ、勉強して、食べて、寝るだけ。空いた時間は基本的に読書をしていて、テレビやパソコンは余り触らない。電子機器も、思念を運ぶ事があるからだ。だから、携帯電話も極力触らないようにしている。
「…清兄」
机の端に置いた携帯電話を見て、僕は唇を引き結んだ。
恐る恐る携帯電話を手に取って、そっと液晶画面を開いた。
「…あ…っ」
強張る指で操作して、届いたメールの文章を目にした瞬間、僕の目頭がカッと熱くなった。
『愛してる』
久しぶりの清兄からのメールは、たった四文字だった。
近況も説明も何も無かった。
「…僕の方が…愛してるから…っ」
鼻を啜りながら呟いた僕の声は震えていた。
あれこれ考えても、結局僕は清兄が傍にいないと駄目だ。離れていても心が繋がっていたら大丈夫なんて、僕には当てはまらない。いつでも温もりを傍に感じていられないと駄目だ。
「…帰ってきたら…二度と離してあげないからね…」
清兄の輝かしい人生への道を僕が潰す代わりに、僕は清兄に何を返せるか考える。
僕を愛してくれる清兄は、僕に何を望んでいるんだろうか。
何をしたら、清兄は幸せだと感じてくれるだろうか。
携帯電話の液晶画面を見ながら、僕は文字を打ち込んだ。
溢れる想いを文字に乗せて、打っては消しを繰り返し、結局僕が送った内容は可愛さゼロの二文字だった。
送った後に後悔して、その後何度も文章を考えたけど、結局また打っては消してを繰り返して、追加のメールを送る事は出来なかった。
揺れる金髪。
女の細い手がシャツ越しでも分かる清兄の引き締まった背中を愛撫するように這う。
女の手が銀縁眼鏡を抜き取った。露にされた清兄の色気が溢れた目元に女は唇を寄せる。
清兄は冷たい美貌を変える事なく、女を見つめながら拒む素振りも見せずに女の腰を抱き続けている。
何やってるんだ、清兄。ちゃんと拒んでよ!そもそも、女!触るな!その男は僕のだ!
例え夢の中でも許さないよ?
ああ、嫌だ。早く目覚めたい。
この夢は予知夢なんかじゃなくて、ただの僕の不安が見せる夢。分かっているけど気分が悪い。
清兄…お願い…その女から離れて。
僕を見て。抱き締めて。
「清兄…っ」
自分の掠れた声で僕は漸く覚醒出来た。
ふかふかの布団。品良く焚き染められた香のノスタルジックな薫り。
平安時代よろしく、段を作って床より少し高い位置に敷かれた寝具は、衝立に囲まれている。
静寂と薄闇が落ちた部屋は寒々しくて、部屋の隅に配置されている燭台のぼんやりとした光源が益々その寒々しさを浮き彫りにしているように思えた。
夢からまだ覚醒しきれていない体はまだ鉛のような重さで敷き布団に埋もれているが、意識はかなり明瞭となって視覚は様々な情報を拾う。
障子から漏れる光の明暗は、まだ明け方だと僕に教えてくれる。
僕の寝室は二十畳の和室。襖で区切られていて、隣の部屋は僕の勉強部屋。更にその隣は今は無人の審神者の部屋。
奥宮の更に奥の奥に在る神子の宮殿には、今は僕だけしか住んでいない。
神子に仕えるお側使えや巫女達は、神子の宮を守るように建てられた建物に住み、神子とは寝食を共にしない。
起床から就寝までの間は、宮殿の管理のために使用人達が神子の宮殿にいるが、基本的に夜は人払いされていて誰もいない。
僕が望めば宮殿に常駐する使用人が置けるが、僕がそれを望むはずもない。
どんなに清められた場所でも、清兄がいなければ僕に真の安らぎなど無い。
隔離されたような場所にいても、流れ込んでくる思念の煩さに僕の神経は常にささくれだっている状態だった。
審神者代理の香音さんは、とても良くしてくれている。
彼の相変わらずの妙な思念は正直嬉しく無いが、それ以外は概ね満足出来る仕事をしてくれている。
本来なら僕の十八歳の誕生日までは神子の仕事はしない取り決めがなされているが、奥宮の長老達がそれを許すわけもない。
だって、神子への依頼は一回の相談料だけでも平均サラリーマンの年収を余裕で上回るのだ。
