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水音
此岸の華
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ああ、まただ。
一面咲き乱れる曼珠沙華の赤に反応して、僕の燻っている心の火が温度を上げて、息苦しくなってくる。
《カナシイ…カナシイ…カナシイ…》
あらゆるカナしみの思念が場の空気を赤く染めて行く。
またこの夢だ…。
ほら、まただ。
少年が泣きながら、咲き乱れる曼珠沙華の花を引きちぎり、自分の口に花弁を押し込んだ。
その細い首筋にナイフを当て、言葉を飲み込んで刃を滑らせた。
鮮血が飛び散る。
俯瞰で視ていた僕は、首に走った痛みに弾かれたように目を開けた。
「…っ」
自分の乱れた呼吸音を数えながら、天井の豆電球に気付いてほっと安堵の溜め息を吐いた。
傍らの愛しい人に視線を向けると、珍しい寝顔が目の前にあって嬉しさに頬が緩んだ。
「清兄…」
僕は我慢出来ずにそっと、清兄の薄めの引き締まった唇に唇を合わせた。
柔らかい…。
見た目より柔らかい清兄の唇が、僕は大好きだ。
橘清音。三十二歳。
主に形成外科を専門に各国の病院を渡り歩く、フリーランスの若き天才外科医だ。
容姿端麗で頭脳明晰。
何でも出来て、望めば何でも手に入れる事が出来る人。でも、富や権力には興味が無い。
職業をモデルと間違えられる、十頭身の長身に、スリムなのに逞しい体はどんな服を着ていても似合って素敵だ。
でも、やっぱりワイシャツに白衣を纏っている姿が僕は一番好きだ。
漆黒の髪は長めだけど、仕事の時は整髪剤でいつも後ろに流しているから、秀でた額が顕になって理知的な美貌が丸わかりだ。
奥二重の切れ長の双眸は漆黒で、日本人にしては高く通った鼻筋をしていて、トレードマークの銀縁メガネが清兄の色気を抑えてくれてる。特に右の目尻の泣きぼくろの色っぽさを隠してくれているから、メガネは外ではマストアイテムなんだけど、手術中はコンタクトにする事もあるから、残念だけど僕だけの秘密じゃ無い。
三十代とは思えない肌の滑らかさは橘家特有の物なのかな?
清兄の寝顔なんて、いつぶりに見るだろうか。
このところ手術が続いていたし、突然の父さんの呼び出しに睡眠時間を削って帰国したから疲労が溜まっていたんだね…。
基本、この人はいつも僕の前では起きている。
病院から帰ってきて、食事をしてお風呂に入って、僕の話し相手をしてくれながら、論文を書いたり医学書を読んだり。
僕は引きこもりで、学校には通っていないから、僕の勉強も清兄が教えてくれている。
僕は生まれた瞬間から実の親から離されて育てられ、橘総本家の奥宮で神子として育てられた。
僕はもう、それは大事に育てられた。
僕の世話をしてくれる巫女達は表面上は皆優しかったけれど、皆僕を怖がっていた。
自分が何を考えているのか、何をしてきたのか全て知られる事が嫌じゃない人間なんていない。
僕だって自分が清兄をオカズに、どんな淫らな想像をしているか知られたら死にたくなる。
小さな頃は今よりも、もっと力の制御が出来なかったから、流れてくる思念にパニックになってよく気絶していた。
今でも制御出来なくて、学校にも行けない引きこもりなんだけど、パニックを起こして倒れたりはしなくなった。たまに過呼吸で、清兄に心配をかけてしまうけれど。
でも、清兄が傍にいる時は力の制御が出来て、他者の思念に押し潰されなくなる。
清兄と初めて逢ったのは、僕が三歳の時だ。
三歳だったけど、今でも鮮明に覚えてる。
学ランを着た銀縁メガネの清兄は、今より少し線が細くて凄く綺麗な少年だった。
清兄は、僕の審神者の一人として紹介された。
一目見た瞬間、清兄が他の人とは違う存在だと感じた。
何より、清兄からは何の思念も、過去の残像も流れて来なかった事に驚いた。
清兄から感じたのは、もの凄い力の塊と、目映い金のオーラだけだった。
今思えば、あれは完全に一目惚れ状態だったんだと思う。
「今何時かな…?」
ふと、外からバイクの音が聞こえてきて、物思いに耽っていた僕は我に返った。
この音は、新聞配達のバイクの音かな…。
清兄に抱き締められて眠れて、僕はとても幸せな気分だった。
出来る事なら、清兄に最後まで抱いてもらいたかったけれど、自分の体にコンプレックスを持つ僕は、我が儘を言って抱いて貰う事が出来ずにいる。
僕が命令すれば、清兄は言う通りにするしかないのを知ってるから、尚更だ。
僕の体は普通じゃない。
両性具有とか、二形とか言われている、一種の奇形だ。
異形と蔑まれて、見世物小屋に売り飛ばされたりはされず、神子として神聖な存在として崇められているから、僕は悪運が強いんだろう。
男の体に、女性器がくっついているなんて、本当に余計な事をしてくれるよ。
しかも子供まで産めるように卵巣と子宮まであるなんて、神様は一体何を考えているんだか。
幸いなのは、僕には女性のようなバストが無い事だ。女性器だけなら、見た目はちょっと女っぽい男に見えるだけだから。
小さい頃は自分が変だなんて思ってなかった。でも成長していくにつれ、自分の体の異質さに嫌悪感を抱くようになった。
十五歳の時に初潮を迎え、劣情って感覚を実感した時が、一番自分史上最も自分に絶望した時だったな。
だって、欲望の対象が清兄だったんだから…最悪だよ。
ずっと大好きだったけど、淡い恋心的な?そんな憧れの対象だと思っていた清兄に、僕は抱かれたくて気が狂いそうになった。
三ヶ月我慢したけど、恋患いみたいに飲む事も食べる事も出来なくなって、しまいには、いつもは引っ掛かる事なんて無い低級霊の思念に飲まれて、手首を切って自殺未遂まで起こしてしまった。
清兄は僕が、自分の体に悩んだ末に魔に取り込まれたと思っていた。だから、僕の体を綺麗だと言って抱き締めてくれた。
本当の理由は、自分が清兄に抱かれたがっている変態だって事が分かって絶望していたんだけど、怪我の功名って言うのかな?結果的に、定期的に愛しい人に触れて貰える僥倖を手に入れる事が出来た。
未だに最後まで抱いては貰えていないけど、このまま何事も無ければ、僕は清兄を配偶者として手に入れる事が出来る。
僕は清兄のお陰で、この体である事を幸運だと思えるようになった。
「…そのためには、ドイツに早く戻るわけにはいかないんだ…」
深く眠る清兄の額にそっと口付けて、僕は名残惜しいけれど布団から出て身支度を始めた。
私立秀栄学院は、秩父の山奥にある学校だ。今から出たら、きっと早朝の誰もいない学院内を視る事が出来る。
僕にとっては人が少なければ少ない程、調査がしやすくなるし、暴走のリスクを減らせる。
「清兄…ごめんなさい…行ってくるね」
清兄は有言実行の人だ。ノーと言ったら絶対にノーの人だから、僕が頼んでも依頼を肩代わりする事は絶対にしない。
何故なら、僕が危険に晒されるリスクがある事は絶対にしないからだ。全ては僕のためな事は分かっている。
けれど、僕には僕の事情がある。
例え自分にリスクがあっても、愛しい人を他の女に奪われるくらいなら危険な目にあってでも阻止する。
デイパックに必要な物を準備し、音を立てないようにそっと部屋を後にした。
一階に降りると、居間に明かりが点いていて、そっと襖を開けるとお父さんが荷物の準備をしていた。
「お早う、水音。早いねぇ」
「うん…お父さんも出るの?」
「水音が依頼を受けてくれたから、僕はこれから一軒目の依頼を片付けてくるよ。それに、水音が出て行った事に気付いて、怒り狂う清音と対峙したくないからね」
お父さんはニコニコ笑いながら本当の事を教えてくれる。
流石は橘家でも指折りの能力を持つお父さんだ。しっかり思念の制御はした上で、本心を口にする。
この人は、基本的に本音しか口にしないから、僕も傍にいて疲れないんだ。
「学院側には、僕の事伝えてくれているよね?」
「勿論!僕の優秀な息子が代わりますって、伝えているよ。あ、あと、学院では手伝いとして生徒会長の有栖川万里君を付けてくれるそうだよ」
「有栖川万里?聞いた事が…あ、藤堂の…?」
「当たり。よく覚えてたね」
藤堂とは、藤堂グループの事だ。
政財界に多大な影響を及ぼす、日本でも五本の指に入るコングロマリット。
僕の二代前に橘家のトップに据えられていた巫女が、橘一族以外の無能力者の男と結婚した。その相手が藤堂グループ総帥だった。
有栖川万里は確か、その総帥と巫女様との間に出来た子供の子供だったはず。
「逢った事は無いけど、清兄が元旦恒例の藤堂一族親睦パーティーに出席した時、挨拶したって言ってた人だ」
「万里君は親族の一人として、水音の事知っているみたいだよ。とても優秀な少年らしいから、困った事があったら彼に相談するようにって」
「分かった」
「じゃ、行こうか?学院までは僕が連れて行くよ」
お父さんは荷物を手にして立ち上がった。
五十代には見えない黒いジーンズに黒いシャツという、全身黒ずくめの格好をお父さんはしていた。スタイルが良いから格好いいけど、この人を見て神社の宮司とも霊能者だとも見えないよね。
「良いの?タクシー呼ぼうと思ってたんだ」
「通り道だしね。流石に移動まで水音を一人でさせた事を清音に知られたら…半殺しだよ…怖い怖い」
お父さんは本当に怖いらしく、腕を擦りながら居間から出て行った。
僕は慌てて清兄に置き手紙をして、居間の電気を消してから玄関へ向かった。
ガスの元栓、電気の消し忘れ、戸締まり良し!
