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異なる時間軸のお話たち
あおの図書館
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灰銀の瞳に、青い髪が影を落とした。
上部をステンドグラス、下部をガラスとした半楕円の窓の前を通り過ぎたのだ。
白の制服は、襟足の青線一本を除いて異なる色を持たず、靴下と靴の爪先だけが、人の様に明るい茶色を宿している。紺の絨毯を優しく踏み付け、進み行くそれは、片胸に《司書》と書かれたネームプレートを付けていた。
司書の運ぶ書物は、利用者の数だけ多くなる。青線をなぞれば、背表紙に付けた魔力が働き、書物はたちまち浮かび上がる。関節の磨り減りを極力避けたこの仕組みは、建物を設計した時から存在する古き良き魔法だ。
設計者の名は、スミス・ギャビン。晩年は絡繰と書物をこよなく愛した、今は亡き世界の巨匠である。人間でありながら魔法を愛し、人ならざるものに寄り添った彼の建物は、種族を問わず大事にされた。
ここは色彩シリーズと呼ばれる建築群の一つ、青の図書館。妖精の創る書物を護り、言葉の波とたわむれるために造られた、書物の海だ。
その日、スイが初めて──たった一人で──図書館を訪れたのは、大雨で暗くなった昼下がりのことだった。
着ていたカッパと長靴は水びたし、スイのあわい色の前髪も、ぽたりぽたりと雫を垂らす。カッパと傘を所定の位置に引っ掛けて、ズボンで手の水気を取る。母親が厳重に袋で包んでくれたお陰で、返すべき図書は濡れずに済んだようだ。乾いた表紙に、ホッとスイは息を吐く。
キッチョン。耳障りな、けれどどこか嫌いになれない音を長靴が鳴らす。
同じ袋には、利用者カードが入っていた。入館の判子を貰うことで、図書館の中を歩き回ることができるらしい。スイの手のひらほどの大きさの、黄ばんだ、よれよれのカードは半分ほど朱色に染まっている。長靴と石床の音を聞きながら、受付を探す。
図書館の壁は石のように灰色で硬く、ひんやりとして、素っ気ない。心持ち距離を取って歩きながら軒下を辿っていくと、大きな漆塗りの扉が見えてきた。その手前、スイから近い方に、焦げ茶色の木で出来た障子のような壁がある。木目に閉ざされているが、ここが受付だ。
「こんにちは」
職員と顔を合わせられない造りのそこは、返事の代わりに、小窓からぬっと判子を持って手が出てくるのだと、母親から聞いていた。青白い手は柳の幽霊のように不気味にぬらりと現れ、スイは恐る恐る、カードを差し出す。ぽん。判子を押されてホッとすれば、スイの目の前から退いた手が、内側から小窓を閉めた。
空いた片手で、鞄を持ち直す。
利用者カードと図書を持って、いざ、扉を開ける。目指すは、三階のカイカトショだ。
まず目に入ったのは、ずらりと縦に並ぶ階段だ。次に、視界の両端から奥へと続く、隙間一つなく収められた図書に目を見張る。階段の裏手にも棚が並び、遠い窓から差し込む光を等間隔に区切っていた。空気の流れはありながら、どこかじめじめとして暗がりの一階は、スイの想像する図書館そのものだ。
閉架、開架の区別も付かないスイには、棚に陳列された図書は全部同じに見える。かろうじて、大きさの違いがあることは見て取れて、手の中の図書と比べてみた。並ぶ図書はどれも二倍は大きく、辞書のように分厚い。もとより、この図書の返却先は一階ではなかったけれど、スイは少しがっかりしながら棚を見上げた。
思い立ったように駆け足で階段を上る。長靴の鳴らす音が、雨に近付いた。
今度は、ソファが三つに、クッションやぬいぐるみが用意された小さなエリアがスイを迎えた。たんけん広場と名付ける看板が入り口に立ち、そこで靴からスリッパへと履き替えるようだ。遊び相手に放置されたらしきイルカのぬいぐるみが、スリッパの横で、じっとスイを見上げる。もうそういったものに興味がなくなっていたスイは、居心地悪さを覚えながら、イルカをそっとクッションの上に置いて逃げた。
