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思惑
六十六.待望の旧友
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天正十年六月二十三日 酉の刻
秀吉が岐阜に着いた頃は、もう夕暮れ刻であった。勝家と信孝は朝のうちに清洲へ経ったが、金華山の麓にはまだ勝家の家臣たちが点々と屯していた。秀吉はその日のうちに岐阜に戻っている市の方に挨拶するつもりであったが、思ったよりも遅い到着だったので、翌朝面会することにした。そのことを伝令に告げた後、秀吉は自分の屋敷に赴く。屋敷には先立って山内伊右衛門一豊が到着しており、秀吉の帰着に備えて屋敷を掃除していた。
「伊右衛門っ、今着いたぞぉっ。」
「これはこれは筑前様。陽が沈む前に到着されて何よりですぅ。」
「長浜で家族と喋るんが長引いてもうて、出立が遅れてもぅてのぉ。世話かけるわぃ。」
屋敷の門付近を見回しながら、杖をつく官兵衛が云う。
「随分と修理亮殿の兵が残っとるのぉ。」
「そもそも大した戦もしないのに、たくさん連れて来過ぎたんですよぉ・・・。皆やることがのぉて、退屈にしとりますわぁ。」
一豊は手にしていた箒を仕舞い込み、秀吉たちを労う。
「到着をお待ち申してあげておりました。皆様の夕食の支度もできております。御屋敷に入られてお疲れをお取り下さいませ。」
秀吉と官兵衛は玄関の板敷に座り、草鞋を脱ぎ始める。一豊が水の入った桶を運ぶと、秀吉に告げる。
「実はわたくしがこの屋敷に到着したとき、門前に前田又左衛門様が立っておられまして、筑前様にこれを渡すよう申し付けられました。」
一豊は小さく折り畳まれた文を秀吉に渡す。秀吉は目を通すと、くしゃと丸めつぶす。
「官兵衛っ、先に皆を休ませてろっ。わしはちぃと出かけてくるぅっ。」
桶の水に足をつけず、再び草履を履き始める秀吉に官兵衛が云う。
「おいおいっ。今から一人で出歩くつもりかぁ・・・。」
「あかんかぁっ。」
「おぉっ、あかんに決まっとるぅっ。周りは修理亮殿の手下がうじゃうじゃしとるんじゃぞぃ。それにその前田殿というのは、お主に馴染みの者かもしれんが、今は修理亮殿の与力なんじゃろぅ。お主の身はもはやお主だけのもんではねぇってことは長浜でよぉ分かったじゃろぅ。身は大事にせなあかんっ。」
「又左はわしを襲うような奴ではねぇ。彼奴は昔は『傾奇者』で通っちょったが、『傾奇者』っちゅうんは案外と律儀な者ばかりで、騙し討ちなぞするような奴はおらん。」
「念には念をじゃ。わしも行くぞぉ。」
「お主は来るなぁ。又左がお主のいかつい顔を見たらびくついてまうわぃ。」
「わしはどんな顔をしとるんじゃ。」
二人のやり取りに呆れ気味の一豊が口を挟む。
「あっ、あのぅっ、それでしたらわたくしが御供しましょうかぁ・・・。」
「そうじゃっ、そうしよう。伊右衛門なら又左も馴染みじゃしぃっ・・・、又左の屋敷はこっから近い。そぉ案ずるなぁ・・・。」
官兵衛は渋々認める。
「分かった。伊右衛門殿っ、何かあったらすぐに報せろよぉっ。」
官兵衛の凄みのある念押しに、一豊は少したじろぎ、気まずい顔付きのまま奥へ下がる。秀吉が草履を履き直していると、支度を整えた一豊が戻ってくる。陽はまだ完全に落ちてはないが、一豊は提灯に灯を点け、秀吉を先導するように屋敷から出る。