まだ暗い神社の境内をお父さんと歩き、石畳の階段を降りて駐車場にある赤い軽自動車に乗り込んだ。
「では、出発進行~」
動き出す車のサイドミラーを見て、遠ざかる家を見つめた。
五歳から九歳までは、僕はあの家で育った。
外に順応出来なくて、情けなくて泣いてばかりいた僕を大らかに見守ってくれたお父さん。
医学部の学生だった清兄は忙しくて、日中の僕の相手をしてくれていたのはお父さんだった。沢山遊んで貰ったなぁ。
でも、今思えば、清兄は大学から帰宅した途端に僕とお父さんの世話をしなくちゃいけなくて、大変だったんじゃないかと思う。お父さんは、家事能力が無くて、本当に僕の世話しかしなかったから。
その頃のお父さんはほぼ家にいて、働いているようには見えなかった。
一体お金はどう工面していたんだろう?
「ねぇ、水音。何でこの依頼を受ける気になったの?」
「…予知夢を視たから」
「嘘が下手だなぁ。言いたくないなら、無理には聞かないよ」
車は暗い住宅街を抜け、幹線道路に出た。車は殆ど走っていなくて、僕達が乗った車はスイスイ進む。
お父さんはハンドルを右に切りながら笑った。
「…半分本当。…あのままドイツに居たら、清兄、三年前に関係があった女とまた関係が復活する未来が視えたんだ」
未来予知は、僕の能力の一つだけど、清兄の過去や未来を直接視る事は無い。出来ないと言った方が良いのかな?
僕は定期的に清兄の診察を病院で受けていて、あの日も診察が終わって清兄と家に帰ろうとしていた。病院のロビーでブロンド、碧眼のゲルマン民族全開の美女に清兄が呼び止められた時に、突然能力が発動した。
恐らく、清兄じゃなくて、僕が視たのはあの金髪美女の未来なんだろう。
同時に過去知まで発動して、知りたくも無い清兄と女の過去の情事のあれやこれやが脳に飛び込んで来て叫びたくなった。
女は清兄に未練タラタラで、強過ぎる感情に当てられて気分が悪くなって、また清兄を心配させてしまった事まで今思い出してしまった。
「おや、それは、中々面白い展開だね」
「面白く無いよ。清兄は僕だけの清兄だ。今更誰かに渡したりするもんか」
二形である事も、この人外の能力を受け入れられるようになったのも、清兄がいてくれたからだ。
いずれ清兄が僕の番となってくれると分かったから、僕は神子でいる事を受け入れたんだ。
「ふふふ…水音は本当に清音が好きなんだね」
飾らないお父さんの言葉に赤面したが、僕は頷いた。
男とか女とか関係無く、僕は橘清音という存在が堪らなく愛しい。
彼が僕を僕のまま受け入れてくれるなら、こんな幸せな事は無いけど、清兄の本心はどうなんだろう?家族として愛してくれてるのは分かるけど、僕と同じ気持ちでいるのかが分からない。
こんな時、清兄の思念だけ読めないのが苦しい。
もし僕が女だったら、清兄に躊躇無く想いを伝えられただろうか?
逆に二形じゃない、ただの男だったら告白できただろうか?
いや…多分無理だ。年齢は十五歳差。僕はニート。清兄は医者。
そもそも接点がなくて、人生がすれ違う事さえ無かっただろう。
そう考えた時、やはり全ては僕が二形であったからという事に終始する。
この体を受け入れるのは時々まだ苦しいけれど、清兄が僕の傍にいてくれるなら悪くないと思える。
「…まぁ、紆余曲折あった方が燃えるからね。沢山悩んで足掻きなさい」
「お父さん…他人事だと思って」
「他人事だからね」
「実の息子の事だよ?」
「息子達だよ」
「あ…」
お父さんはまた大らかに笑い、僕の頭を軽く撫でた。
「…皆、真面目だね。相手の事を考え過ぎてる」
「…お父さんは、僕が清兄を好きな事、気持ち悪いと思わないの?嫌じゃない?」
「清音は魅力的な男だ。水音が好きになるのは分かるよ。人が人を好きになるのに、気持ち悪いなんて思うわけ無いだろ?」
「だって…僕…男だよ?」
「だったら何?」
「えっと…だって、普通、恋愛感情とか性的欲求って、異性に向けるモノでしょ?」
「普通の概念は、ようは多数決って事。異性に対してそうなる個体が多いってだけさ」
「じゃ、やっぱり普通じゃないよ」
「少数派なだけさ。それに、水音は、清音が男だから好きになったの?」
お父さんの問いに僕は首を横に振った。
「清音だから惹かれた。好きな人だからセックスしたい。これ、自然な事でしょ?」
お父さん…。言葉がストレート過ぎて恥ずかしいよ。僕は引きこもりだから友達がいない。だから、僕の恋愛相談相手は昔からお父さんだった。この人、本当に自由人だから、こんな話も普通に出来てしまうのは有難い。
「…なるほどねぇ…、しかし、清音も忙しいくせにやることはやってるんだな。流石、出来る男は違うな」
お父さん、妙な関心の仕方をしないで欲しい。確かに言う通りなんだけど。ああ、嫌だ、また思い出してしまった。清兄の過去を視る事が出来ても、僕はもう視たくない。嫉妬で死んじゃうよ…。
「道は空いてるから、予定より早く着きそうだけど、まだかかるから寝てて良いよ」
「…うん」
寝るとまた、あの夢を視るから嫌なんだよな…。
「どうしたの?寝たくないの?」
「…ちょっと感応が強くて…感覚も同調してるから、正直余り眠りたくないんだ」
夢の中の少年が首をナイフで切る度に、僕の首も痛むんだ。同調し過ぎるのは余り良い傾向じゃない。下手すると、実際に僕の首は切れるし、血も流れる。
「寝なければ大丈夫だから、問題無いんだけど」
「う~ん…。ちょっと危ないかな?一番危なくなさそうなのをふったんだけど、違う依頼に変えようか?」
「いや、駄目なんだ。清兄とあの女性の未来を断ち切るには、僕がこの依頼を受けなければならない。他の依頼だと、未来へ進む道が繋がってしまうから」
ヘッドライトに照らされた、薄暗い道路を見つめながら、僕は首を横に何度も振った。
「…本当に危ないと思ったら匙を投げる事。深追いしちゃ駄目だよ?分かってるね?」
凄く心配してくれてるね、お父さん。でも止めないでいてくれる…。ありがとう。
清兄が傍にいなくても、一人で依頼の一つや二つ片付けてみせる。僕は神子だ。崇められるだけの力は十分あるんだから。
「うん…分かってる。大丈夫だよ、お父さん」
助手席から、夜が明けて空が白んでいく様子をじっと見つめた。
車に乗っていても、誰のか分からない思念が流れてきては消えていく。
夢は見ていないはずだけど、頭の片隅に曼珠沙華の朱が散らついて、僕は眉を寄せた。
物理的な距離が近くなると、思念も拾いやすくなる。
大丈夫。僕はやれる。
僕は膝に置いた手を強く握った。
車は快調に目的地に向かって走った。
「…ここが名門秀栄学院か…」
青銅の門は高く、赤茶けた煉瓦の塀も高くて全く中の様子が見えなかった。
十月の早朝五時はまだ薄暗いけど、正門にはちゃんと警備員がいる。山奥の田舎に警備員が必要なのかは疑問だけど。
正門まで車で連れて来てくれたお父さんから、僕は別れ際に秀栄学院の理事長の名刺を渡された。
正門の警備員に名刺を渡して名乗ると、一分程待たされて中に通された。
敷地の中は広かった。
外からの塀の長さから、広大な敷地をイメージしたけれど、想像以上の広さだった。
学院は明治に建てられた物らしく、瀟洒な洋館で、何処かの貴族の別荘みたいな雰囲気だ。
「土地自体は悪くないのに…何故こんなに禍々しい気配が漂っているんだ?」
澱んだ気の塊がそこかしこに漂って、視える僕には余り足を踏み入れたくない場所だ。
僕は正門から続く煉瓦が敷かれたアプローチから外れて、何度も視た夢の場所を探しに思念を追った。
あらゆるカナしみを内包した思念は、僕を呼んでいるようだった。
「凄い…壮観…」
校舎の裏にある雑木林を抜けると、一面曼珠沙華が咲き乱れる野原のような場所に出た。
《カナシイ…カナシイ…カナシイ》
ああ、ここだ。夢の通りだ。
「…君は誰?」
薄い茶色の髪と瞳。卵形の小さな顔。赤い唇。
光沢のあるグレーのシャツに、黒いネクタイ。黒い三つ揃えの制服。これは秀栄の制服だ。
野原の真ん中に佇む少年は、少女のように可愛らしい顔で微笑んだ。
まるで生きているように見える少年の姿だけど、生身の人間では無い。
《やっと…来てくれた…》
「僕を呼んでたね…」
《…彼を…助けて…》
「彼?」
《助け…て…》
ああ、駄目だ、混線する。
少年の思念だけ拾いたいのに、どんどん違う思念が流れ込んでくる。
あ、そうか。周期中なんだから、いつもより制御が利かないんだった。
今回は何日後に生理が始まるんだ?