僕の存在は橘家にとっては金の鶏だ。金の卵を産み出すのだから、例え取り決めを破る事になっても長老達が態度を改める事はしない。
清兄が僕の傍にいないのをこれ幸いと、じゃんじゃん仕事を振ってこようとしてくるけど、香音さんがきちんと仕事の量と質を調整してくれている。
お陰で何とか神子として仕事をこなせているけど、やっぱりどんなに香音さんが優秀でも清兄じゃない。奥宮に来て僕は不覚にも既に五回倒れた。
「オムライス…食べておけば良かった…」
額に掛かる髪を払い、僕は張り付く喉をそのままに呟いた。
挨拶もせずに清兄と別れたあの日の夕食は、清兄お手製のオムライスだった。
子供の頃から、僕は清兄の残り物具材で作る素朴なオムライスが好きだった。
色々余裕が無くて、せっかく作ってくれていたオムライスを食べる事が出来なかった。
奥宮に来て、出される三度の食事はプロが作っているから美味しい筈なんだけど、残念ながらその味を今の僕は感じる事が出来ない。
今の僕は自分が存在している事が苦しい。
遮断出来ない思念。突然始まる未来知と、過去視。制御出来ない力に振り回されて、疲弊して行く精神と肉体。
清兄がいない。
第三者にとっては些末事であるだろう事実が、僕にとっては命取りになる程重要な事実。
声が聞きたい。顔が見たい。触れたい。抱き締められたい。ただもう…ひたすらに逢いたい。
僕の選択が間違っていたから、今ここに清兄はいない。
勇気を振り絞って掛けた電話に返信が無くて、僕の心は折れた。
清兄から暫くしてから電話が来たけど、僕は怖くて話す事が出来なかった。
話せないならせめてメールでもと思って、何度も文章を打ったけど、結局送れずにその都度削除した。
時間をかけて清兄を手に入れるために画策していたのに、不用意な僕の言動が手に入れたかった未来への道を曲げてしまった。
よもやあのラウラと言う女と元サヤなんて事にはなっていないだろうが…今では確信なんか爪の垢程もない。
「…だから…あんな夢を見たんだ…」
清兄と離れてから、毎夜あの人を失う恐怖に震えながら眠りについていた僕は、ある晩酷く現実的な夢を見た。
たまに見る淫夢と違って、あの晩の夢は本当に清兄と抱き合ったような感覚を僕の体に残した。
夢で僕は清兄にキスをして、あの人の胸を舌と指で愛撫した。三十代とは思えない滑らかな肌の感触は、思い出すだけで体が疼く。
着痩せする清兄の引き締まった筋肉に覆われた体は、同性であっても見惚れる美しさだった。
初めて目の当たりにした清兄の勃起した性器は、想像以上の質量と長さで、見ただけで経験の無い僕の二つの孔が切なくなった。
身も蓋もない言い方だと、清兄の性器で奥を犯されたいと思った。
想像しただけで体が興奮して、僕自身の性器も硬く立ち上がった。
例え夢でもいきなり清兄の性器を自分の中に挿入する事は、流石に憚られて、先ずはしてみたかった口淫を試みた。
初めて口に含んだ性器は、不思議な感触だった。夢なのに温度も味も感じた。清兄の真似をして性器を愛撫したけど、相手が愛しい人なら、する方も目茶苦茶感じるんだと初めて知った。
正直清兄の性器は大きくて、喉の奥まで飲み込むようにしゃぶるのは苦しかったし、難しかったけど、僕は夢中になって行為に没頭した。
清兄の感じている顔も吐息も、堪らなく色っぽかった。
口で清兄の精液を受け止めて、味わうように全て飲み込んだ時の達成感と興奮は、未だに忘れられない。
濃くて、ぬるぬるして、味覚的には美味しくなかったけど、愛があるからか、もっともっと沢山飲みたいと思った。
口で性器を愛撫してるんだから、下の毛が口の中に入る事もあるって、夢なのにやけに現実味を感じたのが不思議だった。
「…清兄…会いたいよ…」
自分の唇を指の腹でなぞり、夢での口淫をトレースする。
想像しただけで、既に僕の性器は立ち上がっていた。清兄の手を想像しながら、空いた手を自分のそこに滑らせて直に握った。寝る時は浴衣だから、膝を開けば直ぐに触れられる。
「ん…っ」
