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Part.3 Television director
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私はあなたの意見には反対するが
あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る
フランソワ=マリー・アルエ
人間たる所以は言語にある。
声、視線、表情、身振り。あらゆる動作は己の生命のためにして、他者との繋がりのためにも成る。
しかしまた、言語は個々のために在る。
己を己と見做すため、己と他を切り分けるため、ナイフのように鋭く細く、言語は個々を区別する。
融合と分離の繰り返し。輪廻が如く、個々は人間となる。
福永宙が「in cells」の専門ディレクターになって、数年が経つ。
植物由来にして人体を仮死へ追い込む病・花眠病──Flowering asphyxia が、人類に終わりなき絶望を強いてから誕生した、新しい番組である。苔生す岩のように地球に蔓延る花眠病は、必然的に放送業界の大きな餌となったわけだが、不謹慎だと騒ぐ声も相まって、その正体を扱う番組──勿論、日本語の番組だ──は少ない。欧米で放映されている番組も右手の指で足りるほど、それも患者側の過去を辿るものが目立ち、研究者達の試行錯誤は頻繁には見られていない現状だ。
永遠の生と眠りの世界へ送り出す奇妙なその病は、今の所、日本国土で観測されていない。明らかにすれば目覚ましい功績として認められるに違いなく、そう目論んだ宙のような報道者は早期から花眠病の研究論文を漁り始めたわけだが、この作業で既に難航した。日本語論文数が少ないのである。英語論文は読むにも時間がかかる上、大半がネガディブな結果や考察で終わり、何れにしても読み進める努力を要した。
そこから有益となる情報を挙げ連ねたものの、プロデューサーに納得させるほどの内容にはならず、番組の黎明期は、どうしても患者側にフォーカスを当てるしか術はなかった。
「今月もナシか」
音を立てて、論文を机に投げ捨てる。表紙にでかでかとGFP検出画像が印刷されたそれは、今月発刊の論文雑誌だ。コラムにすら花眠病の文字はなく、これで半年連続の契約損である。折角だからとこれまで目を通した論文雑誌は全て本棚に鎮座しているが、そろそろ潮時だ。整理をせねば、通りすがりの人間を襲いかねない。
入りきらないことを横目で確認し、宙は後頭部に手を回すように背伸びをする。大きく吸った息には、篭った空気が充満していた。
宙の所属する日丸放送局は、国内だけで四十箇所の拠点を持つ大きな放送局だ。ニチマルの愛称で親しまれ、国外においても日本を代表するメディアの一つとして名を馳せる。中枢に当たるのが、ここニチマル東京であり、東京タワーが臨めるビルの一室に宙は席を持っていた。
背後に並ぶ局員専用本棚へと椅子を回転させ、下から上まで詰まった雑誌と記事を見上げる。
研究者でない宙から見れば、これだけ積み重ねても明らかにならない花眠病の機序に、人知の衰えを感じてしまう。
──数十年前、マスメディアの信頼は地の底まで堕ちていた。日丸放送局も例に漏れず、視聴料金を徴収していたこともあって、名指しで嫌われることも少なくなかった。オリンピックを契機とした4K・8Kデジタルテレビの浸透に、端末画面のUSB転送が無線で可能になってから兆しが見え始め、大学法人を中心に、家庭へのテレビ普及率が首をもたげるように復活した。
更に、マスメディアがそれまでの報道の在り方を問い直す経過・議論を放送し始めたことにより、視聴率にもその影響が現れるようになった。腐り落ちた我が身すら報道する自虐ネタは、日本人らしさを凝縮したある意味での余興になり、国内外で話題を呼ぶことになったのだ。
結果、報道の在り方は随分と変わった。
通信大学との提携もあり、塾のような講座や芸能人のトライアンドエラー、デザインを極めた雑学番組が増え、ニュース番組から素人のコメンテーターが姿を消した。解説にはその道の専門家と批評家が連席し、視聴者への投げかけや討論の機会が提供され、メディアを利用した批判や中傷も大分数を落としている。
そのような流れの中で、一つの番組が群を抜いて視聴率を獲得した。
宙の担当する番組「in cells」だ。
細胞の秘密、と邦訳されるこの番組は、世界各国の有名な医学・生物学研究者達の研究結果を、人間の生理と合わせて解説し、花眠病について議論することを主な見せ所とする。小難しい話が苦手な人にも分かりやすく、老若男女へ向けて花眠病の理解を促すことを目的としているため、局の方からも優先的に制作費を工面してもらえていた。準備の大変さも、勿論理由の一つである。軽く見積もって、三ヶ月でまとめられるわけがなかった。
隔週放送の予定を一季節一回にまで減らし、その分精度を高めることで初回から高視聴率を叩き出したこの番組。番組へのお便りも盛況であり、今はまだ、好感触を得ているが、患者側の話、医療者側の話、植物の生態と花眠病の情報を小出しにして編成したものであることに変わりはない。議論が着目されている間に次のネタを考えねば、伸びも危うくなる。
真新しさがなくなれば、ただの便乗番組と見做されかねないことは、企画当初から危ぶまれていた。
だからこそ、番組発足から丁度一年目となる次回には、花眠病の本筋に踏み切らねばならないという重圧がある。次回の放送までの時間が、宙の正念場だ。
「福永ディレクター! お客さんですよ」
「ああ、はい。どうも」
そうは言っても、この業界は仕事が多い。他にもアートディレクターで番組を担う宙には考える時間も猶予も短く、その日は他の番組打ち合わせで業務時間は終わってしまった。
疲労が灰のように降り積もって、空の色まで燻んで見える。局員証をかざして通り抜けたゲートの先、幾人もの局員が出入りする自動扉の外へ足を踏み出せば、ぽつんと鼻先で雫が跳ねた。雨だ。
