社内恋愛はじめました。

柊 いつき

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85.worry②

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モヤっとした気持ちのまま果物を剥き終えた私は、シンク内を片付けタオルで手の水滴を拭う。以前みたいに彼に対する不安はないけれど、以前より確実に藤澤さんの事を好きになっているから、彼の方も同じであって欲しいという贅沢な悩みが生まれてしまっていた。

自分の恋愛経験のなさの悩みゆえ、この気持ちの持って行きどころが分からない。

...さて、食器洗いを終わったし。やる事は多分終了。

藤澤さんの熱は高そうで意識も朦朧としていた。田山さんの代わりに私が来た事を覚えていないかもしれないから、手帳の白紙ページに私が代わりにここでした事をメモ書き。破いてそれを置手紙にする。

そうすれば、後で彼が起きた時に確認できるかと思った。それから帰る前に最後の様子見で、寝室に音を立てないように入る。

「...寝れてますか?」

独り言のような問いかけに彼の反応はなし。ちゃんと寝てる?と心配になった私はすり足みたいにして彼のベッドへと近づく。枕元で床に膝をついて座ると、思った通り彼はスヤスヤと寝息を立てていた。

顔色を見るとそんなに悪くはなさそうだけれどと、じっくり眺める。
 一緒に寝たことはあるけれど、彼の寝顔をこんな風に眺めるのは2回目。あの時は絶賛片想い中だった。寝てても、大人の男性として色気を感じてしまうなんて、ズルいと思ってしまう。

...藤澤さんって何で女性に嫌われているなんて思うんだろ...?こんなに綺麗な顔立ちなのに。それを言うなら、デリカシーのない松浦の方がよっぽど。

男性に使う形容詞ではないと思うけれど『高嶺の花』という言葉が似合う人。私は一方的ならこんな風にいつまででも見ていられる。でも、もうそろそろ帰らないとと思うと、彼の額の冷却シートが剥がれかかっていたのが目についた。

...最後にもう一仕事。

古いのを剥がして、箱から出した新しいものと交換する。そして、ピタリとくっつくように自分の手で軽く圧着すると手が伸びてきた。

「...なに?」

額を触れられて意識が覚醒したのか、額にのせられた私の手を掴みながら問う。彼の手は熱のせいか温かかった。いきなりの事に心臓の鼓動がバクバクと速くなる。それは彼の体温を久しぶりに感じてしまったからかもしれない。

「あ、いや...シート剥がれそうだと思ったので張り替えを。もう、帰りますから...」

ドキドキするのを必死で抑え説明しても、手をはなしてもらえず。それどころか。

「...ごめん。頼むから...まだ、帰らないで欲しい」

掠れた低い声でお願いされてしまい、私の方からは振りほどく事が出来なかった。

「手を...はなして下さい...」

そんな私の訴えは聞いてもらえず。

「...はなしたら、すぐに帰るつもり?」

ますます力強く掴まれ、熱のせいか彼は力の加減ができないようで。いつもの理性的な行動とは明らかに違っていた。こんな感情を露わにする藤澤さんは珍しく、それだけ情緒不安定なのかなと思えた。私は空いている方の手で、彼の手をゆっくりと剥がしにかかる。

「大丈夫です。手をはなしたからといってすぐに帰りません」

「...でも」

それでも手はしっかりと掴まれてしまい、離してはくれなさそう。
私は振りほどくのを諦め、されるがままになっていた。

「藤澤さんが安心して眠るまで、ここにいますよ」

彼はその言葉に口元で小さく笑い、掴んでいる手を少しだけ緩めてくれた。

「...本当に?」

その姿は無邪気な子供のよう。私も彼をもっと近くで見ていたくて、ベッドの枕元の方へ頬を寄せてみる。目線が同じ高さにになって隣で寝ているような体勢になった。

「...今日の藤澤さん、可愛い」

「ん?それは褒めてるの?けなしてるの?」

流石に男性に「可愛い」はなかった。そこは熱があっても気になったらしく、喰い下がられてしまう。

「...褒めても貶してもないですよ。ただ、可愛いって思ったんです。それだけです」

「可愛いか、なぁ...?」

そんな私の言い分は彼にとっては理解しがたいらしい。そういう流れでこの話はこれでおしまい...だと思ったけれど。

「優里に可愛いと思われるのは悪くないな。今なら何でも我儘聞いてもらえそうだ」

いつもと違って少し弱気な発言をする彼の笑みは儚げで、そんな彼に母性本能をくすぐられる。

「少しぐらいなら良いですよ。我儘言う藤澤さんも見てみたいです」

「...じゃ、一つ聞いてもいい?」

「はい、何ですか?」

握られている手に再び力が込められて彼の強い意志を感じる。多分、それは私の気のせいではなかった。

「...どうして、この間は逃げるようにして帰ったの?」

さっきみたいなあどけなさとは一変。その切れ長の目で射るような視線の前では何もかも見透かされるような気になる。

「それは...」

別にやましい事をしているわけではなかったけれど言葉に詰まってしまった。それを藤澤さんはどう捉えたのか、彼の表情が曇る。

「もしかしたら、バレンタインで、その...俺に抱かれた事を後悔している?」

「え?...」

私の「初めて」を経験豊富な彼がそんなに気にかけてくれていたのが、意外だった。それは熱があるから聞けた本音で、私がその言葉に嬉しくないわけがない。

「あの日の事は決して後悔していません。素敵な想い出になりましたから」

「本当?」

「本当です」

「なんだ。俺の思い過ごし...か」

彼が安堵のため息を吐くと掴まれていた手が緩められる。その無邪気で無防備な表情は、いつも会社で眼鏡越しに見える穏やかな笑顔よりも幼く。

...藤澤さんって意外と可愛い?

また新たな一面を発見して口元が緩むのを止められない。それが彼には筒抜けだった。

「あ!今、子供っぽいって思ったろ?」

「...いや、その」

返答に困ると、今度は拗ねられた。

「あのね。男って単純でデリケートな生き物なんだよ。そういうとこ、優里は全然分かってくれないし」

「そんな事は...」

ないとは言い切れない私の頰を、彼はいつもみたいに撫でてくれる。

「ごめん、困らせるつもりはなかった。ただ、俺ばかり浮かれたのかなって...」

言葉足らずな私に藤澤さんも不安だったのかと思うと、ズキンと胸が痛む。

「私も休み明けは気持ちがフワフワして浮かれてしましたよ。多分...」

「...それなら、次も俺とって考えてもらえる?」

その直球なお願いには少々戸惑ってしまったけれど、彼以外に考えられない。素直にそこは頷くと彼は「良かった」と小さく笑い、目を閉じた。私もつられて手を握ったままでいたら、しばらくそこで寝てしまう。

気がつくと真夜中になっており、いつの間にかかけてあった毛布と一緒にソファーへと移動すると、もうひと眠り。翌朝早く、熟睡している藤澤さんを起こさないように出社した。

その出かけに、彼の頰に自分からキスを。
以前の私だったら絶対できなかったことだった。

これは2人の距離が確実に近づいた今だからこそできた、おまじないのようなもの。
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