この周囲をなんとはなしに歩くと、棚に並んだ全ての図書が、絵や大きい文字でいっぱいだと分かる。スイが読んだことのある絵本もあり、手を伸ばしかけたところで、本来の目的を思い出して首を振る。
昼間は窓の採光だけで明るさを保つ二階は、今日ばかりは薄暗く、仕方なしと言わんばかりに灯りがぽつぽつ点いている。歩くと二重に影が伸び、重なり離れてはスイの後を追う。たんけん広場から遠くなるにつれ、段々、スイが習う学習書が置かれる棚が増え、そこまでくると、二階へ来た階段が真正面に見えるようになった。この頃にはもう、絨毯に水分を奪われて、長靴も乾き始めていた。
吹き抜けに階段が重なり、天窓から満遍なく光を受ける。雨が絶え間なく落ちてくる。空は暗かったはずなのに、天窓を通せば不思議と薄曇りに見える。
「こんにちは」
まさにスイが手すりに手を掛け、片足を踏み出そうとした矢先。上の階から、声の主が顔を出す。
深い青色の髪に、人間では持たない灰銀の瞳。造形が整いすぎて人形じみて見える白い服のその人は、片胸に『司書』の文字を提げていた。
青の図書館にはね、青い髪と灰銀の目をした、本の守り人がいるの。
母親の声にかぶさるように、司書が襟足に手を伸ばし、青線に触れる。
「ご返却ですね。ありがとうございます」
玻璃の声がうたい、人差し指がなぞるや、本はゆらりと淡い光をまとってスイの手から離れる。浮かんでいくそれを追いかけるように階段を上って、スイは司書と同じ場所に立った。
司書は微笑み、膝を折った。まるでスイを主人とするように、丁寧に品良く、礼をする。
「初めまして。私はこの図書館を管轄する司書、ジュライと申します」
「……スイです」
「スイ様。この度は初めてのご来館、誠にありがとうございます。カードを発行いたしますね」
本を返却に来ただけなのに、司書はにこりと微笑み、片手を傾け古き良き魔法でカードを生み出す。水や泡のような輝く薄い膜がスイの名前を象り、宙に浮かんだカードに収まっていく。
手元に降りてきたそれを手に取ってから、慌ててスイは差し出した。
「違う。ここには、本を返しに来ただけで、カードをもらいに来たんじゃない」
司書はスイの様子をじっと見つめ、時間をかけて立ち上がる。司書の動きに合わせて、スイの持っていた図書もふわふわと高さを変えて、その背後で浮遊していた。
両の手を腹の上に重ね、灰銀の瞳が瞼の影に消える。
「申し訳ございません。本館はカードのない方の立ち入りを禁止しております。ご容赦ください」
「ごよーしゃ……?」
「お時間はございますか?初めての方にはご案内するよう、言いつけられておりまして」
難しい言葉に戸惑っているうちに、話は移る。司書が進行方向へと半身を引いて動かないのを見て、しぶしぶ、歩き出した。
スイと頭一つ分背丈の違う司書は、スカートのようなコートのような、長い上着を着ていた。白色のせいで、影が一層濃く見える。
「ここには、多くの図書が眠っています」
雨の音に包まれた館内を、司書の声が波のように反響する。
「まずは蔵書の分類から説明しますね。一階は旅の記録、人の一生を記した伝記を揃え、二階は言葉との出会い、法則を学ぶ絵本や参考書、辞書を多く揃えています」
一階とも二階とも違い、三階は無駄な隙間もなく図書の棚が並んでいる。棚を過ぎるごとに、湾曲した手すりや椅子の端が見えて、棚の向こう側には好きなように立ち止まり、読める空間があるのだと見て取れた。入り口のあった方を除いた三方の壁には窓が一つ二つはめ込まれ、最小限の明かりを室内に採り入れる。他の階と同様に、等間隔に並べられた棚には図書が所狭しと置かれ、この中から一冊を探し出すのも苦労しそうだ。
