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29.異変
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有人観測が始まって、雪景色は変わらないながらも暦の上では春に入った。
この春を超えれば雪は止む。そうすれば新しいドームは完工と見なされ、夏になれば開拓隊の移住が始まるだろう。
調査資料をまとめながら、ふと窓の外を見る。
少し前まで一日中途切れること無く降り続いていた雪が随分とまばらになっていた。
「もうすぐだな」
夏に入って本格的にディルクロが訪れれば――ラズリウ王子とのお試し期間も終わる。ようやく婚約者という立場を強いてきた状況から解放することが出来る。
元気にしているだろうか。スルトフェンとの時間をきちんと持てているだろうか。変に遠慮して家族の無茶振りに振り回されていないだろうか。
思い浮かぶのは、そんなとりとめのない事ばかり。
調査の段取りを理由にして、ゆっくり話すことを避けてきたけれど。いよいよ逃げる猶予が無くなってきた。戻ったらきちんとこれからの話をしないといけない。
君の気持ちを優先すると。どんな選択をしても、必ず味方で居ると。
「……問題はその後だが」
ラズリウ王子が婚約者候補から外れれば、当然次を選べと連日詰められる未来が待っているだろう。
彼はグラキエにそっと合わせてくれていたから好きに行動出来ていたけれど、恐らく他の人間ではそうもいかない。
ドームを広げる作業だって、重要性は理解しても全面的に応援をして貰える事は難しいだろう。取り掛かっている間、どうしても相手を放置してしまう事になるのだから。
それでも我慢してくれていたのは彼が王子で、ある意味この婚約話で国交を背負っているからだ。
けれど、もうすぐ甘やかしてくれる婚約者は居なくなる。割り切った関係を築いてくれる相手を本気で探さなければならない。
考えれば考えるほど痛い。頭も……目の奥も。
「お疲れさん」
考え込んでいたせいか、広間に自分以外の人間が現れていた事に気付かなかった。
目の前に立っていたのはこのチームのリーダーを務める壮年の男。幼い頃から研究所に入り浸っていたという筋金入りの魔法技術研究者だ。まだ研究員になる前、こっそりやって来ていたグラキエを研究所に入れてくれていた恩人でもある。
差し出されたカップを受け取り口を付けると、少し甘さの強いココアだった。冬の入りにラズリウ王子と訪ねた時の事を思い出して少しだけ胸が痛くなる。
「吹雪の峠も越えたようだ。もう少しだぞ」
「……あとは雪解け水の辺りだろうか」
「そうだな、そろそろ最後の正念場だ」
夏が近づいて雪が溶ければ水になる。風で空に舞う雪と違って、水はただただ道を求めて地面を這い回る。雪が圧し固められた氷を連れてぶつかってくる水の重みに耐えられなければ、ドームの中に人は住めない。
冬の雪と氷だけが危険なのではないのだ。暴風雪で損耗が蓄積した箇所へダメ押ししてくるのが春の水だとこの男に教わった。彼は友の命をもって、それを学んだのだと言っていた。
今は現状に集中しなければと思い直した直後、バタバタと慌ただしい足音が近付いてくる。
「リーダー! 北西の圧力装置で異常が出てる!」
その声でぴりりと、俄かに緊張が走った。
ドームの各地に取り付けた器機は、観測塔の機械室にある装置へ四時間おきで記録を送ってくる。
しかし異常値があれば例外的に即時発報するようになっていた。分かるのは異常があると思われる状況のみで、細かい数値の変動は現地のログを取り出さなければならないけれど。
「定期ログでおかしな遷移はあったか」
話しかけられた機械室の監視担当は、静かに首を左右へ振った。
「いえ、直前のログは通常どおりです。突発的な異常負荷の可能性が高いかと」
少しずつ進行した異常ならば、その兆候は送られてくる記録で上手くすれば見つけられる。けれどそれが見つからない状況で考えうる最も高い可能性は――記録装置の故障か、ドームそのものの不具合。
「調査チームは現地の状況を確認しに向かう。待機チームは万一に備えて修理キットの準備を」
「はいっ」
周囲がどよめく中で即座に指示を飛ばしたリーダーの男は、すぐさま現地調査を担当するチームを率いて観測塔の外へ出発していった。その後ろ姿を見送ったグラキエを含む待機チームの面々は、バタバタと観測塔内にしまい込んだ道具箱を片っ端から引っ張り出す作業に追われるのだった。
現地の調査チームが観測塔を出発して、数時間。
待ちに待った連絡によれば、異常負荷の出た器機の周辺は積雪が周囲よりはるかに高い密度で残っていたらしい。周囲が融雪して流れ広がる中でその部分は溶け残りが異様に多く、異常負荷として検知されたのではないかという事だった。
