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第六章 Les fleurs du mal

第一話 

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「……………稀に確かに突然、ケーキを襲ってしまうフォークは確かにいるの。
愛し過ぎて食べたなんて、良く聞く話だから」
 
 ティースプーンを手にして紅茶にミルクを混ぜ込みながら、真知子がフォークについて語る。
 玲央はその時、紫苑が他の誰かを愛して衝動で食べていたら嫌だと思った。
 紫苑が愛して良いのはこの世で自分だけ。他の人間は絶対に認められない。
 
 
 苺と紫苑がキスをしていただけで苺を殺害するほどに、玲央は紫苑に対して料簡が狭い。
 妄想上の紫苑の過去の恋で、心を痛めることだって出来る。
 もしもモザイク男が紫苑の思い人だったなら、どういう風に殺害すべきかと玲央は考えた。
 一度人を殺す事をすれば、選択肢の中に「殺人」というものが増える。
 玲央はこの時、自分の選択肢に殺しがある事にゾッとした。
 
 
「へぇ…………」
 
 
 自分で自分が怖いと感じた玲央の声は、何時もより少しだけ暗く出た。
 けれど玲央は懸命に、肉体関係については自分が初めてだったと言い聞かせて自分を律する。
 動揺を隠しきれていない玲央を、真知子がじっと見つめていた。
 真知子の目は、獲物を狙う猛禽類を思い返させるものがあった。
 変わらない表情も大きな眼も、梟や鵂を思い出させる。
 その目を見ていると何もかも見透かされている様で、とても恐ろしくなるのだ。
 
 
「………どうしたの玲央。貴方今日は随分と落ち着きがないのね」
 
 
 ティーカップ片手の真知子は一切表情を変えず、玲央の様子を伺っている。
 玲央自身もポーカーフェイスには自信があるつもりだが、真知子の感情の起伏だけは玲央にも解らない。
 玲央は軽く咳払いをして、味のしないブラックコーヒーに口を付けた。
 
 
「まぁ、フォークの事って自分の事だからね…………。自分で聞いていて、良い気持ちはしないさ。
自分自身がフォークなのに、ケーキの人を舐めたら甘い事位しか解らないから」
「貴方が人を食い殺す事は無さそうだと、正直私思っているわ。貴方は本当にフォークっぽくないから。
αの性の方が強いのかもね」
 
 
 食い殺してはいないけれど、人を殺したことはあると玲央は思う。
 真知子に人を殺したことを知られたら、きっと驚くに違いない。
 穏やかなティータイムの合間に、玲央は紫苑に出会ってからの生活を思い浮かべる。
 玲央は人殺しとは全く無縁の人生を、紫苑に逢う前は送ってきていた。
 今となっては人が目の前で死ぬことに関して、余り心を揺さぶられない。最早驚きさえも無いのだ。
 
 
「そうかもね………僕はフォークとして発狂する才能って、ないや」
 
 
 玲央はそう囁いて微笑みながら、ケーキを殺している紫苑の姿を思い返す。
 身の丈に合わない大きな刃先のハンティングナイフを振りかざし、巧みに人の命を奪ってゆく。
 その姿を頭に思い返す度、フォークとして振り切っていると思うのだ。
 紫苑にはフォークとして狂うだけの素質が、ちゃんと存在している。
 
 
「まぁ、そうね。でももしも貴方が発狂するような事があったなら、高跳びするときの整形位はしてあげる」
「アハハ!頼りになるなぁ!!でも真知子の施術代って高そうだね??ブラックジャックみたいなイメージ……!!」
「私は潜りじゃないわよ!免許ちゃんとあるから!!」
 
 
 無表情ながらに明るく微笑んだ真知子と、玲央は冗談を言い笑い合う。
 けれど玲央はこの時に既に、近い将来真知子を本当に頼る事になってもおかしくないと感じていた。
 幾ら紫苑がフォークであり心神喪失が認められたところで、間違いなく無期懲役は免れない。死刑が妥当な罪である。
 勿論その殺害に協力していた玲央も、死刑は免れないだろう。
 けれど玲央はこの時に、逃げ切れるところまで逃げようと思っていた。
 紫苑と一緒に居ることが出来るのなら、地獄でもきっと楽園に変わる。
 世界を敵に回しても紫苑と生きていけるなら、何も怖くは無いと玲央は思った。
 
 
 真っ暗な部屋の中で煌々と輝いているのは、テレビ画面から発されるブルーライトのみだ。
 薄暗い部屋の中でシャンデリアを見つめながら、ただひたすらに紫苑は玲央の帰りを待っていた。
 テレビ画面の中に映し出される男の影は、まるで紫苑を責め立てているようだ。
 紫苑の事を語る男の声は、保護音声越しでも本当の声が蘇る。
 彼の事だけは紫苑にとって、忘れたくても忘れられない程の毒なのだ。
 
 
『僕が手を失ったのは、彼の危険な捕食衝動のせいです。
フォークとして目覚める前の彼はとても、優しくて可愛らしかった………』
 
 
 紫苑の頭の中に響き渡る声は、まるで紫苑を地獄に追い詰めているかのようだ。
 紫苑は手で耳を塞ぎ、ブルーライトに照らされて俯く。
 そしてボロボロと涙を流して声を懸命に押し殺した。
 
 
「ああ………嘘吐き………嘘吐き…………!!!」
 
 
 紫苑はこの時に玲央が早く帰ってくるのを待っていた。
 一人でいると気が狂ってしまいそうで、どうしていいのか解らない。
 けれど玲央に触れて貰えている間だけは、意識を飛ばす事が出来た。
 玲央に傍に居て欲しいといえば、きっと一緒にいてくれる事を解っている。
 片時も離れずに傍に居て、くだらない愛の言葉を囁き続けてくれることを知っている。
 けれど紫苑は玲央にそう言って甘えることも、怖くて怖くて仕方なかったのだ。
 
 
 ゆっくりと目を閉じて視界さえも遮断する。耳や目から入る情報は、心を掻き乱して今は良くない。
 紫苑は人に裏切られる辛さと怖さを、良く理解していた。
 玲央目掛けて手を伸ばして、またその手を取って貰えなかったなら、紫苑はきっと立ち直れない。
 きっと玲央に出会ったこと自体、後悔することをよく解っている。
 すると無音の世界の中でふわりと何かが頬を撫でた。
 涙でぐしゃぐしゃの顔の儘で、ゆっくりと顔を上げて目を開く。
 其処には心配そうな眼差しを浮かべた玲央がいた。
 
 
「…………ごめんね、寂しかった?」
 
 
 整った玲央の顔を見てしまえば、紫苑の心が満たされてゆく。
 紫苑は何も言わずに頷いて、玲央の首に腕を回した。
 今日の紫苑はまるで幼い子供の様だと思いながら、華奢な身体をきつくきつく抱きしめる。
 この日玲央は紫苑の事を、心の底から愛しいと改めて感じた。
 帰ったら絶対に抱き締めると決めていた。嫌だと言われてしまってもきっと、何回だって抱きしめたいと思っていたのだ。
 
 
 何も答えずに泣きじゃくる紫苑を抱き寄せながら、今日の真知子との会話を思い返す。
 真知子の言う事が本当だったなら、紫苑はケーキの肉を切らせば気が狂う。
 定期的に肉を摂取させなければ、何時か自我が崩壊してしまう。
 玲央がケーキの肉について探ったその時に、同じ地獄に引き込む事も出来ただろう。
 けれど紫苑は玲央に、ケーキの肉を食べさせようとはしなかった。
 
 
「僕ね、今日またこう思ったんだよ。紫苑の事を愛してるって。
毎日毎日君の事が好きになって、君に出会えて良かったなぁって思うんだ。
僕は君に出会えて本当に幸せ…………!!」
 
 
 紫苑弱り切った心の中で、玲央の愛の囁きが染み込んでいく。
 この時紫苑は玲央に縋り付きながら、初めて本当の気持ちを口にした。
 
 
「………お願い傍に居て………俺から離れていかないで…………俺の事、一人にしないで…………」
 
 
 発情期の理性を吹き飛ばした時でもない。何時も通りの紫苑が、玲央に甘えて縋っている。
 その事実が玲央にとっては、眩暈がする程に幸福だった。
 
 
「一生離れない。傍に居る………ずーっと一緒にいてあげるから、信じて欲しい」
 
 
 玲央はそう囁いて紫苑の唇を指でなぞり、ゆっくりと顔を近付ける。
 淡く唇と唇を重ね合わせながら、玲央と紫苑は抱き合った。
 触れ合ってしまえばお互いの事しか考えられなくなり、他のものが何も見えなくなる。
 
 
 紫苑はこの日初めて、玲央に溺れて何も考えられなくなることを心から心地が良いと思った。
 手と手を重ね合って地獄目掛けて走ってゆくようなそんなイメージを、キスを繰り返しながら頭に浮かべる。
 その内何時もの軽い発情ヒートに当てられて、何も考えられなくなっていった。
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