端にはアルファベットと数字が書かれていて、歩いていく方向に数字がどんどん小さくなっている。
「三階は、言葉に触れ始めて楽しみを見出し始めた方が楽しむ、お話や物語を並べております」
「こんなに?」
「ええ、こんなに」
ようやく自分から口を開いたスイに、ふふ、と微笑みを返して司書が先に立つ。
エルの文字が掲げられた棚の前で曲がり、本棚の間に挟まれる。首を巡らせると、均一に並べられた図書が次の読み手をじっと待っていた。空白は今此処にはない図書の存在を目立たせていて、どの本も存在感が強い。
二つほど棚を過ぎ、位置のずれた椅子の横を通って一つ目の棚の前で司書は立ち止まった。
「おかえりなさい」
浮遊していた図書が、収まる場所へと吸い込まれていくのは一瞬だ。スイがぱちりと瞬きを終えた時にはもう、どこにあったのか分からない。きょろきょろと見渡して、振り返ったところで司書と目が合う。
「気になる本が、ありましたか?」
「……ううん」
読みたい本を探していると思われたらしい。司書の使う古き良き魔法が、何かしたのだろうと納得して、素直に否定する。
けれど、司書には異なる声が聞こえたようだった。スイが首を振るのを見ていながら、小首を傾げ、まるで時間を止めたように静止する。人間らしくない動きに、どきりとしたところで、司書が瞬きをした。
両手の指先を合わせて、ぴょん、と飛び跳ねる。
「スイ様を呼ぶ本があるようです。ご覧になりますか?」
「呼ぶ?」
「ええ。こちらへ」
司書が導く方へ、歩き始める。
スイと司書の二つの影が床に伸び、その間を、ゆらり、影が泳いだ。
「この図書館は言葉の浜辺と呼ばれています。溢れかえる図書の海、その海に慣れない読者に遊び方を教えるため、スミス・ギャビンが考案した役目です」
「……ふうん」
「つまりですね。スイ様と遊びたいと、本の方から話しかけてきたのですよ」
畏まった言葉を使う司書が、スイの反応にはじめて、やわらかな言い方をした。きっちりとした服に皺を付けて、視線を合わせる。
銀色とも灰色とも言い表せない瞳に、スイの顔が映った。黄茶色の前髪に、まるい碧色の瞳。頬の円やかさの目立つ自分の顔に意識が向き、突如、浮かび上がった魚の影に驚いた。
「うわあ!」
魚が目の前に現れたのかと後退り、そのまま、尻餅を付く。冷えた床がスイの体温を奪い、一瞬の恐怖を吸い取って、代わりに痛みを渡してきた。じんじん、熱を帯びた手や脚に、ぐっと浮かんだ涙を堪える。
司書はそんなスイに手を貸さず、膝をついて何かを差し出してきた。
「こちらの本のようです」
「え?」
それは、深い青の表紙に銀色の枠を持つ、一冊の本だった。
《OUR SEACRET AQUARIUM》
表紙には、タイトルと少年のシルエットが銀色で彫られ、動物の皮で作られた表面がスイの手にしっくりと馴染む。
分厚さは母親の借りていた図書の半分、はらりとめくるとスイの使う教科書よりも黄ばんだ紙がとじられていて、少しだけ小さな文字が並んでいる。
「これ、何の本?」
スイが尋ねれば、応える前に、司書はスイと本に手を貸し、引き上げた。
驚く前と同じ態勢に戻って、司書と同時に瞬きを一つ、表情を改める。歌いだしそうな、明るい表情に変わる司書の顔を、見つめていた。
「本は、どこかで生きた、誰かの時間を残します」
スイの手もろとも、本を包み込むように司書の手が重ねられる。図書館の壁と同じくらいに冷え切った、柔らかい手だった。
「これはスイ様と同じ年頃の男の子が、水族館で一人の女の子と出会い、秘密を見つける物語です」
真っ直ぐスイを見つめて紡がれた言葉に、息を忘れる。一瞬だったかも分からない時間をかけて司書を見つめ、気付いて直ぐに手を振り払い、本を腕に抱える。かしゃり。銀枠がスイの腕の中で擦れて、音を鳴らした。
「ちなみに、その本の秘密は、銀枠を外すとわかります」
