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第三章 社畜と昔の彼女と素直になるということ
18.社畜の廃れた日々
しおりを挟む照子と別れた時のことを思い出すのは、今でも辛い。
全て俺が悪かったのだ。
一緒に音楽をやっていたい、という照子の気持ちに全く気づかず、全て照子のせいにしようとした俺が。
頭の中ではわかっていたのに、本能的に照子のせいにしてしまった弱い俺が。
自分で、自分が怖くなる。
その日以降、しばらく俺はあらゆる女との接触を絶った。照子とのかかわりを除けば、大学の友人も教授も全員男だったから、それは簡単だった。
俺のような弱い人間が、女と関わってはいけないと思ったのだ。関わったら、絶対に傷つけてしまう。今から思えば、大してモテない俺がそんな心配をする必要ないのだが。
大学生活が終わり、社畜になるまで女から逃げ続けた。
その間、毎日のように照子からメールが届いた。
「今いける?」という一言だけのものから、ものすごい長文のメールまで、形は様々だった。俺は受信したあと、すぐ削除していた。一度だけ「もう俺と連絡するな」と送った以外、約一年間そうしていた。
当時、俺から見た照子は、俺が犯した罪そのものだった。俺は目を背けることしかできなかった。すんなり別れてくれればよかったのに、照子からのアプローチはずっと続いた。
社会人になってすぐの頃、深夜に照子から電話があった。
俺は照子からだと気づかず、電話を取ってしまった。同期の新人どうしでよく電話をしていて、急ぎの用事かと思ったのだ。
「つよ、し……?」
「あっ……」
照子も、メールすら無視している俺がすんなり出るとは思わなかったのだろう。二人共、しばらくの間無言だった。
「今、電話していける?」
「……おう」
「曲が書けん。どうしても締切に間に合わん」
「……」
「最近締切守れんことばっかりで、そろそろお仕事もらえんようになるかもしれん」
そんなことはないだろう、と俺は思った。照子が作った曲は、今やテレビでしょっちゅう流れている。今更人気が消えるとは思えない。
「……それで?」
「剛、前みたいに、一緒に歌ってくれん?」
これまでの流れからすれば、ここは断るべきだった。
だが、できなかった。
社畜として歩みだした俺は、他の先輩と比べて何の力にもなれない存在だった。
それが嫌で、夜遅くまで仕事をしていた。
自分が全くの無価値だという事が悔しかった。
でも照子の作曲を手伝えるなら、俺にも存在価値がある、ということになる。照子の曲がもたらす経済効果は、新入社員の俺を遥かに上回るからだ。
自分勝手な理屈だが、疲弊していた俺にはまともな判断力すらなかった。
「……手伝おうか?」
「えっ?」
「嫌ならいい」
「ほんまに……?」
「本当だよ。もう社会人なんだし、嘘なんかつかない」
こうして俺は一年ぶりに照子と会った。
久しぶりに見る照子は、何も変わっていなかった。高校生の時と同じように、誰もが明るくなれるような優しい笑顔で、俺と話していた。
新宿のスタジオで作曲の手伝いをして、その後飲み屋に入った。主には、会社員になった俺の愚痴だった。照子はうんうん、と文句も言わずに聞いていた。
飲み屋を出た後、照子からこう言われた。
「……ホテル、行く?」
「いや、それはいい」
「したくないん?」
「付き合ってない時にそういうことはしない。高校生の時、定演前後で一時的に別れた時、お前が俺にそう言ってただろ」
「ええー! ほんなこと、よう覚えとるなあ」
照子を抱きたい気持ちはあった。だが、まだ一線を引いておくべきだと思った。
幸いにも、照子は元気だ。あれで作曲をやめていたら、俺はもっと重い十字架を背負うことになっただろう。
あんなひどい別れ方をして、一晩でよりを戻すべきではない。一年かけて、やっと会って話せるようになったのだ。記憶を清算するには、もっと時間がかかる。
そう考えて、俺は照子と付き合わず、ただ作曲を手伝っている元インディーズ歌手、という関係になった。
そのまま現在に至る。
** *
話を現在に戻そう。
篠田と別れた後、俺は仕事の鬼になった。
パートの事務員がやるような作業ですら俺がやり、終電で帰宅する毎日だった。
篠田との業務ペアは、いつの間にか解消された。別れたという噂はあっという間に伝わった。女子社員たちは俺を疑っていたようだが、特別に空気が悪くなった訳ではなかった。館山課長だけはあからさまに肩を落としていた。沖縄旅行まで用意してくれたのに別れてしまったのは、正直申し訳なかった。でも俺も、館山課長もその件についてはあまり話さなかった。
篠田が「自分が悪い」と周囲に言い続けたらしいのだ。
別れた後の女子トークでは、だいたい男が悪者になる。篠田はそれを知っていてか、俺に被害が及ばないよう配慮していた。そのぶん篠田が悪い、ということになる。