前田の屋敷は同じ通りの秀吉の屋敷から四、五町ほど離れたところにある。秀吉らは辺りを警戒しながらゆっくり歩き、前田屋敷の門前に着いた頃にはすっかり陽は落ちていた。屋敷の門はなぜか開けっ放しで、そこから玄関に眼をやっても暗くて何も見えない。一豊は提灯越しに眼を凝らすが、人気も全く感じられない。とりあえず門を潜り、玄関の前まで立ち寄るが、暗い中でもそこに草履一つ置かれていないことは容易く分かる。
「誰も居られぬようですなぁ。」
と一豊が口にすると、屋敷の暗闇の中から低い声が秀吉に呼びかける。
「筑前殿かぁ・・・。」
知ってる声である。秀吉も低く小さな声で応える。
「あぁっ、わしじゃ。」
すると再び尋ねられる。
「一人かぁっ・・・。」
「すまんっ。官兵衛が煩ぅてのぉ。伊右衛門だけ連れてきたぁ。」
「伊右衛門なら問題ない。」
闇の中の声がそう云うと、玄関の奥の柱の辺りがぼぉっと明るくなる。するとそこから燭台を持ち、兜以外の武具を纏った前田又左衛門利家がゆっくりと現れる。秀吉の眼前まで近づいてきた利家は、笑みをこぼす。
「久しいのぉ。筑前殿ぉ・・・。」
「又左も元気じゃったかぁ・・・。」
「あぁっ、わしは相変わらずじゃぁ。それよりわしは其方に会うたら是非に云いたかったことがある・・・。よくぞ大殿の仇討を果たしてくれたぁ。仇討を成したのが其方であって、わしはとても嬉しい。改めて礼を申す。」
「よせぇっ、お主とわしの仲で、そんな畏まったこつ云うたこつねぇじゃろうががぁ。」
「それもそうじゃが、でもこればかりは云わんと気が済まんのじゃぁ。許せぇ。」
秀吉も一豊も先ほどまでの緊張感がどどっと去って行った。
「そんにしても、なしてこないに警戒しとるんじゃぁ。」
「其方を待っておるのはわしじゃねぇ。ある御人に其方を目通りさせるのがわしの役目じゃ。ささっ、これから案内いたそうっ・・・。」
秀吉が岐阜に着いた頃は、もう夕暮れ刻であった。勝家と信孝は朝のうちに清洲へ経ったが、金華山の麓にはまだ勝家の家臣たちが点々と屯していた。秀吉はその日のうちに岐阜に戻っている市の方に挨拶するつもりであったが、思ったよりも遅い到着だったので、翌朝面会することにした。そのことを伝令に告げた後、秀吉は自分の屋敷に赴く。屋敷には先立って山内伊右衛門一豊が到着しており、秀吉の帰着に備えて屋敷を掃除していた。
「伊右衛門っ、今着いたぞぉっ。」
「これはこれは筑前様。陽が沈む前に到着されて何よりですぅ。」
「長浜で家族と喋るんが長引いてもうて、出立が遅れてもぅてのぉ。世話かけるわぃ。」
屋敷の門付近を見回しながら、杖をつく官兵衛が云う。
「随分と修理亮殿の兵が残っとるのぉ。」
「そもそも大した戦もしないのに、たくさん連れて来過ぎたんですよぉ・・・。皆やることがのぉて、退屈にしとりますわぁ。」
一豊は手にしていた箒を仕舞い込み、秀吉たちを労う。
「到着をお待ち申してあげておりました。皆様の夕食の支度もできております。御屋敷に入られてお疲れをお取り下さいませ。」
秀吉と官兵衛は玄関の板敷に座り、草鞋を脱ぎ始める。一豊が水の入った桶を運ぶと、秀吉に告げる。
「実はわたくしがこの屋敷に到着したとき、門前に前田又左衛門様が立っておられまして、筑前様にこれを渡すよう申し付けられました。」
一豊は小さく折り畳まれた文を秀吉に渡す。秀吉は目を通すと、くしゃと丸めつぶす。