片目を瞑り、司書が人差し指を立てるので、言われた通りにスイは銀枠に手を伸ばす。
外そうと力を込める間も無く、スイが銀枠に触れると、それは生き物のようにひとりでに本から外れて、銀の色だけを本に残して魚のような形を作る。骨組みだけだが、図鑑の好きなスイには何の形か直ぐに分かった。
「クジラだ……!」
「生きた骨組みです。古き良き魔法により、読者が物語を読み進める度に、男の子の見た生き物の形を作ります」
「すごい、これ、勝手に動くの? すごいね」
「興味を持ってもらえて、嬉しいです」
どうやら骨組みは表紙の陰に隠れていたクジラの形を取っただけのようで、少しの間を置くと再び枠の形に戻っていく。
本はスイの手元で眠ったまま。枠が周りを囲んでも、お構いなしだ。けれど、すっかりスイはこの本の虜になった。他にどんな形をするのか知りたくて、母親にこんな本があるのだと伝えたくて、本を大事に鞄にしまう。
「ご利用、ありがとうございます。本の返却期限は、一ヶ月。期間を過ぎますと本は自動で戻り、しばらくの期間、借りることができなくなりますので、お気をつけ下さい」
「うん。ありがとう、司書さん」
礼を伝えた途端、一拍の間を置いて、これ以上ないほどの笑顔と共に司書は両手を組んだ。
「はい、司書です。今日はご来館、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
たたた、と駆け下りる音が響く。訪れた少年が、本と出会いを果たしたようだ。
「スミス。スイ様はお帰りになりました」
「そのようだね、ジュライ」
窓の光を受け床に落とすのは、クジラの形を作る影だ。司書はスイの前で見せた笑顔を失って、影を見上げる。
「今の話は、お前の何ページ目に書き込まれたかい?」
「七百四十六ページです」
影は音もなく膨れ上がり、縮んで、不均一な線を頼りに形を保つ。
目を凝らせば分かるが、人の目にはおそらく、この影は文字の黒い集まりに見えるはずだった。ヒレの形を取った文字の集合体が、質量も持たずに司書の頬をなぞる。
そのまま深い青の髪を払い、肩の埃を払った。
「良いね。七百四十六年、丁度君たちの名前の由来が決まった。カレンダーと言うのだがね、人間たちは皆、その時ようやく、等しく同じ時を刻み始めたんだよ」
「ジュライも、その時に生まれましたよ」
「そうか。君も、そうだったか」
孫に語り聞かせるような言い方で、クジラの形を模した文字の集まりは宙を泳ぎ、本から文字を奪っては返していく。
スミス・ギャビンはかつて、確かに人間であった。今も残る数々の建物を生み出した彼は、志半ばで寿命を迎えるも、その比類なき才能を惜しんだ妖精たちの力により、再びよみがえる。
はじめは建築の完成を、次は新しい箱庭を願われ、いつしか妖精の紡いだ人形が住まう図書館を築くようになった。
「次も、彼が来ると良いね」
人形は等しく吟遊詩人と呼ばれ、生まれた月の名を与えられる。ジュライも例によって、六月に生まれた吟遊詩人という意味以外に、何も持たない。
司書としてここに住むジュライは、青の図書館の吟遊詩人となる。始まりと終わり、その二点を結ぶジュライは、図書館が崩壊するその時ようやく本となり、ここに在った全ての書物の記憶と共に、他の図書館の蔵書となる。それまではただ、こうして、人間の代わりに蔵書を管理し、人間のように振る舞い、図書館の役目を果たしている。
ギャビンの生み出した色彩シリーズは、全てが妖精の生み出した奇跡の本を宿す。
膨大な時間を言葉で紡ぎ、新たな時間へと繋いでいく。図書館も、本も、本となり逝く吟遊詩人も、この世に存在する生命一つ残らずが、繋ぐ存在だ。
尾びれを動かし、人気のない館内を泳ぐ。文字の集合体に手はなく、インクだけが文字を作り、線を生む。そう、人間でなくなったギャビンも、その一つであることから逃れられはしない。
