虹の向こうへ

もりえつりんご

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第1章

砕け散る日常

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 南地区東側には大洋が位置し、フィヨルドのために港町が多い。王都周辺地区の中では唯一不凍港を持つ地区で、冬になると多くの商人や貴族が集った。
 ここは現国王の先祖が支配した土地として有名で、他の地区よりも優遇されるのではないかと期待した下流階級の人間が多く住むようになっていた。 
 北側即ち王都に近い場所に住むのは、ほとんどが中流階級の人間で、青家の別館が建っている中心地アハティもまた、南地区のなかでは北側に位置する。 
 数ある港町の中でも、最も漁獲高のある港町に隣接することもあり、南地区に出回る物資のほとんどはアハティを介して通されていた。
 第一王子による食糧物資供給が行われる理由も、それに因む。
 ところで、アハティは中心地に大きな聖堂を構えている。大聖堂を起点に北に行くと青家の別館、南に行くと住宅地と州の関所があり、東には南地区最大の港町ディサ、西には山脈が広がる。
 先の説明より、中流階級の者は大聖堂より北に、そして下流階級の者は大聖堂より南ないし東に住むため、建物の外観や高さが北と南で全く違っていた。 
 要するに、降り立った場所の周辺の建物を見れば、自分の位置がある程度把握できた。 

「これはどういうことかな?」 

 見事な朱塗り屋根の上に立って、ソラが微笑みで透火を責める。朝日を反射して、眼鏡の奥の瞳が見えなくなった。 

「すみません……」
「方向音痴」 
「うっ……」

 大聖堂の位置を確認しつつ地図を広げて、透火は謝る。 
 本来透火たちが目指していた場所は、大聖堂よりも東側。即ち港町に近い住宅街だった。 
 しかし実際にたどり着いたのは、大聖堂の北側。青家の別館に近いとある屋敷の上だったのである。 

「大聖堂があちらに見えるので、東側の住宅街はあっちかと」 

 相手がすでに分かりきっていることを、透火は渋々説明する。大聖堂を基準にすればいいので、別に地図を見る必要はないのだが、透火の方向音痴を恐れたソラが念のために確認を取らせたのだ。 
 回答にうんうんと頷きながら、ソラが透火の肩を叩く。 

「本拠地を探さなきゃいけないの、わかってるよね?」 
「すみません」

 心の底から謝りたくて、腰を九十度折り曲げた。 

「はあ。仕方ないとはいえ、かなり厳しいな」 
「見て」 

 二人が肩を落としたところで、アマトが呼ぶ。顔を見合わせて、少女の後ろに並んだ。
 眼下を移動する、複数の影。彼らは全員、透火たちと同じように外套に身を包んでおり、外見の特徴が一切掴めない。
 問題はその後ろ。目立つ髪色の女性が目立つ色の格好で影を追いかけているのが見えた。 

「ソニアだ」 

 桃色の髪に、ルーカス家の好む臙脂色。見間違えようもない。 

「知り合い?」 
「彼女も従者の一人です。なんで一人なのかはわかりませんけど」 
「……あっちに行くみたい」 

 軽い跳躍で大通りを横切り、少女が後を追う。 

「追いかけよう。彼女は王子側の人間なんだろう?」 
「あ、はい」 
「設営準備の邪魔をしようとして、見つかったのかもしれない」 

 言い置いて、ソラもさっさと跳んでいく。 
(そうなのかな……?) 
 納得はできないが、影の逃げる方角が東側であるのは確かだ。 
 ソラが立ち止まってこちらを振り向いたので、透火も急いで跳び越える。 
 追いかけっこの始まりだった。 影は上から確認できただけでも五人で、彼らはソニアと一定の距離を置いて逃げ続けた。地理を把握した上での行動か、曲がり角の選択は迷いがなく、それでいてソニアが見失わない程度の速度で移動する。 
(やっぱり、おかしい気がする) 
 ソラとアマトに続きながら、透火は一人考える。 
 ソニアに事情を聞いては駄目なのだろうか。 

「あのさ、ちょっと聞いて」 
「しっ」 

 角で立ち止まった二人に声をかけようとして止められる。
 影が一つの建物の中に入って行くと、ソニアが扉の前で立ち止まった。周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから中に滑り込む。 
 彼女が建物の中に入ってから少しして、再び新たな影がいくつか、建物の中に入っていった。 
 三人で顔を見合わせる。 