「嘘だろ……」
傘は基本、自分の机に置きっぱなしの宙である。今更戻る気にもなれず、本降りになる前にと早足で地下鉄まで向かった。
両開きに扉が開くと、人の熱と湿り気がむっと宙に押し寄せる。
梅雨にはまだ早い。誰しもが心の中でエアコンをつけろと願っていそうな車内で、宙は手すりによりかかり他局の放送内容と電子新聞をチェックして気を紛らわせる。どの放送局も未だ核心には辿り着いていないらしいことが、宙にとっては救いだ。
増える乗客に押しやられながらも端末を死守し、親指ひとつでタイムラインを遡ること数分。一つのネット記事が目に入った。
『花眠病のここがキケン! 今すぐできる、予防策』
いくつかの記事や論文を切り張りしたとみられるその記事には、無論「in cells」を引用元とする情報も記載されていた。その話を聞くまでにどれだけの時間と体力を費やしたかを思えば、このように取り上げられるのも悪くはない。折角のまとめ記事だ、コメント欄まで丁寧に目を通してやろう、とスライドしたところで、とある文字列に指が止まった。
番組制作に遠征はつきものだ。日本と比べて海外の研究機関は広報にも積極的で、研究者のスケジュールが合えば向こうからやってくることもある。それでも、特に事情が無い限りは取材側が現地に赴き、聴取を行うのが普通だ。
番組の根本を制作するディレクターなら当然のこと、取材のために駆けつける。宙もまたその一人にして、花眠病に関して第一線を知っているという自負があるだけに、載っていたその名前が気に障った。
《研究機関一覧 一、京都国立総合大学》
無言のままスクリーンショットを取り、メッセージを立ち上げる。
『お前の大学、誰か研究しているのか?』
煙の立つような音を立てて短文を送る。画像が滞り無く送信されたのを確認してから、窓の外を見上げた。トンネルを抜けた電車の窓にぱたぱたと雨が襲いかかり、視界を濁らせ始める。雨脚は益々強くなるばかりで、雲の物々しさが滲んでは雫の奥に消えていく。
(足下が疎かになっていたな)
論文がないからといって、研究が進んでいないわけではない。固より、研究者というものは企業や研究所だけに留まらず、至る所に存在する。本人の自覚がどうあれ、研究をしている時点で研究者とするならば、身分が学生であろうと対象になる。未熟な発想を支援する研究体制は、各大学で揃えられており、それは数十年前との明確な違いのはずだった。
宙の失念にして、最大の失敗だ。人の生死にも関わる病であるから、学生が手を付けることはないだろう、指導側が止めるだろうという勝手な思い込みを作っていた。あるいは、海外の研究者の大半が国の管理する研究所に所属し、個人・法人の機関では申請書が必要という話もあったことが、学生には難しいという先入観を築き上げたのかもしれない。
冷静に考えるべきだった。日本では未だ、各指導者の倫理と判断に委ねられている。
国内で大大的に意識されおらずとも、時機を睨んでいる者はいるだろう。彼らの存在が明らかになっていないのは、国内だけでも犯罪や企業、政治家のニュースで溢れかえっているためだが、いずれそれよりも彼らを優先する時が来る。
奇遇にも、今は、どの放送局も彼らについて取り上げていない。
これは、宙の幸運だ。
『兄貴には、言えない』
バイブレーションの後に届いたのは、弟からの素直な返信だ。
宙には、大学院で研究を続ける四つ下の弟がいる。福永啓太といういかにも女性慣れしていない素朴な青年だが、彼の行っている研究は製薬開発には欠かせないもので、これまでも目覚ましい影響を与えてきた。おかげで、番組解説やネタ切れで困った時に弟を頼ることができたわけだが、「in cells」に関しては、あまりにも重要事項が多いために連絡を取らないようにしていたのだ。
記事が消える前に、全体のスクリーンショットとURLのコピーを取り、別の宛先へのメールを起動する。
『まとめ記事の管理者』
たったそれだけのメモ書きでありながら、相手からの返信は十秒を待たずしてやってきた。
『了解』
メールを開いて数秒、文字が化けて読めなくなる。そういうプログラムがされているのだと、いつかの飲み会で教えてもらったことがあった。身を守るために、必要なのだと笑っていたのが懐かしい。
放送局に所属していて、宙はこの二人ほど重宝した人間はない。何事も、大切なのは人脈だ。
最寄駅についた電車が、タイミング良く宙の目の前で開く。微笑みそうになる口元を引き締め、宙は端末の電源を落とした。
福永啓太は焦りを覚えていた。
スプーンで掬って食べるだけのオムライスハンバーグを何度も切り崩し、口に持って行く過程で二回に一度落とす程には集中力も失っていた。
同期の伊崎日依が花眠病の発症により昏睡状態に陥って、数日が経過していた。
搬送され、花眠病だと判明するまでの数時間、啓太は彼女の親友・水野瑤子と共に、純粋に日依の安否を心配した。しかし、今はもう彼女への憎しみしか心の中には存在せず、伴って生じる不安が挙動不審として外に現れていた。
花眠病は、植物由来とされている。未だ日本では発症者がいないとされてきたこの病だが、悲運にも日依が最初の発症者となってしまった。
とすれば、まず取られる手段として、彼女の所持する全ての持ち物検査が考えられる。
(俺は悪くない。俺のせいじゃない)
気の毒に、と思いやる余裕もない。彼女に植物を渡したことがあるだけに、いつ容疑者として警察に聴取されるか不安で仕方なく、同時に、花眠病になってしまうのではないかという恐怖が、啓太の正常な思考を妨げていた。何度自分に言い聞かせても、啓太が日依に植物を渡したという事実は消えず、憎悪へと昇華し妬むことで誤魔化そうとしてしまう。
一方で、昏睡した今もなお、日依が瑤子の気を引きつけていることが、啓太は許せなかった。
出会いは、学科の自主ゼミに他分野の学生を呼んだことに始まる。