「はい。ここは、言葉の海ですから」
森閑とした青の図書館に、さざ波のような声が響いた。
上部をステンドグラス、下部をガラスとした半楕円の窓の前を通り過ぎたのだ。
白の制服は、襟足の青線一本を除いて異なる色を持たず、靴下と靴の爪先だけが、人の様に明るい茶色を宿している。紺の絨毯を優しく踏み付け、進み行くそれは、片胸に《司書》と書かれたネームプレートを付けていた。
司書の運ぶ書物は、利用者の数だけ多くなる。青線をなぞれば、背表紙に付けた魔力が働き、書物はたちまち浮かび上がる。関節の磨り減りを極力避けたこの仕組みは、建物を設計した時から存在する古き良き魔法だ。
設計者の名は、スミス・ギャビン。晩年は絡繰と書物をこよなく愛した、今は亡き世界の巨匠である。人間でありながら魔法を愛し、人ならざるものに寄り添った彼の建物は、種族を問わず大事にされた。
ここは色彩シリーズと呼ばれる建築群の一つ、青の図書館。妖精の創る書物を護り、言葉の波とたわむれるために造られた、書物の海だ。
その日、スイが初めて──たった一人で──図書館を訪れたのは、大雨で暗くなった昼下がりのことだった。
着ていたカッパと長靴は水びたし、スイのあわい色の前髪も、ぽたりぽたりと雫を垂らす。カッパと傘を所定の位置に引っ掛けて、ズボンで手の水気を取る。母親が厳重に袋で包んでくれたお陰で、返すべき図書は濡れずに済んだようだ。乾いた表紙に、ホッとスイは息を吐く。
キッチョン。耳障りな、けれどどこか嫌いになれない音を長靴が鳴らす。
同じ袋には、利用者カードが入っていた。入館の判子を貰うことで、図書館の中を歩き回ることができるらしい。スイの手のひらほどの大きさの、黄ばんだ、よれよれのカードは半分ほど朱色に染まっている。長靴と石床の音を聞きながら、受付を探す。
図書館の壁は石のように灰色で硬く、ひんやりとして、素っ気ない。心持ち距離を取って歩きながら軒下を辿っていくと、大きな漆塗りの扉が見えてきた。その手前、スイから近い方に、焦げ茶色の木で出来た障子のような壁がある。木目に閉ざされているが、ここが受付だ。
「こんにちは」
職員と顔を合わせられない造りのそこは、返事の代わりに、小窓からぬっと判子を持って手が出てくるのだと、母親から聞いていた。青白い手は柳の幽霊のように不気味にぬらりと現れ、スイは恐る恐る、カードを差し出す。ぽん。判子を押されてホッとすれば、スイの目の前から退いた手が、内側から小窓を閉めた。
空いた片手で、鞄を持ち直す。
利用者カードと図書を持って、いざ、扉を開ける。目指すは、三階のカイカトショだ。
まず目に入ったのは、ずらりと縦に並ぶ階段だ。次に、視界の両端から奥へと続く、隙間一つなく収められた図書に目を見張る。階段の裏手にも棚が並び、遠い窓から差し込む光を等間隔に区切っていた。空気の流れはありながら、どこかじめじめとして暗がりの一階は、スイの想像する図書館そのものだ。
閉架、開架の区別も付かないスイには、棚に陳列された図書は全部同じに見える。かろうじて、大きさの違いがあることは見て取れて、手の中の図書と比べてみた。並ぶ図書はどれも二倍は大きく、辞書のように分厚い。もとより、この図書の返却先は一階ではなかったけれど、スイは少しがっかりしながら棚を見上げた。
思い立ったように駆け足で階段を上る。長靴の鳴らす音が、雨に近付いた。
今度は、ソファが三つに、クッションやぬいぐるみが用意された小さなエリアがスイを迎えた。たんけん広場と名付ける看板が入り口に立ち、そこで靴からスリッパへと履き替えるようだ。遊び相手に放置されたらしきイルカのぬいぐるみが、スリッパの横で、じっとスイを見上げる。もうそういったものに興味がなくなっていたスイは、居心地悪さを覚えながら、イルカをそっとクッションの上に置いて逃げた。
