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第九章 Je peux aller n'importe où avec toi.

第一話

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 枕元に置いてあるハンティングナイフを玲央に手渡し、紫苑が申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
 それからとても優しい声色でこう告げた。
 
 
「今だけはさ、これ、玲央が持っていて………。何が起きるか解らないしさ。
それに玲央なら、もう使い方解るだろ?」
 
 
 紫苑のナイフを受け取った玲央は、それを荷物の中にそっと隠す。
 玲央はこの時に、今一番殺してやりたい人間の顔を思い浮かべた。
 紫苑の人生を狂わせたであろうあの男を、殺せるものなら殺したい。
 紫苑から昔の話を聞いて余計にそう感じる。けれど復讐をしに行く程、玲央と紫苑には時間が無かった。
 
 
「………紫苑、これ何時も持ち歩いてたのに、いいの?僕に手渡して」
 
 
 玲央が率直な気持ちを投げかければ、紫苑は真知子の事を思い浮かべる。
 今、自分と玲央を守っていてくれている真知子に、刃物を持ったまま対峙するのは忍びない。
 玲央にナイフを預けたのは、紫苑なりの儀礼もあった。
 紫苑はふふっと小さく笑って、ベッドの上に寝転ぶ。そんなご機嫌そうな紫苑を、玲央は温かく見つめていた。
 
 
 今日は真知子に渡す為の金と、紫苑の為のケーキの肉を持ってきた。
 紫苑は今、なるべくケーキの肉を最低限にとどめて摂取をしている。
 流石の真知子もケーキの肉を食べながらの妊娠は、紫苑で初めて見る事だ。
 生まれてきた子供が最初からケーキ中毒になっているのは、余り良くない事だと思う。
 最低限の摂取に留めて、胎児に影響を及ぼさないように心がけていた。
 
 
 御粥を作って口に運ぶ紫苑を横目に、玲央はとても新鮮な気持ちになる。
 ケーキの肉以外のものを食べる紫苑を見たのは、この時が初めてだ。
 余り美味しそうにしていない紫苑を見て、本当に栄養を取る為だけに食べていると感じる。
 すると玄関のドアが開いて、真知子が顔を出した。
 
 
「………お待たせ。じゃあ、行きましょ………」
 
 
 白衣を脱いで出掛ける準備をした真知子が、玲央にアイコンタクトを送る。
 それから紫苑の方にパタパタと手を振り、外に出て行った。
 玲央はこれから真知子と共に店に向かう。通常通りの生活をして、全てを上手く誤魔化していた。
 真知子はとても玲央に対して協力的で、玲央はそれがとても有難いと感じている。
 紫苑は玲央とキスを交わしてから、部屋の外に出る。
 ドアを閉めるのと同時に、歩み寄ってきた真知子が囁いた。
 
 
「…………貴方達、番になったでしょ?
あの子から、フェロモンの匂いしなくなったもの」
 
 
 玲央は思わずぎくりとして、ドアを閉める鍵を間違える。
 なんとか鍵を掛け終えた玲央は、先に廊下を歩いてゆく真知子を追いかけた。
 玲央は本当に紫苑と番になったんだと改めて思う。
 そう思うと胸が、とても満たされていった。
 
 
「………番になる余裕、今位しかないかなって思って。
というか、本当に番になると匂い感知しなくなるもんなんだね?」
 
 
 浮き足立った玲央が真知子に問いかければ、猛禽類の様な目を軽く揺らし、何かを考えるようなそぶりをする。
 それからほんの少しだけ冷ややかな声色で玲央に告げた。
 
 
「宗教野郎にバレなくていいかもね。目隠しに出来そう」
 
 
 一成に対する宗教野郎というあだ名は、中々秀逸だと思い玲央が笑う。
 真知子には情報を既に共有済で、聖ヴェリテ教団はキナ臭いと常々話している。
 ケーキの肉を口に入れさせられたせいで、紫苑の人生はおかしくなった。
 一成が次に何をしでかすか、正直想像さえも出来ない。
 真知子は赤いジュリエッタに乗り込み、車のエンジンを入れる。
 こういった車が真知子には、とても良く似合うと玲央は思った。
 真知子の車の助手席に座りドアを閉める。すると真知子があることを訪ねてきた。
 
 
「………て、いうか貴方の事を大好きな可愛いΩの子、大丈夫かしらね?」
 
 
 真知子がそう云った時にルネの顔を思い返す。
 玲央は真知子は余程、ルネを気に入っているのだろうと思った。
 次にルネにあったなら、一成に会うのを辞めさせなければいけないと玲央は思う。
 けれど紫苑の話を聞けば聞くほど、占いを辞めさせるところで色々済むのかと不安になる。
 玲央はルネには好かれているが故に、それなりに情を掛けてきていた。
 もしも、が起きるのは嫌だと玲央は思う。
 