新入生歓迎会やサークルの仲間を頼り、啓太の女友達である佐藤蒼桜が集めたのは、隣の学部の学生四人組であった。その内の二人が、瑤子と日依である。
眼鏡に衿つきセーターを着た細身の女子と、カールがかった茶髪に花柄のスカートの女子とくれば、スタイルの良い前者を選ぶのが啓太だ。ポニーテールという素朴な髪型も垢抜けていない印象を与えてなお良く、実際に口を開けば厭世的なことを言うのがまた良かった。
当時、啓太には一応、彼女が居た。サークルに入って直ぐの盛り上がりに便乗しただけの仲なのは互いに承知済みで、大学に慣れてくる二年目の頃はもう、熱も冷め始めていた。彼女の方は既に別の男に気があると言っていたし、啓太も誰か他に見つけたならそちらに行くと言って、寂しい時だけ時間を共にした。
瑤子のことを本気で好きになったのは、交流するようになって半年後。夏の風物詩である五山の送り火をゼミ勢で見に行った時だ。
次々と灯されていく送り火は毎年変わらず、四年で大学を卒業するつもりのある者だけが、端末を片手に記念撮影をした。少なくとも院に進むつもりであった啓太、日依、瑤子の三人は、そんな友人達を撮影する側に回り、後はただ散らばる星のように他愛ない話を肴に酒を飲んで過ごしていた。
瑤子が三缶目に手を付けた時だった。プルタブを引きながら、彼女は仄かに笑んでいたように思う。
『見送る人なんて、もう居ないのにね』
啓太は察しも悪ければ気も利かない方だったが、何故か、彼女のその意味深にしか聞こえない発言が脳裏に刻まれた。
ミステリアスとでもいえばいいのか。瞬時には理解しがたい何かを見ている彼女が、どうしても欲しくてたまらなくなったのは確かだ。
翌日、啓太は颯爽と彼女に連絡し、互いに幸せになれよと言い合って別れた。
だが、瑤子への恋慕は一筋縄にはいかなかった。
学部学科の違いもあったが、何より障害になったのは日依の存在だ。瑤子と日依は学科も同じなら組み分けも一緒で、授業の好みも似ていたせいで一般教養から専門科目まであらゆる講義で共に居た。ニコイチで数えられることもざらではない仲の良さに、周りこそ微笑ましく見守っていたが、啓太にはたまったものではない。
(本当にそうなるなんて、思ってなかった)
居なくなれば、とまでは言わない。ただ、瑤子が自分を少しでも見る時間を作るために、日依と離れる時間が増えれば良いとは願っていた。日依自身は啓太と瑤子の関係を応援してくれたが、それだけではだめだった。
だから渡した、というわけでは勿論ない。
観葉植物を手にした経緯は朧げだ。卒業するサークル仲間を見送るために飲み会に出かけて、帰りかけていた頃かもしれないという薄ぼんやりな自覚と記憶だけがある。
酔い冷ましにと川端を歩いて、気づけば手に小さな鉢を持っていた。ちょんと双葉が見え始めたばかりのそれは、触ると偽物のような固さを持ち、鉢に埋められた土もプラスチックか何かで作られたような手触りがあった。翌日起きたら、まだ家にあり、捨てなかった自分を悔やみながら思案すること一分。そういったインテリアを飾れるような部屋に住んでいないこともあり、結局、研究室に持って行くことにしたのである。
偶々その途中に、売店から出てきた日依と出会した。
『福永くん、何持ってるの?』
『あー、昨日、追いコンで……もらった、けどいらねえなって思って』
『そうなんだー』
咄嗟の言い訳が出てくるような頭があれば、瑤子も少しは振り向いてくれたかもしれない。上手い言い訳は一つも思い浮かばず、昨日あった出来事をなぞり、はぐらかす。
『そういえば、前の彼女サンは観葉植物好きって言ってたような……ハッ! まさか!』
『違え。俺は一途なやつなんだ』
あまりに瑣末な、日依に敵わない理由がただ性別にあるのではないかと疑いたくなるほど他愛ない会話に、啓太の方が匙を投げたくなったのを覚えている。興味を示したのをいいことに、半ば押し付けるように鉢を譲り、啓太はそのまま、研究室へと逃げた。
日依から連絡が来たのは、その一週間後になる。直接会って話がしたいと言われ、促されるままに大学内でも人の少ない運動場の裏手にある倉庫の前まで、彼女の後ろを歩いていた。
マスクで顔の半分を隠し、時折瞼を落としながら、常よりゆったりとした口調で一言、日依は言った。
『瑤子ちゃんを、大事にしてあげて』
脳内で反芻しただけなのに、ぞわりと鳥肌が全身に広がる。
あの時の彼女の様子を、正確に覚えていない。陰鬱とした空気を持っていて、啓太に対しても水面下に感情を隠しているような言い方をしていたような気はする。
だから、理由を聞いても答えてもらえず、以降、一切の連絡を拒まれていただけに、廃棄する紙を一緒に燃やさないかと尋ねられた時は目を疑ったものだ。瑤子からの連絡ではあったが、日依がそれを許すと思わなかったからだ。
恐る恐る会いに行った結果が、これだ。
瑤子に会えたのは良かった。だが、花眠病の検査まで受けなくてはいけなくなり、研究室には通えず、教授からはしばらく外出を控えるようにとメールが来た。研究資金を得るための申請書類も、今回のことがあるので出すのを遠慮しては、という一言を付け加えられてしまい、啓太の未来はあの日から徐々に黒く塗り潰されていっている。
「ありがとうございましたー」
同じ大学の学生らしき女性に見送られ、店を出る。食事に行くくらいはいいだろう、とアパート近くの喫茶店でモーニングを済ませたところだった。バスや車の行き交う大通りを真っ直ぐ進んで十分もすると、灰色のアパートが左手に見えてくる。鉄筋のアパートは外壁がタイルで埋められ、見た目こそ最近のものだが、これでも築十五年である。啓太の部屋は一階の角部屋にあり、周囲に柵や塀がないせいもあって、日中は静寂と程遠い環境にある。
唯一、道路から遠い場所にある玄関が静かであり、かちゃりと鍵を回す音が響くと一種の快感が得られるので、啓太はそこだけを気に入って、最初の四年は住み続けていた。今はもう忘れた楽しみ方に思いを馳せながら家に入ろうとし、端末のバイブレーションに足を止めた。
画面を見れば、兄という一文字が浮かんでいる。
