虹の向こうへ

もりえつりんご

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第3章

 太陽の罪と月の誠実

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 どのくらいそうしていたか、透火には分からない。
 身体や衣服に付着した泥が、水分を失って乾くには十分な時間が過ぎていた。
 森は静寂を保ち、この島に息づく生命の気配を沈黙の中に流している。
 先程まで雷が唸り、雨が叩きつけていたとも思えぬ淡色の空から、光の柱が途切れ途切れに降り注ぐ。鳥の声は遠い。
 葉に留まっていた水滴が、雫となって水溜りに落ちた。

「……いつまでそうしているつもりだ」

 薄い影が、透火を背後から抱き締めた。

「分からないんだ」

 素っ気ない答えは感情が欠落していて、自然に思えるくらい透火の声に馴染む。
 粘り付く泥を踏みつけて、占音の気配が背後に迫る。今なら、彼にだって殺されてしまいそうだ。

「これが、占音が望んだ結末なの?」
「そうだ」

 感情を抑えた返答が、二人の違いを浮き彫りにする。
 走馬灯のように、占音との出会いから今までの交流が脳裏を駆ける。
 いつだって、透火や芝蘭の先を行き、大胆不敵に情け深くも助けてくれた。彼任せにしたのは透火と芝蘭の責任で、取引を成功させた占音の手腕もある。透火に言い返せる余地はない。
 透火自身のことを、除いて。

「俺に、この人を、殺して欲しかった?」

 事実を形にする声は、ひどく、掠れていた。

「……透水の・・・、父親なのに」
「俺にとっても、兄や父みたいなもんだった」
「なのに、殺して欲しかったんだ?」
「ああ」
「自分は、……殺したのに」

 耳を疑うほどに淡々とした返事が、透火の問いかけの本質を見抜いていた。透火自身もわかっていた。占音に投げた言葉は、自分自身へ投げた問いに等しい。

「お前が殺せるように、そうした」

 黒髪が、影に塗られた金髪が、風に揺れる。

「お前が、何も考えずにそうできればいいと思った」

 目の前で母親を殺して見せたのは、透火が火月を殺せるようにする為だと言われて、ぐちゃぐちゃになった感情に火が点いた。

「……ッどうして!」

 煮えたぎった怒りを踏みつけるように立ち上がり、透火は占音の胸倉を掴む。
 占音は表情を変えなかった。避けることもせず、黒瑪瑙の瞳に、見たこともない表情を写して黙っている。

「何のために芝蘭を利用した!? これが、どんな過去を清算するっていうんだ! 人を殺して、……誰かの、命を奪ってまで、何が清算だ! そんなの、ただの自己満足だろ!」

 気分が悪かった。
 火月に叫んだ言葉が、そっくりそのまま、自分に返ってくる。
 芝蘭の為に火月を殺めた自身に、全てが返る。
 吐き気がするほど受け入れたくなくて、嫌味なほどにしっくりと、現実を受け止めてしまう理性が許せない。
 どうにかしてやりたいのに、自分からそれを消すことができない。その衝動が、占音に向かう。

「お前の母親の為だ!」

 混乱する透火を巻き込んで、占音が声を荒げた。胸倉を掴む透火の手首を掴み、きつく、軋むほどに無理矢理に引き剥がす。

「火月は、自分の都合で生かそうとした水月を、死んだ後も縛り付けた。自分の身体を痛めて子を産んで、結局、二人には何も残らなかったのに。でも」

 一度俯き、占音は肩を震わせる。

「俺が言っても、火月はもう、水月しか見なかった!」

 手首を離したかと思えば、今度は両肩を掴まれる。
 今まで見たことのなかった占音の感情が、透火の感情を圧倒する。
 後悔も、かなしみも、長年押さえつけられていたものが一緒くたになって、透火の空っぽの心に入ってくる。

「水月に似たお前しか、もう、火月を止められる奴はいなかった! 水月が守ろうとした種族の未来を、壊すわけにはいかなかったんだ! 悪いか!」

 息を乱して、占音が透火を乱暴に解放する。なんとか踏み留まり、しかし、透火も占音も、それ以上言い返す余裕を持たなかった。
 二人の違いは距離よりも遠く、重なることも許されない。

「ずっと、……そいつが死ぬまで、周りには巻き込まれてろって? ふざけんなよ」

 見ているものが、そもそも違ったのだ。
 占音は透火を通して過去を見ていたし、透火は占音を通して今を見ていた。重なるはずがない。

「一人で死ぬこともできねえ奴に、他人の死を貪らせてたまるか」

 これまで占音を信用してきた分、その事実が重く透火に残る。
 顔を見ていられなくて、自分から視線を逸らす。
 占音の影が透火の足元から外れた。水気を吹き飛ばすような強い風が、二人の髪を弄ぶ。
 沈黙が二人の間に一定の壁を築いた後、占音が無防備に背を向けた。

「一つだけ言っとく。お前が殺したんじゃない。俺が、お前に、殺させたんだ。……俺と、種族のために」

 天上から光が射し込む。
 力強く、惹きつけられるほどの優しさを持つから、占音は涙も零さず立っていられるのだろう。歩いていけるのだろう。
 誰かの罪をも赦す覚悟で生きているから、容易く人を動かせるのだ。
(……大っ嫌いだ)
 太陽のような彼の優しさを理解しながら、それを享受しないことが彼へ返せる唯一の愛情だと、透火はこの時はっきりと理解した。

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