「彼女は本当に従者なの?」 
「……事情を説明すると複雑なんだけど」 
「なにか、持ってる」 
「え?」 

 どこから取り出したか、望遠鏡を片目に当ててアマトが言う。後から入ってきた影が持ってきたものだろうか。外套の下に隠されており、建物の中に入ってようやく取り出したのかもしれない。 
 窓から見える小さな影を、少女の目が追う。 

「……銀鎖」 
「え?」 
「見て」 

 ソラに望遠鏡を手渡し、アマトが立ち上がる。透火にもすぐ望遠鏡が回ってきた。片膝をついて両手で本体を支える。じっと見つめていると、窓の奥に光を反射するものが映った。 
 あの輝きは、魔石でも宝石でもない。 

「……本当だ」 

 同時に、どうして彼らが持っているのかという疑問が浮かぶ。 

「鈴は占音さんが奪ったはずだよね」 
「あそこに占音がいるのかもしれないし、あるいは国王の差し金かもしれない」

 可能性を否定しないソラの言い方は、どこか嘘くさい。

「でも、占音が近づけば、私たちだって、分かる」 
「それって、どういうこと?」 

 望遠鏡を返しつつ尋ねると、アマトがごそごそと探る動作をしてから魔石を差し出した。透火がこちらに飛ばされた時に渡された魔石と、形がよく似ている。 

「占音が作った、もの」 
「彼らの生命石は、魔石と同じ力を持つ。近づけば、その魔力を感知することも可能ということ」 

 促されるままに透火も魔石を取り出す。特に何の変化もない。ということは、あの建物の中に占音は居らず、けれど彼が奪ったはずの銀鎖の鈴が置かれているということになる。

「あれが置かれている以上、君には離れていてもらわないと困るな」 
「……偽物かも?」 
「偽物か本物か、わからないから、近づかない」

 どうして、ソニアがあの中にいるのか。銀鎖の鈴をどうして彼女が持っているのか。影との関係は。ルーカス家との関わりは。
 考える材料が多すぎて、逆に頭が混乱する。 

「協力しているのは、君を基音にさせないためだ。だから君は、あれに近付いてはならない」 
「そうは言っても、あれが国王様の部下なら、俺が行った方がまだ──ぐえ」

 外套をぐいと引っ張られ、首を絞められる。振り返るとアマトがこちらを睨んでいた。 

「目的、わすれないで」 

 真っ直ぐな視線に弱さを指摘されたようで、彼女から目を逸らす。もう会わないと決めたはずなのに、いざ目の前にすると会おうとしていた。 

「君も知っているでしょう?」 

 屋根を下りながら、ソラが言う。 

「ヒトの末路は、こんなものじゃない──」

 振り返り、彼が冷めた目で透火を見つめた刹那。 
 爆発が、起こった。 

「伏せろ!」 

 手をかざして防御壁を張る。アマトを小脇に抱えて、ソラの背後から三人を守るように半円形の光を広げる。飛んでくる破片が、弾かれ飛んで行った。 
 爆煙から黒い影が浮かび上がる。 

「どうやら、はめられたみたいだね」 
「ソラ!」 

 槍を召喚したソラが、飛びかかってきた影の攻撃を受け止める。後退した透火たちの前に、先程の影が横並びに立ちはだかった。 

「こっち」 
「ちょ、」 

 にらみ合う時間も与えず、アマトが透火の腕を引っ張り、駆け出す。ソラのことも気になるが、透火はなによりソニアのことが気にかかり、後方から目を外せない。 
 二人の後を追うべく動いた影に、ソラが容赦なく刃を刺す。 
 その中に、彼女の姿は見当たらない。 
 彼女はどこへ──前方を振り返った透火の目の前で、鮮血が飛び散った。 

「なんであんたが、ここに居るのよ」 
「っあ……は、……っ」 
「アマト!」 

 胸の真ん中を貫くのは、彼女の持つ短剣だ。 
 爆発の影響で沸き起こった風が、透火のフードを煽る。布地に染みた紅は、少女の血だ。 

「ソニア! なんでこんな、うっ」 
「こっちの台詞!」 

 アマトを抱えたまま、ソニアの攻撃を受ける。
 体術に関して彼女は一流だ。自由な方の腕で攻撃の軌道を逸らしながら、隣の建物に跳び移る。 
 祝詞を唱える暇もない。意識を失ったアマトの肩に文字を描き、素早く治癒魔法をかけた。 
 上空で体勢を変え、透火に向かってソニアが踵を振り下ろす。片手で身体を支持し、脚でまともに受け止めた。 