運動靴とゴミ袋の散乱する小さな玄関で靴を脱ぎ、脱ぎ散らかした服類の隙間を縫って部屋へ向かう。室内に入って直ぐにメッセージを開けば、花眠病研究機関一覧、と書かれた文字の下に啓太の属する大学名が一番に載っている画面が映った。
『お前の大学、誰か研究しているのか?』
指が震えた。鳥肌か冷や汗か、身体が勝手な反応を起こし、呼吸を忘れさせる。肩が震える。喉が、乾く。
記憶がフラッシュバックする。
あの日、飲み会が終わった帰り道、啓太は川端から大学の側の通りへと移動し、北に向かって歩いていた。
南から医学科、教育科、文学科、経済学科、工学科と並び、大通りを挟んで農学科と理学科のあるこの大学では、端に寄るほど徹夜組が多くなる。啓太も漏れなく徹夜の多い学科であっただけに、深夜ながら明るい研究棟を見かけると、生温かいエールを送りたくなってしまうのである。
この時も、明るい研究棟が幾つかあり、瑤子と日依の研究棟の近くだからと、少しの期待を胸に玄関口までひょいと顔を出そうと思った。道路から柵を越えて駐車場に入る。九時には閉まるコンビニの向かいに立った新しい研究棟の前で、啓太は二人に連絡をしようと端末をポケットから取り出そうとした。
重たげな音がアスファルトに響いた。
玄関前は駐車場で、車の数も少なかっただけに、啓太は当然のこと、驚いた。が、音の主は啓太のすぐ側に転がっており、人の気配もない。上の階から風に煽られて落ちたのかもしれないと思い、端に置いておこうと拾い上げ──酔っていたのもあって、胃の中身が逆流しそうな気配に慌ててその場から走って茂みに飛び込んだ。
あの時にはわからなかったが、今ならわかる。
あの研究棟では、誰かが花眠病の研究を行っているのだ。
「うわっ」
インターンホンの音で、現実に引き戻される。手の中の端末は兄のメッセージと画像が映し出したまま、啓太の反応を待っていた。
思い浮かぶのは、瑤子のことである。瑤子はおそらく、日依のこともあって花眠病の研究を始めるだろう。ならば、彼女には研究者が他にもいることを伝えて置いたほうがいいだろう。協力すれば、世界で最初の人になれるかもしれないのだから。
宅急便です、と若い男の声がして、急いでメッセージを打ち込んだ。
(ごめん、兄貴。兄貴の業界で取り上げられると、面倒くさそうだからさ)
『兄貴には、言えない』
心臓がどくどくと激しく鼓動する中、それだけを送信して応対に出る。業者の言うことも聞かぬままサインを済ませ、扉に鍵をかけた。これ以上兄から詮索されぬようにとキャリア設定をオフにし、届いた荷物を床に下ろす。
送り主は啓太の属する研究室からだった。研究資金についてはこちらがなんとかするから、書類は用意してくれ、と言われていたのを思い出し、その関連のものかと一人合点する。カッターで薄いダンボールの壁を破り、中を開ける。クリアファイルサイズのそれは高さがあまりなく、開くと同時に包みのビニールが破けたのか、少しの抵抗があった後に中身を見ることができた。
花の香りが、した。
「速報です。二人目の花眠病発症者が京都の病院に搬送されたとの情報が入りました。患者の情報は明らかにはされていませんが、病状は一人目と比べて重く、国内での治療が難しいことが推測されます……」
騒めく病院の待合室で、宙は弟のニュースを呆然と眺めていた。
弟に連絡してから数えて二日が経つ。宙の端末には、言えない、と書かれたメッセージ以外に届いているものはなく、宙の送ったメッセージにも既読がつくことはなかった。
あの後、電話もメッセージの反応が無いことが気にかかり、親への連絡を済ませるや、宙は取材という名目で京都へ向かった。
着いて早々アパートを尋ねるも反応がなく、嫌な予感のするままベランダ側へ移動したところで、部屋の中に倒れる弟を発見。救急車を呼び搬送されたのは奇遇にも取材先の大学病院で、許可を取る必要もなく、家族という身分だけで白く閉ざされた部屋に通されてしまったのが小一時間前になる。
弟の顔は、ところどころ土煙を被ったように乾燥し、皮膚が崩れ始めていた。酸素マスクに室内の安定した気温のせいで、その劣化は日に日に進行し始めている、とは、看護師の言葉だ。仮死だと聞いていただけに、花眠病の本当の恐ろしさを目の当たりにした宙の思考は、最早停止寸前である。
番組で取り上げた内容と同じなのは、昏睡状態のまま、目覚めることがないということだ。
両親はまだ到着しない。病室にいても気が狂いそうになるので待合室にいるのに、人の騒がしさで頭が痛くなりそうだった。退室後直ぐに購入した缶コーヒーはとうに温くなり、本来の美味しさはどこかへ消えている。空腹が忍び寄るようにやってきて、宙は静かに缶コーヒーを飲み干した。
おもむろに端末を取り出し、メールを起動する。
弟の他に連絡を取ったもう一人こと佐藤蒼桔からの返信が、未開封のままだった。まとめ記事の回線や本人情報はその前のメールで得ているので、追加情報か何か、あるいは先ほど送ったメールの返信か、とタップで開く。あまり返信をするような人間ではないだけに、珍しいなと思った。
『まだ、希望は捨てるなよ』
一行にしては短い言葉と、ウェブ上で閲覧しているらしき画面のスクリーンショットが送られていた。
青目にプラチナブロンド、赤みがかった白い肌と典型的な白人種の医師が、何やら話をしている。
名前はジョセフ・バーナビー。年齢は六十二の、大柄な男性だ。
空行を置いて白地で書かれたリンクに気付き、動画へと飛ぶ。どうやらアメリカで放送されたニュースの一部を切り取ったもののようで、日付は一時間前となっていた。
テロップに書かれた文字を見るやいなや、宙はがたりと立ち上がる。信じられない文字列に、慌てて仕事用のメールソフトを確認した。ニュースを担当するチームの記録を確認するも、そこに記載はない。
即ち、数時間前に流れたこのニュースは、日本では未だ提示されていない貴重な情報となる。
『花眠病の治療法として、私たちは二種類の薬の併用を提案します』
