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終わりのない青
しおりを挟む私の初恋の人は、写真の中でいつまでも笑っている。
チャイムが鳴ると同時に、私は鞄を持って、教室を出た。
高三最後の夏。心配だのなんだのと騒ぐ親に追い出されて通い始めた夏期講習。普通なら、塾に行くことにも慣れ、仲の良い知人の一人と和やかにプールに行こうか、なんて話し合う頃。だというのに、挨拶もおざなりに、私は階段を降りて行く。
一段飛ばしに足を伸ばして、上ってきた人と踊り場ですれ違い、速度を落とさず一階へ。
滑りそうな白いフロアと四角い玄関、外履きのローファーが乾いた音を鳴らす。つま先を押し込むようにして靴を履く。
透明扉を押し開いて、蒸し暑い湿気の渦に飛び込んだ。
八月一日、金曜日。天気は快晴、気温は上々。
今日は、ヴァイオリンの地区大会が開かれる。
初恋の人と出会った時、私は小学生になったばかりだった。
「僕はね、いつき。やまだいつき、って言うんだよ」
6歳年上の男子中学生だった彼は、黒縁メガネの奥に茶色の瞳を輝かせて、私に笑いかけてくれた。成長期手前らしくぶかぶかの制服を着て、思春期らしく、どこかひょうひょうとしたところがあった。
姉の友人の、ひとりだった。
「君の名前は?」
「みのり!」
姉の友人は遊びに来ることが多かったけれど、彼だけは、私とまともに会話をしてくれた。ゲームをしていても、外で遊んでいても、ひょいと振り返っては笑いかけてくれる。
「ねえねえ、いつきくんって、呼んでもいーい?」
「いいよー」
「メガネ貸してー?」
「それはダメ」
彼のことだけは何時までも忘れることがなかったし、遊びに来なくなってからも、よく覚えていた。
家に遊びに来る時間が長かったし、中学生になって弾け始めた姉が、携帯に残したいろんな写真を見せてくれたせいもあったと思う。体育でサッカーに励む彼、バスケをする彼、教室でうたた寝をする彼。今振り返れば、それはちょっとやりすぎでは、と思えるのに、その時はどこか後ろめたい心地よさに流されて、じっとその写真を眺めてしまうくらいには、夢中になっていた。
私が一番好きな写真は、ヴァイオリンを弾く、その人の姿だ。
ヴァイオリニストを目指したわけでもなく、習い事で始めた楽器を、趣味で続けているんだって、と姉から教わった。なんてことのない、普通の人みたいな言い方だった。
けれど、当時の私にとって、見たこともない楽器を巧みに操る彼は、魔法使い以外の何者でもなかった。
ピアノとボーカルを担当する姉とその人は、写真の数だけ一緒に練習をして、ピアノを習っていない私が詳しくなるくらいには、人を巻き込むのが上手かった。夢中になって、勉強も忘れてお父さんに怒られて、お母さんに呆れられて。そのくらい熱中して、二人は音楽を弾いて、輝いていた。
私が中学生だったら、高校生だったら。そんな風に思うくらいには、羨ましかった。
交差点をいくつか抜けて、青信号になる度に走り続けた。既に汗だくで、制服は下着と一緒に背中に張り付いてしまった。頬や首筋を伝う汗が気持ち悪い。タオルで拭いたいけれど、その暇は一分もない。
あと数分で高校生部門が始まる。制汗剤を持ってくればよかった、信号待ちで足踏みをする私の手には携帯しかなく、通知が何件か画面に表示されている。
青信号で、太陽の下を走る。真っ直ぐ、緩やかな坂を上っていけば階段があり、上方に会場の屋根が見えた。
「実里ー!走れー!」
「わ、わかって、るっ!」
向日葵のように弾ける、ハスキーな声が名前を呼んだ。
階段の一番上で、誰かが片手を振っている。マスクを顎にずらして、田舎の不良みたいにピアスに染めた髪を合わせた、男子高校生。私とは違う緑とベージュ色の制服には、汗の染みがうっすらと滲んでいた。
彼は、相川杏くんという。南を通る太陽を背に受けても、笑顔が影にならないたくましい少年だ。
私が壇上に両足を着けるまで、相川くんは黙って待っていてくれた。
「ま、間に合っ、た……?」
「なんとかなるだろ」
自然に手を繋いでくるから、抜目がない。息切れをして、汗で目を開けていられない私の手を引いて、歩き出す。やっと顔を上げた私に、相川くんは晴れ晴れとした顔で笑いかけて、意気揚々と会場内へ入っていった。
冷気が汗を吸い取って、騒がしくまとわりつく暑さを拭う。
重厚な布張りの扉を、押し開ける。
拍手の余韻が、私を包んだ。
数百人がいるとは思えない張り詰めた空間に、ヴァイオリンの調べが響く。私の目当ての人ではない。ほっと胸をなで下ろした。