自分の性器だから加減は分かってる。溜まった欲望を処理するための行為だから、特に罪悪感は無かった。自分の指を清兄の性器に見立ててしゃぶりながら、自分の性器を上下に擦り立てて射精した。
溜まっていた重怠い快感が爆ぜて、スッキリする筈が、腹の奥の器官がズクズクと熱を持ったまま疼いているのが分かって下半身に力を込めた。
「ふっ…ん…っ」
尻の奥もその下の余分な器官も、ぬるぬると濡れて蠕動しているのが分かって唇を引き結んだ。
自分の体が、男である清兄の体を欲しがっている。
ああ…周期が来た。
男性器で射精するだけでは満たされない劣情に翻弄される日常が来た。
この周期が何の為のモノなのか、最近分かりかけてきた。
これは本能だ。
子孫を残すために男の精を欲しがって疼く性。
「…清兄…」
視界が涙でぼやけた。吐いた自分の息が熱かった。
「何で…こんな体なんだ…」
清兄を想えば、揺れる決意と覚悟。
人生とは不可解で、僕にとっては時に苦痛を伴うものだ。
自分の精液で濡れた手を見ながら、ゆっくりと体を起こした。
起きるにはまだ早いけど、お風呂に入りたくて立ち上がった。
今日は神子の仕事は無い筈だから、一日部屋に籠る事が出来る。誰にも会いたくない。玄関に立ち入り禁止の札を出しておこう。そうすれば、審神者以外の人間は入って来ない。
清兄とお父さんと暮らしていたお陰で、僕の家事スキルは主婦レベルだ。本来なら使用人なんかいらない。自分の事は全て自分で出来るんだ。でも、僕の立場が一人でいる事を許さない。使用人達は、僕の世話だけでなく、僕を監視して護る役目を担っているからだ。
「…下手に永く続き過ぎたんだ…」
橘一族の始まりは、嘘か真か知らないが、神話の時代に遡る事が出来るらしい。これじゃ、この国の象徴である一族と同じレベルだ。尤も、橘一族は後世に生まれた一族で、始祖は天照大御神を奉った神宮の典侍の一人だったとか。
奥宮に住んでいた時に教え込まれた一族の伝承は、神話みたいで現実味は無かった。
神子の仕事が無い時は、基本僕は神子としての勉強を課せられている。
昔、奥宮でやらされた勉強とは違う、より専門的な勉強だ。一族の成り立ちを勉強するのにも、古文書を紐解きながらの難解作業を強いられている。
清兄に教えられて、学校に通っていなくても大学レベルの学力は持っているけど、神子の勉強は専門レベルだ。古文書の文字を読むだけで疲弊する。
勿論、古文書はコピー機で複写された物で、原書は保管されている。原書に触れたりしたら、僕はたちまちサイコメトリーの能力で、膨大な過去の思念に取り込まれて過呼吸で倒れるだろう。
古い物は僕には毒で、なるべく僕の身の回りの物は新しくて人の手が余り入っていない物が置かれている。昔の奥宮には無かったその配慮が、今はある。その辺りの指示は、多分、嫌、絶対清兄の指示だ。
「清兄…」
つらつらと取り留めなく思考を流しながら、僕は風呂場で機械的に体を清め、脱衣場で新しい藍染めの浴衣に着替えて玄関に向かった。
広い三和土にポツンと置いてある僕の草履を突っ掛けて引き戸を開けた。
広葉樹や針葉樹が連立する山奥の中に集落のように建てられた奥宮は、大小様々な建物が神殿を中心に扇状に配置されている。
薄暗い朝靄の中、ゆらゆらと揺れる灯りは、朝のお務めをしに神殿へ向かう巫女達が持つ灯りだ。
神殿の奥にあるのが、僕がいる神子殿だ。
僕は、所謂生き神だから、巫女のように神に仕える事はしない。儀礼的な仕事は月に一度、神殿で始祖に挨拶をして神楽舞いを披露するだけで良い。
感覚的にはご先祖様に、一族は繁栄してますから安心して下さい、と言う意味合いの挨拶だ。
肌を刺す冷気を肺一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐いた後は戸に立ち入り禁止の札を張って中に戻った。
お腹は空いてないけど、食べておかないと後で訪れるだろう香音さんの小言を聞かされて、抜いた分を追加で食べさせられる。清兄もそうだけど、審神者って生活面の食事に関しては凄くうるさい。