周囲が溶けたのなら、それにつられて崩れそうなものだが。何の因果かそうは上手く行かなかったようだ。
「負荷が落ち着いてきたってよ。大事にならなくて良かったな」
機械室から待機チームの一人が戻ってきた。ほっとした様子でソファに座り、思い切り背もたれに体重をかけて息を吐いている。
「でもこの引っ張り出した道具、全部しまうんだ……つっらぁ……」
「使わずに済んだんだ、その方が良い」
「それはそうですけどー」
このチームで一番年若い研究員は、げんなりとした顔でしゃがみ込んだ。
……まぁ、半時かけて引っ張りだした道具の数々を、更に半時かけて収納するのは骨が折れるけれども。
ドームが破損しようものなら、それこそ命がけの修復作業が必要になる。これから発生しうる異常の原因が観察できて良かったと思っておかなければ。
とはいえ、ひとまず休憩をしようかと話をし始めた頃。通信が終わったはずの無線機から急に音が発せられた。何事かと思いつつ応答ボタンを押すと。
『修理キットの準備を続けろ! 入口側のドーム壁にひびが入っている!!』
耳に飛び込んできた大音量の声。普段温厚なリーダーの珍しく慌てた声音に広間がざわつく。
現地のチームに指示を飛ばす会話の後ろで、何か高い音が聞こえたと思った直後にドドドと何かが崩れる音がして。ガリガリというノイズ音を最後に通信機は沈黙し、通信が途絶してしまった。
「え……これ、って、まさか」
ソファに座ったばかりの研究員が顔を青くする。
「ドームが破損したと思っていいだろうな……俺はリーダー達の様子を見てくる。グラキエ王子、こっちの準備は頼んだ」
「分かった」
近くにやってきた自分と同い年の同期が、予備の現地調査セットを背負って歩き出した。近くに居た体力自慢の研究員もそれに追随して手早く準備を進め、入口に向かっていく。
彼らは待機チームの中で、調査チームの交代要員を兼ねているメンバーだ。
「に、兄ちゃん!」
「ちゃんとグラン王子の言う事聞いて準備しろよ。俺達の連絡が入ったらすぐ修理が始まるからな」
そう言って、準備を終えた二人は連れだって観測塔から出発していった。兄の背中を心配そうに見送った最年少の研究員はすっくと立ちあがって。
床に置かれた道具ケースの蓋を無言で片っ端から開け始めた。
破損状況によって準備する道具は変わる。彼らの連絡内容次第で必要なものをすぐに揃えられるよう、この道具の山を整理するのが待機チームの仕事だ。
先程までの穏やかな空気はどこへやら。瞬く間に観測塔の中にぴりぴりとした空気が支配し始めた。
この春を超えれば雪は止む。そうすれば新しいドームは完工と見なされ、夏になれば開拓隊の移住が始まるだろう。
調査資料をまとめながら、ふと窓の外を見る。
少し前まで一日中途切れること無く降り続いていた雪が随分とまばらになっていた。
「もうすぐだな」
夏に入って本格的にディルクロが訪れれば――ラズリウ王子とのお試し期間も終わる。ようやく婚約者という立場を強いてきた状況から解放することが出来る。
元気にしているだろうか。スルトフェンとの時間をきちんと持てているだろうか。変に遠慮して家族の無茶振りに振り回されていないだろうか。
思い浮かぶのは、そんなとりとめのない事ばかり。
調査の段取りを理由にして、ゆっくり話すことを避けてきたけれど。いよいよ逃げる猶予が無くなってきた。戻ったらきちんとこれからの話をしないといけない。
君の気持ちを優先すると。どんな選択をしても、必ず味方で居ると。
「……問題はその後だが」
ラズリウ王子が婚約者候補から外れれば、当然次を選べと連日詰められる未来が待っているだろう。
彼はグラキエにそっと合わせてくれていたから好きに行動出来ていたけれど、恐らく他の人間ではそうもいかない。
ドームを広げる作業だって、重要性は理解しても全面的に応援をして貰える事は難しいだろう。取り掛かっている間、どうしても相手を放置してしまう事になるのだから。
それでも我慢してくれていたのは彼が王子で、ある意味この婚約話で国交を背負っているからだ。
けれど、もうすぐ甘やかしてくれる婚約者は居なくなる。割り切った関係を築いてくれる相手を本気で探さなければならない。
考えれば考えるほど痛い。頭も……目の奥も。
「お疲れさん」
考え込んでいたせいか、広間に自分以外の人間が現れていた事に気付かなかった。
目の前に立っていたのはこのチームのリーダーを務める壮年の男。幼い頃から研究所に入り浸っていたという筋金入りの魔法技術研究者だ。まだ研究員になる前、こっそりやって来ていたグラキエを研究所に入れてくれていた恩人でもある。
差し出されたカップを受け取り口を付けると、少し甘さの強いココアだった。冬の入りにラズリウ王子と訪ねた時の事を思い出して少しだけ胸が痛くなる。