この周囲をなんとはなしに歩くと、棚に並んだ全ての図書が、絵や大きい文字でいっぱいだと分かる。スイが読んだことのある絵本もあり、手を伸ばしかけたところで、本来の目的を思い出して首を振る。
昼間は窓の採光だけで明るさを保つ二階は、今日ばかりは薄暗く、仕方なしと言わんばかりに灯りがぽつぽつ点いている。歩くと二重に影が伸び、重なり離れてはスイの後を追う。たんけん広場から遠くなるにつれ、段々、スイが習う学習書が置かれる棚が増え、そこまでくると、二階へ来た階段が真正面に見えるようになった。この頃にはもう、絨毯に水分を奪われて、長靴も乾き始めていた。
吹き抜けに階段が重なり、天窓から満遍なく光を受ける。雨が絶え間なく落ちてくる。空は暗かったはずなのに、天窓を通せば不思議と薄曇りに見える。
「こんにちは」
まさにスイが手すりに手を掛け、片足を踏み出そうとした矢先。上の階から、声の主が顔を出す。
深い青色の髪に、人間では持たない灰銀の瞳。造形が整いすぎて人形じみて見える白い服のその人は、片胸に『司書』の文字を提げていた。
青の図書館にはね、青い髪と灰銀の目をした、本の守り人がいるの。
母親の声にかぶさるように、司書が襟足に手を伸ばし、青線に触れる。
「ご返却ですね。ありがとうございます」
玻璃の声がうたい、人差し指がなぞるや、本はゆらりと淡い光をまとってスイの手から離れる。浮かんでいくそれを追いかけるように階段を上って、スイは司書と同じ場所に立った。
司書は微笑み、膝を折った。まるでスイを主人とするように、丁寧に品良く、礼をする。
「初めまして。私はこの図書館を管轄する司書、ジュライと申します」
「……スイです」
「スイ様。この度は初めてのご来館、誠にありがとうございます。カードを発行いたしますね」
本を返却に来ただけなのに、司書はにこりと微笑み、片手を傾け古き良き魔法でカードを生み出す。水や泡のような輝く薄い膜がスイの名前を象り、宙に浮かんだカードに収まっていく。
手元に降りてきたそれを手に取ってから、慌ててスイは差し出した。
「違う。ここには、本を返しに来ただけで、カードをもらいに来たんじゃない」
司書はスイの様子をじっと見つめ、時間をかけて立ち上がる。司書の動きに合わせて、スイの持っていた図書もふわふわと高さを変えて、その背後で浮遊していた。
両の手を腹の上に重ね、灰銀の瞳が瞼の影に消える。
「申し訳ございません。本館はカードのない方の立ち入りを禁止しております。ご容赦ください」
「ごよーしゃ……?」
「お時間はございますか?初めての方にはご案内するよう、言いつけられておりまして」
難しい言葉に戸惑っているうちに、話は移る。司書が進行方向へと半身を引いて動かないのを見て、しぶしぶ、歩き出した。
スイと頭一つ分背丈の違う司書は、スカートのようなコートのような、長い上着を着ていた。白色のせいで、影が一層濃く見える。
「ここには、多くの図書が眠っています」
雨の音に包まれた館内を、司書の声が波のように反響する。
「まずは蔵書の分類から説明しますね。一階は旅の記録、人の一生を記した伝記を揃え、二階は言葉との出会い、法則を学ぶ絵本や参考書、辞書を多く揃えています」
一階とも二階とも違い、三階は無駄な隙間もなく図書の棚が並んでいる。棚を過ぎるごとに、湾曲した手すりや椅子の端が見えて、棚の向こう側には好きなように立ち止まり、読める空間があるのだと見て取れた。入り口のあった方を除いた三方の壁には窓が一つ二つはめ込まれ、最小限の明かりを室内に採り入れる。他の階と同様に、等間隔に並べられた棚には図書が所狭しと置かれ、この中から一冊を探し出すのも苦労しそうだ。
端にはアルファベットと数字が書かれていて、歩いていく方向に数字がどんどん小さくなっている。
「三階は、言葉に触れ始めて楽しみを見出し始めた方が楽しむ、お話や物語を並べております」
「こんなに?」
