生残の秀吉

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思惑

六十四.寄道の秀吉 其の三

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三七殿さんしちどのはわしのような百姓出ひゃくしょうでやから大殿おおとの仇討あだうちっちゅう大事を果たしたんが気に入らんのよ。そん不満は最初は単なる子供がねる『駄々だだ』だったんじゃが、この十日余りの間に織田おだ家を乗っ取らんとするわしを成敗せいばいせしめんっちゅう『正義』に化けおった。つまりこん短い間にわしにはぎょうさんの味方がでけたが、同時に敵もぎょうさんでけてもうたっちゅうことじゃぁ。」

おねなりに事情を分析する。

「それって、旦那様だんなさまへの嫉妬しっとじゃございませんかぁ。確かにえぇ働きをされて周りに嫉妬しっとされるというのは、これまでの旦那様だんなさまを見ていたら、旦那様だんなさまの宿命とも云えますけどねぇ・・・。でもそのお相手が大殿おおとの御曹司おんぞうしとなると複雑ですわぁ。」

秀吉ひでよしは肩を落として続ける。

三七殿さんしちどのはわしのような出自の低い者は徹底して嫌う。そもそも人として見ちょらん。今まではそんでもよかったんじゃが、大殿おおとの殿とのの歯止めがなくなった今は、権六ごんろく親父おやじを味方にして悪者のわしを討たにゃならんっちゅう使命感まで持つようになってしもうた。勝三郎かつさぶろうらと協力して、わしなりに気ぃ使ってきたんじゃがのぉ・・・、結局どうにもならんかったわぃ。」

後悔こうかい気味ぎみ秀吉ひでよしをおねがなぐさめる。

旦那様だんなさまぁっ、そんなもんですよ。わたくしも旦那様だんなさまとついだ頃は旦那様だんなさまの出自を大層気にしておりました。随分と父上と母上に愚痴ぐちをこぼしたもんですぅ。それが今では何故なにゆえそんなことにこだわっていたのか、自分でも分からなくなるくらい幸せでございます。」

唐突な『幸せ』という言葉に秀吉ひでよしはやけにくさがるが、おねの話は信長のぶながの方へ向かう。

「わたくしはずぅっと大殿おおとのに感謝しておりました。わたくしと旦那様だんなさまを引き合わせていただいたのは大殿おおとのでしたから・・・。最初は『何故なにゆえ・・・』としか思えませんでしたが、いつしか大殿おおとのはこういう無意味なこだわりが人の心から取り払われたら、その先に『幸せ』に満ちた暮らしが訪れることをご存知だったのかなって思うようになりまして・・・。」

「『無意味なこだわり』かぁ・・・。おねはうまいこと云うのぉ。確かに勝三郎かつさぶろうにはそんなもんは元からねぇし、三介殿さんすけどのはそれに気づいてわしを気遣きづかふみ寄越よこして下さった。五郎左殿ごろうざどのが申すには、三七殿さんしちどのも本心では分かっておるが、『織田おだ家のほこり』が認めんのじゃと云っておったのぉ。」

信雄様のぶかつさまのように、信孝様のぶたかさまにもご改心いただけませんでしょうかねぇ。」

「うぅむ、あきらめかけちょったが、もう少しねばってみるかのぉ。じゃが今の三七殿さんしちどのにわしの言葉は伝わらん。三介殿さんすけどのも同様じゃろう。勝三郎かつさぶろうも使えんっ。となるとぉ・・・。」

秀吉ひでよしは何かひらめいたようであったが、それ以上はおねの前では話さない。おねもそれをさっするが、えて訊かない。秀吉ひでよしはしばらく考え込み、大きく息を一つ吸う。

「うまくいくかどうかは分からんが、やるだけやってみるかのぉ。」

秀吉ひでよしはおねに大きな笑みを見せる。しかしすっと真面目まじめな顔つきに戻る。

「じゃがどうしてもそれがかなわんかったら、おそらくわしと三七殿さんしちどのとのいくさは避けられまいっ。権六ごんろく親父おやじとそん取巻とりまきはがむしゃらにわしにあらがってくるじゃろうが、逆に摂津衆せっつしゅう五郎左殿ごろうざどのらはわしと秀勝殿ひでかつどの三七殿さんしちどのを見限るこつをむしろ心待ちにしちょる。三介殿さんすけどの藤孝殿ふじたかどのがどうするかは分からんが、いずれにせよ織田おだ家はぷたつじゃ。そうなるこつも頭に入れとかにゃならんっ。」