厨房でカップスープとロールパンと林檎を食べて、軽く掃除を済ませた後は勉強部屋へ向かった。
勉強部屋にはシンプルな机と椅子に書棚が並んでいて、テレビやパソコンの類いも完備されている。
机に起きっぱなしの携帯電話を見て、メールの着信を知らせる緑の点滅に気付いて鼓動が跳ねた。
飛び付くように携帯を取って開けば、清兄からのメールが届いていて、息が苦しくなった。
もうずっと、清兄からの直の連絡は途絶えていた。僕が清兄からの電話を拒否したからだ。以来、メールさえくれなくて、いよいよ完璧に見限られたかと絶望していた矢先だった。
メールの内容を確認するのが怖くて、小さな液晶画面を凝視していたら、突然目眩が始まって頭の中でスイッチが入ったような音と共に視界は暗転した。
しまった、未来知のスイッチが入った。
意識と肉体の解離の狭間で、脱力して倒れる体を何とか支えようと踏ん張るけど、力及ばず額を机の角にぶつけた後に後頭部を床板に打ち付けた。
ああ…最悪。また、たん瘤だ。
脳内に凄い速さで情報が入って来る。
漆黒の髪にグレーの瞳は、有栖川万里君だ。隣にいるのは誰?金髪に近い栗色に透明感のある茶色の瞳の美少年。綺麗な人間は見慣れているけど、少年は格別だった。少年から放たれる黄金色のオーラの目映さに瞠目した。
清兄のオーラも金色だったけど、少年のそれは輝きが違った。彼は生まれながらのカリスマだ。
清兄のオーラが少年より輝きが鈍いのは、橘であるが故だ。橘は表に出てはいけない一族だからだ。少年と比べて分かった。橘でなければ、清兄はどれ程の輝きを放ったのだろうか。
万里君と少年の次に脳内に現れたのは、写真の中の美女。金髪に碧眼のビスクドールのように美しい女性。女性にちらつく黒い影。血の色。呪詛。
ぐるぐると回る背景。フラッシュバックしているように、情景が浮かんでは消える。
ああ…無理だ。気持ち悪い。脳がショートする。鼻血が出そう。もう無理、何も視たくない。助けて、清兄!
「…音!水音!」
「はぁっ…っ」
名前を呼ばれ、肩を掴まれて揺さぶられた。
弾かれたように体がバウンドして、僕は目を見開いて息を吐いた。
鼓膜の奥で鼓動が早鐘を打つ。
「ミィ…良かった。これ、何本?」
香音さんが長い指を三本立てて振った。
「…三本」
「今日は何日?」
「十二月三日」
床に倒れたまま、上から見下ろしてくる香音さんの質問に答えた。
香音さんは一度息を短く吐き、僕の肩から手を退けた。
変な思考で僕を混乱させる人だけど、僕に不用意に触れたりしないから凄く助かっている。
今だって、僕の額と後頭部の傷の手当てをしたいけど、触れられる方が僕には辛いって事を理解してくれているから過分な接触を控えてくれた。
「立ち上がれる?」
「はい…」
僕は言葉少なに頷き、ゆっくりと立ち上がって椅子に座った。
香音さんは僕を見守りながら、部屋の棚から救急箱を取って、僕に触れないように手当てしてくれた。
縫う程じゃないけど、血が流れるくらいには深く切れた額の処置をしてくれる香音さんの顔を、僕はぼんやり見上げた。
『清兄と似てるけど…香音さんの方が線が太い…身長は清兄の方が高いけど…男っぽいっていうのかな?…髪も目も、橘一族特有の濡れたような漆黒だけど…清兄と印象が違う…』
「…そんな色っぽい目で俺を見るなよ。押し倒したくなるだろ?」
ニヤリと笑いながら救急箱を片付ける香音さんからは、でも全然欲情した気配がない。変な妄想はするけど、実際は香音さんにとって僕は性の対象では無い事が、この二ヶ月近い日々を一緒に過ごしてみて確信した事だった。
恐らく、香音さんから流れて来る思念もフェイクだ。橘一族の中枢にいる者達は、思念をコントロールする事に長けているから。
その事が分かっても特に感慨は無い。僕に本当の思念を読まれないようにするのは当然の事だし、寧ろそれが有難い。
僕が知りたいのはいつでも、清兄の気持ちだけだから。
『それに…香音さんのオーラを視れば、僕を大事に思ってくれている事が分かる…』