ハッキリ言って、僕の生理痛は重い方だ。早めに解決しないと、色々厄介な事になりそうだ。
僕は神経を集中させ、片膝を突いて地面に手を置いた。
この場所の残留思念から、少年の思念だけを拾って情報を集める。
ああ…最悪だ…気持ち悪い…流れてくる思念の渦に吐き気けがする。
清兄がいれば、さくっと知りたい情報が分かるのに。
背中に嫌な汗が出る。額にも脂汗。噎せ返る花の匂いに目眩がしてきた。
「…おい!君!ここは立ち入り禁止だぞ!何をやってる」
背後から厳しい声を掛けられて、僕は顔から表情を消して振り返った。
僕に声を掛けたのは、秀栄の制服をカッチリと着こなした少年だ。
背が高く、中々逞しくて顔も整っている。髪も黒くて学生らしく綺麗に切り揃えられて、好感が持てるよ。真面目で、本来は明るくて気さくな人柄のようだけど、僕を凄く警戒しているね。
彼の過去が僕の中に流れ込んで来る。
曼珠沙華の少年の姿が見える。二人には、何か関係があったようだ。二人は恋仲だった?二人のキスシーンは、中々綺麗で視ていて嫌じゃないな。その後、何かがあったんだね?少年の自殺未遂は自分のせいだと思ってる…。
「おい!聞いてるのか…?!」
応えない僕に苛立っているのは分かるけど、もう少し君の過去を見せて。
「おい!」
少年が僕の肩を掴んだ。
駄目だ、触れないで、君の思念を拾ってしまう。
「…駄目…だ」
「えっ!」
脳がぐるぐる回って吐き気を我慢出来ない。僕は地面に両膝を突いて吐いた。
「ちょ!だ、大丈夫か?!」
不審者がいきなり吐き出したら、それは驚くよね。ああ、でも、君はいい奴なんだね。僕を心配してる。でも、困ったな。意識が持たない。開始早々これでは、一人で解決なんて無理だ…。清兄…。
気絶するのは慣れている。
今回はうっすら意識を失うパターンだ。
少年が倒れそうになった僕を支えてくれたところで暗転したように意識は途切れた。
「…さて、詳しく話を聞かせてくれる?」
僕の意識は途切れ、体は今少年によって運ばれている。どうやら学院の医務室に運んでくれたようだ。
今の僕は幽体だ。
幽体の僕は曼珠沙華の野原に佇んだままだ。
このまま幽体でいると、本当に死んじゃうから早々に自分の体に帰らないといけないけど、この状態の方が今は話がしやすいのは確かかな?
「あ…あの…まさか、貴方も死んだんですか?」
曼珠沙華の少年、いや、柿田優真君が、顔を蒼白にして慌てている。
思念を読めば、聞かなくても個人情報はゲット出来る。
「死んでないよ、柿田君。君もね」
「え?どういうこと?」
「君は生き霊。まだ魂と体は繋がっているけど、凄く薄くなってる。早く戻らないと本当に死んじゃうよ?」
僕の言葉に衝撃を受けたみたいだ。呆然と僕を見上げる大きな茶色の目が、とても魅力的だ。
「君とさっきの彼、柿ノ本和真君は、恋人同士だったのかな?」
「こ、恋人?な、な、なんの事?ぼ、僕達男同士だよ!そんなわけ!」
うわぁ、凄く嘘をつくのが下手なんだね。可愛いなぁ。
「キスはしても、恋人じゃないのかい?」
「何で、それを!」
柿田君は赤くなったり青くなったり、表情を信号のように変えて忙しい。
「僕は神子なんだ。何でもお見通し。中等部から入学した君に親切にしてくれた柿ノ本君と友達になって、それから彼に恋心を抱くようになったんだね」
何でも知っているわけじゃないけど、過去知をしながら、ここはハッタリをかますところかな。
言い当てられて、柿田君は金魚のように口をパクパクさせている。
「高等部に持ち上がって、柿ノ本君に告白されて、キスされた。それを…誰かに見られたね?」
その後の情報は、混線して分かりにくい。知られたくないから、無意識にフィルターが掛かるんだ。
「お願い…誰にも言わないで」
柿田君は目を潤ませて、凄く分かりやすく震えている。ああ…なるほどね。目撃されて、そいつに脅されたんだね。
「大丈夫。言わないよ。でも、恥じる事は無い」
「恥じてるわけじゃない…、でも、知られたら彼に迷惑が掛かるんだ」
「迷惑?何の?」
視え難い…。知られたくないんだね。でも、大体分かったよ。君は彼を護りたくて死を選んだ。
「柿田君。起きたら全てが、良くなっている。だから自分の体に戻って」
僕の言葉に彼は首を横に振った。
「戻れないんだ…この場所から動けない…だから、僕はもう、死んでるんだと思ってた…」
動けない?不味いな…土地に呪縛されかかってる。ここの土地は、悪い土地じゃないはずなんだけど…確かに、ここに足を踏み入れた時のあの禍々しい気配は、尋常じゃない。
僕もそろそろ戻らないと不味いかもしれない。
「僕は一旦体に戻るから、君は諦めずに自分の体に戻りたいと念じ続けて」
「戻っても…良いのかな…戻れるのかな…」
「諦めたらおしまいだよ…僕が必ず君を助けるから」
「…ありが…とう…」
柿田君は泣き笑いを浮かべた。
僕は彼を安心させるように微笑み、自分の体に戻ろうとして帰り道を見失った。
「…不味いな」
気付けば僕は負の塊に取り囲まれていた。曼珠沙華が咲き乱れる野原にいたはずだけど、一面闇が落ちた空間にいて、更に濃い負の闇に取り込まれようとしていた。
僕は力業が苦手なんだ。制御が出来ないから力を放出し過ぎて死にかけた事が何度もある。
霊を祓うのも、諭して納得させる浄霊は得意だけど、問答無用で消滅させる除霊は苦手なんだ。
闇の触手が僕に伸びてくる。
人差し指と中指を揃えて立てる剣印を結び九字を切るけど、圧倒的に僕は不利だ。
思うように力が入らない。
清兄…清兄…助けて…。
闇に押し潰されそうになったその瞬間、眩い閃光と共に、抜けた力が戻って来て光に向かって腕を伸ばした。
清兄!