「っ痛!」 

 悲鳴を飲み込み、ソニアが屋根の上を移動する。透火から十分な距離をとって再び、彼女は構えをとった。 

「ソニア、やめてよ。なんでこんなことするの!?」 
「あんたが小癪な手を使って逃げるからじゃない」 
「は……?」

 アマトの傷口を確認した一瞬を、ソニアは逃さなかった。
 距離を詰め、下から蹴り上げる。両腕で頭を庇い、透火は飛ばされた勢いを利用して空中で一回転した。空中で文字式を描く。飛んできた短剣を風魔法で叩き落とし、再びソラの戦う場所に戻る。 

「ぐっ」 
「ソラ!」 

 飛ばされ、透火の足元に倒れてきたのはソラだ。彼の実力は確かだろうが、流石に多勢に無勢、叶うはずがない。 

「その二人を助けたいなら、私の言うことを聞いて」 

 目の前に立つ彼女が、透火の知っているソニアと同じだと信じたくはなかった。
 けれど、幼い頃から変わらないツインテールも、頬の刺青も、涼やかな菫色の瞳もなにもかも変わりはなく、行動だけが透火の知らない彼女だった。 
 苦しげな表情が、瞳が、言葉の裏で感情を訴える。

「……ソニア」 

 操られているわけでも何でもなく、それが彼女自身の意志によるものだと嫌でもわかる。

「鈴を」 
「はい」 

 影が応じて、銀鎖の鈴をソニアに差し出す。 
 音の鳴らないその鈴は、爆発により生じた炎と太陽の光を浴びて、白く輝いていた。 

「二人を助けたいなら、これを持って芝蘭のとこに行って」 
「なんで、」 
「だってあんた、基音なんでしょ?」 

 普段の表情豊かな彼女はどこに行ったのか。仕事をしているときですら、彼女のこんな姿を見ることはなかった。 驚きと、戸惑いと、混乱と。そしてなにより、こんな風にして彼女と対峙しなくてはならないことが、透火にとっては受け入れがたいことだった。

「……基音だから、って」 
「みんなを救わなきゃダメじゃない。先代基音は空の神となって、人間を救った。繁栄をもたらした。あんたもそうしなきゃいけない」 
「っそうじゃなくて、なんでソニアがこんなことまでして俺に、ッ」 

 後方へ上体を傾け、攻撃を避ける。 
 飛びずさり間を空けるも、ソニアは容赦なく距離を詰めてきた。 

「芝蘭のためよ、決まっているでしょう?」 

 はっきりと、彼女はそう言った。 
 短剣の代わりに鈴を持っただけの、素手の、彼女本来の攻撃スタイルに戻る。腕の長さは透火と同じ、勝てるとすれば速さと、力。 
 けれど、透火は彼女と本気で衝突したくはない。 

「芝蘭のためって、何が!」 
「あんたは知らないでしょうけどね! 芝蘭が継承権をもらえないのは、あんたを基音にして差し出すことを、拒んできたからなのよ!」 
「は、あっ?」 

 迫る左拳を横に流し、勢いを乗せて振り下ろされる脚を片腕で弾く。 
 彼女の背後で影がソラとアマトを囲むのが見え、透火はソニアから二人の方へ動く方向を変えた。 
 背後からの攻撃を跳んで避ける。簡易の防御壁を二人の周りに貼り、影を脅す。 

「二人から離れろ」 
「無視してんじゃないわよ!」 

 横顔目掛けて襲ってきた拳を、透火は片手で受け止めた。 
 荒い息遣いが、瓦礫の音に混ざる。 
 彼女の手の中の鈴は、散々振り回されたにも関わらず一切音を鳴らさず、静かに輝いていた。 

「……ねえ、ソニア。落ち着いて、話をしようよ」 
「なによ」 

 殺気を隠して、彼女が静かに拳を下ろす。熱で火照った白肌を、汗か何かが伝って落ちる。 
 影は、ソニアの様子に戸惑っているようだった。 

「だって俺、なにも知らないんだ。ソニアがこうしている理由も、芝蘭のことも、全部」 
「……」 
「だから、教えてよ。ソニアが知っていること。どうして、芝蘭が継承権を得られないのかも、全部」 