人が纏うオーラは一色じゃない。色々な色が層を成し、その人間の性質を僕に教える。
香音さんが纏うオーラの最も強い色は青と灰色。見た目に反して、香音さんは愛情深く、忠誠心の強い人だ。けれど、心に深い悲しみを抱いている。喪失感や絶望がちらつく。あ、駄目だ、過去視が…。
「ミィ!俺を見て!」
香音さんの大きな声と目の前で手を叩かれた音に我に返った僕は、心配顔の香音さんを認識してこめかみ辺りを手で抑えて苦笑した。
「…ごめん…ありがとう…」
「周期に入ったのか?」
「そうみたい…」
「暫く仕事は休んで良いから」
「そういうわけには行かないでしょ?明日も依頼が入ってる。五千万の仕事は無視出来ないよ」
「無理した結果体調不良が長引けば、最終的な損害は増す。休める時に休みなさい。それより、何か視たのか?」
僕が倒れていた状況を見て、香音さんは僕の能力がまた暴走した事を察したのだろう。
僕は未来知を伝えるか一瞬躊躇した。香音さんがどこまで僕の能力の精度を把握しているのか分からなかったからだ。奥宮では相変わらず能力の三割程度しか見せてない。
こめかみを抑えていた手を外して、机の上の携帯を指で撫でながら溜め息を吐いた。
「有栖川の後継者を知っていますか?」
「有栖川?ああ、万里の事か?知ってるよ」
そうなんだ、知ってたのか。やっぱり侮れないな、香音さんは。
「では、万里君と親しくて、金髪に近い淡い栗色の髪と薄い茶色の目をした少年に心当たりは?」
「万里と親しい少年?美少年か?」
「あ、はい、かなり」
「じゃ、成人の事だな」
「なるひと…」
聞き覚えの無い名前に僕は首を傾げた。
「名字は二ノ宮だ。そう言えば分かるか?」
「二ノ宮…先々代の巫女様が親しくされていた?」
「そう。二ノ宮人実。二ノ宮家の女傑だ。成人は彼女の孫だ。更に言うなら、先々代の巫女であった音子様の外孫でもある」
「外孫…あ、成る程、有栖川と二ノ宮は藤堂家に繋がるわけですね」
「そう。藤堂の総帥と結婚した音子様は五人の子を産み、次男が有栖川に婿養子に入り、末娘が二ノ宮に嫁いだ」
神子の審神者次席である香音さんは、清兄と違って奥宮に留まって若手の一族を取りまとめている。
一族の古いしきたりに縛られ、一族至上主義である長老達と若手の一族達との間を取り持っているのも香音さんのようだ。だからなのか、香音さんは橘の系譜についても詳しかった。
音の名を持つ橘の人間が、橘一族以外の人間と婚姻関係を結ぶ事はかなり稀な事だった。
先々代の巫女であった音子様は、神子に近い能力を持った巫女であったらしく、藤堂の総帥との婚姻は相当の反対があったらしい。
いくら藤堂家が名より実を取る資産家であっても、橘一族の宝である巫女を手放す程の価値を、長老達は見出だせなかったようだった。
婚姻が結ばれた背景には、類い稀なカリスマ性と能力を持った藤堂家の総帥の手腕と、稀代の巫女であった音子様の優れた能力の賜物であったらしい。
「…橘の能力を多少なりとも継いで生まれたのが、長男、三男、そして末娘の天音さんだ」
「…あまね」
香音さんの説明を聞きながら、脳裏には写真の中のビスクドールのように美しい女性の姿がフラッシュバックした。
「あまねさんには、会った事が?」
「…清音の代わりに、何度か一族のパーティーに出席した時に。西洋人形のような女性だったよ」
「…ああ…成る程…意味が繋がったよ」
香音さんの説明で、僕が視た未来知の意味を理解した。
「香音さん、なるべく早く万里君と成人君との密談の場をセッティングしてもらえるかな…」
「密談…?何を視たんだ?」
香音さんの質問に、僕はどう答えたら良いか困った。
「今確実に分かっている事は、あまねさんの身に危険が迫っているって事。ただの事故ではなく、誰かによる故意の事故が起きる。背景には呪詛が見え隠れしています。それから…今回の未来知には僕や清兄が関わっているようです」
「…どういう事だ?」
「僕の未来知は本来もっと明確に視える。でも、僕や清兄が関わる未来になると…何て言うか…切り取られたパズルのピースみたいに、人物や出来事なんかが小間切れに視える」