 
「………ちょっと、連れ出して二人で話をしようかと思ってるよ………」
 
 
 玲央がそう言ってため息を吐けば、揶揄する様に真知子がこう言った。
 
 
「番契約早々浮気だけは気を付けてね?玲央?」
「大丈夫だよ。僕本当に紫苑以外に興味が無いからさ………。これが運命の番かぁーって感じ」
 
 
 真知子が露骨に惚気を聞かされて、不機嫌そうな顔をする。
 そんな真知子に笑い返しながら、玲央はあることを考えていた。
 もうすぐ姿を消すということを、ルネにはちゃんと話したい。いきなり消えたら不義理な事を解っている。
 ルネとはそれ位には密度濃く関わってきた。ただ話すタイミングを考えなければならない。
 けれど玲央と紫苑に残されている時間は、あと僅かしか存在して居なかった。
 どちらにせよ、話すのは直ぐがいいと玲央は思った。
 
 
 
 真知子と二人で店に着けば、ルネがキラキラした眼差しで玲央をみる。
 その時に何時もなら薫る、ヴァニラシトロンのネメシアの匂いがしなかった。
 運命の番同士で結び付けば、αも他のΩを番に出来なくなる。
 それを聞いてはいたけれど、体感してみるととても神秘的だ。
 
 
「玲央、ルネ君も指名にして」
「ああ、わかったよ」
 
 
 真知子があんなに人に執着するのを初めて見たと、玲央は小さく微笑む。
 真知子から指名が入ったルネが、目を輝かせて玲央を見上げた。
 本当だったなら今、ヴァニラシトロンの匂いがするはずなのだ。それが一切感じない。
 ほんの少しだけそれを寂しいと思えば、真知子が小さく囁いた。
 
 
「あの子、本当に玲央の前だと凄い良い薫りよ」
 
 
 玲央と真知子が席についていると、慌ててルネが卓に来る。
 ルネはスツールに腰掛けてから、緊張した面持ちで真知子を見た。
 
 
「……真知子さん………指名、入れてくれたんですか?」
「うん、入れたわ。貴方と話してみたくて」
 
 
 ルネと朗らかに話す真知子を横目に、玲央は仕事がやり辛くなったとぼんやり思う。
 Ωもケーキも一番解りやすい感情の起伏は匂いであった。
 玲央はこの時に自分の仕事においての手の引き際が、もうすぐ来るのだろうと自覚する。
 これからの生き方についてずっと考えていた。
 
 
 
 
「………玲央さん、真知子さんの指名…………ありがとうございます…………」
 
 
 玲央の前で深々と頭を下げるルネを横目に、玲央は笑みを浮かべる。
 ルネの事を匂いで感知出来なくなった玲央は、まだ状況に戸惑っていた。
 
 
「ああ、真知子の事?
真知子はルネを魅力的だと思って話したかったんだから。
僕にありがとうって言う事じゃないよ」
 
 
 玲央はそう言いながらルネの頭を何時も通りに撫で、服を着替え始める。
 その時にふと一成の顔が頭を過った。
 楽しそうに慌てるルネを横目にしながら、深刻な話をしなければいけないことを憂う。
 それに宗教団体の人間と関わっていることに対する注意は、なるべく店ではしたくない。
 ホストの世界では宗教の話は御法度だ。するとルネがとある事を口走った。
 
 
「でも………!!玲央さんの大事なお客様なので………!!
何か玲央さんにお礼とか…………!!したくて………!!」
 
 
 玲央はこの時に、ルネをとても可愛らしいと思う。
 こんなに可愛らしいルネを見ていると、この美しい心を向ける人間が自分ではない方が良いと感じた。
 目を輝かせながら懸命に言葉を捻り出そうとするルネに、幸せになって欲しいと心から思う。
 
 
「じゃあ、ルネ、僕に一日時間くれないかな?
ルネと話したい事が沢山あって。ルネは何処か行きたい所、ある??」
 
 
 玲央がそうルネに伝えると、ルネは下睫毛の長い大きな目を輝かせる。
 きっと何時もならヴァニラシトロンの甘い香りが、この瞬間に漂ってくるのだろうと思う。
 その匂いが香った日々を、玲央はとても懐かしく思った。
 
 
「…………え、楽しみになってきちゃいました………!!!
行きたい場所、連絡します…………!!!!」
 
 
 幸せそうに微笑むルネを見ながら、玲央はずきりと心を痛める。
 ルネとも近い将来に離れ離れになるのだから、何か最後に優しいサプライズをしてあげたい。
 せめてルネに綺麗な恋の終わりを、プレゼントしたい。そう感じながら玲央は静かに微笑んだ。
 
 
 LEONID。観音崎玲央。
 一成は玲央の事を手当たり次第に調べ尽くす。玲央の交友関係において、今自分が利用できる人間は誰なのか。
 それを考え出したその時に、名前が挙がるのはルネだった。
 ルネなら一成に手の内を全て明かしてくれている。
 一番効率のいい玲央のおびき寄せ方を考えながら、ブルーライトに照らされていた。
 
 
 そんな彼の足元には、紫苑に似た顔立ちのΩの信者がいた。
 首輪に繋げた鎖を引っ張り、床に倒して頭を革靴で踏みにじる。
 Ωの少年は一成の革靴に唇を落としてゆく。その度にヴァニラチェリーのネメシアの匂いが漂った。
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