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第3章
待ち望んだ夜明け
しおりを挟む潮の香りに、違いはないと思っていた。
透火を追って大陸に渡ってからも、幾度となく船に乗ることはあり、その度に香りの記憶は更新されて後悔も郷愁も感じることはなくなっていた。
髪が伸び、目の高さが変わっても、変わらないものはいつだって変わることなく在り続けた。信じていたものが絶望に変わっても、変えたいと願ったものが変わることは一度としてなかった。
黒が全ての色を台無しにするように、占音に出来ることはこれまでの腐敗を一掃することだけ。
変化は望めない。望まない。
記憶に見るより古びた村にも、潮の香りにも、思い出を想起するだけに反応を留めて占音は進む。
うろ覚えの記憶を補完するように、漆塗りの柱を辿って屋根を見上げた。名に相応しい朱塗りの屋根瓦は子供の頃に見たときよりも色が落ち、錆びたようにくすんでいる。
貼り替えたばかりのような、汚れのない襖が開く。
「元気そうだな、占よ」
心魔の土地に長く住んだ占音の黒瞳に、その姿は恐るるにも足りない、小さな人間のように写った。
色が抜けた灰と黒とが混ざる毛髪を肩で遊ばせ、内に張り巡らされた血管が皮膚の上からも辿れるほどにやつれている。紅殻色の上着に腕を通し、やせた体を黒一色の衣装に包む。
線の頼りなさとは裏腹に、彼はその場に立つ全ての珠魔を萎縮させるほどの気配を持つ。
彼こそ、珠魔を宝石として心魔へ売った、張本人だ。
「次に会うときは、お前の墓だと信じていたんだがな」
「随分と生意気に育ったな。あの男の側は、それほどに居心地が良かったか?」
紫亜の存在を仄めかした途端に気を鋭くした占音を嗤い、男は階段を一段ずつ降りてくる。
地面に到達してようやく、占音と目線が揃った。
朱家当主・朱泉。代々黒を宿す黒姫を排出する朱家の中で最も先進的で、排他的で、傲慢な男である。
「お前が仕組んだ禍根を、壊しにきた」
高らかにして芯の通った声が、人気の少ない村に響き渡った。
予言、族長への謀叛。種族性を穢し、弄んだ心魔への遺恨。対等でないと知れた途端、交流を拒んだ羅魔への憎悪。先代壱音が遺した傷は深く、本来の性質を奪うほど村中に浸透してしまっている。
それを助長したのが、泉だ。
創生虹記による種族衰退を嘆き、存続について病的なまでの緊迫感を煽り、定着させた。他種と交わろうとする族長への不信を火に油を注ぐ勢いで溜め込ませ、愚かだと貶める一方、自身は心魔の文化を利用した。
朱家という名に胡座をかくべく、少しでも己と異なる思想を持つ珠魔を島の外へ流し、仲間という強制的な言葉で周囲を誑かし、罪の沼へと引き込んだ。
紫亜とは対照的なやり方だが、泉のしたことは、確かに珠魔を一つにまとめた。
「禍根、か」
喉の奥で笑う、その姿がいっそ見苦しい。彫りの浅い顔立ちが元々の高貴さを泥に沈めるように歪んでいく。
「その恩恵を受けておいて、何を言う」
悉く神経を逆撫でする泉を睨むだけに留める。
左右に侍る黒髪の娘二人は、泉の声を聞いてなお従順で大人しく、占音の視線に目もくれず姿勢を正している。時が違えば占音の妹となったかもしれない彼女達の虚ろな瞳を見ていると、苛立ちが募る。
風が吹き、屋敷向こうのざわめきを占音の耳へ届ける。準備は止められなかったが、行動に起こされる前に食い止めただけましだと思うことにする。
「お前と違い、火月は実に真面目だった。正直で誠実で、情に熱い男だった。……最期までよく役に立ってくれた」
砂糖菓子を堪能するように甘く、侮蔑に満ちた声に、これでもかと吐き気を感じさせられる。
「お陰で、天星を継ぐ者はもういない」
族長という身分しかなく、血筋にも価値を置かない珠魔だが、家系には意味がある。
三種族が別離をして以来、珠魔が壱音を空の神とするには、それ以外の多くが農作業や手工業に人生を費やし、物資を作り続ける必要があった。
だが、それでは文化が廃れ、教育や歴史が残らない。それを防ぐべくして、色別文化に寄り添うように形成された不文律が、家系という系譜である。数が減った今では珠魔にとって唯一の命綱でもある。
「いないが、確かめなければならないことがある。火月の子供は本当に、失敗したのだな?」
「知るかよ」
透水が条件に入っていたのは、そのためだった。
「お前しか、水月の最期を知る者はおらぬのだぞ」
「だから何だ。火月を疑うのか」
「……お前は本当に、種の存続を願っているのか?」
「──そっくりそのまま、てめえに返すぞ」
堪えていた怒りが、声に現れた。
占音の気迫に当てられ、圧された泉が指を弾いた。
娘の一人が貝笛を吹く。一つの音しか鳴らさないその楽器は、木々の間を抜けて島中に響き渡り、潜んでいた反対派を影から呼び寄せた。
大勢が場に居ながら、不気味なほどに音ひとつしない。囲み込む彼らを警戒するのも馬鹿らしく、占音は肩に流していた黒髪を背中に払った。
「こんな老いぼれに従うしかねえとは、お前達も苦労するよな」