滑らかな英語で流れる希望の言葉は、騒めきに紛れることもなくしんしんと、宙の耳に響いていた。
あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る
フランソワ=マリー・アルエ
人間たる所以は言語にある。
声、視線、表情、身振り。あらゆる動作は己の生命のためにして、他者との繋がりのためにも成る。
しかしまた、言語は個々のために在る。
己を己と見做すため、己と他を切り分けるため、ナイフのように鋭く細く、言語は個々を区別する。
融合と分離の繰り返し。輪廻が如く、個々は人間となる。
福永宙が「in cells」の専門ディレクターになって、数年が経つ。
植物由来にして人体を仮死へ追い込む病・花眠病──Flowering asphyxia が、人類に終わりなき絶望を強いてから誕生した、新しい番組である。苔生す岩のように地球に蔓延る花眠病は、必然的に放送業界の大きな餌となったわけだが、不謹慎だと騒ぐ声も相まって、その正体を扱う番組──勿論、日本語の番組だ──は少ない。欧米で放映されている番組も右手の指で足りるほど、それも患者側の過去を辿るものが目立ち、研究者達の試行錯誤は頻繁には見られていない現状だ。
永遠の生と眠りの世界へ送り出す奇妙なその病は、今の所、日本国土で観測されていない。明らかにすれば目覚ましい功績として認められるに違いなく、そう目論んだ宙のような報道者は早期から花眠病の研究論文を漁り始めたわけだが、この作業で既に難航した。日本語論文数が少ないのである。英語論文は読むにも時間がかかる上、大半がネガディブな結果や考察で終わり、何れにしても読み進める努力を要した。
そこから有益となる情報を挙げ連ねたものの、プロデューサーに納得させるほどの内容にはならず、番組の黎明期は、どうしても患者側にフォーカスを当てるしか術はなかった。
「今月もナシか」
音を立てて、論文を机に投げ捨てる。表紙にでかでかとGFP検出画像が印刷されたそれは、今月発刊の論文雑誌だ。コラムにすら花眠病の文字はなく、これで半年連続の契約損である。折角だからとこれまで目を通した論文雑誌は全て本棚に鎮座しているが、そろそろ潮時だ。整理をせねば、通りすがりの人間を襲いかねない。
入りきらないことを横目で確認し、宙は後頭部に手を回すように背伸びをする。大きく吸った息には、篭った空気が充満していた。
宙の所属する日丸放送局は、国内だけで四十箇所の拠点を持つ大きな放送局だ。ニチマルの愛称で親しまれ、国外においても日本を代表するメディアの一つとして名を馳せる。中枢に当たるのが、ここニチマル東京であり、東京タワーが臨めるビルの一室に宙は席を持っていた。
背後に並ぶ局員専用本棚へと椅子を回転させ、下から上まで詰まった雑誌と記事を見上げる。
研究者でない宙から見れば、これだけ積み重ねても明らかにならない花眠病の機序に、人知の衰えを感じてしまう。
──数十年前、マスメディアの信頼は地の底まで堕ちていた。日丸放送局も例に漏れず、視聴料金を徴収していたこともあって、名指しで嫌われることも少なくなかった。オリンピックを契機とした4K・8Kデジタルテレビの浸透に、端末画面のUSB転送が無線で可能になってから兆しが見え始め、大学法人を中心に、家庭へのテレビ普及率が首をもたげるように復活した。
更に、マスメディアがそれまでの報道の在り方を問い直す経過・議論を放送し始めたことにより、視聴率にもその影響が現れるようになった。腐り落ちた我が身すら報道する自虐ネタは、日本人らしさを凝縮したある意味での余興になり、国内外で話題を呼ぶことになったのだ。
結果、報道の在り方は随分と変わった。
通信大学との提携もあり、塾のような講座や芸能人のトライアンドエラー、デザインを極めた雑学番組が増え、ニュース番組から素人のコメンテーターが姿を消した。解説にはその道の専門家と批評家が連席し、視聴者への投げかけや討論の機会が提供され、メディアを利用した批判や中傷も大分数を落としている。
そのような流れの中で、一つの番組が群を抜いて視聴率を獲得した。
宙の担当する番組「in cells」だ。
細胞の秘密、と邦訳されるこの番組は、世界各国の有名な医学・生物学研究者達の研究結果を、人間の生理と合わせて解説し、花眠病について議論することを主な見せ所とする。小難しい話が苦手な人にも分かりやすく、老若男女へ向けて花眠病の理解を促すことを目的としているため、局の方からも優先的に制作費を工面してもらえていた。準備の大変さも、勿論理由の一つである。軽く見積もって、三ヶ月でまとめられるわけがなかった。
隔週放送の予定を一季節一回にまで減らし、その分精度を高めることで初回から高視聴率を叩き出したこの番組。番組へのお便りも盛況であり、今はまだ、好感触を得ているが、患者側の話、医療者側の話、植物の生態と花眠病の情報を小出しにして編成したものであることに変わりはない。議論が着目されている間に次のネタを考えねば、伸びも危うくなる。
真新しさがなくなれば、ただの便乗番組と見做されかねないことは、企画当初から危ぶまれていた。
だからこそ、番組発足から丁度一年目となる次回には、花眠病の本筋に踏み切らねばならないという重圧がある。次回の放送までの時間が、宙の正念場だ。
「福永ディレクター! お客さんですよ」
「ああ、はい。どうも」
そうは言っても、この業界は仕事が多い。他にもアートディレクターで番組を担う宙には考える時間も猶予も短く、その日は他の番組打ち合わせで業務時間は終わってしまった。
疲労が灰のように降り積もって、空の色まで燻んで見える。局員証をかざして通り抜けたゲートの先、幾人もの局員が出入りする自動扉の外へ足を踏み出せば、ぽつんと鼻先で雫が跳ねた。雨だ。
「嘘だろ……」
傘は基本、自分の机に置きっぱなしの宙である。今更戻る気にもなれず、本降りになる前にと早足で地下鉄まで向かった。
両開きに扉が開くと、人の熱と湿り気がむっと宙に押し寄せる。