「官兵衛っ、先に皆を休ませてろっ。わしはちぃと出かけてくるぅっ。」
桶の水に足をつけず、再び草履を履き始める秀吉に官兵衛が云う。
「おいおいっ。今から一人で出歩くつもりかぁ・・・。」
「あかんかぁっ。」
「おぉっ、あかんに決まっとるぅっ。周りは修理亮殿の手下がうじゃうじゃしとるんじゃぞぃ。それにその前田殿というのは、お主に馴染みの者かもしれんが、今は修理亮殿の与力なんじゃろぅ。お主の身はもはやお主だけのもんではねぇってことは長浜でよぉ分かったじゃろぅ。身は大事にせなあかんっ。」
「又左はわしを襲うような奴ではねぇ。彼奴は昔は『傾奇者』で通っちょったが、『傾奇者』っちゅうんは案外と律儀な者ばかりで、騙し討ちなぞするような奴はおらん。」
「念には念をじゃ。わしも行くぞぉ。」
「お主は来るなぁ。又左がお主のいかつい顔を見たらびくついてまうわぃ。」
「わしはどんな顔をしとるんじゃ。」
二人のやり取りに呆れ気味の一豊が口を挟む。
「あっ、あのぅっ、それでしたらわたくしが御供しましょうかぁ・・・。」
「そうじゃっ、そうしよう。伊右衛門なら又左も馴染みじゃしぃっ・・・、又左の屋敷はこっから近い。そぉ案ずるなぁ・・・。」
官兵衛は渋々認める。
「分かった。伊右衛門殿っ、何かあったらすぐに報せろよぉっ。」
官兵衛の凄みのある念押しに、一豊は少したじろぎ、気まずい顔付きのまま奥へ下がる。秀吉が草履を履き直していると、支度を整えた一豊が戻ってくる。陽はまだ完全に落ちてはないが、一豊は提灯に灯を点け、秀吉を先導するように屋敷から出る。
前田の屋敷は同じ通りの秀吉の屋敷から四、五町ほど離れたところにある。秀吉らは辺りを警戒しながらゆっくり歩き、前田屋敷の門前に着いた頃にはすっかり陽は落ちていた。屋敷の門はなぜか開けっ放しで、そこから玄関に眼をやっても暗くて何も見えない。一豊は提灯越しに眼を凝らすが、人気も全く感じられない。とりあえず門を潜り、玄関の前まで立ち寄るが、暗い中でもそこに草履一つ置かれていないことは容易く分かる。
「誰も居られぬようですなぁ。」
と一豊が口にすると、屋敷の暗闇の中から低い声が秀吉に呼びかける。
「筑前殿かぁ・・・。」
知ってる声である。秀吉も低く小さな声で応える。
「あぁっ、わしじゃ。」
すると再び尋ねられる。
「一人かぁっ・・・。」
「すまんっ。官兵衛が煩ぅてのぉ。伊右衛門だけ連れてきたぁ。」
「伊右衛門なら問題ない。」
闇の中の声がそう云うと、玄関の奥の柱の辺りがぼぉっと明るくなる。するとそこから燭台を持ち、兜以外の武具を纏った前田又左衛門利家がゆっくりと現れる。秀吉の眼前まで近づいてきた利家は、笑みをこぼす。
「久しいのぉ。筑前殿ぉ・・・。」
「又左も元気じゃったかぁ・・・。」
「あぁっ、わしは相変わらずじゃぁ。それよりわしは其方に会うたら是非に云いたかったことがある・・・。よくぞ大殿の仇討を果たしてくれたぁ。仇討を成したのが其方であって、わしはとても嬉しい。改めて礼を申す。」
「よせぇっ、お主とわしの仲で、そんな畏まったこつ云うたこつねぇじゃろうががぁ。」
「それもそうじゃが、でもこればかりは云わんと気が済まんのじゃぁ。許せぇ。」
秀吉も一豊も先ほどまでの緊張感がどどっと去って行った。
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