「水音!」
鼓膜が痛むほど大きく名前を叫ばれて、僕は目を見開いた。
目の前には、清兄の理知的な美貌があった。
「…え?…何…?」
僕は呆然と、いるはずのない清兄の大好きな顔を見上げた。
「…水音…良かった…」
清兄は一度安堵の吐息を洩らすと、僕の体を痛いくらい強く抱き締めた。
いつも隙の無い清兄が、髪もシャツも乱して僕を抱き締めている。その逞しい体は少し震えていて、清兄がどれ程僕を心配してくれていたのか分かった。
「ごめんなさい…清兄…ごめん…」
「…後でお仕置きだから、覚悟しておけ」
お仕置き…?何?どんな?
僕は恐る恐る清兄の顔を目だけ動かして見ると、綺麗な悪魔の微笑みが浮かんでいて、僕の背筋が凍った。
不味い、ヤバイ、この顔は相当怒ってる。
「まったく…目が離せないな…」
清兄はベッドに乗り上げるようにして僕を抱き締めていた腕をほどいた。
「まだ寝ていなさい」
清兄は掛布団を僕の肩まで引き上げながら掛けてくれた。
僕はゆっくり首を動かして、ここが学院の医務室である事を確認すると、強張っていた体から余計な力が抜けて行った。
さっきの閃光は、清兄の力だ。僕の霊を辿って力を注いでくれたんだろう。
「どうして…?」
実家にいるはずの清兄が、何故こんなところにいるのか不思議だった。
「どうして?追いかけたからに決まっているだろ?」
清兄が飽きれた顔で僕を見た。
「今何時だと思ってる?午後一時を過ぎたところだ。お前は倒れたんだ。覚えているか?」
「午後一時?そんなに…?」
「…今の体調で依頼を解決するなんて無理だ。だいたい、お前は霊能者じゃないんだから、幾ら力が強くたって素人と同じなんだから」
「…でも…」
「とにかく…一度この場所から出るぞ。こんなところにいたら、お前の気がおかしくなってしまう」
僕がまた魔に飲まれて死のうとするかもしれないと、心配してるんだね。
「…清兄にも視えるの?」
「当たり前だ。これ程、負の気が澱んでいるのは普通じゃない。低級霊も、これだけ集まれば怨霊になれる」
確かにそうだ。
でも凄い。清兄がいるだけで、場が浄化されたように負の気が祓われていく。
息苦しかった呼吸も、気付けば楽になっている。ふと、昔お父さんが言った言葉を思い出して、思わず僕は微笑んでしまった。
「水音?どうした?」
「あ、ごめんなさい、何でもない」
「何でもなくは無いだろ?人の顔を見て何を笑ってる?」
清兄はベッドの端に座って僕の顔の横に手を突くと、ゆっくり顔を近付けてきた。珍しくワイシャツの襟元が緩められてて、鎖骨がチラチラ見えてるんだ。額に前髪が落ちてて、メガネの奥の泣きぼくろに釘付けになった。
駄目だよ、清兄…そんな色っぽい瞳をしちゃ!平静が保てなくなる…っ。
「く、空気清浄機!」
「…は?」
「昔、お父さんが、清兄は空気清浄機みたいなものだって言ってたなぁ…って」
僕の言葉に動きを止めた清兄は、少し眉を寄せて意味を考えたようだった。
「まぁ…俺は審神者だからな。昔は、清い庭と書いて清庭と呼んでいたらしいから。忌み清めた庭って事だ」
「そうだったんだ…」
「審神者に選ばれた者は、程度の差はあれ、皆、いるだけで場の負の気を浄化する力を持っている。俺がお前の筆頭審神者に選ばれた一番の理由は、この力が誰よりも強いからだ」
「そうだったの…?」
僕はてっきり、清兄以外の審神者はいらない、他の審神者じゃ、仕事しないからと、本家の長老達に我が儘を言った結果だとばかり。
「…水音、分かっただろ?今のお前じゃ、父さんの代打は無理だ」
清兄は額に落ちた前髪を掻き上げながら、溜め息を吐いた。
「…そんな事ない。出来る」
無理でもやらないと駄目なんだ。
「水音…」
「約束したんだ。必ず助けるって」
「誰と?」
「柿田優真君」
「…自殺未遂した生徒か」
「何で知ってるの!?」
僕は思わず上半身を起こした。あ、不味い、吐きそう。
「こら、まだ起き上がるな」
清兄は溜め息を吐きながら、僕の背中に手を添えてベッドに戻した。
「…逢ったのか?」
清兄は困った顔をしながら、僕の額に手を当て、慣れた動きで目の状態を確認して、最後に手首の脈を確認した。
「予知夢で視た通りの場所に囚われていたんだ。彼はまだ生きてるのに…このままじゃ、本当に死んじゃうよ」
「彼は今自宅療養中だ。首の頸動脈をナイフで切って死のうとしたが、現場を目撃した生徒によって直ぐに応急処置され、病院に救急搬送されたお陰で一命は取り留めた。傷が治っても、一年経過しても目を覚まさなかったのは、そういう事か…」
何で、そんなに詳しく知ってるの?清兄はサイコメトリーや予知は出来ないはずなのに。
僕の驚いた顔を見て清兄は苦笑を洩らした。
「怪現象の現場に行って、いきなり祓うなんて無謀な事は、プロなら普通しないんだよ」
清兄は僕のおでこを指で軽く弾き、立ち上がった。
僕はデコピンされた額を手で押さえながら、恐る恐る聞いてみた。
「…依頼、もしかして…手伝ってくれるの?」
「手伝わないよ」
「え?」
手伝わないなら、何で下調べなんて?
「不本意だが、俺が代打だ。お前には本家に戻っていてもらう」
まさかの爆弾発言に、僕は目を見開いた。
「や、嫌だ!」
「嫌じゃない。同調が強過ぎるのは危険だ。俺が除霊して片付けている間は、本家で大人しく待っていろ。ここにいては危ない」
「嫌だよ!僕は清兄と離れたくない!一緒にいさせてよ!それに、僕が護るって、約束したんだ」
「水音…お前を危険に晒す事は出来ないって…何度も言ってるだろ?」
「もう、倒れたりしないから…っ」
「…俺はかなり譲歩していると思うよ?俺の為に、本家で待っていて欲しい。直ぐ終わらせて、迎えに行くから」
「嫌だ!」
それじゃ駄目なんだ。僕達二人が一緒にこの依頼を解決しなければ、清兄はドイツであの女と関係を復活させて、僕の番は違う男になってしまうんだよ。
「…嫌だよ…清兄…嫌なんだ…」
僕は馬鹿の一つ覚えのように、嫌しか言えなかった。いっそのこと、僕の想いを告白しようか考えたけど、清兄の反応が怖くて言えなかった。
「水音…泣くな…」
無意識に涙が溢れていたみたいだけど、そんな事に構ってはいられない。
有言実行の男の意志を覆すためには、僕はどうしたら良いのか必死で考えた。考えたけど、効果的な方法は一つしか思い浮かばなかった。
「…清兄…命令だよ…僕は帰らない。貴方の傍にいる」
僕は初めて、清兄に対して命令と言う言葉を使った。
清兄は眉を寄せ、無言で僕を見つめた。
息が詰まりそうな静寂と緊張を、先に破ったのは清兄だった。
「…承知しました。水音様」
清兄の顔には、綺麗な微笑みが浮かんでいた。
僕は…方法を、選択を間違えたのだろうか?