梅雨にはまだ早い。誰しもが心の中でエアコンをつけろと願っていそうな車内で、宙は手すりによりかかり他局の放送内容と電子新聞をチェックして気を紛らわせる。どの放送局も未だ核心には辿り着いていないらしいことが、宙にとっては救いだ。
増える乗客に押しやられながらも端末を死守し、親指ひとつでタイムラインを遡ること数分。一つのネット記事が目に入った。
『花眠病のここがキケン! 今すぐできる、予防策』
いくつかの記事や論文を切り張りしたとみられるその記事には、無論「in cells」を引用元とする情報も記載されていた。その話を聞くまでにどれだけの時間と体力を費やしたかを思えば、このように取り上げられるのも悪くはない。折角のまとめ記事だ、コメント欄まで丁寧に目を通してやろう、とスライドしたところで、とある文字列に指が止まった。
番組制作に遠征はつきものだ。日本と比べて海外の研究機関は広報にも積極的で、研究者のスケジュールが合えば向こうからやってくることもある。それでも、特に事情が無い限りは取材側が現地に赴き、聴取を行うのが普通だ。
番組の根本を制作するディレクターなら当然のこと、取材のために駆けつける。宙もまたその一人にして、花眠病に関して第一線を知っているという自負があるだけに、載っていたその名前が気に障った。
《研究機関一覧 一、京都国立総合大学》
無言のままスクリーンショットを取り、メッセージを立ち上げる。
『お前の大学、誰か研究しているのか?』
煙の立つような音を立てて短文を送る。画像が滞り無く送信されたのを確認してから、窓の外を見上げた。トンネルを抜けた電車の窓にぱたぱたと雨が襲いかかり、視界を濁らせ始める。雨脚は益々強くなるばかりで、雲の物々しさが滲んでは雫の奥に消えていく。
(足下が疎かになっていたな)
論文がないからといって、研究が進んでいないわけではない。固より、研究者というものは企業や研究所だけに留まらず、至る所に存在する。本人の自覚がどうあれ、研究をしている時点で研究者とするならば、身分が学生であろうと対象になる。未熟な発想を支援する研究体制は、各大学で揃えられており、それは数十年前との明確な違いのはずだった。
宙の失念にして、最大の失敗だ。人の生死にも関わる病であるから、学生が手を付けることはないだろう、指導側が止めるだろうという勝手な思い込みを作っていた。あるいは、海外の研究者の大半が国の管理する研究所に所属し、個人・法人の機関では申請書が必要という話もあったことが、学生には難しいという先入観を築き上げたのかもしれない。
冷静に考えるべきだった。日本では未だ、各指導者の倫理と判断に委ねられている。
国内で大大的に意識されおらずとも、時機を睨んでいる者はいるだろう。彼らの存在が明らかになっていないのは、国内だけでも犯罪や企業、政治家のニュースで溢れかえっているためだが、いずれそれよりも彼らを優先する時が来る。
奇遇にも、今は、どの放送局も彼らについて取り上げていない。
これは、宙の幸運だ。
『兄貴には、言えない』
バイブレーションの後に届いたのは、弟からの素直な返信だ。
宙には、大学院で研究を続ける四つ下の弟がいる。福永啓太といういかにも女性慣れしていない素朴な青年だが、彼の行っている研究は製薬開発には欠かせないもので、これまでも目覚ましい影響を与えてきた。おかげで、番組解説やネタ切れで困った時に弟を頼ることができたわけだが、「in cells」に関しては、あまりにも重要事項が多いために連絡を取らないようにしていたのだ。
記事が消える前に、全体のスクリーンショットとURLのコピーを取り、別の宛先へのメールを起動する。
『まとめ記事の管理者』
たったそれだけのメモ書きでありながら、相手からの返信は十秒を待たずしてやってきた。
『了解』
メールを開いて数秒、文字が化けて読めなくなる。そういうプログラムがされているのだと、いつかの飲み会で教えてもらったことがあった。身を守るために、必要なのだと笑っていたのが懐かしい。
放送局に所属していて、宙はこの二人ほど重宝した人間はない。何事も、大切なのは人脈だ。
最寄駅についた電車が、タイミング良く宙の目の前で開く。微笑みそうになる口元を引き締め、宙は端末の電源を落とした。
福永啓太は焦りを覚えていた。
スプーンで掬って食べるだけのオムライスハンバーグを何度も切り崩し、口に持って行く過程で二回に一度落とす程には集中力も失っていた。
同期の伊崎日依が花眠病の発症により昏睡状態に陥って、数日が経過していた。
搬送され、花眠病だと判明するまでの数時間、啓太は彼女の親友・水野瑤子と共に、純粋に日依の安否を心配した。しかし、今はもう彼女への憎しみしか心の中には存在せず、伴って生じる不安が挙動不審として外に現れていた。
花眠病は、植物由来とされている。未だ日本では発症者がいないとされてきたこの病だが、悲運にも日依が最初の発症者となってしまった。
とすれば、まず取られる手段として、彼女の所持する全ての持ち物検査が考えられる。
(俺は悪くない。俺のせいじゃない)
気の毒に、と思いやる余裕もない。彼女に植物を渡したことがあるだけに、いつ容疑者として警察に聴取されるか不安で仕方なく、同時に、花眠病になってしまうのではないかという恐怖が、啓太の正常な思考を妨げていた。何度自分に言い聞かせても、啓太が日依に植物を渡したという事実は消えず、憎悪へと昇華し妬むことで誤魔化そうとしてしまう。
一方で、昏睡した今もなお、日依が瑤子の気を引きつけていることが、啓太は許せなかった。
出会いは、学科の自主ゼミに他分野の学生を呼んだことに始まる。
新入生歓迎会やサークルの仲間を頼り、啓太の女友達である佐藤蒼桜が集めたのは、隣の学部の学生四人組であった。その内の二人が、瑤子と日依である。
眼鏡に衿つきセーターを着た細身の女子と、カールがかった茶髪に花柄のスカートの女子とくれば、スタイルの良い前者を選ぶのが啓太だ。ポニーテールという素朴な髪型も垢抜けていない印象を与えてなお良く、実際に口を開けば厭世的なことを言うのがまた良かった。