「今回がそうだったわけ?」
「そう。未来知だけでは明確に視えなくても、実際に彼等と逢えば、どんな未来が待っているのか予測できる。早い方が、安全な未来への選択が増えるから」
僕の言葉に香音さんは腕を胸の前で組んで逡巡していた。
神子の僕が、橘と縁戚関係にある一族の特定の人間と密会する意味を考えると、審神者である立場では色々と考える事があるのも知っている。
神子は特定の家門を寵用してはならない。パワーバランスを崩すからだ。
有栖川と二ノ宮の両家は、橘にとってはそれほど脅威でもなく、会ったところで大した恐れを周囲に抱かせるものではないけれど。
問題は、彼等が藤堂の血を継いでいるからだ。
世界的にも台頭してきたコングロマリットである藤堂グループを統べる男の血を継ぐ人間が、橘の神子の能力を利用する事が出来たらどうなるかは、想像に難くない。
下手をしたら、橘一族の存在が表に出てしまう恐れがある。
「…返答は明日まで待って貰えるかな?」
香音さんが組んでいた腕をほどいて、僕を見た。
僕は頷き、昨日まで無かった机の上の本やファイルの束を見た。
「…今日のノルマはこれですか?」
「ん?ああ、そう。対外的な事は審神者の仕事だけど、ミィにも経営学の基本くらいは噛って貰わないとね。本格的に神子の仕事をするとなると、海千山千の猛者達と渡り合う事もある。知識は武器だ。能力だけに頼っていては駄目だからね」
香音さんは、清兄よりも目尻の下がった奥二重の怜悧な双眸を意地悪そうに細めて笑った。
「…清兄と同じ事を言いますね」
溜め息を吐きながら、机に積まれた専門書を手に取ってパラパラと捲った。
「審神者だからね。さて、じゃ、俺は本殿の執務室にいるから、何かあったら内線を。一人の方が集中できるだろ?」
ニヤリと笑う香音さんから流れてきた思念は、僕をからかいたい思いと、心配している思いと、大量の事務仕事の書類の山をどう捌くかを算段している思考だった。
審神者って大変だ…。
僕は頷き、そのまま香音さんを見送らずに本を読み始めた。
香音さんは何も言わなかったけど、どうやら昼食は後で使用人が運んで来てくれるようだった。
本を読みながら、大事なところはノートに書き、二時間程集中してノルマをこなした。
奥宮での暮らしは淡々と時間が過ぎる。
仕事がなければ、勉強して、食べて、寝るだけ。空いた時間は基本的に読書をしていて、テレビやパソコンは余り触らない。電子機器も、思念を運ぶ事があるからだ。だから、携帯電話も極力触らないようにしている。
「…清兄」
机の端に置いた携帯電話を見て、僕は唇を引き結んだ。
恐る恐る携帯電話を手に取って、そっと液晶画面を開いた。
「…あ…っ」
強張る指で操作して、届いたメールの文章を目にした瞬間、僕の目頭がカッと熱くなった。
『愛してる』
久しぶりの清兄からのメールは、たった四文字だった。
近況も説明も何も無かった。
「…僕の方が…愛してるから…っ」
鼻を啜りながら呟いた僕の声は震えていた。
あれこれ考えても、結局僕は清兄が傍にいないと駄目だ。離れていても心が繋がっていたら大丈夫なんて、僕には当てはまらない。いつでも温もりを傍に感じていられないと駄目だ。
「…帰ってきたら…二度と離してあげないからね…」
清兄の輝かしい人生への道を僕が潰す代わりに、僕は清兄に何を返せるか考える。
僕を愛してくれる清兄は、僕に何を望んでいるんだろうか。
何をしたら、清兄は幸せだと感じてくれるだろうか。
携帯電話の液晶画面を見ながら、僕は文字を打ち込んだ。
溢れる想いを文字に乗せて、打っては消しを繰り返し、結局僕が送った内容は可愛さゼロの二文字だった。
送った後に後悔して、その後何度も文章を考えたけど、結局また打っては消してを繰り返して、追加のメールを送る事は出来なかった。
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