in Cells ~花眠病~

もりえつりんご

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Weather Day

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1875年の今日、日本に気象台が設置され、日本人は気象と地震の観測・予測を開始したという。
地の流れ、大気の流れを観測することは、古来より星で吉兆を占ってきた人類にとっては進歩の一つだから、当時の人間にとっては、自然の摂理に一歩近づいたとも言える出来事だったんじゃないかと思う。

「羽鳥ー」

晴れた初夏の空を、見上げていた。
足下に広がるのは青々とした雑草で、羽鳥の歩いた跡だけが、くっきりと濃い影を落としている。市立公園、星見丘。かつては、都心部ながら夜空が綺麗に見えると有名で、恋人たちのロマンチックスポットとしても人気を博した場所だけれど、花眠病-Flowering asphyxia-と呼ばれる植物性の病気が流行り始めてからは、手入れ業者にすら嫌煙され、今では無法地帯と化していた。
ここを訪れる人は、余程の物好きか、植物学者くらいしかいない。
ましてやこんな白昼堂々、人の目につくことも恐れず草葉に飛び込めるとなると、それは物好きというより大馬鹿者のほうがレッテルとしては貼られやすい。

「羽鳥!」
「聞こえてる」
「聞こえてるなら返事しろよ。ったく、帰んぞ」

手首を掴む細い指は、羽鳥の肌の上でもはっきりと違いが分かるほどに焼けている。野球少年ならぬテニス少年の彼は、昨日もこんな晴れた空の下、コートでボールを追いかけていた。焼けるのも当然だ。
少しだけ高い位置にある黒目を流し見て、羽鳥は吹いてくる風を全身で受け止める。

「物好きな……」
「それお前のことだからな?お前のこと言ってんだよな?」
「さっさとテニスに行けばいいじゃない」

白いTシャツにラケットケースの黒紐が眩しい。公園の時計はまだ二時を指していて、彼がこれからテニスの練習に行くことは容易に察せられた。

「なんでそう言うんだよ」
「しつこいなあって思って」

帽子だけで熱を遮り、日焼け止めをした手で汗を拭う。

「広瀬になったからって、別にお兄ちゃんぶらなくていい」
「……ああそうかよ。でもな、お前が変なことして噂になったら困んの、こっちなんだよ」

今度は力任せに腕を引っ張られて、足が動く。草をかき分けながら羽鳥を引っ張る頼りない背中を、細目で睨んだ。
広瀬羽鳥の母は、この春、彼の父親と結婚し、広瀬の名前を引き継いだ。だから、彼も同じ広瀬となり、紙面上では兄妹ということになる。
川田拓人と出会ったのは、両親達がまだ恋に落ちていない頃の春だった。たった一日、たった数時間一緒に遊んだだけの、近所の子供。大きくなれば記憶も薄れて、忘れてしまうはずだった彼とこんな形で再会し、ましてやきょうだいとなるなんて、知っていたらどんなことをしてでも回避をしただろう。

「ほら、アイスくって帰れよ。家に。ピアノの先生、三時に来るんだろ」
「……はーい」

これが五十円ちょっとの棒アイスだったら、羽鳥は黙って無視を決め込んだが、百円ちょっとのバニラアイスだったので大人しく受け取った。袋を開け、棒アイスを取り出す。

「じゃあ、おれ、行くわ」
「待って。あたりでるかも。食べてけば?」
「出ねえよ」

ぶつくさ言いながらも足を止めるので、冷たいのを堪えて食べ進める。外の暑さにアイスが溶けていく。すとん、と止める場所を失ったアイスが棒を伝って、羽鳥の指に落ちてくる。