当時、啓太には一応、彼女が居た。サークルに入って直ぐの盛り上がりに便乗しただけの仲なのは互いに承知済みで、大学に慣れてくる二年目の頃はもう、熱も冷め始めていた。彼女の方は既に別の男に気があると言っていたし、啓太も誰か他に見つけたならそちらに行くと言って、寂しい時だけ時間を共にした。
瑤子のことを本気で好きになったのは、交流するようになって半年後。夏の風物詩である五山の送り火をゼミ勢で見に行った時だ。
次々と灯されていく送り火は毎年変わらず、四年で大学を卒業するつもりのある者だけが、端末を片手に記念撮影をした。少なくとも院に進むつもりであった啓太、日依、瑤子の三人は、そんな友人達を撮影する側に回り、後はただ散らばる星のように他愛ない話を肴に酒を飲んで過ごしていた。
瑤子が三缶目に手を付けた時だった。プルタブを引きながら、彼女は仄かに笑んでいたように思う。
『見送る人なんて、もう居ないのにね』
啓太は察しも悪ければ気も利かない方だったが、何故か、彼女のその意味深にしか聞こえない発言が脳裏に刻まれた。
ミステリアスとでもいえばいいのか。瞬時には理解しがたい何かを見ている彼女が、どうしても欲しくてたまらなくなったのは確かだ。
翌日、啓太は颯爽と彼女に連絡し、互いに幸せになれよと言い合って別れた。
だが、瑤子への恋慕は一筋縄にはいかなかった。
学部学科の違いもあったが、何より障害になったのは日依の存在だ。瑤子と日依は学科も同じなら組み分けも一緒で、授業の好みも似ていたせいで一般教養から専門科目まであらゆる講義で共に居た。ニコイチで数えられることもざらではない仲の良さに、周りこそ微笑ましく見守っていたが、啓太にはたまったものではない。
(本当にそうなるなんて、思ってなかった)
居なくなれば、とまでは言わない。ただ、瑤子が自分を少しでも見る時間を作るために、日依と離れる時間が増えれば良いとは願っていた。日依自身は啓太と瑤子の関係を応援してくれたが、それだけではだめだった。
だから渡した、というわけでは勿論ない。
観葉植物を手にした経緯は朧げだ。卒業するサークル仲間を見送るために飲み会に出かけて、帰りかけていた頃かもしれないという薄ぼんやりな自覚と記憶だけがある。
酔い冷ましにと川端を歩いて、気づけば手に小さな鉢を持っていた。ちょんと双葉が見え始めたばかりのそれは、触ると偽物のような固さを持ち、鉢に埋められた土もプラスチックか何かで作られたような手触りがあった。翌日起きたら、まだ家にあり、捨てなかった自分を悔やみながら思案すること一分。そういったインテリアを飾れるような部屋に住んでいないこともあり、結局、研究室に持って行くことにしたのである。
偶々その途中に、売店から出てきた日依と出会した。
『福永くん、何持ってるの?』
『あー、昨日、追いコンで……もらった、けどいらねえなって思って』
『そうなんだー』
咄嗟の言い訳が出てくるような頭があれば、瑤子も少しは振り向いてくれたかもしれない。上手い言い訳は一つも思い浮かばず、昨日あった出来事をなぞり、はぐらかす。
『そういえば、前の彼女サンは観葉植物好きって言ってたような……ハッ! まさか!』
『違え。俺は一途なやつなんだ』
あまりに瑣末な、日依に敵わない理由がただ性別にあるのではないかと疑いたくなるほど他愛ない会話に、啓太の方が匙を投げたくなったのを覚えている。興味を示したのをいいことに、半ば押し付けるように鉢を譲り、啓太はそのまま、研究室へと逃げた。
日依から連絡が来たのは、その一週間後になる。直接会って話がしたいと言われ、促されるままに大学内でも人の少ない運動場の裏手にある倉庫の前まで、彼女の後ろを歩いていた。
マスクで顔の半分を隠し、時折瞼を落としながら、常よりゆったりとした口調で一言、日依は言った。
『瑤子ちゃんを、大事にしてあげて』
脳内で反芻しただけなのに、ぞわりと鳥肌が全身に広がる。
あの時の彼女の様子を、正確に覚えていない。陰鬱とした空気を持っていて、啓太に対しても水面下に感情を隠しているような言い方をしていたような気はする。
だから、理由を聞いても答えてもらえず、以降、一切の連絡を拒まれていただけに、廃棄する紙を一緒に燃やさないかと尋ねられた時は目を疑ったものだ。瑤子からの連絡ではあったが、日依がそれを許すと思わなかったからだ。
恐る恐る会いに行った結果が、これだ。
瑤子に会えたのは良かった。だが、花眠病の検査まで受けなくてはいけなくなり、研究室には通えず、教授からはしばらく外出を控えるようにとメールが来た。研究資金を得るための申請書類も、今回のことがあるので出すのを遠慮しては、という一言を付け加えられてしまい、啓太の未来はあの日から徐々に黒く塗り潰されていっている。
「ありがとうございましたー」
同じ大学の学生らしき女性に見送られ、店を出る。食事に行くくらいはいいだろう、とアパート近くの喫茶店でモーニングを済ませたところだった。バスや車の行き交う大通りを真っ直ぐ進んで十分もすると、灰色のアパートが左手に見えてくる。鉄筋のアパートは外壁がタイルで埋められ、見た目こそ最近のものだが、これでも築十五年である。啓太の部屋は一階の角部屋にあり、周囲に柵や塀がないせいもあって、日中は静寂と程遠い環境にある。
唯一、道路から遠い場所にある玄関が静かであり、かちゃりと鍵を回す音が響くと一種の快感が得られるので、啓太はそこだけを気に入って、最初の四年は住み続けていた。今はもう忘れた楽しみ方に思いを馳せながら家に入ろうとし、端末のバイブレーションに足を止めた。
画面を見れば、兄という一文字が浮かんでいる。
運動靴とゴミ袋の散乱する小さな玄関で靴を脱ぎ、脱ぎ散らかした服類の隙間を縫って部屋へ向かう。室内に入って直ぐにメッセージを開けば、花眠病研究機関一覧、と書かれた文字の下に啓太の属する大学名が一番に載っている画面が映った。
