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第六章 Les fleurs du mal

第二話 ★

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 紫苑は自分の人生について振り返ると、生まれてきたのが間違いだったと思っている。
 自然豊かな町で紫苑はΩでありながらフォークの母親と、αでありながらフォークの父親から生まれた。
 すくすくと育ち15歳を迎えた頃に、両親は交通事故で他界。その頃に完全に味覚を消失したのだ。
 Ωでフォークという性別の紫苑は、親戚中から毛嫌いされたらい回しにされていた。
 
 
 最終的に紫苑を引き取った家は、おかしなカルト宗教に迎合していた。
 薔薇の花をモチーフとしたシンボルマークの聖ヴェリテ教団という名の宗教団体である。
 一見は教会も構え通常の宗教を思わせるが、中身は異様なカルト団体だ。
 黒いカソックを身に纏った年老いた男が、この宗教の教祖。常に傍らに女の信者を置いている。
 胡散臭いという単語の擬人化のようなその人間からは、時折生クリームの香りがした。
 甘い香りのするその教祖がケーキだと気付いたのは、大分先の事だった。
 
 
 其処は当時未成年の紫苑から見ても、異様な雰囲気を放っていた。
 絵に描いた様な典型的なカルト宗教の中に、未成年の紫苑は無理矢理捩じ込まれる。
 回りに紫苑を助けてくれる大人は存在していなかった。
 毎日食事の度に祈りを捧げ、行儀が悪いと鞭で掌を叩かれる。
 虐待と躾の区別さえついている様にみえない日常で、紫苑は息をひそめていた。
 けれど紫苑はその宗教において、とても大切な役割を担うことになったのだ。
 
 
 Ωとして生まれる人間はとても珍しく、聖ヴェリテにおいて神子の役割をするには適役だった。
 合わない新しい家族と引き離され、教会で暮らし始めたのはその頃からだ。
 常に白いカソックを着せられ、厳しい規律の生活を強いられる。
 神子は聖餐の儀式を行うまで、決して肉を口にしてはいけなかった。
 聖餐、とは名前ばかりで一体何をするかは解らない。
 肉を食べるなという禁欲は、味覚を失った紫苑には全く痛くない。
 紫苑は気が付けばその宗教において模範生となっていた。
 
 
 そんな紫苑はある時、恋に落ちた。
 
 
 人目を盗んで教会の十字架の元で、白いカソックを着た男と唇を重ね合わせる。
 触れるだけのキスをする度に薫る甘い匂いは、紫苑の心を揺さぶった。
 眩暈がする程の高揚感と胸の高鳴り。ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキの甘み。
 そんな紫苑の心の支えは、似た境遇で宗教に捩じ込まれていた、渋谷一成という男だった。
 
 
 彼も紫苑と同じ神子の立ち位置で、αでありながらケーキ。
 境遇が近い二人が心を通わせるのはすぐだった。
 一成も母親を亡くし、父親は誰か解らない。
 母親が自殺してこの宗教に来たことを、一成からは聞いている。
 二人は似た心の傷痕を重ね合わせる様になり、何時しか惹かれ合っていた。
 人よりほんの少しだけ色素の薄い茶色の髪が、日の光に照らされてオレンジに光るのをじっと見ている。
 ほんの少しだけ目尻の垂れた優しい目元が、紫苑はとても好きだった。
 
 
「僕と君の境遇は、本当に良く似ているね。
運命の双子って言葉があるけれど、まさに僕達二人の話をしているみたい……」
 
 
 宗教内で恋をするということは勿論規律を乱していた。
 二人がする行為はたった一つだけ。唇と唇を重ね合わせること。
 それ以上の事は絶対にしないと決めていた。
 けれど紫苑はそれにとても満足していて、不幸ながらに幸せだと思えていた。
 彼がいるならこんな世界でも、とても綺麗に見える。そう心から思いながら愛の言葉を囁いた。
 
 
「………御兄様、お慕い申し上げております…………」
 
 
 紫苑はそう囁いて、一成の手に唇を落とす。
 すると一成もそれに答える様に、紫苑の手を取り手の甲にキスを落とした。
 
 
「僕も愛しているよ………紫苑…………」
 
 
 紫苑はこの時に何も知らなかった。何も解らずに、ただ一成を妄信的に信じていた。
 この後に悲劇が待ち受けていることも、紫苑は知らなかったのだ。
 聖餐の儀式の中味を知ることはないまま、修行を終えて聖餐を迎える。
 この時に紫苑は19歳。もうすぐ20を迎える頃だった。
 
 
 この日は白いカソックではなく、黒いカソックを着せられた。
 教祖と同じ服を着ても良いものなのだろうかと思いながら、紫苑は静かに席につく。
 燭台の並んだテーブルの上には、白いテーブルクロスが掛けてあった。
 銀色の皿の上に乗っている赤黒い肉は、血抜きが足りて居ないのかまだ血の滴りを感じる。
 肉を切り取った刃物なのかは解らないが、血の付いたハンティングナイフがテーブルできらきらと輝いていた。
 