「あ」

慌てて手の位置を持ち上げて、下から掬うように口を寄せる。ぱたぱたと伝う液体を舐めとって、アイスの棒を拓人に見せた。

「当たった」
「……うわあ」
「引いてないで、もらってきなよ」
「いや、うん……ええ?」
「おばちゃん、アイス当たったー」

首を傾げて引いている拓人を他所に、羽鳥が先んじて声を掛ける。
駄菓子屋に響く声が、薄暗い店の奥に消えていく。
あいよ、とのっそりと現れた中年女性からアイスを受け取り、羽鳥は拓人に手渡した。

「じゃ」
「……おう」

短く言って、食べる様子も見送らずに店を後にする。
帽子に汗が滲む。伸ばしたままの髪が、首に熱をこもらせる。初夏のくせに暑さだけは立派で、日差しが目に痛い。

「羽鳥ー」

名前を呼ばれて、肩越しに振り返る。

「ありがとなー」

笑った顔に肩を竦め返して、羽鳥は大人しく、自宅へ向かった。
家に帰ると、ヨーコ・ミズノがノーベル科学賞と平和賞を受賞したニュースが、テレビで流れていた。親友の花眠病発症を期に、植物研究者としての道を突き進んだ彼女の存在を、今この日本で知らない者は居ない。
誰もいない空間に、ステレオから流れる人の声。家を最後に出たのは拓人だから、また帰宅後に注意しなければならない。

「広瀬さーん」
「はあい」

テレビの音を消して、羽鳥は玄関先へ向かった。
母親によく似ていると言われた、外向きの笑顔でピアノの先生を迎える。
最早惰性で続けているピアノだが、止めるものは羽鳥も含めて誰もいない。最初の頃は発表会など提案されていたが、家庭の事情が変わってからというもの、彼女が羽鳥に何かを言うことは運指と表現力以外無くなった。

「それじゃあ、お母さんとお父さんによろしくね」
「ありがとうございました」

薄っぺらい月謝を渡して、頭を下げる。たかだか三十分のレッスンでも、月に四・五回重ねればそれなりのものになる。音も、お金も。
時計が三時半を指して、義父がかけていたトマトタイマーが、音を鳴らし始める。洗濯物を取り込み、四時過ぎに帰ってくる義父を待つ。
百人に一人から二十人に一人にまで確率を上げた花眠病は、広瀬家にも及んでいた。羽鳥の母親だ。
母親が眠りに落ちて、もう半年が経っていた。母娘で放り投げられるかと不安になった日は遠く、今ではこの、平凡ではないのに平凡らしい日常が当たり前になっている。
四人掛けのテーブルに、こてんと頭を置く。カーテンレースが隙間風にはためき、 涼しさを羽鳥の頬に届ける。
(……真綿で首を絞める、ってこんな感じかな)
毎日野原に行っても、羽鳥は花眠病にならない。
職場か近くのスーパーにしか出掛けなかった母親は発症したのに、皮肉なものだ。植物が原因じゃあないのか。ノーベル賞までもらうくらいなら、原因の植物にまでたどり着けてもいいだろうに、どうしてそれはわからないのか。駆除されないのか。
鍵を開く音がする。ただいまー、と間延びした声が聞こえる。義父が帰ってきた。