『お前の大学、誰か研究しているのか?』
指が震えた。鳥肌か冷や汗か、身体が勝手な反応を起こし、呼吸を忘れさせる。肩が震える。喉が、乾く。
記憶がフラッシュバックする。
あの日、飲み会が終わった帰り道、啓太は川端から大学の側の通りへと移動し、北に向かって歩いていた。
南から医学科、教育科、文学科、経済学科、工学科と並び、大通りを挟んで農学科と理学科のあるこの大学では、端に寄るほど徹夜組が多くなる。啓太も漏れなく徹夜の多い学科であっただけに、深夜ながら明るい研究棟を見かけると、生温かいエールを送りたくなってしまうのである。
この時も、明るい研究棟が幾つかあり、瑤子と日依の研究棟の近くだからと、少しの期待を胸に玄関口までひょいと顔を出そうと思った。道路から柵を越えて駐車場に入る。九時には閉まるコンビニの向かいに立った新しい研究棟の前で、啓太は二人に連絡をしようと端末をポケットから取り出そうとした。
重たげな音がアスファルトに響いた。
玄関前は駐車場で、車の数も少なかっただけに、啓太は当然のこと、驚いた。が、音の主は啓太のすぐ側に転がっており、人の気配もない。上の階から風に煽られて落ちたのかもしれないと思い、端に置いておこうと拾い上げ──酔っていたのもあって、胃の中身が逆流しそうな気配に慌ててその場から走って茂みに飛び込んだ。
あの時にはわからなかったが、今ならわかる。
あの研究棟では、誰かが花眠病の研究を行っているのだ。
「うわっ」
インターンホンの音で、現実に引き戻される。手の中の端末は兄のメッセージと画像が映し出したまま、啓太の反応を待っていた。
思い浮かぶのは、瑤子のことである。瑤子はおそらく、日依のこともあって花眠病の研究を始めるだろう。ならば、彼女には研究者が他にもいることを伝えて置いたほうがいいだろう。協力すれば、世界で最初の人になれるかもしれないのだから。
宅急便です、と若い男の声がして、急いでメッセージを打ち込んだ。
(ごめん、兄貴。兄貴の業界で取り上げられると、面倒くさそうだからさ)
『兄貴には、言えない』
心臓がどくどくと激しく鼓動する中、それだけを送信して応対に出る。業者の言うことも聞かぬままサインを済ませ、扉に鍵をかけた。これ以上兄から詮索されぬようにとキャリア設定をオフにし、届いた荷物を床に下ろす。
送り主は啓太の属する研究室からだった。研究資金についてはこちらがなんとかするから、書類は用意してくれ、と言われていたのを思い出し、その関連のものかと一人合点する。カッターで薄いダンボールの壁を破り、中を開ける。クリアファイルサイズのそれは高さがあまりなく、開くと同時に包みのビニールが破けたのか、少しの抵抗があった後に中身を見ることができた。
花の香りが、した。
「速報です。二人目の花眠病発症者が京都の病院に搬送されたとの情報が入りました。患者の情報は明らかにはされていませんが、病状は一人目と比べて重く、国内での治療が難しいことが推測されます……」
騒めく病院の待合室で、宙は弟のニュースを呆然と眺めていた。
弟に連絡してから数えて二日が経つ。宙の端末には、言えない、と書かれたメッセージ以外に届いているものはなく、宙の送ったメッセージにも既読がつくことはなかった。
あの後、電話もメッセージの反応が無いことが気にかかり、親への連絡を済ませるや、宙は取材という名目で京都へ向かった。
着いて早々アパートを尋ねるも反応がなく、嫌な予感のするままベランダ側へ移動したところで、部屋の中に倒れる弟を発見。救急車を呼び搬送されたのは奇遇にも取材先の大学病院で、許可を取る必要もなく、家族という身分だけで白く閉ざされた部屋に通されてしまったのが小一時間前になる。
弟の顔は、ところどころ土煙を被ったように乾燥し、皮膚が崩れ始めていた。酸素マスクに室内の安定した気温のせいで、その劣化は日に日に進行し始めている、とは、看護師の言葉だ。仮死だと聞いていただけに、花眠病の本当の恐ろしさを目の当たりにした宙の思考は、最早停止寸前である。
番組で取り上げた内容と同じなのは、昏睡状態のまま、目覚めることがないということだ。
両親はまだ到着しない。病室にいても気が狂いそうになるので待合室にいるのに、人の騒がしさで頭が痛くなりそうだった。退室後直ぐに購入した缶コーヒーはとうに温くなり、本来の美味しさはどこかへ消えている。空腹が忍び寄るようにやってきて、宙は静かに缶コーヒーを飲み干した。
おもむろに端末を取り出し、メールを起動する。
弟の他に連絡を取ったもう一人こと佐藤蒼桔からの返信が、未開封のままだった。まとめ記事の回線や本人情報はその前のメールで得ているので、追加情報か何か、あるいは先ほど送ったメールの返信か、とタップで開く。あまり返信をするような人間ではないだけに、珍しいなと思った。
『まだ、希望は捨てるなよ』
一行にしては短い言葉と、ウェブ上で閲覧しているらしき画面のスクリーンショットが送られていた。
青目にプラチナブロンド、赤みがかった白い肌と典型的な白人種の医師が、何やら話をしている。
名前はジョセフ・バーナビー。年齢は六十二の、大柄な男性だ。
空行を置いて白地で書かれたリンクに気付き、動画へと飛ぶ。どうやらアメリカで放送されたニュースの一部を切り取ったもののようで、日付は一時間前となっていた。
テロップに書かれた文字を見るやいなや、宙はがたりと立ち上がる。信じられない文字列に、慌てて仕事用のメールソフトを確認した。ニュースを担当するチームの記録を確認するも、そこに記載はない。
即ち、数時間前に流れたこのニュースは、日本では未だ提示されていない貴重な情報となる。
『花眠病の治療法として、私たちは二種類の薬の併用を提案します』
滑らかな英語で流れる希望の言葉は、騒めきに紛れることもなくしんしんと、宙の耳に響いていた。
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