 
 目の前にある肉を口に含み、咀嚼して飲み込む。
 紫苑の隣では一成が同じように肉を口に含んだ。
 その時に味覚を失っていた筈の紫苑が、その肉から甘みを感じたのだ。
 口内に広がる生クリームの香りに、紫苑は息が詰まりそうになる。
 フォークである紫苑が味を感じるものは、この世にたった一つしかなかった。
 
 
 これは間違いなく人の肉である。
 何処の誰の肉かは解らないけれど、ケーキの肉だ。
 紫苑はこの口に広がった香りの匂いを、嗅いだ覚えがあったのだ。
 それに気付いた紫苑が凍り付けば、隣に座っていた一成が囁いた。
 
 
「紫苑………僕はね、君に隠していたことがあるんだ」
 
 
 ケーキの肉を食べてパニック状態の紫苑に、一成はゆっくりと語り掛ける。
 その時にしていた微笑みはとても恐ろしいものに見えた。
 
 
「………え?」
 
 
 震える声で必死に相槌を打てば、一成は感極まった笑みを浮かべる。
 そして紫苑の身体を引き寄せて囁いた。
 
 
「今食べた肉はね、父様の肉なんだ。
僕本当は引き取られてきた子供なんかじゃない。神の子供なんだ…………」
 
 
 神の子供と言われた時に紫苑は余り頭が働かない状態だった。
 ほんの少しの間を置いて、それが教祖様を指す言葉だと解る。この時に紫苑はその肉が教祖の肉だと気が付いた。
 意気揚々とした様子で一成がケラケラと笑い始める。そして紫苑の身体を引き寄せて甘い声色で囁いた。
 
 
「ふふ………!やっと父様を殺した………殺せたんだ………!!母様の願いを叶えることが出来た………!!
神の肉を食べて、僕達が神様になろう………!!僕にはこの宗教を自分のものにする権利がある………!!
聖餐の後に契りを交わして………僕と、番ってくれるね………?」
 
 
 契りと番の言葉を出された時、紫苑の心は不安な気持ちに駆り立てられる
 そして聖餐が本来、神の肉を食らうものであることをこの時やっと理解した。
 一成の母親は父親が誰だか解らなかったのではなく、教祖の子を孕んで隠してきたのだ。
 視界に飛び込むハンティングナイフと、頬を紅潮させた一成の表情。
 復讐を終わらせた一成はとても晴れやかな目をしていた。
 
 
 あんなに愛していたにも関わらず、今目の前にいる一成が怖い。
 彼は聖餐という理由で、自分の父親を殺して肉を口にしたのだ。
 怯えた紫苑は、今にも引き付けを起こして失神してしまいそうになっていた。
 不安な気持ちに更に拍車を掛ける様に、バクバクと心臓が鳴り響く。
 それと一緒に気が遠くなる位の眩暈に襲い掛かられた。
 その眩暈は人を愛しいと思った時の眩暈ではなく、ただただ不安な気持ちを駆り立てる眩暈だった。
 
 
 座っていた椅子から転げ落ちる様にして、床に倒れ込む。その時に紫苑の身体は勝手に動き出した。
 瞳孔が完全に開ききった感覚と、身体の奥底で血が駆け巡ってゆく感覚。
 紫苑の身体に歩み寄ってきた一成から、とても甘い美味しそうな香りがした。
 ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキの匂い。
 それは気が遠くなる程に甘美で、身体中がそれを食べたいという欲望に飲み込まれた。
 
 
 気が付いた時には教会の床は血まみれで、紫苑はハンティングナイフを手にして立っていた。
 床に転がっているのは紫苑が愛していた一成。一成の右手は親指を残して後は何処かに消えていた。
 まるで抉り取られたかのように消えた指先の在処を、紫苑はさっぱり解らない。
 けれど口の中に広がった甘味は、ブルーベリーソースの掛かったレアチーズケーキだった。
 恐る恐る口元を拭えば夥しい程の血が手にへばりつく。紫苑はその血を見ると同時に悲痛な叫びを上げた。
 
 
「あっ…………あああ、あ──────────!!!」
 
 
 ケーキの肉の摂取に慣れていなかった紫苑の身体は、見事に頭を振り切らせた。
 フォークとしての本能に完全に飲み込まれ、溺れ、愛する人さえも壊してしまったのだ。
 床に倒れている一成が息も絶え絶えな様子で、紫苑を見上げて睨み付ける。
 そして、呪いの言葉を吐き捨てた。
 
 
「あんなにお前に情けをかけてやったのに………!!
僕をこんな風にして…………!!赦さない………!!お前の事を赦さないからな…………!!」
 
 
 愛していた人から吐き捨てられた言葉は、紫苑の心を引き裂いた。
 ハンティングナイフを手にしたままで聖ヴェリテから飛び出し、紫苑はそのまま其処を逃げ出す。
 気付けば紫苑は指名手配犯になっていた。
 一成に襲い掛かった一件と教祖の殺害。紫苑はこの時一成に、罪を着せられたのだ。
 無実の罪を被せられた紫苑には、逃げる以外の選択肢しか残ってなんていなかった。
 ケーキの肉を求めて起きる身体の衝動と、襲い掛かる狂気。
 紫苑は本当にケーキの人間に手を掛けなければ、生きていけない状態になってしまっていた。
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