生残の秀吉

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策謀

八十五.懇願の秀政

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天正十年七月十八日 申の刻

妙覚寺みょうかくじの講堂で秀吉ひでよしは上半身裸になって関白かんぱくあての書状を書いている。この寺は織田信忠おだのぶただが最期を遂げた二条御所にじょうごしょに隣接しているが、幸いにも光秀みつひで襲撃の影響はほとんどなかった。信長のぶながも入京の折にはこの寺を政所まんどころあるいは寝所しんじょとしてよく利用していた。従って秀吉ひでよしにとっても中・下級の公家や住職じゅうしょくとの接触がやすい場所であり、みやこでの執務は大いにはかどっていた。しかし不満もあった。

みやこはどんどん活気がなくなるのぉ。こぉいくさが多けりゃ仕方ねぇこつじゃが、古くせぇ家や壁を古くさいまま立て直したところで、てんできたのぉて見窄みすぼらしいわぃ。清洲きよす長浜ながはまの方がよぉっほど華々はなばなしいっ。こりゃぁ一から手を入れ直した方が、御上おかみも町衆も大層喜ぶと思うんじゃがのぉ・・・。)

一通り書状を書き終えた秀吉ひでよしそば手拭てぬぐいで汗をいているところへ、一人の武将が入ってくる。堀久太郎秀政ほりきゅうたろうひでまさである。

筑前様ちくぜんさまっ、堀久太郎ほりきゅうたろう、只今参上つかまつりました。」

「おぉっ、久太郎きゅうたろうっ、御苦労じゃったのぉ。お主も供養くように参ったんかぇ。」

二日後の七月二十日は信長のぶながの四十九日であった。

「はいっ、こちらへ来る前に本能寺ほんのうじの方にも立ち寄りました。明後日あさって法要ほうようにも参じたいと思うておりまする。」

本能寺ほんのうじは少しは片付いとったかぇ・・・。わしが訪れたときにゃぁ、ひでぇ有様ありさまじゃったわい。これから彼処あそこ大殿おおとのの墓所となるんじゃぃ。綺麗きれいにしとかんとのぉ・・・。」

秀政ひでまさは堂の中へ進み、秀吉ひでよしの正面に座す。そしてあらたまって感謝の意を示す。

此度こたびはわたくしのような者を殿とのの『傅役もりやく』などという大役に御推挙ごすいきょいただき、我が家のほまれにございまする。この御恩ごおんは生涯忘れませぬ。」

勇猛果敢ゆうもうかかんで知られる秀政ひでまさだが、若い頃は多くの奉行職ぶぎょうしょくを歴任したということもあって、言葉使いが丁寧ていねいすぎるところがある。それが彼に多くの者が好感をいだく理由の一つでもあるのだが、同時に秀吉ひでよしには慣れ親しめない『壁』のようなものを感じてしまう。

「お主を推挙すいきょしたのはわしだけでねぇ。執権しっけんの連中も織田おだ家の方々も満場まんじょう一致いっちじゃ。日頃からのお主の忠誠ぶりを皆知っとるんじゃ。これからも織田おだ家のために、お互いはげんでいこうやぁ・・・。」

秀吉ひでよしはついぞ秀政ひでまさ堅苦かたくるしい調子を崩したくなる。

「そんで、殿との御息災ごそくさいかぁ・・・。」

「はぁっ、日がつにつれ御活発ごかっぱつにはなられておられるのですがぁ・・・。」

「別にえぇこつじゃねぇかぁ。」

「それはそうなのですがぁ・・・、実は近いうちに殿との清洲きよすから岐阜ぎふへお連れいたそうと思ぅておりましてぇ。筑前様ちくぜんさまにはその許しをいただきたく存じまする。」

「はてっ、三七殿さんしちどののところへてかぁっ・・・。安土あづち仮御所かりごしょが建つにはあと一月ほどかかるんじゃろぉ。それまで清洲きよすでゆっくりなされてたらえぇんに、何があったんじゃぁ。」

