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第3章
それは果たして、裏切りであったのか
しおりを挟む雨が、降っていた。
空の啼き声と共に雨脚は強くなり、髪も衣服もすっかり水気を帯びて肌に纏わりついてくる。透火の知らぬ土の匂いが雨に掻き消されて、哀しみを凝り固めたような草木の重い匂いが、鼻腔から肺へと侵入する。
「占音? なんて」
透火の行動全てを無に帰すような発言に、占音の行動に、思考が直接喉を震わす。
「いま、!」
胸倉に伸ばした手に、占音の身体が飛び込む。意識が途切れたような倒れ方に混乱が消沈し、風邪を引いたように発熱した肉体に現実的な判断が戻ってくる。
「っは、くそ……王子のやつ、一気に魔力、持って行きやがった」
「……芝蘭が? え、占音、なに、どういうこと」
視界の端に浮かぶ火月を気にして視線を上げた先に、土塊が飛び込んだ。
見る間に人形になると、両腕が俊敏な動きで火月に襲いかかる。飛び散る泥を腕で避け、透火は泥濘む地面を踏みしめ、占音を支える。
「日向さん」
「後ろに」
雨の雫を瞬きで流し、開いた月の瞳に日向を写す。振り返らないその背中は逞しく、心細さを感じていた透火の心に一筋の救いと余裕を与えた。
火月が木に縛り付けられる様を人形の上から見下ろし、日向が無情な声を轟かせる。
「清算すべきは、お前達の謂れのない怨みだ」
「ハッ……、シアの狗め」
火月の魔法が発動する。光の矢が現れたのを見て身体が動こうとするが、占音を放っていくわけにはいかない腕が、透火の反射神経を抑え付ける。
予備動作もなく、振り向き様に日向が矢を一閃する。剣に無効化の魔法が掛かっているのだと、散りゆく光の葉を見て理解した。
「あ、ぐ……っ」
「占音、なにがあったの」
両腕で身体を抱くように呻く占音の声が、雨に埋もれる。濡羽色の髪がその名の通りに美しく、薄暗い雲の下で闇に塗りつぶされていく。
どうすればいいのかわからない。何が起きているのか言ってくれなければ、どうしてこうなったのか教えてくれなければ、透火は動けない。
『いいじゃねえか。知らねえ方が上手く働く時もある』
占音はああ言っていたが、とてもそうは思えないのが今だ。土が泥濘むように、冷静さを思い出した心が後悔に侵食されていく。動かなければならないのに、動くことのできない自分を知る。
「透火くん!」
声に呼ばれて顔を上げると、すぐそこまで火月の放った光の矢が迫っていた。占音を右腕で庇い、剣を構えたところで日向が間に入る。矢は叩き落されたが、火月は攻撃の手を止めようとしない。族長であることは伊達ではない。魔力量も戦闘の技術も、彼の方が勝っている。
泥塊が地面から起き上がり、透火達と火月の間を塞ぐように立つ。時間稼ぎにしかならないことは、嫌でも察せられた。
「光河は何をして、……!」
独り言のようにぼやいていた日向が、足下に転がっていた静の死体に身構え、それから占音を苦しい顔つきで睨んだ。
「実の親を殺してでも、果たしたいことなのか」
ぎくりとした。それが何かに気付く前に、透火は慌てて話に割り込む。
「それより、芝蘭が占音の魔力を使ってるって」
「何だって?」
「だから、芝蘭はまだ、大丈夫です!」
断言した透火の勢いに圧されて、日向が目を瞬かせる。知った雰囲気に戻ったのを感じて、ホッとした。
「占音なら、芝蘭の場所が分かると思います。鍵も渡したし、だから、」
日向の背後に聳え立つ泥塊に、亀裂が走る。
呉藍を相手に戦闘をしていたのだ、それなりに消耗しているのが当然だ。加えて、慣れない気候に全身の動きを鈍らせる天気と、不利な条件ばかりが揃っている。
彼一人に任せてはいけない。
「芝蘭を、お願いします」
日向に占音を押し付け、人形を飛び越えてきた火月の攻撃を剣で受け止める。
「漸く、動く気になったか」
間近に見た弟を思い出させる顔が、透火の知らない感情に表情を歪める。
「……」
無言で弾き飛ばし、着地する。
日向を背に庇い、剣を水平に構えた。
「君に、言われるまでもない」
いつか聞いたものとは異なる声色が、透火すら自覚していなかった透火の本音を貫く。
日向の気配が遠退く。火月の足が眼前に迫る。
剣の腹で滑らせ、軌道を逸らしながら真っ直ぐに火月の腹に刃を突き立てた。脇腹が裂け、深緋が衣類に滲む。
静に剣を突き刺した時とは違う意識が、透火の中に芽生える。耳が熱い。雨が生温く、髪が肌に張り付く感触が邪魔だ。足は泥で重みを増し、反比例するように身体が早く動く。雨音に紛れぬ火月の足音を、息遣いを捉えて、それに合わせることで身体の動きを最小限に抑える。
痛みはあったが、すぐに忘れた。身体中から力が溢れて、痛みを遠いものにするのだ。
互いに黙したまま殺意を向け合い、雨脚が弱まる頃、火月が先に片足をついた。
「はあ、は、……っ」
息を吐くと同時に疲労が四肢に戻った。透火の顔も泥と血で薄汚れ、全身で土を被ったような状態に疲労が重なる。
短い息が続く。吸う、吐く。単純な動作ですら億劫に感じる。
頬を拭い、剣を下げて火月に近付く。
「貴方が、どうして俺に、拘るのかは、もういいです。興味がない。それより」