「吹雪の峠も越えたようだ。もう少しだぞ」
「……あとは雪解け水の辺りだろうか」
「そうだな、そろそろ最後の正念場だ」
夏が近づいて雪が溶ければ水になる。風で空に舞う雪と違って、水はただただ道を求めて地面を這い回る。雪が圧し固められた氷を連れてぶつかってくる水の重みに耐えられなければ、ドームの中に人は住めない。
冬の雪と氷だけが危険なのではないのだ。暴風雪で損耗が蓄積した箇所へダメ押ししてくるのが春の水だとこの男に教わった。彼は友の命をもって、それを学んだのだと言っていた。
今は現状に集中しなければと思い直した直後、バタバタと慌ただしい足音が近付いてくる。
「リーダー! 北西の圧力装置で異常が出てる!」
その声でぴりりと、俄かに緊張が走った。
ドームの各地に取り付けた器機は、観測塔の機械室にある装置へ四時間おきで記録を送ってくる。
しかし異常値があれば例外的に即時発報するようになっていた。分かるのは異常があると思われる状況のみで、細かい数値の変動は現地のログを取り出さなければならないけれど。
「定期ログでおかしな遷移はあったか」
話しかけられた機械室の監視担当は、静かに首を左右へ振った。
「いえ、直前のログは通常どおりです。突発的な異常負荷の可能性が高いかと」
少しずつ進行した異常ならば、その兆候は送られてくる記録で上手くすれば見つけられる。けれどそれが見つからない状況で考えうる最も高い可能性は――記録装置の故障か、ドームそのものの不具合。
「調査チームは現地の状況を確認しに向かう。待機チームは万一に備えて修理キットの準備を」
「はいっ」
周囲がどよめく中で即座に指示を飛ばしたリーダーの男は、すぐさま現地調査を担当するチームを率いて観測塔の外へ出発していった。その後ろ姿を見送ったグラキエを含む待機チームの面々は、バタバタと観測塔内にしまい込んだ道具箱を片っ端から引っ張り出す作業に追われるのだった。
現地の調査チームが観測塔を出発して、数時間。
待ちに待った連絡によれば、異常負荷の出た器機の周辺は積雪が周囲よりはるかに高い密度で残っていたらしい。周囲が融雪して流れ広がる中でその部分は溶け残りが異様に多く、異常負荷として検知されたのではないかという事だった。
周囲が溶けたのなら、それにつられて崩れそうなものだが。何の因果かそうは上手く行かなかったようだ。
「負荷が落ち着いてきたってよ。大事にならなくて良かったな」
機械室から待機チームの一人が戻ってきた。ほっとした様子でソファに座り、思い切り背もたれに体重をかけて息を吐いている。
「でもこの引っ張り出した道具、全部しまうんだ……つっらぁ……」
「使わずに済んだんだ、その方が良い」
「それはそうですけどー」
このチームで一番年若い研究員は、げんなりとした顔でしゃがみ込んだ。
……まぁ、半時かけて引っ張りだした道具の数々を、更に半時かけて収納するのは骨が折れるけれども。
ドームが破損しようものなら、それこそ命がけの修復作業が必要になる。これから発生しうる異常の原因が観察できて良かったと思っておかなければ。
とはいえ、ひとまず休憩をしようかと話をし始めた頃。通信が終わったはずの無線機から急に音が発せられた。何事かと思いつつ応答ボタンを押すと。
『修理キットの準備を続けろ! 入口側のドーム壁にひびが入っている!!』
耳に飛び込んできた大音量の声。普段温厚なリーダーの珍しく慌てた声音に広間がざわつく。
現地のチームに指示を飛ばす会話の後ろで、何か高い音が聞こえたと思った直後にドドドと何かが崩れる音がして。ガリガリというノイズ音を最後に通信機は沈黙し、通信が途絶してしまった。
「え……これ、って、まさか」
ソファに座ったばかりの研究員が顔を青くする。
「ドームが破損したと思っていいだろうな……俺はリーダー達の様子を見てくる。グラキエ王子、こっちの準備は頼んだ」
「分かった」
近くにやってきた自分と同い年の同期が、予備の現地調査セットを背負って歩き出した。近くに居た体力自慢の研究員もそれに追随して手早く準備を進め、入口に向かっていく。
彼らは待機チームの中で、調査チームの交代要員を兼ねているメンバーだ。
「に、兄ちゃん!」
「ちゃんとグラン王子の言う事聞いて準備しろよ。俺達の連絡が入ったらすぐ修理が始まるからな」
そう言って、準備を終えた二人は連れだって観測塔から出発していった。兄の背中を心配そうに見送った最年少の研究員はすっくと立ちあがって。
床に置かれた道具ケースの蓋を無言で片っ端から開け始めた。
破損状況によって準備する道具は変わる。彼らの連絡内容次第で必要なものをすぐに揃えられるよう、この道具の山を整理するのが待機チームの仕事だ。
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