 年こそ違えど、彼女とは古い仲だ。透火が今まで生きてきた中で、芝蘭と並んで馴染みが深い。 
 こうなるまで気付いてやれなかった透火にも問題があるのかもしれないけれど、そこまで徹底的に事実を隠してきた周囲の事情こそが問題だろう。
 今まで渦中の透火をのけ者にしてきたくせに、必要になったからと矢面に立たせるなんて、卑怯にもほどがある。 静かな怒りと穏やかな悲しみが、透火の心を波立たせる。 

「……昨日、当主様に聞かされたの。私は従者を辞めさせられる。芝蘭の条件を変えるために、そうなったって」 

 本人に確認したい話だが、そんなことを言える状況ではなくなった。芝蘭ならば、きっとそんなことをこんな形で伝えようとはしない。
 これは、エドヴァルドの策だ。 
(どこまで干渉すれば、気が済むんだ。あの人は) 
 念入りに練られた計画は、万華鏡のようにきらびやかな世界を透火に見せてきた。そうしてその世界に疑問を持ち始めた頃を狙って、確実に世界を壊し、足元を掬って目の前の道を意識させる。 

「盗んだ銀鎖の鈴を取り返し、基音を目覚めさせればその取引は防げるって、だから、」

 それしか選ぶことを許さない状況に追いやり、しかし最後は本人に選ばせる。性質の悪い策だ。
 ソラとアマトを狙ったのは、透火を足止めさせないためか、あるいは脅しか。 
 少しの間言葉を交わしただけだが、透火をここまで逃した占音のことが気にかかる。 銀鎖の鈴は、彼が持っていたはずだ。

「当主様の力を借りて、銀鎖の鈴を取り返したの」

 肩を震わせ、ソニアが呟く。ぽたぽたと胸元に落ちて滲みを広げる涙は、透火の手を嫌って逃げた。 
 彼女が悲しむと透火もどうすればいいかわからなくなる。自分に付き合わせたがために負傷した二人のことも、見捨てられない。 

「ソニ──」

 相槌と、話を促すつもりで名前を呼ぼうとすると、潤んだ瞳で透火を睨み、ソニアが鈴を投げつける。
 反射で受け取ってから、鈴が鳴って、慌てた。 

「あんたなんか、ただ顔が似てるから拾われたくせにッ!」 

 足元が輝き、魔法陣が現れる。 
 抵抗する間もなく、透火は風に呑まれてしまった。 







 冷たさと、湿った土のような匂い。どこか黴臭さを思わせる、内腑に滞っていく空気。
 硬い床の上に落ちたような、記憶があった。 
 痛みがだんだんと意識に呼びかけてくる。目を覚ませと言われたような気がして、ふと透火は自分の身体の感覚を思い出した。 
 鈍い音がした。遅れて、荒い息遣いが聞こえる。 

「やはり、他種族の人間は信用ならんな」 

 コツ、と革靴が床と擦り合う。音は段々近付いて、こちらにやってきているようだ。 

「私の部隊を向かわせようか? 紫亜」 
「構わん。どの道、種族内でも立場のない人間だ」 
「左様。憐れな子供よ」 
「そいつから、離れろ……ッ」 

 どれも、聞き覚えのある声だ。
 薄っすらと目を開けると、目の前に紅が広がる。逆光のせいで、赤が黒ずんで見えるのだろう。嫌な色だ。 
 この国でその色を身に付けることができるのは、一人しかいない。 

「目が覚めたか、透火よ」 
「……その、声は」 

 鎖同士がぶつかり合って、細やかな音を立てる。ソニアに投げつけられたまま、持っていたのだ。
 しっかりと鈴を握り締め、上体を起こす。 
 視界はまだはっきりとせず、頭の中が振動しているような眩暈に似た感覚に吐き気がした。 