「おかえりなさい」

後ろ暗い願いを抱えたまま、羽鳥はリビングから義父を迎える。
 






 
空を観測し続けたことで予測ができるようになったのに、植物を観察し続けても何も予測はできない。

「今日は雨だぞ」

長靴を準備していたところに、拓人が釘を刺してきた。彼はあくびを一つして、それ以上は何も言わずにリビングに入っていく。テニスの教室はお休みなのだ。雨だから。

「……関係ないでしょ」

合羽を戸棚から取り出して、腕を通す。長靴に靴下を履いた足を通して、傘を持った。

「ちょっと散歩」
「気をつけてなー」

義父ののんびりさに感謝しながら、家を出る。石を穿つように雨は降る。湿気も高く、全部降りおちた後の空はさぞかし爽快だろうと思いながら、門前の水たまりを飛び越えた。
傘に跳ねる雨音が、子守唄のように心地よい。
通りに人通りは少なく、車の行き交う音も離れている。住宅街で路地は狭いから、傘を差した人が一人歩くだけで車は通りにくいのだ。だから良い。一目さえ気にしなければ、この道は今、羽鳥だけのものだ。
いつもの道を、いつものように歩く。公園は相変わらず草が伸びっぱなしで、門だけはボランティアが綺麗にしているのか、まだ錆び付いてはいない。
踏み跡のついた道を過ぎて、手前にある噴水に沿って奥へ進む。雑草の伸びた丘を前に、立ち止まる。
空は曇っている。雨でずぶ濡れにされた草葉は深緑よりも暗い色で塗り潰され、影は暗闇に等しく、まるで沼の上に生えているように鬱蒼としている。湿った土の匂いが雨の、埃を含んだ独特の匂いに混ざって、肌からしみ込むようにベタついてくる。
母は、こんな日に、ここで倒れた。眠りに、落ちてしまった。
(植物が原因なら、全部焼いてしまえばいいのに)
生態系を狂わせる手段だとわかっていても、そう思わずにはいられない。湿気ている時は炎の温度が上がりにくく、吸ってはいけない煙が出ると聞いたことがある。好都合だ。
ライターをポケットから取り出した。煙草を吸う義父のポケットから拝借したそれに、親指を掛ける。

「だから、ここにくんなって、言ったろ?」

拓人の声がして、それから隣に人が並んだ。やっぱり拓人で、紛れもない彼の呆れた顔を見上げて、羽鳥は悔しさを顔に広げた。

「だって」
「だってじゃねーよ。そんなことしても意味ないって、テレビで言ってたぞ」
「そんなの、関係ないよ。やってみないと」
「変なところで挑戦すんなよ」

腕を引っ張られて、それに抵抗する。そこから離れたくないから踏みとどまって、けれど、拓人の力に負けて体は少しずつ動いていく。

「なんで邪魔するの!」
「うじうじしてっからだよ!」

大きな声を出したのは久しぶりで、それだけで息が切れた。力が抜けて、拓人に手を引っ張られるまま、足を動かしてしまう。離れてしまう。

「変な方に開き直んなよ……あぶねえだろ」

心底呆れているのに、羽鳥を掴む手を離そうとはしてくれなくて、優しさに触れた悔しさが涙となって溢れてくる。
手が濡れるのも構わず、傘を差したまま手を繋いで帰る。家に辿り着く頃には、羽鳥の目の周りは真っ赤に腫れて、けれど涙は一滴もこぼれなかった。

「父さんが心配してたぞ。だからさ、もうやめろよな」

傘を折りたたみながら、拓人が言う。

「……家族なんだからさ」

ばさりと勢いよく水気を飛ばしたタイミングで、大事な言葉を滑り込ませる。
羽鳥がその言葉に振り返っても、拓人は何も言わず、背を向けて玄関に入っていった。

「……今更、何」

ふ、と笑いがこみ上げて、自分の傘を畳んで玄関に入る。

「ただいまー」

いつの間にか移った挨拶が、心地よい。

「おかえりー。拓人も、おかえり」
「うん、ただいま……」

先に靴を脱いで上がった拓人を追いかけて、長靴を脱ぐ。びしょ濡れになった靴下を脱いで、足を拭く。
足の裏を拭き終わったところで、どさり、と重いものが倒れる音がした。

「拓人?」

義父が名前を呼ぶ。重いものは、拓人だったらしい。胸の奥が急にざわついて、きゅ、と喉が詰まった。

「眠い……」

母と同じ言葉をつぶやいて、拓人が瞼を閉ざす。待って、だめ、と叫びたいのに、立ち上がったまま羽鳥は動けない。

「拓人!」

明け方まで続くと予報された雨はその通り止んだのに、拓人は雨が止んでも目を覚ますことなく。
そのまま、花眠病と診断された。


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