6 / 14
Part.5 Reviewer -1 (4/21加筆)
しおりを挟む真理は、二人から始まる
——カール・ヤスパース
人間が一人で生きていけぬように、人間の築くものは個として持続しない。有象無象が歴史を作り、曖昧模糊な思考が思想に成り代わり、やがて有形無形の中で学は開かれる。
必要不可欠な現象はただ一つ。これを無くして人間ではなく、これの為に、人類は栄華と破滅を繰り返す。
言葉を尽くし、時に忘れ、それでも人間は繰り返す。
対話。それは、永遠にして刹那の積み重ねだ。
霞みがかった空が、日除けのシェードに刻まれた。
室内は、秘書と自分の二人きり。紙束や本の並ぶ棚と、積まれた菓子箱だけが色を持ち、全体を灰色に整えた部屋は殺風景で面白みに欠けた。花粉症ならくしゃみと洟で気を紛らわせたいところだが、生憎と予防接種のおかげで無縁で済んでいる身、気が遠くなりそうな沈黙にも、ただ椅子に座って堪えるしかない。
シーリングファンが一周に三十秒掛けて回り、偶に気配を消すのを感じ取りながら、福永宙はクッションの効いた回転椅子に腰掛けていた。
京都国立総合大学大学院、生命医科学研究科、応用生物科学講座。字面だけなら漢文のようなこの研究室は、筆頭者に香椎惠子を据える。
その経歴は、ネットの検索だけで大凡を知ることができる。厚生労働省の役人とのコネを持ち、かつては相談役として裁判や調査に関与していた。病理学者あるいは医師としての活動も目覚ましく、植物や人体の神秘を究めてきた。日本で生物学が幅を利かせられるようになったのは、彼女の功績だという者もいる。
そんな知る人ぞ知る研究室に宙はいるわけだが、話を聞くところ、本日香椎教授は午後の診察当番で、十五時まで外出のようだった。香椎と顔を合わせるのはまずい、即ち、今の状況はタイムリミットまであと三十分を切ったところだと云えよう。
ここに属する学生は、博士課程を含めて総勢五人と小規模だ。同大学の某教授はかつて、大きな箱とも呼べる再生医療研究棟を手に入れたものだが、どうやらそれは彼自身の寄付活動があってのことらしい。警備員も多いあちらと違って、ここはアポイントさえ取れば、苦労せず入り込むことができた。無論、急な話だったので、偽装のアポイントだが。
面会相手に電話をかけてもらってから、十五分が経とうとしていた。
シャツの上にパーカー、下はかろうじてスラックスを履いているが、その爪先はスニーカーで覆われていて、如何せん、インタビューというにはラフ過ぎた格好をしていた。あまり長居はすべきでないなと、プラスチックカップの取っ手に手を伸ばす。
淹れられた珈琲は既に二回温め直され、それまで一口も含まれることなく放置を強いられている。カップを引き寄せ背を丸めたところで、視線を感じて動きを止めた。
(疑われているな……)
あまりボロを出したくなくて、先ほどから忙しなく教授室とこの部屋を往復し、何かにつけては声を掛けてくる浅香秘書を、宙はやんわりと遠ざけていた。が、時間が経つほど疑念を持たせてしまうのは当然のことだと考え、躊躇いの後、珈琲を口に含む。
チン、とエレベーターの音が響いた。扉の向こうーー廊下の方から、足音が近付く。
「お待たせしましたっ! 水野ですっ」
ようやく、巡り会えた。
息を切らしやってきた水野瑤子を、ガタリと立ち上がって迎えた。兄弟で似ていると呼ばれた笑顔を、にこり、浮かべる。
「どうも、福永宙です。こちらまでお呼び立てしてしまって、すみません」
「いえ別に、全然、いいんですけど」
朴訥。地味。加えてフェミニンな要素を一つも持たない彼女の名を、宙は一方的に知っている。秘書の手前、瑤子との間に食い違いが生じては困るので、不審感を煽る前に名刺を出し、自らの立場を明らかにした。
「あっすみません、私、名刺は準備中で……」
「いえいえ、お構いなく」
詫びる彼女に手を振って、向かいの席を進めた。
トレーナーのポケットに忍ばせておいたボイスレコーダーを取り出し、腰掛けながら長卓の上に置いてみせる。短い息の合間に、ヒュ、と息を詰める音が挟まった。良い反応だ。
「……何の用事でしょうか?」
大学院生らしい聡明さと素直さを以って、瑤子が口火を切る。まだ辻褄が合わせられると読んで、宙は胸を撫で下ろした。
「僕は、日丸放送局の「in cells」ディレクターをしておりましてね」
名刺に目を落とし、日丸の文字を見て姿勢を正す姿は年相応、いっそ幼さすら感じられる。所作に言動、どれを取っても新卒と変わらない様に、滲むように油断と蔑みが生じる。所詮、テストが解けるだけの子供だ。軽く口の運動をさせて、語らせようと宙は笑みを深くする。