他人へ向ける、余所行きの微笑みは、清兄の本質も本音も感情も全て綺麗に覆い隠した鉄壁だった。
初めて自分に向けられた清兄の、綺麗で冷たい微笑みは僕の心も体も凍りつかせた。
「…有栖川です。入っても宜しいかしら?」
医務室のドアがノックされ、清兄が僕から視線を外してドアを見た。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
清兄がベッドから離れてドアに足を向けた。
真っ直ぐに伸びた綺麗な背筋が、僕を拒絶しているように見えて、僕の瞳からボタボタと涙が溢れた。
泣き顔を見られたくなくて、僕は掛布団を頭から被った。
一面咲き乱れる曼珠沙華の赤に反応して、僕の燻っている心の火が温度を上げて、息苦しくなってくる。
《カナシイ…カナシイ…カナシイ…》
あらゆるカナしみの思念が場の空気を赤く染めて行く。
またこの夢だ…。
ほら、まただ。
少年が泣きながら、咲き乱れる曼珠沙華の花を引きちぎり、自分の口に花弁を押し込んだ。
その細い首筋にナイフを当て、言葉を飲み込んで刃を滑らせた。
鮮血が飛び散る。
俯瞰で視ていた僕は、首に走った痛みに弾かれたように目を開けた。
「…っ」
自分の乱れた呼吸音を数えながら、天井の豆電球に気付いてほっと安堵の溜め息を吐いた。
傍らの愛しい人に視線を向けると、珍しい寝顔が目の前にあって嬉しさに頬が緩んだ。
「清兄…」
僕は我慢出来ずにそっと、清兄の薄めの引き締まった唇に唇を合わせた。
柔らかい…。
見た目より柔らかい清兄の唇が、僕は大好きだ。
橘清音。三十二歳。
主に形成外科を専門に各国の病院を渡り歩く、フリーランスの若き天才外科医だ。
容姿端麗で頭脳明晰。
何でも出来て、望めば何でも手に入れる事が出来る人。でも、富や権力には興味が無い。
職業をモデルと間違えられる、十頭身の長身に、スリムなのに逞しい体はどんな服を着ていても似合って素敵だ。
でも、やっぱりワイシャツに白衣を纏っている姿が僕は一番好きだ。
漆黒の髪は長めだけど、仕事の時は整髪剤でいつも後ろに流しているから、秀でた額が顕になって理知的な美貌が丸わかりだ。
奥二重の切れ長の双眸は漆黒で、日本人にしては高く通った鼻筋をしていて、トレードマークの銀縁メガネが清兄の色気を抑えてくれてる。特に右の目尻の泣きぼくろの色っぽさを隠してくれているから、メガネは外ではマストアイテムなんだけど、手術中はコンタクトにする事もあるから、残念だけど僕だけの秘密じゃ無い。
三十代とは思えない肌の滑らかさは橘家特有の物なのかな?
清兄の寝顔なんて、いつぶりに見るだろうか。
このところ手術が続いていたし、突然の父さんの呼び出しに睡眠時間を削って帰国したから疲労が溜まっていたんだね…。
基本、この人はいつも僕の前では起きている。
病院から帰ってきて、食事をしてお風呂に入って、僕の話し相手をしてくれながら、論文を書いたり医学書を読んだり。
僕は引きこもりで、学校には通っていないから、僕の勉強も清兄が教えてくれている。
僕は生まれた瞬間から実の親から離されて育てられ、橘総本家の奥宮で神子として育てられた。
僕はもう、それは大事に育てられた。
僕の世話をしてくれる巫女達は表面上は皆優しかったけれど、皆僕を怖がっていた。
自分が何を考えているのか、何をしてきたのか全て知られる事が嫌じゃない人間なんていない。
僕だって自分が清兄をオカズに、どんな淫らな想像をしているか知られたら死にたくなる。
小さな頃は今よりも、もっと力の制御が出来なかったから、流れてくる思念にパニックになってよく気絶していた。
今でも制御出来なくて、学校にも行けない引きこもりなんだけど、パニックを起こして倒れたりはしなくなった。たまに過呼吸で、清兄に心配をかけてしまうけれど。
でも、清兄が傍にいる時は力の制御が出来て、他者の思念に押し潰されなくなる。
清兄と初めて逢ったのは、僕が三歳の時だ。
三歳だったけど、今でも鮮明に覚えてる。
学ランを着た銀縁メガネの清兄は、今より少し線が細くて凄く綺麗な少年だった。
清兄は、僕の審神者の一人として紹介された。
一目見た瞬間、清兄が他の人とは違う存在だと感じた。
何より、清兄からは何の思念も、過去の残像も流れて来なかった事に驚いた。
清兄から感じたのは、もの凄い力の塊と、目映い金のオーラだけだった。
今思えば、あれは完全に一目惚れ状態だったんだと思う。
「今何時かな…?」
ふと、外からバイクの音が聞こえてきて、物思いに耽っていた僕は我に返った。
この音は、新聞配達のバイクの音かな…。
清兄に抱き締められて眠れて、僕はとても幸せな気分だった。
出来る事なら、清兄に最後まで抱いてもらいたかったけれど、自分の体にコンプレックスを持つ僕は、我が儘を言って抱いて貰う事が出来ずにいる。
僕が命令すれば、清兄は言う通りにするしかないのを知ってるから、尚更だ。
僕の体は普通じゃない。
両性具有とか、二形とか言われている、一種の奇形だ。
異形と蔑まれて、見世物小屋に売り飛ばされたりはされず、神子として神聖な存在として崇められているから、僕は悪運が強いんだろう。
男の体に、女性器がくっついているなんて、本当に余計な事をしてくれるよ。
しかも子供まで産めるように卵巣と子宮まであるなんて、神様は一体何を考えているんだか。
幸いなのは、僕には女性のようなバストが無い事だ。女性器だけなら、見た目はちょっと女っぽい男に見えるだけだから。
小さい頃は自分が変だなんて思ってなかった。でも成長していくにつれ、自分の体の異質さに嫌悪感を抱くようになった。
十五歳の時に初潮を迎え、劣情って感覚を実感した時が、一番自分史上最も自分に絶望した時だったな。
だって、欲望の対象が清兄だったんだから…最悪だよ。
ずっと大好きだったけど、淡い恋心的な?そんな憧れの対象だと思っていた清兄に、僕は抱かれたくて気が狂いそうになった。
三ヶ月我慢したけど、恋患いみたいに飲む事も食べる事も出来なくなって、しまいには、いつもは引っ掛かる事なんて無い低級霊の思念に飲まれて、手首を切って自殺未遂まで起こしてしまった。
清兄は僕が、自分の体に悩んだ末に魔に取り込まれたと思っていた。だから、僕の体を綺麗だと言って抱き締めてくれた。
本当の理由は、自分が清兄に抱かれたがっている変態だって事が分かって絶望していたんだけど、怪我の功名って言うのかな?結果的に、定期的に愛しい人に触れて貰える僥倖を手に入れる事が出来た。
未だに最後まで抱いては貰えていないけど、このまま何事も無ければ、僕は清兄を配偶者として手に入れる事が出来る。
僕は清兄のお陰で、この体である事を幸運だと思えるようになった。
「…そのためには、ドイツに早く戻るわけにはいかないんだ…」
深く眠る清兄の額にそっと口付けて、僕は名残惜しいけれど布団から出て身支度を始めた。
私立秀栄学院は、秩父の山奥にある学校だ。今から出たら、きっと早朝の誰もいない学院内を視る事が出来る。
僕にとっては人が少なければ少ない程、調査がしやすくなるし、暴走のリスクを減らせる。
「清兄…ごめんなさい…行ってくるね」
清兄は有言実行の人だ。ノーと言ったら絶対にノーの人だから、僕が頼んでも依頼を肩代わりする事は絶対にしない。
何故なら、僕が危険に晒されるリスクがある事は絶対にしないからだ。全ては僕のためな事は分かっている。
けれど、僕には僕の事情がある。
例え自分にリスクがあっても、愛しい人を他の女に奪われるくらいなら危険な目にあってでも阻止する。
デイパックに必要な物を準備し、音を立てないようにそっと部屋を後にした。
一階に降りると、居間に明かりが点いていて、そっと襖を開けるとお父さんが荷物の準備をしていた。
「お早う、水音。早いねぇ」
「うん…お父さんも出るの?」
「水音が依頼を受けてくれたから、僕はこれから一軒目の依頼を片付けてくるよ。それに、水音が出て行った事に気付いて、怒り狂う清音と対峙したくないからね」
お父さんはニコニコ笑いながら本当の事を教えてくれる。
流石は橘家でも指折りの能力を持つお父さんだ。しっかり思念の制御はした上で、本心を口にする。
この人は、基本的に本音しか口にしないから、僕も傍にいて疲れないんだ。
「学院側には、僕の事伝えてくれているよね?」
「勿論!僕の優秀な息子が代わりますって、伝えているよ。あ、あと、学院では手伝いとして生徒会長の有栖川万里君を付けてくれるそうだよ」
「有栖川万里?聞いた事が…あ、藤堂の…?」
「当たり。よく覚えてたね」
藤堂とは、藤堂グループの事だ。
政財界に多大な影響を及ぼす、日本でも五本の指に入るコングロマリット。
僕の二代前に橘家のトップに据えられていた巫女が、橘一族以外の無能力者の男と結婚した。その相手が藤堂グループ総帥だった。
有栖川万里は確か、その総帥と巫女様との間に出来た子供の子供だったはず。
「逢った事は無いけど、清兄が元旦恒例の藤堂一族親睦パーティーに出席した時、挨拶したって言ってた人だ」
「万里君は親族の一人として、水音の事知っているみたいだよ。とても優秀な少年らしいから、困った事があったら彼に相談するようにって」
「分かった」
「じゃ、行こうか?学院までは僕が連れて行くよ」
お父さんは荷物を手にして立ち上がった。
五十代には見えない黒いジーンズに黒いシャツという、全身黒ずくめの格好をお父さんはしていた。スタイルが良いから格好いいけど、この人を見て神社の宮司とも霊能者だとも見えないよね。
「良いの?タクシー呼ぼうと思ってたんだ」
「通り道だしね。流石に移動まで水音を一人でさせた事を清音に知られたら…半殺しだよ…怖い怖い」
お父さんは本当に怖いらしく、腕を擦りながら居間から出て行った。
僕は慌てて清兄に置き手紙をして、居間の電気を消してから玄関へ向かった。
ガスの元栓、電気の消し忘れ、戸締まり良し!
