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第九章 Je peux aller n'importe où avec toi.

第三話 ★

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 ヴァニラシトロンの匂いが漂い、転がされたルネは息を乱して暗闇の中に飲まれている。
 非合法のΩ興奮剤の効果はとても抜群だったようだ。
 体中が沸騰するかのように熱くなり、心は求めてもいないのに身体が欲を求め続ける。
 ルネの頭の中では延々と、自分が犯された日がリフレインしていた。
 無理矢理身体を開かれる嫌悪感と、それなのに身体が呼応する恐怖。嫌なのに達し続ける肉体。
 ルネはこの時に地獄にいると思っていた。
 
 
 玲央の言う事が正しかったと、ルネは今更悔やむ。
 一成は本当に悪い人間だったと気付いた時には、ルネの身体はこの状態になっていた。
 朦朧とする意識の中で、懸命に自分の身に起きた事を辿る。夜道を歩いて辿り着いた先はとても古びた教会だった。
 重たい扉を開いて中に入れば、真っ白な壁と薔薇の花が描かれたステンドグラスが出迎えた。
 なんて美しい景色だろうと思ったルネが、教壇の近くに歩み寄る。
 教会の中はとても新しくリノベーションが加えられ、十字架の代わりに薔薇の花が掲げられていた。
 カソックを着た一成が懺悔室から手を振った時、ルネは玲央を思い返す。
 この時に今更カルト教団の事を思い返した。
 
 
 今日は話をさらりと聞いてもらって、早急に家に帰ろう。それからもう二度と此処には絶対に来ない。
 ルネはそう心に決めて懺悔室に足を踏み入れる。
 その時にルネの嗅覚にふわりと甘い香りが飛び込んできた。
 懺悔室を見渡せば、薔薇の花が描かれた金色の香炉が置いてある。その香りは其処から出てきていた。
 とても良い香りの筈なのに、なぜか嫌悪感を覚える。
 吐き気さえも覚えた瞬間、頭がくらくらして眩暈が始まった。
 起き上がれなくなったルネを見下ろしながら、一成が何時も通りの笑みを浮かべる。
 こんな目に遭っているのは、罰が当たったからだとルネは自分に言い聞かせた。
 
 
 懺悔室から滲むΩのフェロモンを感じながら、一成は玲央が来るのを待っていた。
 教壇の前に佇み扉をじっと見つめている。すると重たい扉が開き玲央が姿を現した。
 小柄な人間一人入りそうなキャリーバッグを引き摺り、教会に足を踏み入れる。
 金色の絹の様な髪を靡かせながら、赤い絨毯を踏みしめて笑う。
 その表情はまるで人間とは思えない程に、美しいものだった。
 
 
「ねぇ、ルネは何処にいるの??返してくれないかな?」
 
 
 一成に向かって微笑んだ玲央からは、紫苑の香りは一切しない。
 教壇から降りて玲央の方に歩きながら、一成はブルーベリーソース掛けのレアチーズケーキの匂いを漂わせる。
 背後にハンティングナイフを忍ばせながら、玲央に対する攻撃の機会を伺う。
 そして微笑みながら玲央にこう言い放った。
 
 
「玲央さん直々に此処を訪ねてくれるなんて………光栄ですよ………」
 
 
 玲央に近付いてゆくにつれて懐かしい匂いが近付くのを感じる。
 一成が目に着いたのは、革で出来た大きなキャリーバッグだった。
 紫苑からする匂いがこのバッグから漏れ出ていると、一成は胸を高鳴らせる。
 紫苑がいる。間違いなく近くにいる。思わず生唾をごくりと飲み、玲央と目を合わせた。
 
 
「………一成さん、取引をしませんか??貴方が求めているものは、多分この中に入ってる」
 
 
 玲央はそう言いながら微笑み、キャリーバッグを指でなぞる。
 そして一成の目を覗き込みながら、煽るように言葉を続けた。
 
 
「貴方は原田紫苑を探していたんでしょう?ルネと紫苑、取り換えましょう?
最初はとても楽しかったけど、餌の調達に手間のかかるペット、飼うの疲れちゃった」
 
 
 やはり紫苑は彼の元に居たのだと、自分の感覚の正しさを認識する。
 けれど今本当にこの中に、紫苑が入っているかどうかは解らない。
 一成は玲央の出方を見ながら、床に寝かされたトランクを見下ろした。
 玲央の動きを確認しながらトランクの鍵に手を掛ける。
 なんの変哲もない、ただ大きいだけのキャリーバッグだ。けれどその時に一成の耳にとあるものが聞こえた。
 
 
『玲央………やだ………こんなのいや…………』
 
 
 その時に小さな声がトランクの中から漏れる。
 けれど一成は微動だにせずに、そのキャリーバッグの中にナイフを突き刺した。
 
 
「………この程度で僕を誤魔化せると思うなんて、随分と舐められたものだね………!!!」
 
 
 紫苑のフェロモンの匂いが舞う中で、一成が引き攣った笑みを浮かべる。
 ひっくり返されたトランクの中身からは、シーツや服が飛び出してきた。番を結ぶ前に使っていたものだ。
 布の中に包まれていたのは小さな録音機とスピーカー。
 玲央はこの時に「やっぱり騙されなかったな」と思って笑った。
 刃物を持って駆けてくる一成を躱しながら、玲央は教会の中を駆け回る。
 義手の男とは言えど、相手をするのには中々体力がいるものだと玲央は思う。
 気が付けば玲央は一成に乗り上げられていた。
 ナイフを自分目掛けて振り下ろしてくる手を、懸命に玲央は押さえつける。
 するとその時一成の耳元で、懐かしい声色が聞こえた。
 
 
「ああ嬉しい御兄様……僕の匂いをまだ、覚えていてくださったんですね………」
 
 
 一成の隣には紫苑がいて、既に一成の首筋に医療用メスを突き立てている。
 玲央が囮になっている隙に紫苑が教会に忍び込む。
 フェロモンの香りが無くなった紫苑は、簡単に一成の背中に回る事が出来た。
 一成の手に握られたナイフを叩き落し、玲央は一成を突き飛ばす。
 その間に医療用メスを巧みに使いながら、紫苑は一成の首を切り裂いた。
 その瞬間、ブルーベリーソース掛けのレアチーズケーキの匂いが宙に舞う。
 噴き出した血は教会の床に迸る。床を汚して玲央にも掛かる。
 血まみれになった玲央を観て、紫苑はクスリと笑った。
 
 
 紫苑が人を殺す様を眺めながら、相変わらずスムーズに作業をすると感動を覚える。
 此処まで迷いなく人を殺す様子を見ていると、まるで屠殺でも見ているようだ。
 身重の紫苑の為に囮になるとは言ったが、本当は自分が殺してやりたいと思っていた。
 けれど中々うまくはいかないものだと、その時玲央は感じたのだ。
 
 
「あー、やっぱり紫苑に殺されちゃったなぁ………僕が殺してやりたかったのに!!」
 
 
 そう言いながらケラケラと笑う玲央に、紫苑は呆れたような表情を浮かべる。
 ガラスの様な目になった一成を横目に、ざまあみろと心から思う。
 けれど紫苑に鮮やかに殺される彼を見て、ほんの少しだけ羨ましいとも感じた。
 紫苑にだったら殺されたいと不謹慎な事を思いながら、ゆっくりと立ち上がりルネを探す。
 すると紫苑が懺悔室の方を見てある事を口にした。
 
 
「ねぇ玲央………あそこからとても嫌な匂いがする………」
 
 
 玲央には一切関知できないその匂いに、紫苑の身体が反応している。
 玲央は教会をきょろきょろと見回しながら、そのドア目掛けて歩み寄った。
 黒いガラス張りのドアが二つ並び、その中の片方から甘い匂いが立ち込める。
 はっきりは覗けないものの、その中には人がいる気配があった。
 玲央がドアを開いた瞬間に、紫苑の身体がびくりと跳ねあがる。
 その匂いは本能的に、嗅いではならないものであると紫苑は感じた。
 紫苑が自ら口元を押さえて後ずさりをする。
 玲央の視界の向こうには、息を荒げて身体を震わせる目隠しされたルネがいた。
 
 
「………ルネ!!!」
 
 
 玲央がルネに歩み寄り、懺悔室の中に飛び込む。その時に玲央の背後に影が重なった。
 懺悔室の中にはもう一人、誰かがいた。
 
 
「玲央!!!!」
 
 
 紫苑の声が響き渡るのと同時に、玲央はその影に向かって振り返る。
 その影の主はガスマスクをつけていて、ナイフを玲央目掛けて振り下ろした。
 彼の首元には首輪が付いている。それがΩである事に気付くのと同時に、鋭い痛みが玲央の頬に走った。
 間一髪でナイフは顔を掠め、玲央の顔を傷つける。
 咄嗟にガスマスクのΩを蹴り上げ、懺悔室の中から放り出す。その拍子にナイフが教会の床に転がっていった。
 玲央は慣れた様子でハンティングナイフを手にして、ガスマスクを付けたΩの上に跨る。
 神々しい笑みを浮かべながら、玲央は囁いた。
 
 
「紫苑と違ってまだ僕、人を殺すの慣れてないんだ」
 
 
 笑いながら何度もナイフを振り下ろす玲央を横目に、紫苑はこう思う。
 この人はやはり狂人だ。狂うべくして今此処にいる。
 ナイフが身体に刺さる水音が響き、悲鳴はガスマスクに飲まれてゆく。
 刺せば刺す程に悦に浸る表情を見ていると、玲央も殺人の快楽を覚え始めている事に気付いた。
 巡り合うべくして、この人と自分は巡り合った。そして結ばれるべくして結ばれたと紫苑は思う。
 血塗れになって息を切らした玲央が、紫苑を見上げて朗らかに微笑む。
 紫苑は思わず喉を鳴らして、生唾を飲み込んだ。
 
 
「…………綺麗」
 
 
 嘗て自分が紫苑に伝えた言葉を、自分に対して紫苑が返す。
 その瞬間、玲央の心はとても満たされていた。
 血塗れの身体で抱き合いながら、薔薇のステンドグラスの元でキスを交わす。
 そして二人は血に塗れた、お互いの身体を見て笑った。
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