ここでも俺は、照子に続いて女の子を傷つけてしまった。
そう考えると、俺が目論んでいた「アラサーのうちに結婚」という平均的な社畜ルートは、もう二度と試してはならない、と思う。俺はどうやっても女の子を傷つけてしまう。
仕事の鬼。独身貴族。それが一番だ。
忙しすぎて婚期を逃す社畜は、珍しくない。残業したぶん給料が増え、老後の蓄えもできる。孫の顔を見たがっている両親には申し訳ないが、家庭を持てるような男ではないのだ、俺は。
仕事から帰ると、ウィスキーをロックで飲みながらテレビを見て、そのまま寝た。もちろん千葉の自宅だ。理瀬のタワーマンションではない。
篠田が晩酌をしていたので、その付き合いで酒を飲むのに慣れてしまった。
酒はいい。
仕事と、酒。この二つがお互いの悪いところをうまく中和して、何も考えずに済む。仕事だけでも酒だけでも駄目なのだが、二つあるとちょうどいいのだ。
いつも気持ちよく眠っていたが、時々眠れないことがあった。
テレビで照子の作った曲がかかった時、俺は照子との記憶を思い出さずにはいられなかった。
どうしてあいつは、こんなひどい俺に優しくしてくれるのだろう。
これ以上あいつに頼ってはいけないのに。俺は、一人で生きなくてはいけないのに。
そういう気持ちが、毎日俺の心の奥底に少しずつ積もっていった。
土日は、苦痛だった。昼間から酒を飲んでも、気分が悪くなるだけだ。適当に家事をした後、パチンコで時間を潰した。大学時代に遊び方を覚えたから、今でも暇つぶし程度に利用できる。理瀬や篠田が周りにいた時は、パチンコに行こうなんて思わなかったのだが。
パチンコ屋の爆音に耳をやられ、自宅に帰るとあまりの静けさに耳鳴りがした。
そのまま、酒を飲む。
寂しい。
誰からも必要とされていないのは、寂しい。
おこがましい思いだというのはわかっている。でも、もし俺が照子か篠田と結婚できていたら、休日もパパとして忙しい日々を送っているはず。
休日がこなければいいのに。いっそ、サービス残業だと言われるのを承知で、会社に行こうか。それとも愛車で海にでも飛び込もうか。どうあがいたって独り身の社畜という人生は変えようがないのだから。
そんなことを思いながら、深酒をしていたある土曜の夜。
電話があった。知らない番号だった。勧誘の電話かと思ったが、それにしては遅い時間だったので出ることにした。
『おじさん、ですか?』
聞いたことのある声だ。
俺を『おじさん』と呼ぶ女子高生、江連エレンだ。
「……おう。エレンか」
『下の名前で呼ばないでください。通報しますよ』
「いいじゃないか。きれいな名前なんだから」
『なっ……?』
エレンはしばらく黙っていた。ガチで引かれたのかと思ってへこんだが、どうやらそうではなく、何か考え事をしていたようだ。
『おじさん、大丈夫ですか?』
その言葉に、はっとさせられた。
誰かに気を使われたのは、ものすごく久々なことのように思えた。
「何が、だよ?」
『なんか声枯れてますし、雰囲気も暗いですし、もしかして風邪とかですか? あんまり無理しない方がいいですよ、もう若くないんですから』
電話だけで、エレンは俺が窮地に立たされていることに感づいた。
そして今までで一番優しい言葉をかけてきた。
「あっ、あっ、ああっ……」
溜め込んでいた様々な気持ちが爆発してしまった。
泣いた、と呼ぶには粗雑で、荒々しいうめき声が勝手に出る。
どうして。俺は。何もかもうまくやれないんだ。女の子を傷つけて、また別の女の子に慰められてしまうんだ。わからない。わからない。わからないよ。
『ちょ、ちょっとおじさん、大丈夫ですか? 生きてますか?』
「ああ……いや、なんでもない、なんでもないから」
『そう、ですか……あの、実は理瀬が大変なんです』
「理瀬が?」
久々に聞いたその名前で、俺は脊椎反射的に正気を取り戻した。
今までの人生で一番強く「守ってやらなければ」と思った子のことだ。
「何があった?」
『最近、学校に来てないんです』
嫌な予感がする。
もう九月中旬。とっくに夏休みは終わっている。理瀬の学校は単位制で、単位さえ取れれば授業に出ないという選択肢もあるらしいが、それでも不登校は良くない。
『おじさん、理瀬を学校に戻してください。もしできなかったら今までのこと全部バラして通報します。あと、どんな事情があっても理瀬の半径一メートル以内に近づいたら通報します』
「なんかハードル上がってないか!?」
『冗談です。とにかく、私からも連絡取ろうとしてるんですけど、学校にいないんです。おじさん、どうにかしてください。お願いします』
「わかった。明日にでも連絡するよ」
空っぽだった頭の中が、理瀬のことで埋め尽くされ、フル回転を始める。
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