相川くんは、私を一層引き寄せて、他の観客の邪魔にならないようにと、ぐっと屈ませた。いつもなら反発するところだけれど、場所が場所、私は大人しく相川くんに従って空いた席に腰を落ち着ける。
「何番、だっけ」
「15番」
「良かった、間に合、」
それ以上は隣の女性に睨まれて、声に出来なかった。
私が『その音』を聞きに来たように、今誰かが奏でる音も誰かが聞いている。邪魔をしてはいけない。わかっているけれど、この日を待ちすぎて、間に合うか心配で、胸が苦しかった。我慢していた興奮が、つい口を出そうになる。
早く聴きたい。聞かせて欲しい。
あの音を。
「……あの人が、一番楽しみにしていたんだろうな」
言葉にできない私の代わりに、ぽつり、と相川くんが呟いた。
──そう。初恋のあの人は、ここにはいない。
神様が、天に摘み上げてしまったから。
気がついた時には、何人もの出場者が終わっていた。
「エントリーナンバー15番。山田杳さん」
慌てて背を起こして、壇上へ視線を走らせる。汗はとっくに乾いてしまって、むしろ肌寒さすら感じた。
「寝てた?」
「寝てない」
からかう相川くんを睨み返して、大きな深呼吸を、ひとつ。
瞬きをする間に、次の出場者が登壇する。
スポットライトを浴びて壇上を歩く男子高校生に、私の目は釘付になる。真っ黒い制服に、真っ黒い髪、伺えない表情。顔に合わない、大きい黒縁メガネがきらりと光を反射する。
山田くんと私は、同学年にして、テストの順位を争う仲だった。学校では素朴で目立たない山田くんは、あの場所にいるだけなのに存在感が違う。音を鳴らしていないのに、山田くんの実力を知っている耳が、緊張する。早く聴きたい、という気持ちと、この先に待ち構えるどうしようもない結果を知りたくない気持ちとが、私の心を騒がせる。
山田くんが、弓を構える。弦にそっと乗せるだけなのに、その佇まいに息を呑む。
力強い最初の一音が、私の肌を震わせる。ヴァイオリンが、あの夏を奏でていく。
この時を、ずっと待っていた。
山田くんのヴァイオリンの音が、記憶の中の音と重なって、魔法が解けていく。
情熱に溢れているのに楽譜通りを奏でる機械じみた音。私が唯一覚えている、初恋の音。
一つも音を間違えないで、一拍の遅れもなく旋律を紡いでいく。
初恋のあの人が、努力しても敵わないと認め、愛した音だった。
「来たんだ」
「……来ましたけど」
大会が終わり、銅賞を受賞した山田くんは、あの時の気迫が嘘のように素っ気なく私に驚いてみせた。
会場から人が出て行く波を避けて、外の階段付近で待ち合わせた私たちは、傾いた陽の光りを頬に受けながら山田くんを労う、はずだった。
「へえ」
無感動な返答に、一生懸命に走ってきた時間を馬鹿にされたような気になる。ヴァイオリンへの賞賛を喉元に引っ込めて、私は口をへの字に押し曲げた。
せっかく、すごかったって言おうと思っていたのに、どうしてこうも山田くんは憎たらしい口を利くのだろう。
……せっかく、聞かせてくれてありがとう、って言えると思ったのに。どうして私は、こうも素直になれないのだろう。
「まあまあ。実里のやつ、あまりに感動して涙ぐんでたから許してやれよ」
「ちょっと、相川くん!」
拗ねた途端に、相川くんのデリカシーのない報告が飛ぶ。鑑賞や嬉しさや感動みたいな気持ちが、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
「そうなんだ」
やはり無感動に応えて、しかし、いつもは相川くんに味方をする山田くんが、この時は意外そうに瞬きをして私を見つめる。
そして、表情を崩すように、はにかむのだ。
「君がこの音を好きらしいと兄さんが言っていたけど、嘘じゃなかったんだ」
熱く、湿った風に黒い前髪をなびかせて、山田くんはメガネの奥に懐かしさを灯す。
「よかったよ、変わらなくて。僕にはもう、分からないから」
初恋のあの人が、何よりも愛した音を奏でておきながら、山田くんは寂しげに呟いた。
彼は知らない。
生きていた頃、初恋のあの人がどれ程その音を羨み、望んだか。彼がなりたいと願い、周りが彼のものだと勘違いする程には愛し、欲したあの音を、自分自身が持っていることを。
でも、知らないからこそ、奏でられる音もあるというわけで。
彼が弾き続ける限り、初恋のあの人はいつまでも記憶から消えることはないし、彼が知らない限り、初恋のあの人が愛した音は続いていく。
青空の下、アスファルトに影を落として、私はそっと微笑む。
私の初恋の人は、夏に輝くあの音と共に、今日も生きていく。
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