「遠路はるばるご苦労だった。得たものはあったか?」 

 立ち上がることは出来ない。けれど、片膝をつくのも頭を垂れるのも嫌で、無理やりに透火は顔を上げる。 

「私は、あれに条件を出していた」 

 一呼吸の沈黙を挟んで、紫亜が語り出す。その背中に光が当たって、透火に落ちる影が濃くなる。 

「基音を目覚めさせれば、継承権を与える。だが、あれはその選択肢以外で継承権を得ようとし、それから数年の月日が経ったが変わらぬまま。
 退屈で、無駄な時間だった」 

 目を眇めてようやく焦点が合う。
 無表情に、氷のような冷ややかさで尋ねる紫亜に、透火は震えそうな手を強く握りしめて、言葉を返す。 

「……基音は、種族の象徴とも呼べる、存在です。

 いくら国王の嫡男といえど、それは他の継承権を持つ王子や公爵たちと……、差を生むのではないでしょうか」 
 この男の、全てを自己基準で判断していくその姿勢が、心底苦手だった。 

「何故、その差が必要だ?」 

 彼の背後に視線を投げると、離れた場所にエドヴァルドと、鎖に繋がれた占音の姿が見えた。
 宙吊りにされた彼の体には、無数の傷が刻まれ、流れていた血はとうに固まっているようだ。

「透火。いいから、逃げろ」

 二人の従者の顔が浮かぶ。悔しさと憤りとを歯軋りで堪え、態勢を変えた。 
 片手を頼りに、立ち上がる。
 暗がりの中、占音とエドヴァルドの立つ場所にだけ光が差し込んでいる。 
 見覚えのある景色だった。 月読の塔だ。 

「差があれば、人間は有利な方を勝手に判断し、その先を委ねるでしょう。それが、誘導されたものであっても」 

 答えには満足したか、片眉を吊り上げて、紫亜が背を向ける。透火の剣を誘う罠に見えて仕方がない。 

「……あれが枯れ草色の軍服を着用している理由を、お前は知っているか?」 

 隙を伺い剣の柄に手を掛けたところで、紫亜が新たに質問を投げかける。
 その内容が内容で、透火は一瞬、目を見開いた。 知らない、とも言えず、知っている、とも言えない。 
 芝蘭が実の父親である紫亜に対し、相当のコンプレックスを抱いていることは知っている。幼心ながら、紫亜の芝蘭への態度は不快だと思うものであったし、それでも芝蘭が父親に認められようと必死に頑張っている姿に、どうしようもないもどかしさを感じたことは、たくさんあった。 

「あの色は、国の滅亡を望む色だ。私が築き上げたこの国を滅ぼし、新たな世界を見出したいとでもいうような。……あれがどう足掻こうと構わんが、見苦しい真似を続けられるのは疲れるものだ」 

 母親とも会えず、父親にも認められず、あの広い場所で彼がどんな孤独を抱えて生きてきたかを、透火は知っている。 
 自分だって欲しいものを、芝蘭は惜しむことなく透火たちに与えてくれた。そのおかげで今があり、自分があるのだと透火は胸を張って言える。 
 そう思うからこそ、目の前の男の言葉は侮辱にしか聞こえなかった。
 数え切れないほど嫌味も侮辱も受けてきたが、透火にとって最も許せないのは、芝蘭を貶める言葉と、行為だ。部外者を決め込んで、安全な場所でぐちぐちと言うだけしかできない人間に、どうして彼を責められよう。 
 数歩の距離を取り、再び紫亜が振り返る。 

「透火、取引をしよう」

 逆光で、その歪んだ顔は暗闇に溶けた。 

「今度の基音はお前だ。お前がそのまま基音になるというのなら、私はあれに王位継承権を授ける。継承権の中でも、最上位のものを」 
「お断り、申し上げます」 

 怒りのままに足の位置を変えた。芝蘭がそうであるように、紫亜も長身の武人だ。透火の身の丈ですら目線を合わすには難しく、年の功に体格差は歴然。気迫で押し負けたくない。 

「俺は従者をやめました。そして、今をもって、軍人もやめる。ただの平民に戻ります」 

 剣を抜いたのは一瞬。錫杖で刃を止め、紫亜は剣から透火にゆっくりと目線を移す。 

「……それで、どうすると」 
「俺は、芝蘭の親友です。友人が困っているのならば、助けるのが道理だ」 
「反逆罪となっても、か」 
「は、なにを仰ってるんですか? 貴方自身が仰ったんですよ、『今度の基音はお前だ』と」 