占音に向けられる視線は複雑で、反応は乏しい。壱音への畏怖と、心魔の土地で不自由なく育ったことへの妬みが、彼らの中で相反するからだ。
日向や光河の顔が脳裏に過る。透火や芝蘭と違い、感情を素直にぶつけてくれる彼らに占音がどれだけ救われたか計り知れない。たとえ憎まれようとも、彼らは占音の敵にはならないと確信できる。
「占よ。最後に聞くが、何の為に帰った」
彼らに道を譲り、屋敷へ逃げた泉が占音を見下す。若い珠魔にはもう勝てぬほどに体力の衰えた老獪を、容赦なく占音は睨み返した。
「お前みたいな根腐れを、掃除しにきてやったんだ」
じり、と爪先を僅かに前へ移す。重心を少しずつ移動させる。泉は顎を指で挟むようにして首を傾げ、占音の考えこそおかしいとでもいうように真顔になる。
「ならば命じてみせよ。壱音だろう? 今ここで、その名の下に私の首を切ってもいいのだぞ」
反応を面白がるように腕を広げ、泉が占音の殺意を煽る。『同じ』色と名を持ち、『同じ』ように人の上に立とうとする占音のことを、彼はよく理解していた。
「まあ、心魔の土地へ逃れ、のうのうと生き延びた壱音の話なぞ誰も聞かぬか。……なあ?」
占音は、心魔の土地で育ったことを悔やまない。
紫亜のお陰でまともな教育を受けることができ、創生虹記に隠された真実を知り、誰かのために動く者の大切さを知った。そこに血筋は関係なく、ましてや種族も関係なかった。多種が共存するための道は、険しくとも潰えてはいなかった。
それを伝えるだけのことなのに、彼らに聞く耳のないことが、占音の全てを無駄にする。
枯れ枝のような細腕が、青空へ向けられる。
状況に歯噛みして、占音も隠していた短剣を構えた。殺しはしない。戦いもしない。身を守るだけだと言い聞かせながら、彼らに届く言葉を探す。
「殺せ。王子の失態として知らしめてやろう」
嗤い声が地を這う。殺気が溢れ、雄叫びが上がる。魔力が、動く。
「下がりなさい」
一陣の風が、吹き荒れた。
「壱音の命は空の神に託されしもの。人間が扱える代物ではありませんわ」
晴天を背に、銀竜が舞い降りる。
朱色の屋根瓦が幾つか飛ばされ、鈍い音を立てて落ちていく。風圧で広がる銀髪は毛先が空に溶けるようで、彼女たちが空の神の使いと呼ばれる謂れを視覚から教え込まされる。
「銀竜」
「銀だ」
状況の不可解さを唱える前に動揺が波のように広がり、伝承が生んだ誤解が混乱を生む。
「予言が、予言がこの地を襲うんだ!」
羽ばたきのために飛ばされた一人が叫び、逃げ出す。銀竜が守護者の指示に従い口を開け、蒼い炎が彼らの逃げ道を塞ぐように放たれた。
一拍を置いて、場が騒ぎの渦と化す。
「お許しください! お許しください、銀の守護者」
「空の神に捧げるべくして、我らは動いたのです」
「壱音はここに、ここにおります!」
膝を地に着け、恐怖に震える手で祈りを捧げ始める者。占音の腕を掴み、差し出そうとする者。心魔の土地では見られなかった光景に、占音は歯噛みする。
これが、創生虹記を受け継いだ土地の正しい反応だ。種族代表といえば聞こえはいいが、要するに、ヒトという存在はこの世界を存続させる為の人柱に他ならない。
ハークが口を挟んだのも、彼らが占音だけを差し出すのも、とどのつまりはそういうことだ。逆に混乱を生んだ自分の存在に、占音の構えが解けたときだ。複数人が占音の両腕を掴み、地面へ押さえようとする。
「話が違うではないか、銀の守護者よ!」
奇妙な問いかけだった。足を押さえつけられる前に一人を振り払い、両脇の二人に足蹴を叩き込む。
身構えた占音の前に背中を見せるのは泉だ。彼は両腕を広げ、ハークを見上げて喚く。
「我等はただ、其方の言うことを実行しただけのこと」
「……人違いをなさっているようですわね」
無表情のまま、銀竜の背からハークは動かない。透火を前にした時はまだ人間らしいところがあったというのに、全くの別人のようだ。
「どうなっている! 壱音を殺せば、我らは予言から逃れるのではなかったのか」
忌々しげに、泉が吠えた時だ。
汽笛が響き渡った。
耳の良い珠魔の混乱を鎮めるには十分な音に、誰もが視線を港に走らせる。帆に刻まれた紋章に、思い思いの色を見て、何人かが膝から崩れ落ちる。
青家の帆船が、そこにあった。
「……間に合ったようですわね」
羽ばたきが風を呼ぶ前に、そんな声が聞こえた。
蒼い炎を飛び散らせ、銀翼が青空へ去っていく。
土煙が舞い、新たな風魔法が木々を強く揺らす。珠魔の色彩鮮やかな髪を煽り、その場にいた全員が彼らの登場に虚を突かれた。
夜明け色の髪が光の輪を讃え、白衣装に青空の影が染み込む。珠魔の土地に置いて人目を惹き付けるには十分な体格が、占音の黒目に映り込む。雨上がりに固まった土に、若く力強い一歩が刻まれた。
「聖光国第一王子、青芝蘭。壱音の命により、参上した」
僅かに驚いた顔が安堵に少し崩れる様が、眩しいほど鮮烈に占音の記憶に焼きついた。
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