「ええ、こんなに」
ようやく自分から口を開いたスイに、ふふ、と微笑みを返して司書が先に立つ。
エルの文字が掲げられた棚の前で曲がり、本棚の間に挟まれる。首を巡らせると、均一に並べられた図書が次の読み手をじっと待っていた。空白は今此処にはない図書の存在を目立たせていて、どの本も存在感が強い。
二つほど棚を過ぎ、位置のずれた椅子の横を通って一つ目の棚の前で司書は立ち止まった。
「おかえりなさい」
浮遊していた図書が、収まる場所へと吸い込まれていくのは一瞬だ。スイがぱちりと瞬きを終えた時にはもう、どこにあったのか分からない。きょろきょろと見渡して、振り返ったところで司書と目が合う。
「気になる本が、ありましたか?」
「……ううん」
読みたい本を探していると思われたらしい。司書の使う古き良き魔法が、何かしたのだろうと納得して、素直に否定する。
けれど、司書には異なる声が聞こえたようだった。スイが首を振るのを見ていながら、小首を傾げ、まるで時間を止めたように静止する。人間らしくない動きに、どきりとしたところで、司書が瞬きをした。
両手の指先を合わせて、ぴょん、と飛び跳ねる。
「スイ様を呼ぶ本があるようです。ご覧になりますか?」
「呼ぶ?」
「ええ。こちらへ」
司書が導く方へ、歩き始める。
スイと司書の二つの影が床に伸び、その間を、ゆらり、影が泳いだ。
「この図書館は言葉の浜辺と呼ばれています。溢れかえる図書の海、その海に慣れない読者に遊び方を教えるため、スミス・ギャビンが考案した役目です」
「……ふうん」
「つまりですね。スイ様と遊びたいと、本の方から話しかけてきたのですよ」
畏まった言葉を使う司書が、スイの反応にはじめて、やわらかな言い方をした。きっちりとした服に皺を付けて、視線を合わせる。
銀色とも灰色とも言い表せない瞳に、スイの顔が映った。黄茶色の前髪に、まるい碧色の瞳。頬の円やかさの目立つ自分の顔に意識が向き、突如、浮かび上がった魚の影に驚いた。
「うわあ!」
魚が目の前に現れたのかと後退り、そのまま、尻餅を付く。冷えた床がスイの体温を奪い、一瞬の恐怖を吸い取って、代わりに痛みを渡してきた。じんじん、熱を帯びた手や脚に、ぐっと浮かんだ涙を堪える。
司書はそんなスイに手を貸さず、膝をついて何かを差し出してきた。
「こちらの本のようです」
「え?」
それは、深い青の表紙に銀色の枠を持つ、一冊の本だった。
《OUR SEACRET AQUARIUM》
表紙には、タイトルと少年のシルエットが銀色で彫られ、動物の皮で作られた表面がスイの手にしっくりと馴染む。
分厚さは母親の借りていた図書の半分、はらりとめくるとスイの使う教科書よりも黄ばんだ紙がとじられていて、少しだけ小さな文字が並んでいる。
「これ、何の本?」
スイが尋ねれば、応える前に、司書はスイと本に手を貸し、引き上げた。
驚く前と同じ態勢に戻って、司書と同時に瞬きを一つ、表情を改める。歌いだしそうな、明るい表情に変わる司書の顔を、見つめていた。
「本は、どこかで生きた、誰かの時間を残します」
スイの手もろとも、本を包み込むように司書の手が重ねられる。図書館の壁と同じくらいに冷え切った、柔らかい手だった。
「これはスイ様と同じ年頃の男の子が、水族館で一人の女の子と出会い、秘密を見つける物語です」
真っ直ぐスイを見つめて紡がれた言葉に、息を忘れる。一瞬だったかも分からない時間をかけて司書を見つめ、気付いて直ぐに手を振り払い、本を腕に抱える。かしゃり。銀枠がスイの腕の中で擦れて、音を鳴らした。
「ちなみに、その本の秘密は、銀枠を外すとわかります」
片目を瞑り、司書が人差し指を立てるので、言われた通りにスイは銀枠に手を伸ばす。
外そうと力を込める間も無く、スイが銀枠に触れると、それは生き物のようにひとりでに本から外れて、銀の色だけを本に残して魚のような形を作る。骨組みだけだが、図鑑の好きなスイには何の形か直ぐに分かった。