「それがぁっ、近いうちに権六殿ごんろくどのからもしらせが参ると存じますが、三七殿さんしちどの三介殿さんすけどの美濃みの尾張おわり国境くにざかいのことでめておられましてぇ・・・。」

「はぁっ・・・、評定ひょうじょうから一月もっちょらんっちゅうに、もぉ兄弟きょうだい喧嘩げんかかぇ。一体国境くにざかいがどうしたっちゅうんじゃぁ。」

「今の国境くにざかいは古くに木曽川きそがわを境として定められたものでありますが、長い年月の間に木曽川きそがわが幾度も暴れたせいで川筋が変わってしまいました。三七殿さんしちどの国境くにざかいあらためるよう権六殿ごんろくどの惟住殿これずみどのに申し立てており、一方で三介殿さんすけどのは認めんとっぱねておりましてぇ・・・。」

「同じ織田おだの領じゃっちゅうんに、しょうもねぇのぉ。そんに川が暴れた後なんぞぉっ、ろくな作物も取れんじゃろうにぃ・・・、何をこだわっとるんじゃぁ。」

「意地の張り合いでございまする。権六殿ごんろくどの惟住殿これずみどのも困り果てておりまする。」

「まぁっ、そりゃぁわしも何とかするがぁ・・・、それと殿とのと何の関係があるんじゃ。」

三介殿さんすけどのはこれを機に三七殿さんしちどの尾張おわりを攻めるのではと警戒され、どころ伊勢いせから清洲きよすに移すとお決めになられました。清洲きよす天守てんしゅを建てるとも・・・。そのため、三介殿さんすけどのはしばらく伊勢いせ清洲きよすすることとなり、殿とのに構っていられなくなりもうしてぇ・・・。」

三介殿さんすけどのもわしが山城やましろに入って尾張おわりしか得られんもんじゃったから、あせっとるのぉ。」

筑前様ちくぜんさまぁっ、御許おゆるしいただけますでしょうかぁ。」

「しょうがねぇのぉ・・・。まぁっ、一月ほどの話じゃ。うまくやってくんろっ。」

「有り難うございまする。法要ほうようが済み次第、手配いたしまする。」

「苦労かけるのぉ・・・。」

「いえっ、滅相めっそうもありませぬ。ところでこちらへ来る手前、安土あづち仮御所かりごしょの様子も見て参ったのですが・・・。」

「何か手落ちでもあったかぁ・・・。」

「『手落ち』というわけではございませぬが、やはり大殿おおとの神殿しんでんがあったところとなると、どうしても仮御所かりごしょ見窄みすぼらしく感じてしまいまする。大殿おおとの神殿しんでんを目に焼き付けておる者ならば、尚更なおさらでございましょう。」

「確かにのぉ・・・。わしは殿とのにはいずれ安土あづちを離れてもろうた方がえぇと思ぉちょる。大殿おおとのではなく、殿との御威光ごいこうが感じられるようなところへなっ・・・。」

「そのような『ところ』なぞ、ございましょうかぁ。」

「一つ心当たりがある。ほんまに殿とのまことどころとなり得るかはもう少し調べてみんとわからんがのぉ。そん件についてはわしに任せてくれんかのぉ。」

「承知つかまつりました。いやっ、むしろ筑前様ちくぜんさまもそのことに御心おこころを痛めておられたとは、おそりました。」

秀吉ひでよしはいつも以上にへりくだ秀政ひでまさの対応に、少々戸惑とまど気味ぎみになる。

「何をかしこまったこつ云うとんじゃぁ。久太郎きゅうたろうっ、何か今日はちぃとおかしゅうねぇかぁ。」

秀政ひでまさ躊躇ためらいながらも、勇気をしぼすのに必死である。

「じっ、実は・・・、筑前様ちくぜんさまにお願いがございましてぇ・・・。」

「えらい深刻そうじゃのぉ・・・。」

筑前様ちくぜんさまぁっ、わたくしめに『羽柴はしば』を名乗らせていただけませんでしょうかぁ・・・。」
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