秀吉ひでよしの覚悟に、おねは同情する。

「おつら御立場おたちばですわ。おさっしいたします。」

「これだけは云えるっ。この先どうなろうとも、結局わしは先の仇討あだうち同様、おねやおかぁ小一郎こいちろう秀勝殿ひでかつどの輝政殿てるまさどのの身内を守らんとするように動いてまう。たとい織田おだが滅んでもじゃ。まぁ、秀勝殿ひでかつどの御無事ごぶじなら織田おだは滅ばんがのぉ。いずれにせよ、わしは大殿おおとののような皆を導く神様にはなれんっ。家族のことだけで精一杯の所詮しょせん小者こものじゃ。じゃが皆を守るためんなら、わしは躊躇ちゅうちょせずにあらがうぞぉっ。」

「ほら、またご自分のことをいやしく云う・・・。旦那様だんなさまの悪いくせですよ。身内を守ろうとすることは当たり前なんですから・・・。」

秀吉ひでよしの顔が再びほころぶ。

「すまんっ、すまん。やはりおねに話を訊いてもらうと心落ち着くのぉ。わしにとってはまさしく仏様ほとけさまじゃぁ。観音様かんのんさまじゃぁ。」

今度はおねがくさがる。

「やめてくださいませ。恥ずかしゅうございます。」

おねはもう三十路みそじは過ぎているが、秀吉ひでよしいまだにその仕草しぐさを大層可愛かわいらしく思えてならない。秀吉ひでよしがおねの右からゆっくりと身を寄せ、おねの肩に左手を回す。おねは秀吉ひでよしの黒くて薄っぺらい胸板むないたに頭を任せ、秀吉ひでよし左膝ひだりひざに手をえる。その小さく白いふくよかな手の上に、秀吉ひでよしの真っ黒の肉付きのない右手がかぶさる。しばらくしておねは思い出したかのように小さな声で尋ねる。

「それでぇ、孫七郎殿まごしちろうどのはどうなりましょう。」

いくさにならんかったら三七殿さんしちどのの縁組が再び持ち上がるかもしれんが、当てにはならんのぉ。いくさになるとしても、すぐではねぇと思う。もうしばらくは三好みよしの件は棚上たなあげのままっちゅうこっちゃなぁ。いくさとなってわしが三七殿さんしちどのに負ければ孫七郎まごしちろうもろとも皆が討たれてしまう。わしが勝てば、皆を守れると同時に、孫七郎まごしちろう三好みよしに入れておく理由がなくなるんで羽柴はしばに戻すこつができる。おそらくこれが孫七郎まごしちろう羽柴はしばに戻す唯一の条件じゃろうなぁ。」

孫七郎殿まごしちろうどのにそう返事してもよろしいですか。」

秀吉ひでよしは眼をつぶり、ゆっくり首を振る。

「いやっ、今はよせっ。確かでねぇこつが多すぎるっ。じゃが孫七郎まごしちろうとて不安じゃろうから、わしが孫七郎まごしちろうを見捨てとらんこつだけ伝えてくんろ。」

「分かりました。それと御母様おかあさまも大層孫七郎殿まごしちろうどののことを心配しておりましたので、それとのぉ伝えておきます。」

二人の会話は次第にゆっくりとなる。

「ともと弥助やすけはまだ怒っとるんじゃろなぁ。」

孫七郎殿まごしちろうどのも十四になります。難しい年頃でしょうから、旦那様だんなさまのことどころではないんじゃないですか。」

「そんなもんかのぉ・・・。」

少し間が空いて秀吉ひでよし欠伸あくび一つが聞こえたような気がしたが、おねは眼を閉じたまま、この安らかな空間を満喫まんきつする。

長浜城ながはまじょうの天上に散りばめられた星のまばたきだけが、ゆっくりとときを動かしていた。
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