 綱渡りに似た言葉の応酬に、冷や汗が首筋を伝う。 
 基音とは、そうあるだけで無条件にその種族の中で優位に立つ。王族と同等、人によってはその上をいく立場として置かれる。ただの平民であれば反逆罪と見なされる行為も、基音であらばそうならない。 
(確証は、ない、けど)
 外気は冷えているのに、顔が熱い。この熱は、どの熱だろうか。 
 庇護される場所から、庇護する側へ変わる覚悟か。勇気か。それとも、自分の力で立つことができると知った、喜びか。 
 一歩も引かない透火の様子に、紫亜が大きく吐息した。錫杖の飾りが、さらさらと雪のような音を立てる。 

「気に食わんな。なにをそこまで、あれに拘る?」 

 心の底から理解できないと言いたげな様子だった。そっくりそのまま言葉を返してやりたいほど、純粋な、疑問。 
 かつて、彼の隣には透火の父親がいた。父は何を考え、彼のそばにいたのか。何を思い、彼に仕え、命を落としたのか。
 透火には、目の前の男が忠誠を尽くすに足る者に、見えなかった。 

「貴方が、実の息子ですら家族と認めないその態度が、気に入らない」 

 柄を握る手に力を込め、腕を引く。隙の無い相手にどのように隙を作るかが、重要だ。 
 鎖に繋がれた占音をどのように助けるか。年老いたとはいえ、エドヴァルドもかなりの実力を持つ武人だ。透火一人でどうにかなる相手では、ない。 
 それでも、やり遂げたいと思った。 

「……では聞かせてもらおう、透火。お前の言う家族とは、なんだ?」 

 覚悟を決めたところで、不意に、紫亜が問いを投げた。 

「血の繋がりが、家族という理由か? ならば、お前には家族など一人も居ないことになるが、透火」 
「なにを……」

 聞いてはならない問いだった。
 気付いた時には、もう、遅い。 
 かたと指先が震え、次に、膝が笑った。 
 言葉に足場を崩される感覚は、最も気分が悪いものだった。 

「家族を持たない人間が、何を理由に家族を知っているというのか? なあ、透火よ。お前が言うそれは酷く滑稽で、つまらないな」 
「俺には、透水がいます」 

 剣の切っ先を向ける。身体の震えが剣の先揺れに現れ、羞恥と悔しさを堪えて歯を食いしばる。力を入れすぎて、唇の皮が破れたようだ。血の味が舌を麻痺させる。 
 見るからに影響を受けている姿に、紫亜は微笑む。 
 暗闇に浮かび上がる、不気味な三日月を彷彿とさせる、そんな笑みだ。 

「お前も気付いているだろう? お前とあの子は種族から違う。両親も知らぬお前が、どうしてあの子を自分の弟だと言い切れる?」 
「それは……」 

 言葉を失い、立ち竦む。 

「透火! 聞くな!」

 鮮やかな感情の変化を愛おしむように、彼は歪んだ笑みを白い手で隠した。 

「……嗚呼、お前は面白いな、透火。父親にそっくりで、──憎くてたまらない」 

 指を鳴らして、彼が両手を拡げる。その片手には、銀色に輝く鎖が絡まっていた。 

「! なんで──ッ」 

 手元を確認したが、透火の手の中に銀鎖の鈴は収まったまま。 偽物を掴ませられたのだとしたら、ソニアが取った行動の意味は、一体何だったのか。
 嫌でもわかる。全てはこの時のために用意された出来事だったのだ。動くこともできないまま、銀鎖の鈴の音色を耳に聞く。 

「時は満ちた。プラチナよ、頼むぞ」 
「承りましてよ」 

 第三者の声がして、足元に魔法陣が現れる。 
 月読の塔だと思っていた空間が歪み、浮遊感に見舞われると同時に、視界いっぱいに広がる蒼空。 
 太陽は真上にあるのか、白い光に目が焼かれる。 
 眩む視界の端で、銀色に輝く何かが飛んだ。 

「『世界の穢れに 涙せよ』」 

 美しい少女の声が、刻を告げる。 

「『空の彼方に望む光 
   雨の記憶に隠れた力 
   大地に根付いた命の温もり 
   木々に宿りし言の葉を 
   唄うは其方 
   音を奏で 舞い給え 
   時は 来れり』」 

 風に負けそうな瞼をこじ開け、身体の向きを落下方向に変える。 
 見覚えのある館、大勢の人。
 バルコニーの上に立つ人物が、こちらを見上げた。

「し、ら」 

 目が合ったような、気がした。 

「『目覚めよ、基音』」 

 鈴の音が、空を支配した。



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