まだ暗い神社の境内をお父さんと歩き、石畳の階段を降りて駐車場にある赤い軽自動車に乗り込んだ。
「では、出発進行~」
動き出す車のサイドミラーを見て、遠ざかる家を見つめた。
五歳から九歳までは、僕はあの家で育った。
外に順応出来なくて、情けなくて泣いてばかりいた僕を大らかに見守ってくれたお父さん。
医学部の学生だった清兄は忙しくて、日中の僕の相手をしてくれていたのはお父さんだった。沢山遊んで貰ったなぁ。
でも、今思えば、清兄は大学から帰宅した途端に僕とお父さんの世話をしなくちゃいけなくて、大変だったんじゃないかと思う。お父さんは、家事能力が無くて、本当に僕の世話しかしなかったから。
その頃のお父さんはほぼ家にいて、働いているようには見えなかった。
一体お金はどう工面していたんだろう?
「ねぇ、水音。何でこの依頼を受ける気になったの?」
「…予知夢を視たから」
「嘘が下手だなぁ。言いたくないなら、無理には聞かないよ」
車は暗い住宅街を抜け、幹線道路に出た。車は殆ど走っていなくて、僕達が乗った車はスイスイ進む。
お父さんはハンドルを右に切りながら笑った。
「…半分本当。…あのままドイツに居たら、清兄、三年前に関係があった女とまた関係が復活する未来が視えたんだ」
未来予知は、僕の能力の一つだけど、清兄の過去や未来を直接視る事は無い。出来ないと言った方が良いのかな?
僕は定期的に清兄の診察を病院で受けていて、あの日も診察が終わって清兄と家に帰ろうとしていた。病院のロビーでブロンド、碧眼のゲルマン民族全開の美女に清兄が呼び止められた時に、突然能力が発動した。
恐らく、清兄じゃなくて、僕が視たのはあの金髪美女の未来なんだろう。
同時に過去知まで発動して、知りたくも無い清兄と女の過去の情事のあれやこれやが脳に飛び込んで来て叫びたくなった。
女は清兄に未練タラタラで、強過ぎる感情に当てられて気分が悪くなって、また清兄を心配させてしまった事まで今思い出してしまった。
「おや、それは、中々面白い展開だね」
「面白く無いよ。清兄は僕だけの清兄だ。今更誰かに渡したりするもんか」
二形である事も、この人外の能力を受け入れられるようになったのも、清兄がいてくれたからだ。
いずれ清兄が僕の番となってくれると分かったから、僕は神子でいる事を受け入れたんだ。
「ふふふ…水音は本当に清音が好きなんだね」
飾らないお父さんの言葉に赤面したが、僕は頷いた。
男とか女とか関係無く、僕は橘清音という存在が堪らなく愛しい。
彼が僕を僕のまま受け入れてくれるなら、こんな幸せな事は無いけど、清兄の本心はどうなんだろう?家族として愛してくれてるのは分かるけど、僕と同じ気持ちでいるのかが分からない。
こんな時、清兄の思念だけ読めないのが苦しい。
もし僕が女だったら、清兄に躊躇無く想いを伝えられただろうか?
逆に二形じゃない、ただの男だったら告白できただろうか?
いや…多分無理だ。年齢は十五歳差。僕はニート。清兄は医者。
そもそも接点がなくて、人生がすれ違う事さえ無かっただろう。
そう考えた時、やはり全ては僕が二形であったからという事に終始する。
この体を受け入れるのは時々まだ苦しいけれど、清兄が僕の傍にいてくれるなら悪くないと思える。
「…まぁ、紆余曲折あった方が燃えるからね。沢山悩んで足掻きなさい」
「お父さん…他人事だと思って」
「他人事だからね」
「実の息子の事だよ?」
「息子達だよ」
「あ…」
お父さんはまた大らかに笑い、僕の頭を軽く撫でた。
「…皆、真面目だね。相手の事を考え過ぎてる」
「…お父さんは、僕が清兄を好きな事、気持ち悪いと思わないの?嫌じゃない?」
「清音は魅力的な男だ。水音が好きになるのは分かるよ。人が人を好きになるのに、気持ち悪いなんて思うわけ無いだろ?」
「だって…僕…男だよ?」
「だったら何?」
「えっと…だって、普通、恋愛感情とか性的欲求って、異性に向けるモノでしょ?」
「普通の概念は、ようは多数決って事。異性に対してそうなる個体が多いってだけさ」
「じゃ、やっぱり普通じゃないよ」
「少数派なだけさ。それに、水音は、清音が男だから好きになったの?」
お父さんの問いに僕は首を横に振った。
「清音だから惹かれた。好きな人だからセックスしたい。これ、自然な事でしょ?」
お父さん…。言葉がストレート過ぎて恥ずかしいよ。僕は引きこもりだから友達がいない。だから、僕の恋愛相談相手は昔からお父さんだった。この人、本当に自由人だから、こんな話も普通に出来てしまうのは有難い。
「…なるほどねぇ…、しかし、清音も忙しいくせにやることはやってるんだな。流石、出来る男は違うな」
お父さん、妙な関心の仕方をしないで欲しい。確かに言う通りなんだけど。ああ、嫌だ、また思い出してしまった。清兄の過去を視る事が出来ても、僕はもう視たくない。嫉妬で死んじゃうよ…。
「道は空いてるから、予定より早く着きそうだけど、まだかかるから寝てて良いよ」
「…うん」
寝るとまた、あの夢を視るから嫌なんだよな…。
「どうしたの?寝たくないの?」
「…ちょっと感応が強くて…感覚も同調してるから、正直余り眠りたくないんだ」
夢の中の少年が首をナイフで切る度に、僕の首も痛むんだ。同調し過ぎるのは余り良い傾向じゃない。下手すると、実際に僕の首は切れるし、血も流れる。
「寝なければ大丈夫だから、問題無いんだけど」
「う~ん…。ちょっと危ないかな?一番危なくなさそうなのをふったんだけど、違う依頼に変えようか?」
「いや、駄目なんだ。清兄とあの女性の未来を断ち切るには、僕がこの依頼を受けなければならない。他の依頼だと、未来へ進む道が繋がってしまうから」
ヘッドライトに照らされた、薄暗い道路を見つめながら、僕は首を横に何度も振った。
「…本当に危ないと思ったら匙を投げる事。深追いしちゃ駄目だよ?分かってるね?」
凄く心配してくれてるね、お父さん。でも止めないでいてくれる…。ありがとう。
清兄が傍にいなくても、一人で依頼の一つや二つ片付けてみせる。僕は神子だ。崇められるだけの力は十分あるんだから。
「うん…分かってる。大丈夫だよ、お父さん」
助手席から、夜が明けて空が白んでいく様子をじっと見つめた。
車に乗っていても、誰のか分からない思念が流れてきては消えていく。
夢は見ていないはずだけど、頭の片隅に曼珠沙華の朱が散らついて、僕は眉を寄せた。
物理的な距離が近くなると、思念も拾いやすくなる。
大丈夫。僕はやれる。
僕は膝に置いた手を強く握った。
車は快調に目的地に向かって走った。
「…ここが名門秀栄学院か…」
青銅の門は高く、赤茶けた煉瓦の塀も高くて全く中の様子が見えなかった。
十月の早朝五時はまだ薄暗いけど、正門にはちゃんと警備員がいる。山奥の田舎に警備員が必要なのかは疑問だけど。
正門まで車で連れて来てくれたお父さんから、僕は別れ際に秀栄学院の理事長の名刺を渡された。
正門の警備員に名刺を渡して名乗ると、一分程待たされて中に通された。
敷地の中は広かった。
外からの塀の長さから、広大な敷地をイメージしたけれど、想像以上の広さだった。
学院は明治に建てられた物らしく、瀟洒な洋館で、何処かの貴族の別荘みたいな雰囲気だ。
「土地自体は悪くないのに…何故こんなに禍々しい気配が漂っているんだ?」
澱んだ気の塊がそこかしこに漂って、視える僕には余り足を踏み入れたくない場所だ。
僕は正門から続く煉瓦が敷かれたアプローチから外れて、何度も視た夢の場所を探しに思念を追った。
あらゆるカナしみを内包した思念は、僕を呼んでいるようだった。
「凄い…壮観…」
校舎の裏にある雑木林を抜けると、一面曼珠沙華が咲き乱れる野原のような場所に出た。
《カナシイ…カナシイ…カナシイ》
ああ、ここだ。夢の通りだ。
「…君は誰?」
薄い茶色の髪と瞳。卵形の小さな顔。赤い唇。
光沢のあるグレーのシャツに、黒いネクタイ。黒い三つ揃えの制服。これは秀栄の制服だ。
野原の真ん中に佇む少年は、少女のように可愛らしい顔で微笑んだ。
まるで生きているように見える少年の姿だけど、生身の人間では無い。
《やっと…来てくれた…》
「僕を呼んでたね…」
《…彼を…助けて…》
「彼?」
《助け…て…》
ああ、駄目だ、混線する。
少年の思念だけ拾いたいのに、どんどん違う思念が流れ込んでくる。
あ、そうか。周期中なんだから、いつもより制御が利かないんだった。
今回は何日後に生理が始まるんだ?