「クジラだ……!」
「生きた骨組みです。古き良き魔法により、読者が物語を読み進める度に、男の子の見た生き物の形を作ります」
「すごい、これ、勝手に動くの? すごいね」
「興味を持ってもらえて、嬉しいです」
どうやら骨組みは表紙の陰に隠れていたクジラの形を取っただけのようで、少しの間を置くと再び枠の形に戻っていく。
本はスイの手元で眠ったまま。枠が周りを囲んでも、お構いなしだ。けれど、すっかりスイはこの本の虜になった。他にどんな形をするのか知りたくて、母親にこんな本があるのだと伝えたくて、本を大事に鞄にしまう。
「ご利用、ありがとうございます。本の返却期限は、一ヶ月。期間を過ぎますと本は自動で戻り、しばらくの期間、借りることができなくなりますので、お気をつけ下さい」
「うん。ありがとう、司書さん」
礼を伝えた途端、一拍の間を置いて、これ以上ないほどの笑顔と共に司書は両手を組んだ。
「はい、司書です。今日はご来館、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
たたた、と駆け下りる音が響く。訪れた少年が、本と出会いを果たしたようだ。
「スミス。スイ様はお帰りになりました」
「そのようだね、ジュライ」
窓の光を受け床に落とすのは、クジラの形を作る影だ。司書はスイの前で見せた笑顔を失って、影を見上げる。
「今の話は、お前の何ページ目に書き込まれたかい?」
「七百四十六ページです」
影は音もなく膨れ上がり、縮んで、不均一な線を頼りに形を保つ。
目を凝らせば分かるが、人の目にはおそらく、この影は文字の黒い集まりに見えるはずだった。ヒレの形を取った文字の集合体が、質量も持たずに司書の頬をなぞる。
そのまま深い青の髪を払い、肩の埃を払った。
「良いね。七百四十六年、丁度君たちの名前の由来が決まった。カレンダーと言うのだがね、人間たちは皆、その時ようやく、等しく同じ時を刻み始めたんだよ」
「ジュライも、その時に生まれましたよ」
「そうか。君も、そうだったか」
孫に語り聞かせるような言い方で、クジラの形を模した文字の集まりは宙を泳ぎ、本から文字を奪っては返していく。
スミス・ギャビンはかつて、確かに人間であった。今も残る数々の建物を生み出した彼は、志半ばで寿命を迎えるも、その比類なき才能を惜しんだ妖精たちの力により、再びよみがえる。
はじめは建築の完成を、次は新しい箱庭を願われ、いつしか妖精の紡いだ人形が住まう図書館を築くようになった。
「次も、彼が来ると良いね」
人形は等しく吟遊詩人と呼ばれ、生まれた月の名を与えられる。ジュライも例によって、六月に生まれた吟遊詩人という意味以外に、何も持たない。
司書としてここに住むジュライは、青の図書館の吟遊詩人となる。始まりと終わり、その二点を結ぶジュライは、図書館が崩壊するその時ようやく本となり、ここに在った全ての書物の記憶と共に、他の図書館の蔵書となる。それまではただ、こうして、人間の代わりに蔵書を管理し、人間のように振る舞い、図書館の役目を果たしている。
ギャビンの生み出した色彩シリーズは、全てが妖精の生み出した奇跡の本を宿す。
膨大な時間を言葉で紡ぎ、新たな時間へと繋いでいく。図書館も、本も、本となり逝く吟遊詩人も、この世に存在する生命一つ残らずが、繋ぐ存在だ。
尾びれを動かし、人気のない館内を泳ぐ。文字の集合体に手はなく、インクだけが文字を作り、線を生む。そう、人間でなくなったギャビンも、その一つであることから逃れられはしない。
「はい。ここは、言葉の海ですから」
森閑とした青の図書館に、さざ波のような声が響いた。
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