眼光鋭い火月を意識的に見下ろして、立ち止まった。
「芝蘭を人質にする必要は、どこにあったんですか」
泣きたい気持ちが込み上げて、息を吸うついでに一度唇を閉じる。
それは、生死に関わる戦いで昂った感情の奔流が透火の理性を喰らい尽くしていただけであったが、普段から感情に身を委ねない透火には泣き叫びたくなるほどに強烈な、かなしい衝動だった。
「俺には理解できない。したくない」
雷鳴が轟く。五感を狂わせるような全てが、感情の発露を願う。
「自分のために、周りを巻き込む、貴方の行為全てを」
己の為に真実を他人に突き付ける、無神経さに微塵も和解したくなかった。
紫亜自身への警戒心から、火月の言葉が嘘ではないと信用してしまえて、それ故に詰られた芝蘭の婚約者や母親のことが気に食わない。彼女たちの生命がどうして透火に直結しなくてはならないのか、分からない。基音であることを考慮しても、その重要性を、未だ透火は見出せていなかった。
複雑な感情が言語化を飛び越えて透火の喉に苦味を広げる。
「……フン。無知な子供が何を言おうと、戯言にしかならん」
息を整えつつ火月が立ち上がり、袖についた泥を振り払う。
「お前の父親は昴だが、透水の父親は、この私だ」
「……なにを」
「水月を生かす為の交わりだった。誰とも子を成せなかった私の、唯一叶った未来だった」
上半身を覆う衣装を脱ぎ捨て、火月が肩から指先までの肌を晒す。
右手につけた金属魔石を外すと、彼の手首の魔石が鈍く輝き、赤色に変化した。その時になって漸く思い出した。火月の魔石は、石榴のような色をしていると聞いていた。灰簾石に見えたのは金属魔石の為で、本来の色を秘していたのだ。
生命を燃やす輝きを見せながら、火月が緩く微笑む。
「我ら珠魔は、心魔と違い親子よりもきょうだいを重んじる。子を産むことで水月が生きるのなら、私にはなんだってよかった」
悍ましい告白に、透火は人間としての恐怖を感じた。
透水の生きる意味を、妹の生きる意味に無理矢理に変えようとしたのだ。彼女が、透火のために死んだと言うその口で。
「……それなのに、あの子は未だ、生きていない」
視界がはっきりしたのは、雨が止んだからだけではなかった。
透火の喉に指が食い込み、頭が泥濘に沈む。魔力の放出が先ほどの比ではなく、触れているところから熱気のような塊に圧される。
晴れ間の見える空を背に、火月が狂ったように喚いた。
「お前に分からずとも知ったことか! きょうだいが、片割れがいないことのこの苦しみを、お前が知る日など来ないのだから!」
「っ……、っぐ」
酸素を欲した肺が喉を痙攣させる。滞った血が逆流するような感覚に、頭が熱くなる。
火月が右掌を空へ向け、その手首に宿った魔石に陽光を反射させた。
「恐れることはない。あの王子も直ぐにお前の後を追う。お前達は、きょうだいなのだろう?」
呼吸も血も留められた中に聞こえたその声が、皮肉にも透火の理性を繋ぎ留めた。
左手から離さずに済んだ剣を、振るう。
(死なせない)
助けに行くことを譲ったのは、日向に元に戻って欲しかったからだ。占音を彼に任せたのは、占音にも芝蘭にも生きて欲しかったからだ。
らしくない姿を見るだけで動揺した。自分とは関係のない話に巻き込まれることが不快だった。弟を巻き込まれて苛立った上に、その弟とは異父兄弟だと知らされて、家族の繋がりをずたずたに踏み躙られた。
透火と戦う理由に芝蘭を使われたことが、周りを傷つけられたことが、許せなかった。
こちらを見て、小さく微笑む芝蘭の顔が過ぎる。
(助けるために、生きてきたんだ)
何もかもの事情がどうでもよくなるくらいに純粋な、透火の願いが蘇った。身体が軽くなる。振り切った剣が手を離れて地面に落ちる。抵抗を感じたはずなのに、呆気ない。
は、と透火が息を吐くと同時に血が宙を飛んで、光に触れた側から灰になる。
「え」
灰に、なった。
解放された喉が酸素を吸って咳き込み、身体に乗っていた重量のなさに上半身が浮く。
目の前にぼとりと落ちたのは手首だった。魔石が半分に割れていて、その掌が、今先ほどまで頭上にあった火月のものだと直ぐにわかった。
「──やっと、終わる」
耳の端に聞こえた穏やかな声が、透火の背中に悪寒と恐怖を這いずらせた。
顔を上げた先に、人影はない。
灰が、透火の全身を襲うように飛んでいく。
「…………なに」
瑞々しい空気を、海から流れてきた風が混ぜ返す。透火の上や地面に落ちた灰を巻き上げ、遠くへ運んでいく。
「ま、って……なに、どういうこと」
ついさっきまで、瞬きすらしない前までそこにいた火月の姿のないことに、本能が先に状況を把握する。
火月は灰になったのだ。死んだのだと、頭が先に納得する。
死ぬきっかけを与えたのは透火だ。
絵の具を混ぜ返すように、身体に残る感覚が理解で塗り潰されていく。透火のあの一振りが、火月を死に至らしめた。
「……っ、あ」
背筋を這い上がる実感に嘔気が伴い、透火の頭から血を奪う。戦闘の反動が、胃から食道へとせりあがる。
叫ばぬ代わりに中身を吐いて、柔らかな青空の光の下、透火は地に両の拳を叩き付けた。
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