ハッキリ言って、僕の生理痛は重い方だ。早めに解決しないと、色々厄介な事になりそうだ。
僕は神経を集中させ、片膝を突いて地面に手を置いた。
この場所の残留思念から、少年の思念だけを拾って情報を集める。
ああ…最悪だ…気持ち悪い…流れてくる思念の渦に吐き気けがする。
清兄がいれば、さくっと知りたい情報が分かるのに。
背中に嫌な汗が出る。額にも脂汗。噎せ返る花の匂いに目眩がしてきた。
「…おい!君!ここは立ち入り禁止だぞ!何をやってる」
背後から厳しい声を掛けられて、僕は顔から表情を消して振り返った。
僕に声を掛けたのは、秀栄の制服をカッチリと着こなした少年だ。
背が高く、中々逞しくて顔も整っている。髪も黒くて学生らしく綺麗に切り揃えられて、好感が持てるよ。真面目で、本来は明るくて気さくな人柄のようだけど、僕を凄く警戒しているね。
彼の過去が僕の中に流れ込んで来る。
曼珠沙華の少年の姿が見える。二人には、何か関係があったようだ。二人は恋仲だった?二人のキスシーンは、中々綺麗で視ていて嫌じゃないな。その後、何かがあったんだね?少年の自殺未遂は自分のせいだと思ってる…。
「おい!聞いてるのか…?!」
応えない僕に苛立っているのは分かるけど、もう少し君の過去を見せて。
「おい!」
少年が僕の肩を掴んだ。
駄目だ、触れないで、君の思念を拾ってしまう。
「…駄目…だ」
「えっ!」
脳がぐるぐる回って吐き気を我慢出来ない。僕は地面に両膝を突いて吐いた。
「ちょ!だ、大丈夫か?!」
不審者がいきなり吐き出したら、それは驚くよね。ああ、でも、君はいい奴なんだね。僕を心配してる。でも、困ったな。意識が持たない。開始早々これでは、一人で解決なんて無理だ…。清兄…。
気絶するのは慣れている。
今回はうっすら意識を失うパターンだ。
少年が倒れそうになった僕を支えてくれたところで暗転したように意識は途切れた。
「…さて、詳しく話を聞かせてくれる?」
僕の意識は途切れ、体は今少年によって運ばれている。どうやら学院の医務室に運んでくれたようだ。
今の僕は幽体だ。
幽体の僕は曼珠沙華の野原に佇んだままだ。
このまま幽体でいると、本当に死んじゃうから早々に自分の体に帰らないといけないけど、この状態の方が今は話がしやすいのは確かかな?
「あ…あの…まさか、貴方も死んだんですか?」
曼珠沙華の少年、いや、柿田優真君が、顔を蒼白にして慌てている。
思念を読めば、聞かなくても個人情報はゲット出来る。
「死んでないよ、柿田君。君もね」
「え?どういうこと?」
「君は生き霊。まだ魂と体は繋がっているけど、凄く薄くなってる。早く戻らないと本当に死んじゃうよ?」
僕の言葉に衝撃を受けたみたいだ。呆然と僕を見上げる大きな茶色の目が、とても魅力的だ。
「君とさっきの彼、柿ノ本和真君は、恋人同士だったのかな?」
「こ、恋人?な、な、なんの事?ぼ、僕達男同士だよ!そんなわけ!」
うわぁ、凄く嘘をつくのが下手なんだね。可愛いなぁ。
「キスはしても、恋人じゃないのかい?」
「何で、それを!」
柿田君は赤くなったり青くなったり、表情を信号のように変えて忙しい。
「僕は神子なんだ。何でもお見通し。中等部から入学した君に親切にしてくれた柿ノ本君と友達になって、それから彼に恋心を抱くようになったんだね」
何でも知っているわけじゃないけど、過去知をしながら、ここはハッタリをかますところかな。
言い当てられて、柿田君は金魚のように口をパクパクさせている。
「高等部に持ち上がって、柿ノ本君に告白されて、キスされた。それを…誰かに見られたね?」
その後の情報は、混線して分かりにくい。知られたくないから、無意識にフィルターが掛かるんだ。
「お願い…誰にも言わないで」
柿田君は目を潤ませて、凄く分かりやすく震えている。ああ…なるほどね。目撃されて、そいつに脅されたんだね。
「大丈夫。言わないよ。でも、恥じる事は無い」
「恥じてるわけじゃない…、でも、知られたら彼に迷惑が掛かるんだ」
「迷惑?何の?」
視え難い…。知られたくないんだね。でも、大体分かったよ。君は彼を護りたくて死を選んだ。
「柿田君。起きたら全てが、良くなっている。だから自分の体に戻って」
僕の言葉に彼は首を横に振った。
「戻れないんだ…この場所から動けない…だから、僕はもう、死んでるんだと思ってた…」
動けない?不味いな…土地に呪縛されかかってる。ここの土地は、悪い土地じゃないはずなんだけど…確かに、ここに足を踏み入れた時のあの禍々しい気配は、尋常じゃない。
僕もそろそろ戻らないと不味いかもしれない。
「僕は一旦体に戻るから、君は諦めずに自分の体に戻りたいと念じ続けて」
「戻っても…良いのかな…戻れるのかな…」
「諦めたらおしまいだよ…僕が必ず君を助けるから」
「…ありが…とう…」
柿田君は泣き笑いを浮かべた。
僕は彼を安心させるように微笑み、自分の体に戻ろうとして帰り道を見失った。
「…不味いな」
気付けば僕は負の塊に取り囲まれていた。曼珠沙華が咲き乱れる野原にいたはずだけど、一面闇が落ちた空間にいて、更に濃い負の闇に取り込まれようとしていた。
僕は力業が苦手なんだ。制御が出来ないから力を放出し過ぎて死にかけた事が何度もある。
霊を祓うのも、諭して納得させる浄霊は得意だけど、問答無用で消滅させる除霊は苦手なんだ。
闇の触手が僕に伸びてくる。
人差し指と中指を揃えて立てる剣印を結び九字を切るけど、圧倒的に僕は不利だ。
思うように力が入らない。
清兄…清兄…助けて…。
闇に押し潰されそうになったその瞬間、眩い閃光と共に、抜けた力が戻って来て光に向かって腕を伸ばした。
清兄!