「つい先日、二人目の発症者も出ましたから、この辺りで最先端の研究をなさっている方の意見を伺えれば、と思って」
「はは、やだなあ。私なんか呼び出しても、何にも分かりませんよ?」
(それは俺が決めるんだよ)
適当な笑いで彼女の言葉を受け流し、胸中では舌打ちをした。友人の善意で全てのお膳立てをしてもらった手前、機嫌一つで台無しにするわけにはいかなかったのである。
宙には、佐藤蒼桔という友人がいる。ホワイトハッカーとして表向きに働く彼は、副業としてダークウェブでの情報収拾・交換を行なっていた。「in cells」が誕生する以前から、否、付き合いで言えば学生の頃から、その実力を側で見てきた。恩があり貸しもあるが、なにより、彼が居なければ、今頃宙は太平洋の向こうに渡り、時間と金をかけて弟の治療に専念していただろう。
彼の話によれば、水野瑤子自身が「in cells」のネタになるという。疑う余地は何処にも無いから、弟の病室を離れ、宙はここまで来た。
「そうでもないですよ。聞いた話、最初の発症者は、水野さんのご友人なんでしょ? 友人を助けるために研究をしているなんて、これほどドラマチックな話もない」
「ーーそれを言うなら福永さんだって、二人目の発症者の、お兄さんでしょ? 大して変わりませんよ」
素早い返答に、頬が強張った。表情や立ち居振る舞いに変化はないから、この切り返しも彼女にとって普通のことだと見て取れる。
一瞬で、頭が冷静になった。
浅香秘書の出した珈琲を冷ましながら、なんでもないような顔で瑤子は続ける。
「こんなすごいお兄さんの話、福永くん……啓太くんがしないわけないじゃないですか」
弟に脈が合ったわけでもなさそうな口振りだ。逡巡して、ディレクターとしての顔を捨てて交渉に入る。
「流石、話が早いね。今春放送予定の「in cells」で花眠病の解説やドクター・バーナビーの話をしたいんだけれど、いい研究者が見つかっていないんだ」
「いやです」
「本人特定が嫌なら編集するよ? ダメかな」
「研究してるんで、そんな暇はないです」
頑なな声色から旗色の悪さを感じ取りつつも、食い下がる。
これはきっかけで、話題の一つだ。何を知っているかこちらが知らない以上、語り尽くしてもらわなければ困る。
もとより、快諾してもらえるとも、全てを語ってもらえるとも思っていない。時間がある限り、キーワードなりなんなりを入手できれば御の字。直接会いに来たのは、メールの推敲を避けるためであって、必ず瑤子を出演させたいわけではなかった。
「君に話して欲しいことは、たった三つ。伊崎日和が倒れた時、何をしていたか。ドクター・バーナビーの発表した薬について、君はどう思っているのか。日本がすべきこと、できることは何か。たったこれだけだよ」
畳み掛けると、何かが気に障ったか、瑤子の表情が変化した。言うべきか言わざるべきかで悩んでいると読み取れる、眉間の皺。唸っているのは、口が軽くなってきたからか。彼女の反応は宙に希望を、確信を抱かせた。
当たりかもしれない。
「……バームクーヘンを、作ってました。友人と」
「は?」
突拍子もない返答に、変な声が出た。考えて直ぐ、宙が用意した質問への回答だと察する。
確かにこの大学は、孔雀の卵を孵化させたり、鶏の解体ショーをしたりするなど、頭のおかしい学生がいることで有名だが、菓子作りすら普通ではないとは。一体何を食べてどのように考えれば、そんな発想になるのだろう。
(待てよ、もしかして話題を逸らそうとして……)
宙の反応を、責め立てるものと受け取ったか、肩を竦めて瑤子が頭を下げる。
「すみません」
「そんな警戒しなくても……知りたいだけなんだ。なんで、弟だったのかって」
はっと顔を上げた瑤子と、視線が交わる。
眼鏡の反射で見えていなかったが、隈が酷い。同じ顔をきっと宙もしていて、外見の共通性が共感を生むことを狙い、合わさった視線に力を込める。
「薬だって、専門家ではない僕たちには、何がどうなっているのか分からない。逃避のあまりに盲信する人も生まれるんだ、君の、否、研究者の知能を借りなければ、一般人は右も左も知らないまま死を待つしかないんだよ」
「……同じですよ」
椅子を引いて立ち上がった瑤子は、こちらを一瞥することもなかった。苦虫を噛み潰したように、かろうじて俯かないように、片手で眼鏡の中央を支える。
「同じなんです。症例も足りない、情報も渡って来ない。推論と仮説の検証しか私たちにはできないし、できないけれど、研究を諦めないから、私たちは研究者なだけ」
「それでいい。研究の、一部だけでもいいんだ」
