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第十章<穂波操の物語>

第三話

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 嘉生館に向かう道の途中に、海が一望できる通りがある。
 朝日に照らされてキラキラと輝く波は、とても美しくて見入ってしまいそうになる。
 けれど早朝の忙しない出勤時間だ。そんな時間は存在しない。
 出勤の合間に海を見渡し、気持ちを引き締めてまた歩き出す。
 今日も長い長い一日が始まると、俺は気合を入れていた。
 長い休みを経て嘉生館の勤務を再開すると、忙しなさに身体がついてこない。
 嘉生館での日常は、こんなに忙しいものだっただろうかと、内心思う位だ。
 
 
 朝一番に見たものは、夕べ林さんから送られてきていた、佐京と侑京の食事風景と寝顔の写真。
 嘉生荘への嫌がらせが始まり、困り果てていた俺に、二人をウチで預かると林さんが言いだした。
 有難いと思う反面、申し訳なくて仕方がない。
 そもそもこんな事になったのは、俺が過去にした仕事が原因なのだ。
 俺が昔していた事のせいで、二人を家に戻せない。それを不甲斐ないと感じていた。
 
 
 こんなに自分の子供と離れ離れにされたのは、初めての事かもしれないと思う。
 二人に逢えないのはとても寂しい。身が張り裂けそうな位に辛い。
 けれどもし今、二人の身に何かあったなら、俺は立ち直れなくなるだろう。
 だから今は寂しいけれど、安全なところで守りたい。
 
 
 この道の先には嘉生館の門があり、俺を何時もと違わず迎え入れてくれる。
 そう思いながら門の前に立つと、俺の昔の宣材写真と目が合った。
 これは確か雑誌に載った時に掲載した、物凄く若い時に撮ったヤツだ。
 確かΩ風俗で働き始めて、最初の頃に撮った様なもの。
 それが門の前にベタベタと貼られ、ご丁寧に悪口迄書かれているのだ。
 
 
 最近の俺の朝は嘉生館の門に貼られている、嫌がらせの紙を剥がす事から始まる。
 
 
 この嫌がらせのせいで、嘉生館の門は何だか最近ボロボロだ。
 開いている時は落書きの痕は目立たないけれど、閉じた時は美しくない。
 剥がされたペンキの痕と、接着剤で汚れた木目。全てが汚らしく感じる。
 元々が立派な見た目だった分、何だかとても残念に思う。
 横さんが業者に頼んで、鉋掛けをしたいと言っていたが、今やったら何度も削る事になり兼ねない。
 全てが終わった後ですべきだと思うけれど、終わる目途が立たないのだ。
 
 
 荷物を控室のロッカーに入れるついでに、廃品回収の紙ごみの中に、嫌がらせの紙を混ぜ込む。
 最初は気にして細かくちぎったりしていたけれど、今はそんな事も諦めた。
 もう気にせずに豪快に捨てる。あともう既に、俺の過去の風俗勤務は従業員にモロバレだ。何も怖いもんはないと思う。
 今の俺は総てを曝け出して、必死に生きているなぁと感じる。
 根性だけは人よりある自信がある。絶対に屈するつもりはない。
 
 
 ロビーを突っ切り事務所に向かい、ドアを開いて中に入る。
 壁に貼られている出勤表を確認して、頭の中で仕事の予定を組み立てていく。
 早朝の出勤に林さんがいるから、朝食の配膳はもう終わっている。横さんは今日は珍しく遅番の様だ。
 名前を指でなぞりながら、出勤時間を確認する。その中で斎川虎之助の名前が、黒いペンで消されていた。
 俺が虎ちゃんを突っぱねて以来、虎ちゃんは嘉生館に出勤していない。
 
 
 それどころか、嘉生館から姿を消してしまったのだ。
 
 
 流石にお母さんにそれとなく訪ねてみたけれど、何も教えてはくれない。
 返って来たのはたった一言「無断欠勤じゃない」とだけだ。
 そういう事では無いのにと、俺は思わず心で突っ込む。
 けれど虎ちゃんを突っぱねたのは、何処の誰でもない自分である。
 もしかしたら虎ちゃんに逢う事は、もうないかも知れない。
 それに今更虎ちゃんが出勤して、嘉生館に姿があった所で、どんな顔をして良いか解らない。
 それくらいに俺は彼に酷いことをいったし、酷いことをしたのだ。
 
 
 弄んだといわれても、仕方がないことをした。
 
 
 事務所で仕事を片付けていると、朝食の配膳を終えた林さんが戻ってくる。
 林さんは何時も通りの、明るい笑顔を俺に振り撒く。
 
 
「アラー!!操さんおはようございます!!」
「林さんおはよぉ♡朝早いのキッツいよねぇ………!!!そういえば写真見ましたぁ!!」
 
 
 他愛無い世間話をしながら、朝の仕事を片付けてゆく。
 けれどふとした瞬間に、林さんも虎ちゃんの出勤表を見て、何か言いたげな顔をするのだ。
 虎ちゃんは物凄く解りやすい男で、嘉生館の皆に俺に恋している事がバレていた。
 林さんも横さんも他の皆も、俺に虎ちゃんの事を聞けないでいる。皆が今聞きづらい事も、自分でよく解っている。
 
 
 虎ちゃんが居なくなってから、俺の周りはとても静かになった気がする。
 でも俺の姿を見付けて飛んでくる時の、人懐こい犬みたいなところを、本当は可愛いと思っていた。
 
 
 庭の整備の状態の確認をしながら、いつも虎ちゃんとうちの子が座っていた、小さなベンチを見る。
 このベンチでは、俺も虎ちゃんと呑んだことがあったし、キスをしたことがあった。
 
 
 最初のうちは俺は頑なだったから、愛なんて本当にいらなかった。
 セックスが出来れば、欲が満たされてそれで良かったのだ。愛なんて要らない。失うものは怖い。
 それなのに虎ちゃんは段々膨れ上がって、何時しか俺の隣にいて、まるで恋人みたいに愛を囁く。
 最初は適当に流していたけれど、だんだん愛しくなって、気がついたら虎ちゃんが俺の中で確立した。
 
 
 空っぽのベンチを見下ろしながら、どうして虎ちゃんが居ないんだろうと思う。
 自分で追い出した癖に、どうして居ないのなんて、我が儘過ぎる。
 虎ちゃんの存在は大きかった。とてつもなく大きすぎて、気が付けば彼は俺の中に入り込んできた。
 
 
 誠治さんが死んでから、俺は寂しさと共に生きてきていた。
 お母さんも佐京も侑京もいるし、それなりに寂しさを飼い慣らせていた気はしてる。
 けれど虎ちゃんと出逢って、彼が寂しさを埋めたから、彼の居ない今が寂しい。
 
 
 自分で突っぱねておいて寂しいなんて、なんて身勝手なんだろうか。
 
 
 思わず泣き出しそうになりながら、目を臥せる。
 寂しさを誤魔化す為の溜め息は、一瞬にして真っ白に染まった。
 すると砂利道の上を歩く、何者かの足音がした。
 頭の中に虎ちゃんの顔が浮かんで、消えてゆく。彼の筈が無いのに、彼であることを俺は望んでいた。
 音のする方に振り返れば、其処にはいやらしく笑う天蠍と龍二がいる。
 現実なんてこんなもんだと、諦めた様に思った。
 
 
「何しに来たの?アンタ…………」
「何しにってよォ~~~!!お仕事にきまってんだろぉ~~~!?」
 
 
 一番会いたくない奴等が来たと、俺は思わず身構える。
 天蠍は俺の目の前にやってきて、龍二と二人でニヤニヤと笑う。
 手には相変わらずアタッシュケースを持っていた。
 
 
「なぁ操ォ??考え直してくれたかァ!?!?」
「………何を考え直すって?」
「だからよォ!?この古びた旅館を手放すことだよ!!!」
 
 
 天蠍はそう言いながら、俺の手首を掴む。
 無理矢理ベンチの上に腰掛けさせると、アタッシュケースを開いて書類を取り出す。
 
 
「別にお前この旅館によォ……執着する必要なんてねぇだろォ??
お前だったら今のΩ風俗だって、すぐに売り上げトップになるさ………。
いい店だったら幾らだって紹介してやんのによぉ…………」
 
 
 執着して嘉生館で働いてるんじゃない。守りたいから此処に居る。
 大切だから。愛しているから此処に居る。俺の気持ちなんてきっと、他の誰にも解らない。
 今の俺が出来る事はただ一つ。絶対に首を縦に振らない事。
 
 
「…………絶対嫌だね!!手放す気なんて無い!!」
 
 
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。頭の中で何回も何回も言い聞かせる。
 どんな一日を迎えたって、どうせ夜が来て朝が来る。日は変わるし、人生は続く。死ぬまでそれを繰り返す。
 誠治さんが死んだ日の後、佐京と侑京に出逢えた。夜が来たら朝が来る。
 寂しかった日々の中でも、ある日虎ちゃんがやって来たじゃないか。
 人生は巡る。今は辛くても、必ず何時か朝が来る。
 
 
 そう思いながら俯けば、携帯電話の着信音が鳴り響く。
 俺の隣に座っていた天蠍が、慌てて通話ボタンを押した。
 
 
「あっ、何時もお世話になっておりますぅ!!今丁度嘉生館にいて契約の話を…………。
えっ、もうしなくていい??撤退しろって、どういう事ですか………??」
 
 
 天蠍の顔がみるみるうちに青ざめるのと同時に、砂利のぶつかる足音が響く。
 俺の隣で慌てふためく天蠍の先には、虎ちゃんが立っていた。
 高級そうなスーツを着て、しっかりと髪を整えて、お洒落にキメた虎ちゃんが其処に居る。
 虎ちゃんは俺を真っ直ぐに見て、大型犬みたいな人懐っこい笑みを浮かべた。
 
 
「………操さん、ごめんなさい。長い間お暇頂きました………!!今帰りました!!」
 
 
 夜が来たら必ず、朝が来る。明けない夜はこの世に無い。
 笑う虎ちゃんを見た俺は、朝が来たと思っていた。
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