「水音!」
鼓膜が痛むほど大きく名前を叫ばれて、僕は目を見開いた。
目の前には、清兄の理知的な美貌があった。
「…え?…何…?」
僕は呆然と、いるはずのない清兄の大好きな顔を見上げた。
「…水音…良かった…」
清兄は一度安堵の吐息を洩らすと、僕の体を痛いくらい強く抱き締めた。
いつも隙の無い清兄が、髪もシャツも乱して僕を抱き締めている。その逞しい体は少し震えていて、清兄がどれ程僕を心配してくれていたのか分かった。
「ごめんなさい…清兄…ごめん…」
「…後でお仕置きだから、覚悟しておけ」
お仕置き…?何?どんな?
僕は恐る恐る清兄の顔を目だけ動かして見ると、綺麗な悪魔の微笑みが浮かんでいて、僕の背筋が凍った。
不味い、ヤバイ、この顔は相当怒ってる。
「まったく…目が離せないな…」
清兄はベッドに乗り上げるようにして僕を抱き締めていた腕をほどいた。
「まだ寝ていなさい」
清兄は掛布団を僕の肩まで引き上げながら掛けてくれた。
僕はゆっくり首を動かして、ここが学院の医務室である事を確認すると、強張っていた体から余計な力が抜けて行った。
さっきの閃光は、清兄の力だ。僕の霊を辿って力を注いでくれたんだろう。
「どうして…?」
実家にいるはずの清兄が、何故こんなところにいるのか不思議だった。
「どうして?追いかけたからに決まっているだろ?」
清兄が飽きれた顔で僕を見た。
「今何時だと思ってる?午後一時を過ぎたところだ。お前は倒れたんだ。覚えているか?」
「午後一時?そんなに…?」
「…今の体調で依頼を解決するなんて無理だ。だいたい、お前は霊能者じゃないんだから、幾ら力が強くたって素人と同じなんだから」
「…でも…」
「とにかく…一度この場所から出るぞ。こんなところにいたら、お前の気がおかしくなってしまう」
僕がまた魔に飲まれて死のうとするかもしれないと、心配してるんだね。
「…清兄にも視えるの?」
「当たり前だ。これ程、負の気が澱んでいるのは普通じゃない。低級霊も、これだけ集まれば怨霊になれる」
確かにそうだ。
でも凄い。清兄がいるだけで、場が浄化されたように負の気が祓われていく。
息苦しかった呼吸も、気付けば楽になっている。ふと、昔お父さんが言った言葉を思い出して、思わず僕は微笑んでしまった。
「水音?どうした?」
「あ、ごめんなさい、何でもない」
「何でもなくは無いだろ?人の顔を見て何を笑ってる?」
清兄はベッドの端に座って僕の顔の横に手を突くと、ゆっくり顔を近付けてきた。珍しくワイシャツの襟元が緩められてて、鎖骨がチラチラ見えてるんだ。額に前髪が落ちてて、メガネの奥の泣きぼくろに釘付けになった。
駄目だよ、清兄…そんな色っぽい瞳をしちゃ!平静が保てなくなる…っ。
「く、空気清浄機!」
「…は?」
「昔、お父さんが、清兄は空気清浄機みたいなものだって言ってたなぁ…って」
僕の言葉に動きを止めた清兄は、少し眉を寄せて意味を考えたようだった。
「まぁ…俺は審神者だからな。昔は、清い庭と書いて清庭と呼んでいたらしいから。忌み清めた庭って事だ」
「そうだったんだ…」
「審神者に選ばれた者は、程度の差はあれ、皆、いるだけで場の負の気を浄化する力を持っている。俺がお前の筆頭審神者に選ばれた一番の理由は、この力が誰よりも強いからだ」
「そうだったの…?」
僕はてっきり、清兄以外の審神者はいらない、他の審神者じゃ、仕事しないからと、本家の長老達に我が儘を言った結果だとばかり。
「…水音、分かっただろ?今のお前じゃ、父さんの代打は無理だ」
清兄は額に落ちた前髪を掻き上げながら、溜め息を吐いた。
「…そんな事ない。出来る」
無理でもやらないと駄目なんだ。
「水音…」
「約束したんだ。必ず助けるって」
「誰と?」
「柿田優真君」
「…自殺未遂した生徒か」
「何で知ってるの!?」
僕は思わず上半身を起こした。あ、不味い、吐きそう。
「こら、まだ起き上がるな」
清兄は溜め息を吐きながら、僕の背中に手を添えてベッドに戻した。
「…逢ったのか?」
清兄は困った顔をしながら、僕の額に手を当て、慣れた動きで目の状態を確認して、最後に手首の脈を確認した。
「予知夢で視た通りの場所に囚われていたんだ。彼はまだ生きてるのに…このままじゃ、本当に死んじゃうよ」
「彼は今自宅療養中だ。首の頸動脈をナイフで切って死のうとしたが、現場を目撃した生徒によって直ぐに応急処置され、病院に救急搬送されたお陰で一命は取り留めた。傷が治っても、一年経過しても目を覚まさなかったのは、そういう事か…」
何で、そんなに詳しく知ってるの?清兄はサイコメトリーや予知は出来ないはずなのに。
僕の驚いた顔を見て清兄は苦笑を洩らした。
「怪現象の現場に行って、いきなり祓うなんて無謀な事は、プロなら普通しないんだよ」
清兄は僕のおでこを指で軽く弾き、立ち上がった。
僕はデコピンされた額を手で押さえながら、恐る恐る聞いてみた。
「…依頼、もしかして…手伝ってくれるの?」
「手伝わないよ」
「え?」
手伝わないなら、何で下調べなんて?
「不本意だが、俺が代打だ。お前には本家に戻っていてもらう」
まさかの爆弾発言に、僕は目を見開いた。
「や、嫌だ!」
「嫌じゃない。同調が強過ぎるのは危険だ。俺が除霊して片付けている間は、本家で大人しく待っていろ。ここにいては危ない」
「嫌だよ!僕は清兄と離れたくない!一緒にいさせてよ!それに、僕が護るって、約束したんだ」
「水音…お前を危険に晒す事は出来ないって…何度も言ってるだろ?」
「もう、倒れたりしないから…っ」
「…俺はかなり譲歩していると思うよ?俺の為に、本家で待っていて欲しい。直ぐ終わらせて、迎えに行くから」
「嫌だ!」
それじゃ駄目なんだ。僕達二人が一緒にこの依頼を解決しなければ、清兄はドイツであの女と関係を復活させて、僕の番は違う男になってしまうんだよ。
「…嫌だよ…清兄…嫌なんだ…」
僕は馬鹿の一つ覚えのように、嫌しか言えなかった。いっそのこと、僕の想いを告白しようか考えたけど、清兄の反応が怖くて言えなかった。
「水音…泣くな…」
無意識に涙が溢れていたみたいだけど、そんな事に構ってはいられない。
有言実行の男の意志を覆すためには、僕はどうしたら良いのか必死で考えた。考えたけど、効果的な方法は一つしか思い浮かばなかった。
「…清兄…命令だよ…僕は帰らない。貴方の傍にいる」
僕は初めて、清兄に対して命令と言う言葉を使った。
清兄は眉を寄せ、無言で僕を見つめた。
息が詰まりそうな静寂と緊張を、先に破ったのは清兄だった。
「…承知しました。水音様」
清兄の顔には、綺麗な微笑みが浮かんでいた。
僕は…方法を、選択を間違えたのだろうか?
他人へ向ける、余所行きの微笑みは、清兄の本質も本音も感情も全て綺麗に覆い隠した鉄壁だった。
初めて自分に向けられた清兄の、綺麗で冷たい微笑みは僕の心も体も凍りつかせた。
「…有栖川です。入っても宜しいかしら?」
医務室のドアがノックされ、清兄が僕から視線を外してドアを見た。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
清兄がベッドから離れてドアに足を向けた。
真っ直ぐに伸びた綺麗な背筋が、僕を拒絶しているように見えて、僕の瞳からボタボタと涙が溢れた。
泣き顔を見られたくなくて、僕は掛布団を頭から被った。
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