「貴方はそれでもメディアの人間ですか? 研究の世界は、信頼と信用が命なんですよ」
瑤子はスニーカーを履いた足をぺたぺた鳴らして、隣室の浅香秘書の元へ向かう。唐突な行動に思わず腰を浮かせたところで、端末の震えに気付く。画面には友人の名前と、やはり一言だけの要件が並べられている。
『時間だ。そこから早く出ろ』
「福永さん」
目が文字の意味を認識したところで、部屋の時計が十五時を知らせる。
人の気配が、増えていた。浅香秘書に水野瑤子、そして、いつ帰ってきたとも知れない老いた白衣の女性が、福永を見据えて立っている。瑤子が立ち上がったのは彼女に呼ばれたからだと、その時になってようやく気付いた。
「うちの大学にもね、セキュリティが機能しているんですよ。……少し、話を聞かせてもらえますかね」
植物の根のように深い皺を刻んで笑う香椎の瞳に、色を失う自分の顔が写っていた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
『記憶の展望台』
小川敦人
現代文学
隆介と菜緒子は東京タワーの展望台に立ち、夜景を眺めながらそれぞれの人生を振り返る。隆介が小学生の頃、東京タワーを初めて訪れたときに見た灰色の空と工事の喧騒。その記憶は、現在の輝く都市の光景と対比される。時代と共に街は変わったが、タワーだけは変わらずそびえ立つ。二人は、人生の辛いことも嬉しいことも乗り越え、この瞬間を共有できる奇跡に感謝する。東京タワーの明かりが、彼らの新たな未来を優しく照らしていた。
アップルジュース
佐野柊斗
現代文学
本気で欲しいと願ったものは、どんなものでも手に入ってしまう。夢も一緒。本気で叶えたいと思ったなら、その夢は実現してしまう。
僕がただひたすら、アップルジュースを追い求める作品です。
鳳月眠人の声劇シナリオ台本
鳳月 眠人
現代文学
胸を打つあたたかな話から、ハイファンタジー、ホラーギャグ、センシティブまで。
あなたとリスナーのひとときに、心刺さるものがありますように。
基本的に短編~中編 台本。SS短編集としてもお楽しみいただけます。縦書き表示推奨です。
【ご利用にあたって】
OK:
・声劇、演劇、朗読会での上演(投げ銭配信、商用利用含む)。
・YouTubeなどへのアップロード時に、軽微なアドリブを含むセリフの文字起こし。
・上演許可取りや報告は不要。感想コメント等で教えて下されば喜びます。
・挿絵の表紙をダウンロードしてフライヤーや配信背景への使用可。ただし、書かれてある文字を消す・見えなくする加工は✕
禁止:
・転載、ストーリー改変、自作発言、改変しての自作発言、小説実況、無断転載、誹謗中傷。
サドガシマ作戦、2025年初冬、ロシア共和国は突如として佐渡ヶ島に侵攻した。
セキトネリ
ライト文芸
2025年初冬、ウクライナ戦役が膠着状態の中、ロシア連邦東部軍管区(旧極東軍管区)は突如北海道北部と佐渡ヶ島に侵攻。総責任者は東部軍管区ジトコ大将だった。北海道はダミーで狙いは佐渡ヶ島のガメラレーダーであった。これは中国の南西諸島侵攻と台湾侵攻を援助するための密約のためだった。同時に北朝鮮は38度線を越え、ソウルを占拠した。在韓米軍に対しては戦術核の電磁パルス攻撃で米軍を朝鮮半島から駆逐、日本に退避させた。
その中、欧州ロシアに対して、東部軍管区ジトコ大将はロシア連邦からの離脱を決断、中央軍管区と図ってオビ川以東の領土を東ロシア共和国として独立を宣言、日本との相互安保条約を結んだ。
佐渡ヶ島侵攻(通称サドガシマ作戦、Operation Sadogashima)の副指揮官はジトコ大将の娘エレーナ少佐だ。エレーナ少佐率いる東ロシア共和国軍女性部隊二千人は、北朝鮮のホバークラフトによる上陸作戦を陸自水陸機動団と阻止する。
※このシリーズはカクヨム版「サドガシマ作戦(https://kakuyomu.jp/works/16818093092605918428)」と重複しています。ただし、カクヨムではできない説明用の軍事地図、武器詳細はこちらで掲載しております。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
No.3 トルトリノス
羽上帆樽
ライト文芸
果実の収穫が始まった。収穫した果実を変換器に入れることで、この仮想空間は維持されるらしい。やがて、僕は思い出す。お姉ちゃんと話したこと。彼女はどこにいるのだろう?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる